月姫 千歳の花時[三]



 満月は九螢から一歩距離を取ると、自分の部屋を見渡した。
 使い込んだ勉強机は沢山傷がついて、教科書や参考書やプリントが雑然と並んでいる。その間を縫うようにして置いてある、お気に入りの雑貨屋でクラスメイトとお揃いで購入した写真立てには、中学校の時と高校一年の時のクラス写真が飾られていた。
 満月は更に、慣れ親しんだ空間に目を凝らす。ベッドの上に可愛らしくちょこんと座っているのは、いつだかの誕生日にもらったうさぎのぬいぐるみだ。その横に放り投げられた携帯電話が明るいメロディーを奏で始める。きっと来週に迫った文化祭の準備についてのメールだろう。
 満月は徐にベッドに腰を落ち着けると、瞳を閉じて遠い記憶を辿り始めた。
 車で三十分ほどの所にある産婦人科医院で生まれて、それから十六年の歳月をこの家で過ごした。母は物心がついた頃には既に他界していて、仕事に行く父の背中ばかりを見て育った。自分に自信がなくて、人との距離の取り方に悩んでばかりで、学校は好きだけれど苦手でもあった。輪国に赴く前の満月の日常は、そんな些細で、けれども小さな幸せに彩られていた。
 輪国から還って来てからの満月の日常は、驚くほどには変わらなかったけれど、少しだけ様変わりした。目の前にあることに一生懸命になれるようになった。ちょっぴり、前向きになった。友達も増えて、家族のありようも変わって、大切な人が増えて、ここでの生活は平凡かもしれないけれど、とても幸せだと思えるようになった。教師か、看護師になりたいという夢もできた。
 こうして毎日が降り積もって行けば、満月はやがて大人になり、若しかしたら夢も実現し、恋もするだろう。
 九螢のことも輪国のことも、きっと一生忘れられないだろうけれど、それでも人は、思い出と過去に縋り続けられる生き物ではない。
 日常を輪国に据えれば、満月のこの目の前に広がる日常は消えて無くなる。そう思うと、平凡で退屈だと思っていた日々さえもが愛おしくて、手放しがたくなる。大切な家族や、築き上げてきた人との繋がりや、この世界で生きていく上での可能性全てをかなぐり捨てて輪国を選ぶのは、正直苦しくて辛い。そこを当たり前の日常にできる自信もない。
 半年前までは、満月には輪国以外にもいつも、還る場所があった。けれど、これからはそうではなくなる。満月一人の帰省のために、国を危険には晒せない。還る場所が無くなるというのは、怖いものだ。どこにも、逃げる場所がない。
 輪国と九螢を選ぶのならば、満月はあの世界で何があっても踏ん張って、生きていかねばならない。果たして、それができるだろうか。
 ――私は、相応しいだろうか。あの国に。この人の隣に。
 満月は、九螢を見つめた。すぐに、九螢は見つめ返してくれた。
 好きという感情さえあれば、何でもできると思えるほど、満月は子どもではないし溺れてもいない。感情の赴くままに飛び込んでしまえたら良かったのだけれど、一度我に返ると、それができる性質でもない。
 だけど、選びたいと思った。
 勿論、膝が笑うくらい怖いけれど、それでも、選びたいと思った。
 輪国で、九螢の隣で、生きていくことを。
 今ならば、選べる。明日に迷っても、今を精いっぱい生きることで拓ける道があると信じることができる。自らが役不足と感じるのならば、相応しい人間になれるよう、努力し続ける覚悟がある。そして、満月はいつだって一人ではないのだ。前を見続けて居られるように、隣でずっと見守っていてくれる人が居る。手を取り合って、生きていく方法も、少しずつだけれど理解しつつある。だから、選べる。私は輪国で、再び月姫として生きていく。この平凡だけれど優しくて愛おしい日常を捨てて。
「九螢、決めたよ。だけど、九螢に言う前に、どうしても言っておかなきゃいけない人が居るの。二番目でも、良い?」
「構わない」
 満月はありがとうと微笑んで囁くと、丁度帰って来たらしい父の元へと足を運んだ。

 少し濃く入れたブラックコーヒー。悠里が一番好きな味だ。
 満月は手際よくそれをテーブルの上に運ぶ。和理は、満月の異変を察したのか、事前に二階の自室に戻ってくれていた。
 少しくたびれたような顔をして座っていた悠里は、その匂いを嗅ぐなり、ふっと相好を崩した。その横顔を目を細めてとっくりと眺めてから、満月はやっと切り出した。
「今日も遅かったけど、何か問題とか?」
「否、佐々木さんに飲みに誘われてね」
「もう、お父さんそんなに飲めないんだから、あんまり無理しないでよ」
 満月は頬を膨らませて悠里を軽く睨んだ。
 佐々木さんと言えば、二、三年前に悠里が家に連れてきたことがある、熊によく似た五十がらみの男性だ。確か悠里の同僚で、大変な愛妻家らしい。悠里の話を聞いていると、豪快で単純な印象を満月は抱くのだが、どういう訳だか父と馬が合うようだ。
「満月、お父さんに何か言いたいことがあるだろう」
 目を瞬いた満月に、悠里はコーヒーカップを傾けながら笑う。
「お父さんには敵わないな」
 苦笑した満月は、悠里の向かいの席にそっと腰を下ろす。自ら淹れた紅茶のティーカップを引き寄せようとして、けれど結局そうはしないで両手をテーブルの上でちょこんと重ねた。
 すう、と息を吸い込む。この家の匂いには慣れ親しんでしまって、特に匂うものは何もない。だが、この匂いは、ここでなければ知覚することはできない特別なものだ。
「行きたい所があるの」
 存外に重々しく響いたそれは、リビングから廊下の方まで微かに震えながら波紋を広げた。
 悠里は、何も応えない。ただ黙って満月を真っ直ぐに見つめていた。
「そこは、とても遠い場所で……今度行ってしまえば、多分、もうお父さんには会えない」
 弾かれたように、悠里の目が見開く。
 実際にそう口にすると、その言葉は満月の心のより一層深い所へ、鈍い音を立てて落ちて来た。
「……それは、満月が今までに居なくなった時のことに関係している場所なのかな」
「――うん」
「君は、まだたった十六歳の女の子だよ。僕は今まで事情を聞かなかったけれど、それは満月に帰って来る意志があったからだ。京華、今は居ないあの子にも、帰って来る意志が感じられた。だから、許した。結果、君はちゃんと帰って来てくれた。でも、今の満月にその意思は全くないね。十六年……もうすぐ十七年になるのか。十七年、育ててきた娘を、得体の知れない所へやれる親なんてそうそう居ないよ」
 悠里の言い分はもっともだった。
「親不孝者でごめんなさい。だけど、私はそこに居る人たちが大好きで、その場所が大好きで……そこで、かけがえのない人も見つけたの。あの人を、支えたい。少しでも、皆の力になりたい。だから――お願いします。行かせてください」
 満月は深く頭を下げた。吐息が震える。身体に力を入れていなければ、今にも崩れてしまいそうだ。
 十七年もの長い間、育ててくれた恩も返さずに、満月は父を捨てる。そんなことをする日が来るとは、一年前までの満月だったならば、思いもよらなかっただろう。
 ――ひどい娘だ。本当に。
 悠里は何もかも与えてくれたのに、満月は何一つ、返すことができなかった。それでも、この選択を曲げる気がないのは、とてつもなく卑怯な振る舞いだった。
 これ以上、悠里と目を合わせていると、心が罪悪感で破綻しそうだ。
 きゅっと顔を引き締めた満月に、悠里は力なく微笑んでから口を開いた。
「満月。突然消えた君が一度目に帰って来た時、僕はとても驚いたんだ。居なくなる前の君とは、まるで違うと思った。そして君はもう一度居なくなって、もう一度帰って来た。その時はもう、僕が知っている娘ではなくなってしまったのかとさえ思った。そして三度目に帰って来て、一緒に暮らしていくうちに、確かに君は驚くほどに変わったけれど、本質的なものは何も変わっていないと実感した。その場所での生活は、満月を変えはしたけれど、満月そのものを潰すようなことはなかったのだと、僕は思った。加えて、君はそこで僕より大切なものを見つけてしまったらしい」
 満月は、耐え切れずそっと目を伏せた。
「責めているんじゃない。そうだな……寂しい気持ちは勿論あるよ。だけど、君がそんな風に必死になれるものを見つけられたことを、僕は嬉しいとも思った。それも本当」
 くしゃりと笑う、悠里の陽だまりのような笑顔が好きだ。満月は、思い切り唇をかみしめた。そうでないと、泣きだしてしまいそうだ。
 理不尽なことを言っているのはこちらなのに、どうして満月が泣くことができるだろう。
「一つだけ、約束してほしい」
 悠里は徐に立ち上がると、満月のすぐ傍にまでやって来て、その場に膝をついた。
 そのまま、満月の頬を温かくて大きな手で包み込む。それだけで、満月は赦されたのだと感じた。
「必ず、幸せになること――良いね、必ず、だよ」
 唄を紡ぐような悠里の声が、沁み込むように満月の中に溶けてゆく。
 どこまでも、悠里は満月の心に寄り添って、背中を押してくれる。本当は沢山言いたいことを抱えているはずなのに、それをおくびにも出さずに、満月の選んだ未来をただひたすら信じてくれる。
 満月は熱くなった目頭を親指と人差し指で強く押さえ込んでから、からりと笑った。
「お父さんにも京華にも和理にも、お母さんにも負けないくらい、一番幸せになるよ」
 悠里が寄せてくれた信頼に、必ず応えてみせる。できないはずがないと思えた。
 隣には九螢が居て、玉兎が居て、輪国の皆が居て。大好きな場所で大好きな人たちに囲まれた生活は、とびきり優しくて、とびきり生きがいがあって、とびきり大変なものになるだろう。胸がどきどきしてわくわくして、今にも走り出してしまいそうだ。輪国で、満月はきっと、一瞬一瞬を全速力で駆け抜けるようにして生きていく。
 悠里は、きっぱりと言い切った満月に何か祈りを込めるように、深く頷き返した。
「行っておいで」
「うん。行ってきます」
 最後に交わした抱擁は優しかった。もう二度と会えないかもしれない親子のそれにしては、あっさりした印象さえ抱く者も居るだろう。だが、満月と悠里にはこれで十分だった。どんなに離れていても、誰も何事も満月と悠里の間を引き裂くものはない。決して変わらない絆がそこにはあると、信じることができる。
 どちらからともなく身体を離して、目と目を合わせて笑い合う。
 ああだけど、やっぱり泣いてしまいそうだ。
 すん、と鼻を鳴らした満月であったが、その時にはもうさっと踵を返していて、父の視線を背中に感じながら、毅然と前を向いた。

 階段を上りきった所で、満月は突然飛び出してきた人影にぶつかった。
 わっと声をあげてたたらを踏む。階段から転落して打ちどころが悪ければ、怪我では済まされないかもしれない。
「うわっ」
 調子外れの声がして、満月はその人に強く右腕を掴まれて引き寄せられる。
 鈍い音と微かな痛みと共に、満月はどうやら自分が無事であることを認識した。
「ごめん! みつ姉」
 そう言って手を合わせて来たのは和理だった。
「ううん、私こそごめん。大丈夫? 思いっきり下敷きにしちゃったけど」
 満月は慌てて和理の上から飛び退いた。
 何ともない様子で満月の手も借りずに立ち上がっているところから見るに、どうやら和理に大事はないようだった。
「……何で突然飛び出して来たの?」
 自然と浮かんだ疑問を述べると、和理は罰が悪そうにあーとかうーとか何だかよく分からない情けない声を上げ始めた。
 それで満月は、確信は持てないが、この一連の和理の素っ頓狂な行動に察しがついた。
「……聞いてた? さっきの話」
 二階からでも、耳を済ませれば会話の断片を拾い上げることくらいはできるだろう。
「――うん」
 正直にそう頷いた和理の頭を、満月はそっと撫でてやる。
「それで居ても立ってもいられなくなって、飛び出してきた?」
 和理は肯定を示さなかったが、沈黙が満月にその問いに対する答えを押し出した。
 和理が何か言いたげに、満月を見上げる。その瞳は少しだけ潤んでいて、満月は思いがけずたじろいだ。
「みつ姉も京姉も酷いよな。俺、置いて行かれてばっかだ」
 そう吐露されれば、満月も言葉に詰まる。大切でかけがえのない人からの告白であれば、余計に。
 後ろめたい気持ちから思案顔になった満月に、和理は少し大人びた微笑みを浮かべてみせた。さっきのお返しとばかりに、背伸びをして、満月の頭にぽんと手を置く。
「京姉はさ、いつだって俺だけを見てくれて、俺を第一に考えていてくれたんだ。だから、そんな京姉を変えたのと同じ理由なら、みつ姉も我慢できるはずがないよ」
「……和理」
 少し寂しそうに、悔しそうに、和理は俯いた。
「みつ姉。みつ姉にとって、俺は良い弟だった?」
 期待半分不安半分といった態で、恐る恐る尋ねた和理の額を、満月は小突いた。
「何言ってるの。今までだってこれからだってずっと、和理は私の大事な弟よ」
 ふわりと包み込むように、満月は和理を抱きしめた。和理は少しの間よく分からないことを叫んでもがいていたが、ついにはちゃんと抱きしめ返してくれた。そうしてすぐに、和理は耐え切れなくなったように、声を上げて泣いた。

 キィ、という音と共に満月は自室に踏み込んだ。開け放したままの窓から入って来た夜風が、九螢の髪と衣を揺らしている。夜を背負った九螢は、いつもよりどことなく神秘的で、今更ながらに満月はその人が神であることを認識した。
 それでいて、ちゃんと人の心を持っているから、その存在はとても危うく思える。こちらに向けられた視線は硬く、満月は九螢の傍まで歩いて行くのに薄氷の上を進んで行くような心地を味わった。
「九螢」
 溜息が落ちるように、満月の唇がその名を紡ぐ。
 九螢は、その声に吸い寄せられるようにゆらりと立ち上がると、何も言わずに満月を見つめた。その瞳は、やはり小波立っている。
「九螢、私は――私は、貴方と輪国を選ぶ」
 九螢は少し目を瞠り、すぐに眉根を寄せた。
「お前に、この世界が捨てられるのか?」
 厳しい表情はそれでいて、輪国だけでなく満月を思いやっている。そして少し、怯えたようにも見えた。
「捨てられる……とは言い切れない。駄目だね、私、すごく弱い」
 九螢が何か言いたげに、満月の方へ一歩踏み込んだ。満月はそれを片手で制す。
「だけど――選ぶって決めたの。私はこれからきっと、この選択を後悔したりあちらを選んだことを不安に思う時が来ると思う。だけど、それでも私が選んだの。きっと九螢の隣に相応しくなる。月姫として、皆のためにできることを精一杯やり遂げて見せる。私、晴さんや京華や珱希さんのように曜子として立派じゃないけど……だけど、九螢と一緒なら、強くなれる。だから……私と一緒に生きて」
 満月の静かで力強い潮騒を思わせる響きを持った言葉に、再度九螢は目を瞠った。額に手を当て、項垂れる。笑み崩れた姿は、満月の目に新鮮に映った。
「お前には、敵わないな……なんて口説き文句だ?」
 その意味に気づいた満月の全身に熱が走る。知らず、満月は物凄いことを九螢に対して宣言してしまっていたらしい。九螢の言葉を繰り返しただけではないかと反論しかけた満月であったが、彼の表情を一目見てそんな気持ちはしぼんでいった。笑みをこぼしてまでいるくせに、その顔からはいつもの余裕が消えている。
 そんな様子を見られたくないとでも言うかのように無遠慮に伸びて来た九螢の片腕に、満月の頭はすっぽりと収まった。
「俺は、お前が居るから、こうして立っていられる」
 九螢の吐息は震えていて、声もところどころ上擦っていた。満月は躊躇いがちに、九螢を仰向く。
「二度は聞かない。もし考えが変わったりしたのなら、俺を殴り飛ばせ――自ら手放すことは、もうできそうにない」
 まだそんなことを言う九螢を、満月は両腕で力いっぱい抱きしめた。
「馬鹿。私がどれだけ九螢を好きか、知りもしないで」
 締めつけるようだった九螢の腕が弛緩する。いつの間にか伸びた、九螢の指が満月の顎を捉えた。はっと身を強張らせて一歩後退った満月であったが、九螢の瞳が湛えた燃えるような熱に気づいてもう逃れようがないことを知る。
「お前は、変に肝が据わっているのに、妙な所でいつも弱いな」
 囁きは生温かな吐息と共に、頬にかかる。思わず叫び声を上げそうになるのをぐっと堪えて、満月は目を閉じた。
 本当に、九螢はずるい。満月の咄嗟の口説き文句もどきに動揺するくせに、いとも簡単に満月に触れて来る。
 唇にそれが触れた時、甘やかな痺れが来た。その痺れは稲妻のごとく全身を駆け巡り、いっそ激しいまでの熱に浮かされたように満月から力が抜けていく。ふらふらになった満月を支える腕は力強く、しばらく放してくれそうにない。ああもう本当に、九螢はずるい。啄ばむように触れて来る熱を、最初は気恥ずかしいくらいに思っていたのに、どうしてかどうしようもなく愛おしいと思った。
 やっと解放されて、薄目を開けた満月は、自らが淡く光彩を放つ柔らかな光に包まれていることに気づいた。それは、狂おしいまでに望んだ月の光。見れば、九螢の周りにも同じものが取り巻いている。
「私……月に、認められた……?」
 求道者が諸手を挙げて謳う歓喜にも似た、掠れた声が空気を震わす。その瞬間、新たな命が生まれるように、満月と九螢の間を、細い一本の線が走った。それは見る見るうちに拡がり強まり清かなものとなる。一方で流れ込み、もう一方で猛烈な勢いで外へ向かおうとする力は、互いの思いの強さをこれでもかというほど示している。
「ッ!」
 引力が生まれた喜びも束の間、左鎖骨下の曜痕がある辺りに焼けるような痛みが走った。
「どうした!」
 満月は、九螢に請われるままに、肌を庇うように押しつけていた手を恐る恐るどかした。襟ぐりの開いたワンピースを着ていたから、いつものようにわざわざ服を脱がなくともそれは第三者の目には確認できたはずだ。
 九螢が瞠目して、それを凝視している。居たたまれず、満月は己の肩を寄せて九螢の視界を遮った。
 そこで満月も気づいた。きちんと目視することはできないが、確かに痛んでいるところから眩いばかりの光が放たれている。その色はまるで、大輪の華がほころんだように紅く、それでいてきっと、満月が先ほど目にしたのと同じ、満ちた月の形をしているのだろう。
 これで、満月と九螢の間に走った亀裂の全てが元に戻った。
「――本当に、馬鹿みたい」
 嗚咽を殺して腹を抱えて笑いだした満月の頭を、九螢がくしゃりと撫でる。それと同時に、九螢から一際鮮やかな月の光が溢れだした。
「準備は良いか?」
 それで満月は、輪国行きの片道列車に足を突っ込んでしまったことに気づく。
「え! ちょ、ちゃんと一番大事な挨拶はしたけど、服とか、靴とか、その他もろもろ!」
 九螢はいちいち行動が急展開にすぎる。
 満月は金切り声を上げて、片っ端から使えそうなものを傍に放ってあったスクールバッグに詰め込んでいく。これから一生を輪国で暮らして行くのに十分とは言えないが、殆ど身一つで輪国に初めて連れて行かれた時よりはましだと思えるほどの荷物を抱え終えると、満月の身体は軽々と九螢に抱き上げられた。慌てて九螢の首にかじりつく。狭間で振り落とされたら、たまったものではない。
 満月は最後に、自身を産み落とし、育て上げてくれた世界を見つめた。いつの間にか真夜中を過ぎて、世界は更に深い闇へと飲み込まれていく。その闇は静謐で、どこまでも優しく、安らぎを貪る人を包み込む。
 揺りかごのようだ、と満月は思った。
 赤子をあやすようにゆらりゆらりと一定の調子で左右に揺れる揺りかごを、満月は自ら這って出て行く。
 そこに恐れはあるが、迷いはない。
 さあ、月と日が煌めく国へ行こう。想像もつかない、不思議と希望を宿した国、輪国へ。
「さよなら――」
 月光は天高くまで舞い上り、そして、忽然と消え去った。


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