月姫 千歳の花時[四]



 少し急いたような賑やかなお囃子の音がどこからか聞こえてくる。歓びに浮かれたその唄に導かれて、胎内を漂うかのように彷徨っていた満月の意識が、徐々に一点を目指して集まってきた。
 それでも中々開いてくれない重い瞼を、微かに撫ぜる感触があった。くすぐったさに耐え切れず、満月は恐々目を見開く。目覚めを促した妙に柔らかな小さな物体を満月は指で摘み取ると、顔の正面に持ってきてまじまじと見つめた。
「花びら……?」
 先刻まで眠り込んでいたせいか、野暮ったい掠れた声が出る。
 薄紅色をした柔らかなそれは、確かに花びらのようだった。
「いい加減、目を覚ませ――皆が、待ちかねている」
 耳朶をなぞる声に、靄がかかったかのようにぼんやりとしていた満月の意識は急速に覚醒した。
「ん……九螢?」
 満月を抱き上げてくれていたらしい九螢が、呆れたように相好を崩す。
「ここがどこだか分かっているのか?」
 問われ、満月は二、三度瞬きをして、目の前に広がっている光景に目を瞠った。あまりに驚いて、気分が高揚して、懐かしくて、愛しくて、声さえ出ない。
 茫然と九螢にしがみついたままでいる満月の頭を、彼はいつものようにくしゃりと撫でた。そしてそのままそっと地面に下ろしてくれる。
 粉雪が降り積もるように、視界一面を覆い尽くしているのは桜の花びらだった。薄紅が、そよ風に吹かれて踊るように宙を舞っている様は、満月を現の夢に誘い込む。
 花色に染まった大地にひしめいているのは、見たこともないほどの人だかりだった。商店街の面々が満月と玉兎を中心に大輪の華を咲かせたあの日や、欠片の返還のために人々が行列をなしたあの日とは比べ物もならないほどの人で、広場は埋め尽くされている。あまりにもその数が多すぎて、どこまで人の群れが続いているのかすら、推定しがたい。
 楽器を手に音楽を掻き鳴らす者、道化を気取って周囲を笑いの渦に引きこむ者、音楽に合わせて手を取り合って踊り出す者、ここぞとばかりに屋台に客を引きこもうと声を張り上げる者、様々な者が居たが、共通しているのは皆、お祭り騒ぎであるということだった。
 ぎゃあぎゃあとうるさいほどの歓声が、そこかしこから聞こえてくる。
 満月は、ぽかんと口を開いたまま、一歩だけ前に進み出た。
 すると、ついさっきまで大地を満たしていた声という声が止む。
 きょとんと辺りを見渡した満月は、雑然と場を埋め尽くしていた人々が一斉にこちらを向くのを、信じられない気持ちで見つめた。
 これは、どうしたことだろう。わけが分からなくて……眩暈がしそうだ。
 そんな満月の気持ちをよそに、人々は口々に何事かを口にする。
「おかえり!」
「おかえりなさい、月姫様」
「月姫様ばんざーい!」
 堰を切ったように溢れだし始めた言葉は、硝子を一枚隔てた向こうのことのように感じられた。
 目を見開いて立ち尽くしたまま辺りを見回す満月の胸に、小さな身体が飛び込んで来る。
 咄嗟にそれを抱きとめると、懐かしい匂いがした。
「何変な顔をしているの? 全部貴女のことを言っているのよ、満月」
 赤い着物からのぞいた黄金色の尻尾がふさりと揺れる。満月の胸に顔を埋めた小さな身体が、一層強く満月に抱きついた。
「こ、孤鈴?」
「あたり」
 ぱっと顔を上げて碧の瞳を柔らかく細めた少女は、花のように笑った。
 ああ、と満月は声にならない声を上げる。
 帰って来たのだと、実感する。受け入れられたのだと、安堵する。この場所で生きていけるのだと、歓びが頭をもたげる。
 気づけば、満月は駆け寄って来た輪国の人々にもみくちゃにされるように一面を囲まれていた。
「嬢ちゃん! よく帰ったな」
 聞き覚えのある声に振り返れば、狸の親父がでっぷりとした腹を見せて豪快に笑っていた。
「月姫様! おかえり!」
 棒のようになった膝にかじりついてきたのはねずみの子だ。
「何だ。ちゃんと帰って来ちまったじゃないの」
 にかっと歯を見せて笑ったのは茶々丸だった。
 人々はそんな気ままな挨拶を終えると、期待を込めて満月を見つめた。満月は皆の輝くばかりの目という目に晒されているというのに、上手い言葉が浮かんでこない。
「馬鹿ね」
 せせら笑うような強い声に満月は振り向く。
 蜂蜜色の髪をなびかせて、腕を組んで唇をつり上げているのは赤鴉だった。
「おかえりなさいって言ってんのよ。あんた、挨拶の仕方も忘れたの?」
 挑戦的に言って、赤鴉は嫣然と笑む。
「あ……た、ただいま……」
「声が小さいわね」
「た、ただいま!」
 いっそ叫ぶように言った満月を、再びどっという歓声が取り囲む。
 困ったように笑う満月の手を、赤鴉の白い小さな手が取った。彼女は朱色に頬を染めて、小さく呟く。
「帰って来るのが遅いのよ」
 その声が存外に優しくて、満月は噴き出した。
 そのまま満月は人垣の外へと連れ出される。その間にも、満月は色々な人から抱きつかれたり握手を求められたり号泣されたりして、散々な騒ぎとなったのは言うまでもない。
 次に満月と目が合ったのは、人目を避けて桜の木に身を寄りかからせた男だった。
 男は、満月の姿を確認すると、微かに反動をつけて身体を起こす。そしてそのまま、満月に向かって底意地の悪そうな顔を向けた。
「やっと済ませたんですか? まさか口づけ未満だとは思いませんでしたよ」
「ッ――晴さん!」
 全身をゆでだこのごとく真っ赤に染めて金切り声で叫ぶと、晴尋は目元を緩めてくすりと笑った。
「おかえり。何だか俺が余計に話をややこしくしたみたいで、悪かったよ」
 そう詫びながらも全く悪びれていないのが晴尋らしいと満月は思う。
「今回の件は、晴さんのせいじゃないから。謝らないで」
 一応そう付け加えた満月に、晴尋は心外そうに目を瞬かせた。
「今回の件は、って私がいつも何か悪いことをしているみたいじゃないですか」
 満月は言葉に詰まってたじろいだ。うんうん唸って肯定すべきか否定すべきか悩んでいたら、折良く助け船が入った。
「晴尋。そう姫を困らせるな」
 艶っぽい落ち着いた声は威厳と気品に満ちている。
 満月は瞬く間にその人を振り返って、微笑んだ。
「日神様。お久しぶりです」
「よくぞ帰った。姫が居なくては、月神が御しがたくて困る」
 悪戯っぽくにっと口角を上げた彩章は、満月の目線に合わせて屈んでくれた。
 いつの間にか満月の隣に来ていた九螢は、罰の悪そうな顔で遠くを見つめている。
 何と返そうかこれまた考え込み始めた満月の視界に、信じられないものが飛び込んで来た。
「姫様ー!」
 息遣いも荒く、転ぶようにして駆けて来る女の姿に満月は目を点にした。
「た、環?」
 淑やかでたおやかという形容がこれ以上ないほどに似合う環が、あろうことか叫び声を上げたばかりでなく、髪を振り乱して走っている。
「お帰りなさいませ――お帰りなさいませ、姫様……!」
 満月の元に辿り着くなり、環はその美しい顔を歪めておいおい泣き始めた。
 満月は慌てて環の華奢な肩を抱きしめる。
「ごめんね、心配掛けて」
「いいえ。私は姫様がこうしてご無事でお帰りくださっただけで、十分満足しておりますわ」
 どこまでも優しい微笑みに、満月の目頭が熱くなる。
「あ、けれど、今宵の宴の姫様のお召し物は是非私に任せてくださいませね。他の方に任されたりしたら、いくら姫様といえどお恨み申し上げます」
 茶目っ気たっぷりに環は言う。そういえば、環はただ優しくて穏やかな女性というわけではなかったのだった。
 満月はたじろぎながらも頷くほかない。
「あれ、そういえば玉兎は?」
 見知った顔が勢ぞろいする中、きっと環と同じくらいに心労を掛けてしまっていたであろう彼は、いつまで経っても姿を見せない。
 人ごみの中に紛れてしまっているのだろうか。そう思って目を凝らすが、この中から玉兎一人を見つけ出すのは中々骨が折れそうだ。
 そんなことを思いながらも、満月の足は玉兎を求めてひとりでに動き出してしまっていた。
「……月姫」
 歌うような声が、風に乗って満月の耳に届いた。雑踏のずっと奥に、ぴょこんと伸びた白い耳が見え隠れしている。
 満月は走り出しかけて、けれど立ち止まって九螢を振り仰いだ。
 何だ? とでも言うかのように九螢は満月に首を傾ける。その腕を、満月は左手でぐいと引っ張って、今度こそ大地を駆け出した。
「おい」
 非難するように後ろから聞こえて来た声を無視して、満月は九螢をぐいぐい引いて玉兎を目指す。
 風を切るたびに、人影が後ろへと流れて行く。瞬く間に玉兎の元に辿り着くと、満月は玉兎に飛びつこうとした。
 しかし思いがけず先手を取られて、満月はそのまま右手を玉兎に引かれた。
 いっそう速く、景色が過ぎて行く。
「玉兎?」
 舌を噛みそうになりながら尋ねた満月に、玉兎は何も言わずに振り返って、ひどく優しく目元を細めた。それからまた、前を向いて脇目も振らずに走り始める。
 息が上がる。額から伝い落ちた汗が、視界を滲ませる。
 もう流石に走れない、と音を上げそうになったところで、唐突に玉兎の足が止まった。
 何が何だか分からない満月をよそに、玉兎はまたもやふわりと笑う。そんな玉兎に九螢までもが淡い笑みを返している。
 困惑をありありと浮かべた満月に、玉兎は空を指差してみせた。
 満月は肩で息をしながら、ゆっくりと顔を仰向ける。
 瞬間、その顔に驚きが塗られ、ゆるやかに喜びが涙と共に溢れだした。
 ああ、と満月は顔を両手で覆って、その場に崩れ落ちる。
 歓喜にごった返した輪国の地に、玉兎の高らかな声が鳴り渡った。
「――ほら見て、満月!」


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