月姫 千歳の花時[二]



 我に返った満月が、人目を避けるために九螢を室内に招いた時、あれからどれほどの時間が経過していたのかは分からない。勝手知ったる様子でどっかりとベッドに腰掛けた九螢を見つめて、満月は一人、頭を抱えた。
 シンプルながらも淡く柔らかい色彩でまとめられた満月の部屋に、輪国の美貌の曜神の姿はあまりにもそぐわない。それは決して満月のせいではないはずなのだが、思わずごめんなさいと頭を垂れたくなる衝動に駆られる。
 九螢は、半年前より少しやつれて見えた。ただでさえ、身体を酷使しすぎていたのに、この半年の間に何かあったのだろうか。満月は九螢を気遣うような言葉を掛けようとして、けれどもすぐに思い直して全く違う言葉を口にした。
「仮にも輪国の曜神が、自分の国放っぽりだして何しに来たの?」
 喉から手が出るほどに会いたいと願っていたことなど、高い棚に上げて、満月は目を剥いた。
 以前、九螢は満月と繋ぎを取るために声をやり取りすることや、玉兎をこちらに送ること、満月と晴尋が狭間を行き来することだけでも、かなりの力を消費するというようなことを言っていた。非常事態続きであったために、満月は輪国日本国間を何度も行き来することになったが、あれは稀な例だという。現に、晴尋は満月と共に京華を探しに来たあの一回しか、こちらに帰ってきたことがないらしかった。
 それが、輪国の曜神である九螢自身がわざわざ異国に乗り込んでくるとは、余程の事態なのだろうか。例え、今現在輪国が非常に安定していたとしても、曜神が一人欠ければ、一気に国や彩章に負荷が掛かることもあり得る。それが分からない九螢ではないだろう。
「輪国のことは、彩章たちに任せてある」
「……どういうこと?」
 まさか、半年が経って、またもや日月の間に亀裂が走ったのだろうか。それで、九螢の居場所が無くなった?
 満月は恐る恐る九螢を覗き込んだが、彼から負の感情は感じられない。どうやら、深読みしすぎたようだ。それに、そんなことがあり得るはずがないと、半年前までの輪国を見てきた満月には分かる。
「言っただろう。お前を、迎えに来た」
 訳が分からない。
 こうして対峙していても、九螢との引力はもはや露ほどにも感じられない。今や満月と九螢は、言うなれば住む世界の違う赤の他人だ。
 赤の他人――きちんと自覚しているはずなのに、改めてそれを認識すると、胸が抉られるように痛んだ。
「――お前は、半年前、俺たちと共にありたいと願ったか?」
「な――」
 満月は目を見開いた。ここに来て、その話が蒸し返されるとは思わなかった。しかも、よりにもよって、もう二度と会うことはないと思っていた九螢の口からだ。
 頭の中も心の中もごちゃごちゃで、眩暈がしそうだ。
「訳分かんないよ。何で居るの? 何が迎えに来たなの? どうしてその話を持ち出すの? 私は、あの時曜痕が消えていって、引力もなくなっちゃって、ああもう終わりなんだなって思ったから、だから還って来る気になったんだよ。それなのに、どうして今更九螢が現れて、訳の分かんないことばかり言うの?」
 やっと、こちらでの生活に再び溶け込み始めていたところだったのだ。思い出を捨てようなどとは思っていない。けれど、思い出に縋りついていては人は生きられない。
 だから、半年間、今日まで一粒の涙さえ流さずに毎日を必死で生きてきた。思い出を殺さないように、思い出に囚われないように。それは、想像以上に均衡を保つのが難しかったと満月は記憶している。折角、どうにか釣り合いを取りながら歩けるようになって来たところだったのに、どうしてここで九螢が現れるのか。
 九螢――会いたいと、一番願っていた人。初めて本当に、好きになった人。守りたいと心の底から渇望した人。
 そして、会いたいという気持ちと同じくらい、あるいはそれ以上に会ってはいけなかった人。会えば、満月は九螢の居ない世界を生きることに耐えられなくなる。
「お前が還った後、本当はお前がまだ、輪国に居たかったと聞いた」
 大方、九螢は玉兎にでもその話を聞いたのだろう。玉兎に本心を漏らしてしまったのは迂闊だった。
 満月は九螢を睨みつける。これ以上、九螢の言葉を聞いていたくはなかった。叶うこともない幻に縋っていたかった自分が、露わになる。九螢はそんなことは思いもしなかったのだろうから、余計に自分が馬鹿馬鹿しくて、惨めになる。
 九螢は、勝手だ。こちらの気持ちなど、まるで無視して、わざわざこんなところまで来てしまった。満月を再び、見ることは決してないはずだった夢の一端に、触れさせてしまった。
「それが本当だとしても、私の気持ちは関係ないでしょ。私を不憫に思って来てくれたのなら、謝る。私がちゃんと分かってなかっただけなの。良いから、帰って。九螢には、やることが沢山あるし、待ってる人が沢山居る」
 ふいと九螢に背を向けて、満月は時計がカチカチと煩く時を刻む音を黙って聞いた。
 九螢なしでは生きられないなどという、ただ人に縋るような生き方はしたくなかった。自分の足でしっかり立って生きたかった。九螢の気まぐれの理由など知らないが、ここでしがみついてしまったら、満月は駄目になってしまう。
 少しして、九螢が立ち上がる気配がした。満月はやっと、溜め込んでいた息を吐き出す。その時初めて、満月は自分が息を詰めていたことに気付いた。
「どうして、何でもかんでもそうやって決めつける?」
 怒気をはらんだ声が耳元で聞こえたと思った時には、満月の左腕は九螢に絡め取られていた。
 瞠目した満月は、渾身の力を込めて九螢の胸をもう一方の手で押すが、それも虚しく彼の拳の中に捉えられた。
「お前が、俺と離れたいと思っていて、こうして触れられるのも嫌だと思っているのなら、そう言えば良い」
 硬く響いたその声に、満月は弾かれるように顔を上げた。
「違う! ……そんなわけ、ない。だって私、ずっと――」
 ずっと、会いたかった。ずっと、好きだった。
 こぼれかけた言葉を、満月は必死で飲み込んだ。
「ううん……私、九螢のこと、嫌だなんて思わない。思うわけない」
「なら、俺を見ろ」
 強い口調だった。満月は為す術もなく、九螢の深い夜の色をした双眸を見つめた。
 こんな時だというのに、その瞳に吸い寄せられるような錯覚が起きて、くらくらした。
 同時に、涙がこぼれそうになる。この目の前に居る人が、どうしようもないほどに愛しいと、気付いてしまった。この人の傍に居たかったのだと、分かってしまった。気付かない振りをして、分からない振りをして、どうにか日々を送っていた頃には、もう戻れない。
「よく聞け。俺は、お前がこちらの家族の元に帰りたいのだと思っていた」
「え?」
「だから、お前のことを引き留められなかった。お前は俺の前では帰るのが当たり前のように振る舞うから、輪国に留まる気は更々ないのだと思っていた――だが、それは違ったらしいな」
「ちょ、ちょっと待って。やっぱり、訳が分かんないよ。だって、もし九螢に私を月姫から降ろす気がなかったのなら、曜痕も引力も消えなかったはずなんだよね? でも、現に引力はなくなっちゃったし、曜痕なんてもう殆ど残ってない」
 満月は慌てて言い募った。何だか危うく丸めこまれそうになってしまったが、曜神と曜子の結びつきの証である引力と曜痕が消えたのは事実である。満月も九螢も互いに互いを望んでいたというのなら、曜痕が消えるはずがない。
「あれが、九螢の意志でしょう?」
 段々に色褪せ、欠けていった曜痕と、どんどん感じられなくなる九螢と引き合う力。それらを思い出せば、今でもきりきりと胸が痛む。
 満月は、悄然と項垂れた。九螢の口から、はっきりと肯定の言葉を聞くのが怖かった。
「違う」
「ッ! 何が違うって……!」
 どうして今更言い訳のようなことを言うのか。そんなことをしても、九螢の得には何らならない。
 満月は枷のように手首を捉える九螢の手を振り解こうと、身を捩った。瞬間、九螢の手の力が一瞬弱まった。満月はその隙を突いて九螢から逃れた――かに思えた。
「俺の気持ちを、お前が決めつけるな」
 何が起きたのか、分からなかった。気が付いたら満月は九螢の逞しい腕の中に居て、全く身動きが取れなくなっていた。厚い胸板に押し付けられて、身体だけでなく呼吸までもが苦しい。それなのに、ぬくもりだけは酷く優しく胸に沁み入った。
「どれだけ、お前を望んだと思っている?」
 囁きが、こぼれ落ちる。まだ夏も明けたばかりで、身体も密着していて、本当ならば暑いくらいなのに、何故だか背中がぞくぞくした。九螢の言葉は乱暴でいて、どこか優しく甘い。そして、真っ直ぐだ。その気持ちを疑い様がないほどに。
「……うん」
 満月は、ぎこちないながらに、九螢の背中に腕を伸ばした。その大きな身体を抱き込んで、一筋の涙を流す。
 頑なだった心が、嘘のようにするすると解けていった。
 そうしていくらか時が経ってから、九螢は再び話を切り出した。
「彩章たちも、どうしてお前の曜痕や引力が消えたのか、不思議がった。それで、俺が頼んでもいないのに、色々と勝手に調べ出した」
 それはそれで、何だか色々とバレバレのような気がして、満月は顔から火が出そうになる。
「お前が居なくなってからの半年の間、少し面倒なこともあったんだが、それは追々話すとして、だ。兎も角、曜痕と引力が消えた理由が分かった」
「嘘っ!」
 満月は勢い良く顔を上げた。心なしか、否、相当、九螢の表情は苦りきっているように思える。
「計都神と、計都姫を覚えているか?」
 覚えているも何も、忘れられるはずがない。満月たちはそもそも計都神の蝕をどうにかするために数カ月前まで、それこそ死に物狂いで奮闘していたのだ。
 それに、京華は満月の家族であり、一番の友人である。
「勿論。二人とも、忘れる訳ない」
「違う。あいつらが――計都が自我を取り戻した後、計都姫にしたことだ」
「京華にしたことって――」
 思わず彼女とその曜神が演じたラヴシーンを思い出した満月は赤面する。しかし、今九螢が取り上げている話題はそのような俗っぽいことではないだろう。満月は煩悩を隅に追いやって、必死に頭を回転させた。
 満月が時々頬を赤く染めたりしながら、難しい顔をして考え込んでいるのを見つめて、九螢は苦笑した。
「その様子なら、覚えているようだな」
「え?」
 特別なことなど、何も覚えてなどいない。それともまさか、本当にあの場面のことを言っているのか。満月は恐々と九螢を見上げた。
「俺は両親を知らずに育ったために、曜神と曜子の間で交わされる契りについて、何も知らなかったんだが、曜神が九曜国に顕現した曜子を曜子たると認めた場合、口づけを以てその証とするらしい」
「く、く、くちっ!?」
「玉兎は、そのことについては知っていたが、俺とお前が疾うに済ませたと思い込んでいたそうだ」
「す、す、済ます!?」
 誰が、誰と、何を、済ませていたというのだ。勘違いも甚だしい。
 赤くなったり青くなったり気忙しくしている満月を尻目に、九螢は再び口を開いた。
「曜は曜子を見つけると、その身体に印を刻む。それが曜痕だ。曜痕が刻まれると、曜神と曜子の間に引力が生まれる。曜痕は曜神と曜子の結びつきの深さによって満ち欠けし、完全に消えて無くなると引力も消失する。だが、どんなに関係が深かろうと、契りを結んでいない曜神と曜子の引力はある程度の期間を過ぎると消えるのだそうだ。俺たちの場合はそれだな」
 満月は、そこまで聞いてはたと気付いた。
「ねえ、私は引力がもう消えちゃってるけど、それって月姫の資格を失ったってこと……だよね?」
 不安げに仰向いた満月に、柔らかな声が降る。
「お前の曜痕はまだ消えていないだろう。曜痕は大体一年は消えないでいるそうだ。曜痕が完全に消えていない内は、契りを交わせば曜子として迎えることができる」
「そう、なんだ」
 満月は長い溜息を吐いた。
「そんなことで……」
 あれだけ虚勢を張って暮らしてきた半年間の原因がまさか、こんなことだとは思いもよらなかった。まったく、笑えない。何だか、一気に疲労が蓄積された気がする。
 あからさまに落胆した満月の様子は、九螢の機嫌を損ねてしまったようだった。
 満月の頤に、九螢の長い指が掛かる。流石に満月もその意味に気がついて、思い切り仰け反った。
「何だ? そんなこと、なのだろう?」
 せせら笑った九螢は、明らかにこの状況を楽しんでいる。
「そ、そんなこととは言ったけど、それはこれがそんなことな訳じゃなくて!」
「訳が分からんな」
「ちょ、ちょっと待って! ストップ!」
 素知らぬ顔で、九螢は満月の後頭部に手をやって、その身体を引き寄せた。けれど、それだけだった。思わず顔が歪むほどに強く目を瞑ってしまった満月は拍子抜けするしかない。
 薄目を開けて、現在状況を把握しようとしている満月に、九螢は少し寂しげに笑った。
「俺はお前を迎えに来た。だが、お前には選ぶ権利がある。ここか、あちらか。お前が、好きな方を選ぶと良い。お前が選ぶまで、ここで待つ」
「え――?」
 満月は瞠目して、まじまじと九螢を見つめた。
 九螢がわざわざ満月一人のためにやって来たというのに、無理やり連れ帰る気はなく、挙げ句の果てにはこちらを選ぶことも容認すると言う。
 問答無用で、あれをしろ、これをしろ、それはするななどと言っていた頃とはまるで異なる。呆れ果てて、物も言えない。
「輪国に居た時は、お前の心は輪国に拠っていたかもしれないが、故郷に帰れば話もまた変わってくるだろう」
 淡々と言った九螢は、食い入るように彼を見つめる満月の視線から逃れるように僅かに後退りすると、静かに瞑目した。こんな光景を、満月は去る間際の輪国で、何度か目にしたことがある。
 満月はむっと眉根を寄せて、遠慮などという言葉は一切忘れて九螢の方にずかずかと歩み寄った。そのまま九螢の瞼に指をやって、無理やり目を開かせる。
「何だ」
 低く響いたその声は、困惑しているようにも聞こえた。
 九螢の瞳に映り込んだ満月が、小波立つ。
「言って」
 九螢が、訳が分からないといった態で、視線だけで満月に先を促す。
「私にどうして欲しいか、ちゃんと言って」
 九螢だけを一心に見つめて、満月は力強く繰り返した。
「私もちゃんと言うから、九螢の気持ちも、教えてほしい」
 口下手な満月以上に、上手く思いを伝えられない九螢のことだ。先刻までに九螢がくれた言葉は全部、初めて出会ってから今までの中で一番彼の心をはっきりと示した貴重なものだった。分かりにくいが、それが分からない満月ではない。
 それでも、欲しい言葉があった。言葉が足りなくて、思い悩んだことは数知れない。もし輪国を選ぶのならば、満月と九螢はこれまでと同じようではいけなかった。
 だが、そんな満月の気持ちとは裏腹に九螢は尚も渋る。
「……俺はお前を強制させたいわけじゃない。無理やり輪に連れて来た時のような真似はもう、したくない。お前は――頼まれれば断れないだろう」
 目を泳がせる九螢に、満月はくすりと笑う。弾かれたようにこちらを向いた九螢に、満月は笑みを深くした。
「見くびらないで。私、九螢に襲われそうになった時、どうしたと思ってるの?」
 茶化すように言ってみれば、九螢は言葉に詰まったようだった。
 少し九螢がかわいそうになって、満月は辛抱強くもう一度口を開く。
「ちゃんと考えて、選ぶよ。だから、迎えることができるとか、望んだとかいう可能性や過去形の気持ちじゃなくて、今の九螢の気持ちを、聞きたいの」
 九螢は口をへの字に結んで恨めしそうに満月を見たが、今度はもう目を逸らすことも閉ざすこともしなかった。それどころか、見下ろしてくる瞳は逃れようのないほどの迸るような熱を帯びていて、満月は息を呑む。
「お前に――これからずっと、月姫として共に生きてほしい」
 淡く柔らかに降り注ぐ月光のごとく静かな声なのに、どうしてか満月はそこに縫い止められたように動けなくなった。今にも頷いてしまいそうになるような蠱惑的でさえある引力で以て、九螢は正しく満月をさらうように引き寄せた。
 どこかが欠けていた心が体が、水を注がれるように満たされていく。
 満月はその感覚をそっと胸の内にしまい入れた。
 偽りもごまかしも一切ない九螢の気持ちに、満月は考え抜いて出した答えを返さなければならない。


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