月姫 つづく花時



 その日の月の宮の朝は、いつもより少し浮ついた足音と華やいだいくつもの顔を覗かせながらも、いつものように慌ただしかった。
 満月が輪国で月姫として生きてゆくと決めてから、もう一月が経とうとしている。月が元通りになってからもやることは山積みで、満月も九螢も玉兎も朝から晩までひっきりなしに働いていた。
 それが今日は、久方ぶりの休暇にも似た宴を開くことになったのである。日の宮から彩章たちが、二曜間交流と称した束の間の息抜きにやって来るのだ。
 もちろん、内外に日と月の良好な関係を示す意味や現在輪国が抱える問題について話し合う目的もある。だが、定期的に曜命同士が情報の交換をしているために、今日扱う議題は然程多くない。
 放っておけば年中無休で働き続けそうな九螢と彩章にたまには休息を取ってみてはどうかと提案したのは、他でもない満月と晴尋であった。
「姫様」
 広間の飾りつけに勤しんでいた満月に声を掛けてきたのは、色とりどりの花を抱えた環だった。
「姫様、今日のお召し物はどうなさいます? 久しぶりの宴ですもの。私、姫様に是非お召しになっていただきたいお着物をおつくりいたしましたの。よろしければ後でご覧くださいませ」
 糠星のように輝き始めた環の瞳を、満月は苦笑して見つめる。
 環のこの姫様着飾らせたがりは今に始まったことではないが、なかなか慣れるものではない。
「う、うん。環がつくってくれたのなら、絶対着るよ。ひと段落したらいつもの部屋に行くね」
「姫様にそう仰っていただけるなんて感激ですわ」
 今にもむせび泣きを始めそうな環の肩を、満月はそっと叩いた。
 最近、満月が適当な格好でろくに装いにもこだわらずに奔走していたのが環には堪えたに違いない。満月とて周囲の目――特にこの月の宮の主の目は気になったが、そんなことを言っていられる余裕がなかった。これなら、環や満月の輪国帰還の知らせを受けて数日前に文字通り飛んで来た京華の叱責を受けても仕方がなかった。
 きっとお越しくださいませね、と念押しして去ってゆく環に、満月はどこか困ったような微笑みを返す。
「今日の月姫の格好、僕楽しみだな」
 満月から少し離れて作業に没頭していた玉兎が、ひどく楽しげにそう呟いた。
「玉兎が本当に楽しみなのは、私じゃないでしょう?」
 満月は悪戯っぽく小首を傾げた。途端に玉兎の顔が真っ赤に染まる。
「ぼ、僕は赤鴉なんかより月姫の方が……!」
「私、赤鴉のことなんて一言も言ってないよ」
 くすくす笑い始めた満月を、玉兎が恨めしそうに横目で睨みつけた。その瞳の端には涙が滲んでいるので、怖くも何ともない。和理と過ごした半年間のせいか、満月は弟のような玉兎の扱いにもだいぶ慣れてきた節がある。
「手が止まっているぞ」
 突然背後で響いた低い声に、満月はぴくりと肩を震わせた。
「九螢。珍しいね、こっちまで来るなんて」
 振り返った満月が、花開くように笑う。九螢は、目を泳がせたのちにふいと視線を逸らした。
 普段、九螢は玉座の間か創設されて間もない日と月の宮のちょうど真ん中あたりにある官舎にこもりがちだ。満月は市井に下りていることが多いので、自然二人が直接会って話す機会が少なくなる。
 それでも満月が九螢との関係を不安に思うことはない。多分きっと、九螢も同じ気持ちでいてくれる。今はそう、信じることができた。
 けれど、少し寂しいという気持ちがあるのも事実だった。満月の方は、九螢の姿をちらりと捉えただけで心臓が馬鹿みたいに音を立て始める。一方九螢は満月に触れても顔色一つ変えない。月姫としての満月への信頼は十分感じるのだが、満月という一人の娘に九螢が異性として心ひかれているかどうかは甚だ疑問であった。
 もちろん、九螢が日本の満月の家までやって来て、気持ちを余すことなく伝えてくれた時のことは覚えている。
 ――共に生きてほしい。
 そう告げられた時、全身が甘い喜びに震えて、欠けていたものが見る見るうちに満たされていった。
 ――でも。
 九螢の口から、好きという一言さえ聞いていない。
 そんなことを思ってしまう自分の欲深さが恨めしい。
 九螢は確かに満月に沢山のあたたかくてやさしいものをくれたのに、それ以上のものを心も体も望んでしまう。
 九螢の顔を見つめていたらそんな自分の心を見透かされてしまいそうな気がして、満月は慌てて俯いた。
「どうかしたか」
「なっ何でもないの! それより早く準備しちゃおう」
 満月はひっくり返った声でそう言うと、ぎこちない動きで九螢から背を向けた。
 九螢が怪訝そうにこちらを見てくるのがよく分かる。
 しかしまさか本当のことを言うわけにもいかず、満月は作業に没頭しているふりをした。

 彩章たちが月の宮を訪れたのは、その日の正午ごろだった。早めに協議を切り上げようと誰もが思っていたにもかかわらず、結局それは夕闇が深くなるまで続いた。
 すっかり辺りは金色の光が乱舞し、月の宮独特の夜の情景が広がっている。その光が庭から回廊を通じて、今宵宴が開かれる広間にも淡く漏れ込んでいた。
 満月は広間を彩る極彩色の飾り付けを見つめ、我ながらなかなかいい出来だ、などと思い、口元を緩める。
「何、にやにやしてるのよ」
 聞くものをはっとさせるような美しい響きを持った声音が、満月の耳朶を撫でた。
 いつの間にか、正面に赤鴉が座っていたらしい。
 愛らしい少女の顔は、つんとすまされていたが、視線はちゃんとこちらに向いている。
「に、にやにやしてた?」
「ええ、とてもね。やけに機嫌が良いじゃない。月神と何かあったとか?」
 満月は慌てて座椅子から立ち上がった。危うく目の前の膳を蹴飛ばしそうになる。
 自分の動揺っぷりに更に動揺を重ねてしまい、満月はどうにか気を落ち着けようと深呼吸した。
「な、何もないよ! ていうかどうしてそういう発想になるの。何かあったように見える?」
「ぜんぜん」
 平然とした顔で、赤鴉が躊躇いもなく言い切った。
 聞いておいてその反応はあんまりではないかと思う。けれど、客観的に見て自分たちが恋人のようには到底見えないことは分かり切っていたから、満月はよろよろとへたり込んだ。
「でも、頑張ってるみたいね。今日の格好、なかなか良いんじゃない?」
 赤鴉に淡い微笑を向けられ、満月は縮こまった。
 着替えのために環の元を訪れた時、今回のは自信作ですわ、と迫られたので、満月はその鬼気迫る様子に恐れをなしたものだった。
 何かと思えば、いつもよりも数段大人っぽい衣装を着せられたのだ。黒と深紅が印象的な着物に合わせたように、目元にも紅の色が乗せられている。いつもなら明るい蜜柑色程度の唇に引く紅も、今日は何故か落ち着いた赤色だった。
 普段は結うこともせず伸ばしっぱなしの髪も、うなじがはっきりと見えるほどにまとめ上げられている。
 彩章のような美人だったらきっととても似合うだろう。しかし正直自分がそんな衣装に釣り合うとは到底思えない。
「へ、変じゃないかな」
「さあ。月神の好みなんて知らないわよ」
「九螢のことじゃなくて! 私は赤鴉に――」
「呼んだか」
 存外にすぐ近くで声が響いた。
 飛び上がった満月をよそに、赤鴉はけらけら笑っている。
 満月と目が合った九螢は、何故か目に見えてたじろいだ。そんな九螢の様子に彩章と赤鴉が含み笑いをする。
 気づけば、広間には九螢だけでなく、めかし込んだ玉兎たちも集まっていた。
「それでは、ここからは硬い話は抜きということで」
 晴尋が主に彩章と九螢に向かって念押しする。彩章は苦笑し、そんな晴尋の頭をやさしく撫でた。
 どういうわけかだんまりを決め込んでしまった九螢を満月と玉兎がなだめすかして、彼の乾杯の合図を音頭に、宴は始まった。
 次から次へと運ばれてくる豪勢な食事を、満月は目が回る思いで口にする。こんなにきちんとした食事を摂るのも久しぶりだった。気の置けない仲間たちとの食事ということもあって、自然と弾む会話が日々の疲れを癒してゆく。
「それで狐鈴ったらその時ね――」
「満月さんも他人のこと言えないじゃないですか」
 さすがに宴が始まってからは機嫌を取り戻していたはずの九螢が、眉間に皺を寄せ始めたのは宴も終盤に差し掛かった時だった。食事は既に殆どが下げられ、辺りには薬春の瓶が転がり、玉兎などは既に酔いが回ったのか寝転がっている。座椅子ももうその機能は果たしておらず、めいめいが好きなところに座って談笑していた。
 薬春の効能もあって、饒舌になった満月が晴尋を相手にしているのは、他愛もない世間話だ。
「……月姫」
 地の底から響いてくるような恐ろしく不機嫌な声は、九螢のものに他ならなかった。
 それとは正反対に、満月が上気した頬を緩め、九螢を向く。
「なあに?」
 にこにこと尋ねた満月に、九螢は何かを言いかけて、けれどそうとはせずにそっぽを向いた。
 隣に居た晴尋が、耐え切れなくなったように口に含んでいた薬春を噴いた。それは気持ち良さそうな寝息を立て始めていた玉兎の顔面に直撃する。
「失礼」
 ちっともそうとは思っていないような表情で晴尋が玉兎に布巾を放った。驚いたことに、玉兎はまだ夢の中だ。だが、あえなく玉兎は目覚めを強制されることとなった。赤鴉、という睦言のように甘い寝言が漏れて、それが彼女の鉄拳という形で返されることになったのだ。
「どうかしたの? 晴さん」
 未だに笑いを噛み殺して肩を震わせている晴尋の背中を擦って、満月が尋ねた。
 何故か立ち上がった九螢が、向こうから憤怒の形相で歩いてくる。
 わけの分からない満月をよそに、男二人は奇々怪々な行動を取り続けていた。
「それくらいで勘弁してやれ。晴尋、そなたは冗談が過ぎる」
 苦笑して満月の元までやって来たのは彩章だ。
「何甘っちょろいこと言ってるのよ。さっきの聞いた? あの甲斐性なしは自分の曜子をまだ月姫なんて呼んでいるのよ!」
 ぷりぷりと怒った赤鴉が、せっかく仲裁に入ってくれた彩章を制した。
 沢山の疑問符を浮かべた満月に、晴尋が笑いかける。
「月神様がご機嫌斜めな理由を教えて差し上げましょうか、満月さん」
 九螢の睥睨をよそに、満月さん、の部分を妙に強調して晴尋が囁いた。満月はぎこちなく頷く。
「……俺が君を満月さんって呼んでるのが気に入らないんだよ」
 茶目っ気さえ覗かせてそう言った晴尋の言葉の意味が、満月には理解できなかった。晴尋に真意を尋ねようにも、含みのある微笑を返されるだけで、満月が求める答えには辿りつけそうにない。
 食い入るように九螢を見つめると、彼は満月の瞳を一瞥さえしないで、おろおろしている玉兎の方に行ってしまった。
「ほんと鈍いわね。自分が好きな娘の名を呼べないでいるのに、他の男に呼ばれちゃたまらないっていうことくらい察しなさいよ」
「えぇっ」
 満月は後ずさって、そんなことを言う赤鴉と晴尋と、九螢の顔を見比べた。
 酔いが一気に冷めて行く。
「い、いや、好きな娘って……そんな名前くらいで……」
 第一、九螢が嫉妬心のような類の感情を抱くということが信じられない。しかも彼らは満月が原因だと言う。正直、そんなことは天地がひっくり返ってもありえないような気がした。
「疑っているんですか?」
 晴尋がやけに上機嫌に追い打ちを掛ける。
「これはこの前、満月さんが還ってらっしゃった時に申し上げようと思っていたところ、言う機会を逃してしまったことなんですけど。満月さん、貴女があちらに行ってらっしゃった間の月神様のご様子をお聞かせいたしましょうか」
「それが良いわ!」
 途端に赤鴉もはしゃいだ様子で晴尋の腕に縋りつく。
「お前ら……」
 無視を決め込んでいたはずの九螢がゆらりと立ち上がる。
 それを認めた玉兎があわあわと九螢を取りなす。しかし薬春を盛大に呷っているせいもあって、晴尋も赤鴉も無邪気に盛り上がる態をなかなか崩してくれない。
「――それで突然、私は月神様に呼びとめられましてね。その時の月神様のご尊顔がまた傑作で――いえ、それはさておき、とにかく何と仰ったと思います? 物凄くさりげない風を装いながら、『何故、あいつと名で呼び合っている?』と聞かれたんですよ!」
 どうやら晴尋も酔いが回ると饒舌になる性質らしい。
 ただでさえ晴尋の言葉は嘘か真か判断しがたいのに、そんな状態の時に言われても疑念は増すばかりだ。
「月神。そなた、ここまで好き勝手に言われて、姫の名すら呼べぬのか」
 半信半疑の満月と今にも晴尋に掴みかかりそうな九螢を見つめていた彩章が、やれやれといった様子で切り出す。
「な、なま、名前?」
 うろたえた満月をよそに、彩章の曇りのない瞳で真っ直ぐに射られた九螢は仏頂面になってしまった。
 ――こ、ここは私が九螢に助け舟を出さないと。
 使命感に燃え出した満月が、九螢と彩章の間に割って入る。
「彩章様、私、九螢がたまに月姫と言ってくれるだけですごく嬉しいんです。名前なんて呼ばれなくても別に……」
「欲がないわね。それともあの甲斐性なしにはそんな淡い期待すら抱けないってとこかしら」
 この一連の展開にいささか飽きたように赤鴉が足をぶらぶらさせて言った。
「おい」
 ついに九螢の堪忍袋の緒も切れたらしい。悪辣過激な視線が、日の三人に注がれる。
 満月はどうにか九螢を取りなそうと彼に近寄って――逆にその腕を掴まれた。
「行くぞ」
 有無を言わさぬ瞳が、今度は満月に向く。
 今宵の宴の招待主が何を言い出すのかと満月は目を剥いた。
「ちょっと――」
 九螢は脇目も振らず、満月を引っ張って歩いていってしまう。
 玉兎を振り返ると、彼は少し困ったように、けれどひどく嬉しそうな顔で満月に手を振った。心配しなくても玉兎の方が九螢よりは断然上手く彩章たちをもてなすことはできるだろう。それに、日の三人は、何だか悪役面をしてこちらを見て笑っている。気分を害した様子はなさそうで、満月は大人しく九螢の後を付いて行くことにした。

 夜の闇に沈んだ月の宮を、九螢に引きずられるようにして満月は歩く。
 これまでにも何度か彼の名を呼んでみたが、そのどれにも九螢が返答を返すことはなく、広間からはもうずいぶんと離れた庭園の奥部まで来てしまっていた。すぐ近くに満月の部屋のある棟がある。
 晴尋と赤鴉にからかわれただけにしてはずいぶんとしつこく怒りを持続させているものだ。第一、満月一人を連れてくる理由が分からない。
 久しぶりに二人になれたという事実は満月の心を弾ませたが、それも九螢が何も喋らないのではそんな気持ちも半減する。
「九螢」
 十数回目の呼びかけで、やっと九螢は満月を振り向いた。その顔には、苦々しげな表情が覗いている。
「晴さんたち、別に九螢に害意があったりするわけじゃないよ?」
 九螢は鼻白み、小さく知っていると呟いた。
「ねえ、戻らない?」
「……戻らない」
 子どものように意地を張る九螢の様子に、満月は苦笑する。
「それよりお前……日御子にはもう少し警戒しろ。そんな格好で近寄るな」
「そんな格好って、この着物のこと? やっぱり変だった?」
「――そうじゃない」
 しおれた満月にいくらか語気の強い九螢の言葉が降り注ぐ。驚いて目を上げると、九螢は目を逸らそうとした。しかし何かを堪えるように難しい顔をして、満月の瞳を見下ろし続ける。
「日御子は男だろう。お前――、俺が好きだとか何とか言っていたくせに、何なんだあれは」
「な! あ、あれって何よ」
 九螢は黙り込んだ。
 この輪国の曜神のことは確かにいとおしいと思うのだけれど、こうもわけの分からないことを言われ続けていると頭にくる。しかも、説明がないところが更に満月の神経を逆撫でした。
「お前、金輪際そんな浮ついた格好をするな。あと、必要以上に日御子に近づくな。良いな」
 ずいぶんと勝手な物言いである。しかし、そこでやっと満月の中で九螢の奇怪な言動の数々が一本の線でつながった。
「もしかして……やきもち?」
 自分の都合の良い妄想なのではないかと思いながらも、満月はそう聞かずにはいられなかった。
 九螢は、言葉に詰まったように身じろぎ、ついには目線を逸らした。
 この九螢の反応は、どう見ても肯定を意味している。満月もだてに不器用すぎる曜神の曜子を務めてはいない。
「ええええっ」
 満月は素っ頓狂な叫び声をあげた。
 信じられない。まさか、九螢が自分にやきもちを焼く日がやって来るだなんて。
 額を手で覆っている九螢を、満月はまじまじと見つめた。
「あ……でもほら、晴さんの好きなのは、彩章様だから」
「そんなことは分かっている」
 九螢はそう言ってしばらくすると、満月に挑むような眼差しを向ける。居直りの合図だ。
 開き直った九螢の性質の悪さを知っている満月は、恐る恐る後ずさった。
 先ほどまでの不機嫌とうろたえはどこへやら、九螢は余裕すら覗かせて満月に迫った。
 背中が建物の壁に当たるのと、九螢の腕が満月の頬の横の壁に触れるのは同時だった。満月は為す術なく、目の前の九螢を瞠目して見つめるほかない。
「名を、呼んでもかまわないか」
 熱に浮かされたような切実な響きが、満月の思考をとろけさせた。
「名って……わ、私の?」
「お前以外、誰が居る」
「だって……その、名前って、つまり、みつ――」
「言うな」
 満月の唇を長い指が滑った。へなへなとその場に崩れ落ちた満月を、まるで逃がさないとでも言うかのように、九螢の肢体が追いかけた。ぐっと距離を詰められる。ともすれば、お互いの体温さえ感じられそうなほどに。
 九螢は不意に満月の耳元に唇を寄せた。薄い唇が、満月の耳たぶを掠める。熱い吐息が、鼓膜を震わせた。
「満月」
 引力でがんじがらめになったのかと思った。
 たった囁き一つ、ただの自分の名前だというのに、九螢が舌に乗せたそれは、満月の指先一つ動かせなくした。
 九螢の唇が、耳元から首筋を伝い落ちる。熱い吐息が、触れられ慣れていない満月の肌にかかる。
 思わず力いっぱい目を瞑ってしまった満月を、九螢はひどく柔らかな甘い声音で笑った。
 恥ずかしさと高揚のあまり、涙までもが滲んでしまう。
 そんな満月の瞼に何かが触れた。多分きっと、それも彼の唇なのだろう。こちらは動転してわけが分からないことになっているのに、九螢はまるで日々の習慣か何かのように満月に触れてくる。
 恨めしくなって、満月は九螢の袖を引っ張った。
「ねえ、私のこと、好き?」
 九螢が少し驚いたように満月の羞恥に染まった顔を見つめた。満月は耐え切れず、俯いてしまう。
「何をいまさら」
「だって、私、九螢に馬鹿みたいに何度も好きって言ったけど、九螢、そんなこと一度だって言ってくれなかった」
 ますます強く九螢の袖を握りしめて、満月が呟く。
 こんな、まるで九螢に好きだと言ってもらいたいみたいな台詞を吐いてしまったのは、絶対に九螢のせいだ。
 必死で沢山の欲望を抑えていたのに、九螢がその心に土足で踏み込んでくるから。
 満月の声なき抗弁を汲み取ったのか、九螢の目元がふっと和んだ。
「……お前だけを、こんなにも愛しく思っている。分かるか」
 九螢の手が、満月の手を取って彼の胸のあたりに持っていく。満月のそれにも劣らず早鐘を打っているのは間違いなく、九螢の心臓だった。
 満月は弾かれたように九螢を仰いだ。
「いい加減、どれだけ俺がお前を想っているか、気づけ」
 髪を撫でる代わりに、九螢は満月の髪に口づけた。
「……うん」
 ぎゅっと九螢の背中にしがみついて、満月は小さく笑った。
 そんな二人を見守るように、やさしく夜が更けてゆく。時折夜風が満月と九螢を屋内へと追いやるように吹きつけたけれど、気の済むまで二人は互いの体温にくるまれてその場にとどまっていた。


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