月姫 宵の宴



 どこか寂しい心地になる夕暮れ。月の宮と地上を結ぶ祠から続いた列は、少しずつ帰途を辿り始めていた。
 月の欠片を返還しに来てくれた人々一人ひとりへのお礼が終わり、満月と玉兎は息を切らせて何百段にも渡る石段を登り終えた。
「嬢ちゃん、玉坊」
 聞き慣れない単語で満月と玉兎を呼んだのは、狸の親父だった。その後ろに、九尾亭の面々や商店街の面々までもが見える。
 返還に足を運んでくれた大多数の人々が、それぞれの町や村へと帰って行っているというのに、揃ってどうしたことだろう。首を傾げる満月と玉兎を、皆が手招いた。
 彼らが手にしているものが、月の欠片ではなく様々な色形をしていることに、満月は驚きを隠せなかった。
「ささやかだが、贈り物だ」
 にっと口角を上げ、狸が言った。
「高貴な方々のお口に合うかなんて分からないのですけれど」
 ねずみの母が、言葉を濁して呟いた。少々大きめな籠の中に、色とりどりの野菜がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。
「満月に似合うと思って、母様と二人で作ったの」
 そう言って狐鈴は、満月に何やら大きな布を広げて見せた。少し彩度を抑えてはいるが、赤色が見るも鮮やかな小袿だった。黄金色に似た黄色が、まるで月の光のように、色彩を豊かなものにしている。
「こっちは、玉兎のね」
 狐鈴が、玉兎に小さな白い手袋を渡す。可愛らしい小さめの刺繍は、紅色をしていた。
 贈り物など初めてだったのかもしれない――玉兎はどこか嬉しそうだ。
「それから、俺からはこれな!」
 満月の手には少し重たい瓶が、唐突に渡された。
 バランスを失ったよろめいた身体を、意外にも、端伎が支えてくれた。
「あ、ありがとうございます」
 深々とお辞儀をすると、端伎からも同じくらい礼儀正しいお辞儀が返ってきた。端伎は懐から秘伝のたれを取り出し、玉兎に差し出した。腕の良い無口な料理人の贈り物は、どこか可愛らしくて滑稽だった。
 満月は狐鈴と顔を見合わせ、噴き出すしかない。
「まだ、全ての欠片をお返しできた訳ではありません。これからも、皆で協力して返還に応じるよう働きかけをしていく所存です」
 そう言ったのは教師の男で、やはり沢山の子供を連れていた。どの子も皆、手に手に贈り物を持っている。
「皆、こんなに沢山――本当にありがとう」
 屈んだ満月の黒髪に、教師の教え子の娘が摘んで来たらしい可憐な花が一輪挿された。満月の頭上で、微かに柔らかな香りが広がる。
「ますます、頑張らなきゃいけないね」
 困ったように、けれどもこれ以上ない喜びを噛みしめて、玉兎がぽつりとこぼす。
「私は、もっと頑張るつもりよ」
 言って、満月は背後の人影に気づいた。皆が、どよめいてその人を見上げた。
「あまり張り切られて、大事な時に倒れられては迷惑だ」
 満月と玉兎の頼りなげな背中を支え、九螢が言った。
「これは――月神様」
「そうですわよね。月姫様も玉鳳様もお疲れのご様子だというのに、私たちがこんな勝手な真似を……」
 項垂れ、落ち込んだ様子の皆を見やり、満月は慌てて声を張り上げた。
「そ、そんなことはないの! ね、玉兎」
 玉兎を向いたついでに、ちらと満月は九螢を振り仰ぐ。何故か、九螢までもが落ち込んでいるようだ。
「うん、僕ら、凄く元気だよ」
 玉兎も大きく頷き、荷物を抱えているというのに身振り手振りで疲れていないことを訴えた。
 その様子をどこか不満げに見つめると、九螢は玉兎と満月から殆どの荷物をひったくって、踵を返そうとする。
 それで満月は、何となく九螢の機嫌の悪さの理由が分かり、忍び笑いをこぼしてしまった。
「何がおかしい」
 眉間に皺を寄せた九螢が、両手に荷物を抱き抱えて振り返る。
「九螢、私と玉兎に遠慮なんかしてないで、皆と話したら?」
 満月は、私と玉兎に嫉妬なんかしてないで皆と話したら、と言うつもりだったが、直接的すぎるので途中で慎重に言葉を選んだ。九螢の機嫌をますます損ねるような真似は、避けるべきだ。
 一瞬、九螢の瞳が揺らめくが、すぐに瞬きにその揺らぎは覆い隠される。
「否、もう日も暮れるし、家が遠くにある者も居るだろう。皆の協力あって、月の光が夜陰を照らすまでになったが……道中は明るいに越したことはない」
 呟いた九螢を、皆が尊敬の眼差しで見つめた。
 九螢が、珍しくまともなことを口にしている。それも、人を気遣って。
 そもそも民を憂えるあまりに、九螢の行動や言動は極端から極端に走っていたのだが、こうして実際にその姿を見ていると不思議な心地がしてならない。
「それは、そう、なんだけど」
「不服か?」
「ううん。確かにその通りだから、そうしよう」
「皆も良い?」
 玉兎の問いかけに、全員が頷いた。
「月の欠片だけじゃなくて、こんな素敵なものまで、本当にありがとう。こんなに沢山の人を、こんなに早くに集めてくれるなんて、思ってなかった」
「私たちを見くびりすぎだわ」
「そうだぜ、嬢ちゃん。今に見てろよ。全部の欠片、持ってきて、嬢ちゃんと玉坊と月神様をあっと言わせてやるからな!」
 陽気な狸の声は、皆の笑いを誘う。最後に、民の顔が九螢に向いた。
「月神様も、こんな私たちにお優しいお気遣いをどうもありがとうございます」
「お前たちの気遣いに比べれば、何てことはない。それより……お前たちが、こんなにも沢山の民をこの地に呼び寄せてくれたのだな。改めて、礼を言う」
 無表情の九螢と対照的に、皆の顔が更に華やいだ。
「少しでもお力となれたこと、光栄に思います」
 誰かがそう言って、皆、順々に寂しげな表情に変わってゆく。
「また、会おうね」
 小首を傾げたねずみの子に目線を合わせて、満月は頷く。
 頭を下げて、徐々に石段を下り始めた一行を、満月と玉兎は手を振って見送った。
「満月、」
 最後まで行くのを渋っていた狐鈴が、尾を揺らして駆け寄って来た。満月の耳元に手を当て、鈴の転がるような囁きを残す。
「月神様と、何かあった?」
 耳元を掠めたそれの意味を理解するのに、満月はいくらか時間を要した。軽やかに駆け出した狐鈴の横顔に広がる笑みは、女の子特有のそれだ。
「なっ!」
 満月の胸に、九螢に関わった様々な情景が洪水のように押し寄せる。が、それを振り払い、満月は叫んだ。
「何もないってば! 何も! 全く!」
 くすり、と大人びた笑いを端伎の隣でこぼし、狐鈴は階を下って行く。当惑顔の端伎が、こちらを向いて一礼した。その目は、満月を見つめる九螢と、まるで同じ色を宿していた。

「それでは、今宵は宴を開きましょう」
 そう提案したのは環だった。
 満月たちが人々に贈られたもの――食材に限る――を全て広げると、十数人分の豪華な夕食が作れてしまうという事実が判明したのだ。
 加えて、帛鳴によれば、彩章らが今夜月の宮を訪れることはないということだった。帛鳴の言が外れたことは、今まで一度もない。
「今まで、ずっと突っ走って来たんだ。少しは羽を伸ばしても良いんじゃないかい?」
 帛鳴が笑って九螢を見やる。九螢は、少し眉間に皺を寄せたが、どうやら了承したようだった。片手を上げ、自分の部屋へと向かう。
「明日の体調に差し支えが出そうな者は、今すぐ休め」
 勿論、九螢はその忠告を忘れなかったが。
 九螢が広間を出ると、満月はやった、と玉兎と手を取り合って跳び上がった。
 連日の疲れで身体はぼろぼろなのだが、こうして和やかな雰囲気の中で息を抜けるのもまた、今宵くらいしかないのかもしれない。
 明日からは、日や計都を相手取っての説得が開始されるのだ。
「私、何か手伝えることある?」
 食材を運び始めた月の精たちを見やり、満月はそう問いかけた。
「姫様のお手を煩わせる訳にはまいりませんわ。必ず宴に相応しいお料理をご用意いたしますから、姫様は休んでいらしてくださいませ」
 でも、と口ごもった満月に、環の期待に満ちた眼差しが降って来た。
「そういえば姫様、そちらの素敵なお召し物も頂いたのでしたよね。私が着付けさせていただきますから、一緒にまいりましょう!」
 環の瞳は既に、狐鈴と黄珠によってつくられた小袿を捉えていたようだった。満月は必死にそれを後ろ手に隠していたつもりだったのだが、環の目にはお見通しだったらしい。
「で、でも皆忙しいんじゃ」
「丁度、そのお色に合いそうな重ねも御座いますわ。姫様、今お召しにならないでいつお召しになるというのです。月の光が再び輪国を包んだ夜に、これ以上相応しいお召し物はありませんわ」
 最後の言葉は、利いた。全て民が月を思ってしてくれたことなのだ。満月にはその気持ちを受け取る義務があり、受け取りたいとも思った。
「僕も、月姫がこれ着ているところ見たいな」
 追い討ちをかけるように、可愛らしい玉兎の笑顔が満月を見上げた。満月は少し後退りして、そして観念する。
「分かった。でも、似合わなくても笑わないでね」
「姫様のためにつくられたお着物です。似合わないなんてこと、あるはずが御座いませんわ」
 引き下がれなくなり、満月は困ったようにはにかんだ。
 環に半ば連れ去られるようにして、満月は奥の部屋へと向かった。

 鏡の中に、見知らぬ人影を見つけたと、満月は思った。
 蘇芳色の落ち着きを感じさせる布地に、山吹の色をした月の光が散らばる。幾重か赤を重ね、次第にその彩が月の黄に薄まると、最後には大地に生い茂る木々を思わせる緑が、僅かに顔を覗かせていた。
 満月の人より少し色の薄い柔肌を覆う着物は、まるで彼女のためだけにあつらえられたようによく似合う。実際、一番上に羽織った衣は満月のためだけにつくられた代物であった。しかし、その下に重ねられた着物は、先代月姫、珱希のものであったという。
「亡き珱希様もそれはそれはお美しいお方で御座いましたが、姫様もまた、とても美しくてあらせられますわ」
 満月は、夢の中の珱希を思い返して、首を大きく左右に振った。珱希の美しさは、満月のそれと比べて良いようなものではない。
 化粧をして、少しばかり見ることができるようになった満月と、芯から美しい珱希とでは、天と地ほどの差があった。
「私は宴の支度に戻りますが、姫様はどうされますか?」
「帛鳴様の所にでも行ってみる」
「あら、一番にご披露なさるのは月神様ではないのですね」
 上品な笑い声と共に言われ、満月は顔を顰めた。
「狐鈴も環も、どうしたら私と九螢がそういう仲に見えるの」
 呆れたように呟き、満月は踵を返した。そして満月は、着物が重すぎて、歩幅の自由が利かなくてたまらないことに、今更ながらに気づいた。
 そういえば、以前着物を着させてもらった時にも、歩きにくさに着物を脱ぎ捨てたい衝動に駆られたものだった。
 縋る思いで環を振り返ったが、
「よくお似合いですよ」と先に言われ、満月は結局着物姿のまま歩き出した。

 満月が先程の広間を覗くと、申し訳程度の装飾がなされ始めていた。急に決まったことだから、大がかりなことはできなかったのだろう。
 今まで色々な場所を駆けずり回っているばかりで、宮中にこんな広間があったことさえ今宵初めて知った満月は、それだけでも十分嬉しかった。
「帛鳴様」
 部屋の隅に腰掛け、庭園を眺めてでもいたのだろうか。帛鳴は満月の呼び声に、首から上だけをこちらに向けた。そして、目をぱちくりとさせる。
「よく似合うね」
「帛鳴様まで気を遣わないでください」
 苦笑して、満月は隣に膝をついた。
「丁度良かったね。ほら、これをご覧」
 満月は、帛鳴の近くに置かれた幾本かの瓶を注視した。
「これは、皆に頂いた……?」
 中には、狸の親父から貰った瓶も含まれている。そういえば、これらの瓶の中身は何なのだろうか。
「薬春だよ。いつか、薬春を飲み交わす約束をしたっけね」
 満月の顔が、自然とほころぶ。あの時のことは、随分昔のことのように思われた。
「そろそろ、料理もできあがる頃だよ。玉兎と月神を呼んでおいで」
「はい」
 立ち上がり、満月はきょろきょろと辺りを見渡した。
「玉兎なら、ほら、あっちに居る」
 庭園の片隅に玉兎の姿を捉えて、満月は帛鳴に頭を下げた。
 少し迷いながら回廊を進み、満月は流水の音が聞こえる座敷へ辿り着いた。盤石に座り込み、流れる水を眺めている玉兎は、どこか上の空だ。
「玉兎」
 玉兎が居る石の上と満月の居る座敷とでは、まだ少し距離があった。大声で呼んでしまったからか、玉兎の肩がぴくりと跳ねる。
「月姫か。びっくりした」
「ごめんね。もうすぐ料理ができるって。冷えると傷に障るかもしれないし、早く戻っておいで」
「月姫は心配性だなぁ」
 そう口を尖らせながらも、玉兎の表情には嬉しさが滲み出ている。玉鳳、曜命などと言われながらも、玉兎の心はまだ少年のそれなのだ。
「私は九螢を呼びに行くけど、玉兎も来る?」
 玉兎は立ち上がってこちらに駆け寄って来る。玉兎は肯定をしかけたかに見えたが、満月の姿をまじまじと見つめて、首を横に振った。
「僕はやめておくよ」
「そう?」
「うん。それより月姫、それ、凄く良いね。可愛いよ」
 さらりと言われ、満月は硬直した。
「かっ……!」
「あと、月神様の名前を見つけてくれて、ありがとう」
 夜の闇に溶けるような、柔らかな声音だった。満月は、目を見張り、玉兎を見る。
「僕も、月姫や月神様のために何かできれば良いんだけど」
 呟いて、玉兎は寂しそうに微笑んだ。
「何言ってるの。玉兎が居てくれて、私も九螢も、どれだけ心の支えになっているか。こっちに来てから、本当に迷惑のかけ通しで、ごめんね」
 今度瞠目したのは玉兎の方だった。
「これからも、三人一緒に頑張ろうね」
「うん。明日からもよろしく」
 にっこりと笑い、満月は玉兎と手を握り合った。

 正殿の扉の前に立ち、満月は些かその中に入るのを躊躇った。もう必要のないことだから二度目はないはずだが、一度はこの中で九螢に襲われかけたのだ。意味もなく意を決して中に踏み込み、九螢の姿を探して、満月はほっと息を吐いた。
 ……寝ている。
 九螢も、やはり、疲れているのだろう。そのまま寝かせておいた方が良いだろうか。無理に起こせば、九螢の言う通り、明日の体調に差し支えがあるかもしれない。
「用意が出来たのか」
 ふいに聞こえた声に、満月は身体をのけ反らせた。
「お、起きてたの」
 帳の中を覗き込まなければ、寝顔が見えない。しかし、満月には自ら帳台の内側に踏み込んで行く勇気はなかった。
 九螢が横になっているのでてっきり寝入っているのかと思ったが、どうやら違ったようだ。
「じゃなくて、そう、用意ができたの。だから早く来てね」
 早口で告げ、満月は踵を返そうとする。この部屋にはあまり、良い思い出がない。
「おい」
「何?」
「そこで待っていろ。すぐ行く」
 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、満月は戸惑った。寧ろ、早く出て行けと言われた方がしっくり来る。
 帳台の中で衣擦れの音がして、九螢が姿を見せた。満月は、九螢を見上げる格好となる。
「それは、黄珠の娘に貰ったものか」
 一瞬何を言われたのかと迷い、満月はいつものセーラー服と違う衣装を纏っていることを思い出した。
「そう。だけど、環が下に色々合わせてくれて」
「お前は、そういう格好が似合うな」
「私は、髪の毛が黒いから、多分着物に馴染むんだと思う」
 九螢は、眉根を寄せて、満月を見下ろした。
 ――何だか、不機嫌になったようだ。
「そういうことではない」
 それならば、何だというのか。
 九螢の言葉が理解に苦しむのはいつものことなので、満月は構わず歩き出した。遅れて、九螢が続く。
 暫く無言で回廊を進み、それから、思い出したように満月は九螢を振り向いた。
「貴方だけじゃなくて私もそうなんだけど、もうちょっと、玉兎に優しくしてあげてね」
「別に、冷たくしているつもりはないが」
 そう切り返され、満月は少し返答に困った。確かに、九螢は傲慢だし横暴だが、決して血が通っていない訳ではないのだ。ただ、人より少し、心を素直に表現するのが苦手なだけで。
 玉兎もきっとそれが分かっている。けれど、分かっていても不安になることはある。だからこそ、玉兎は弱音を吐いたのだ。
「何ていうか、つまり、三人一緒に頑張ろうってこと」
「随分、主題が変わったな」
 突っ込まれ、満月は困ったように九螢を見上げた。
「あ、見て。あっちに玉兎が居る」
 すっかり笑顔になり、満月は少し先を歩いていた玉兎の隣に並んだ。二人一緒に振り返り、九螢を急かす。
「今、行く」
 誰に知られることもなく微笑をこぼし、九螢は少し早足で二人を追う。
 横に並んだ月にまつわる者たちを見守るように、金色の光が、池の小波に照り返っていた。

「月姫、まだ飲むの? 酔いつぶれたりしないでよ」
 何本目かの薬春をあおる満月を見かねて、口を酸っぱくさせているのは、言うまでもなく玉兎だった。帛鳴はかっかと笑い声を上げ、満月と同じ具合で杯を口に運ぶ。
 慌てているのは、玉兎と月の精で、本人たちは至って平然としていた。といっても、満月の方はいくらか顔が赤らんでいる。
「無理はしない方が良いんじゃないかい」
「いいえ、まだまだです」
 満月は挑発的な微笑みを浮かべた。しかし、普段そのような表情を見せないことから、満月が常時の状態を維持できていないことが分かる。
 その様子を一瞥し、九螢は呆れたような視線を満月に送った。
 早々に食事を切り上げた九螢は、回廊から庭を眺めることに決めた。しかし、それに飽きて、今度は飲み比べを始めた女二人を見守ることにしたのだ。
「意外といえば、意外か」
 九螢の瞳に、周りに空の酒瓶を並べて上機嫌に笑う、酒豪の少女が映る。どうやら、帛鳴は負けを認めたらしい。どう見ても、満月の方が酔いが回っているのは、帛鳴が彼女を気遣って早々に勝負を投げたからか。
 ふらふらとこちらに向かって歩き出した満月は、心なしか千鳥足だ。
「九螢は、飲まないの? ていうか、若しかして飲めない?」
 あまりお喋りな方でないらしい満月の舌が、いつもよりよく回っている。くすくすと笑う声が耳障りだ。
「飲めない訳ではない」
 満月の言い草が癇にさわって、九螢は早口でそう返した。満月が腕に抱いている酒瓶を取り上げ、瓶の口にそのまま口をつける。
 一気に飲み終えると、満月が目を見張り、少々不機嫌になったのが分かった。満月は、九螢が全く飲めないものと思っていたのだろう。踵を返した満月は、薬春の中でも濃度の高い楼春を持って来て、九螢の目の前に突き出した。
 ――何をするのかと思えば、まだ飲む気でいるのか。この女は。
「もうやめておけ。明日も早い」
「私はすぐ酔いが醒めるから大丈夫だし、まだ酔ってないし。九螢こそ、飲めないからって逃げてるんじゃないの?」
 不敵に笑い、満月は杯になみなみと楼春を注いだ。ぐいとあおり、満月は九螢を一瞥してみせる。
「仕方のない奴だな」
 溜息と共に、九螢は満月が寄越した杯を傾けた。
 暫くそうして楼春を飲み交わし、九螢は頃合いを見計らって酒瓶を満月から取り上げた。
 これ以上飲んで、倒れられたら堪らない。
「あ!」
 非難の声が上がるが、構わず九螢はまだ半分以上残る楼春を一息に飲み干した。
「何で一人で飲んじゃうの! それ、凄い高いの、知ってる? ていうか私も飲んでたでしょ。ちょっと馬鹿にされたからって、大人げないでしょ! 横暴! 極悪卑劣!」
 隣で喚き立てる満月は、まるで子供のようだ。極悪卑劣とは、随分な言いがかりである。節度のない飲み方をするなと言ってやりたかったが、忠告するには時は既に遅かった。
 散々喚いた挙句、満月は横で振り子のように前後に揺れ始めた。今度は、眠くなったらしい。初めは小さかったその揺れも、次第に大きなものとなり、間もなく眼前の手摺りに頭がぶつかりそうになる。
 寸での所で、その身体を抱き留め、九螢は溜息を吐いた。
「倒れるのなら、こちらに倒れろ」
 夢の中の住人に何を言っても仕方ないが、気持ちの良さそうな寝顔に向かって、とりあえずそう命じておく。
「わがまま姫はやっと眠りについたかい」
 帛鳴が可笑しそうに笑いながら、九螢の隣に腰掛けた。
「よくあれだけ飲み干したよね。月姫、相当薬春に強いけど、酔うとまるで別人みたい」
 玉兎はからかうように言いながらも、その声音はとても優しい。
「世話の焼ける」
 満月の乱れた黒髪からぽとりと落ちた小さな花を挿し直し、九螢が呟いた。
 その言葉を聞いて、帛鳴と玉兎は目を見合わせる。
「さて、お前にそれが言えるのかい」
「――皆様、どなたもそんなこと仰れませんわ。明日もお早いのですから、早く寝所に向かってくださいませ!」
 調子良く口を開いた帛鳴の言葉に被さるように、環の威勢の良い声が飛んだ。
 九螢が目を見張り、玉兎が肩を震わせ、帛鳴が首を引っ込ませる。その中で、満月の寝息だけが安らかだ。
 続いてやって来た月の精たちの剣幕に押された九螢たちは、追い立てられるようにして、賑やかな宴を後にした。


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