月姫 灯火、囚われの孤高[一]



 吐息が白く、早朝の景色に立ち上る。慣れ親しんだ通学路は、たった何週間振りだというのに、満月を隔絶するように、素っ気なくそびえていた。柔らかく降り注いだ太陽は、分け隔てなく地を暖めるが、それを振り仰ぐ度に、満月の胸にちくりと痛みが刺さる。
 校門前に連なる桜の木々は、その寒々とした枝を寄せ合い、今か今かと春を待っていた。桜が、そしてその根元に咲く野草が待つのは、春光。夜の闇に浮かぶ三日月には、目もくれず、ただひたすら芽吹きを待つ。
「満月ちゃん? 満月ちゃんじゃない?」
 校門を踏み越える所で、満月はソプラノの声に呼び止められた。振り返ると、ピンク色のマフラーに顔を埋めたクラスメイトの女の子が、顔を輝かせて走り寄ってくる。
「わあ、本当に満月ちゃんだ。心配してたんだよ。インフルエンザだって? あ、その後病院に持病で入院したんだっけ? あれ? 事故にあったとか聞いたような……」
 一気に捲くし立てると、クラスメイトの里菜は少し神妙そうな顔つきで悩み始めた。それだけのことを高校の教職員に平然と伝えた父は、上手く形容できないが、凄い、の一言に尽きると満月は思う。
「――満月ちゃん、本当に、平気? ここでぶっ倒れたりしないでよね」
 本心からくる言葉なのだろう、里菜の顔には「心配」の二字がでかでかと書き記されていた。何だか、それが申し訳なくて、同時にこそばゆくて、満月は里菜の瞳から少しだけ視線をずらして微笑んだ。

 それから一時間目から四時間目まで、まるで何事もなかったかのように時間が過ぎた。満月にとってあれだけ濃密な色を湛えた数週間も、クラスメイトたちにとってはいつもと大して変わらぬ数週間なのだ。満月の久々の登校は、クラスにとっていくらか事件であったものの、そんなざわめきの波は、ほんの少し経てば、収束する。
 満月は弁当と椅子を抱えて、里菜たちが弁当を囲む方へと移動しながら、不思議だ、とぼんやり思った。もしも引力を感じることが出来ていなかったならば、自分はきっと、あれ・・を長い長い夢を見たのだとして片づけてしまっただろう。今、こうして日常に戻ってしまってからは、それほどまでに現実味のない話だった。
 不意に、引き寄せられる力が、強くなった。心臓を鷲掴みにされたように、その場から動けない。満月の瞳が、はっと見開かれる。思わず窓の外に視線を走らせて、虚空に向かって目を凝らした。真昼の空に、探し物が見えるはずもないというのに――満月は自嘲するように含んだ笑みを漏らすと、誰に気づかれることもなくそっと目を閉じた。浮かんでくるのは、苦痛そうに顔を歪める輪国の一人の神の姿。
 ――どうして、そんなに辛そうなの。そんなに……哀しそうなの。
 ぴんと張られた細い糸の先に居る男に向かって、届くことのないであろう疑問を投げる。
 一度輪国のことを考え出してしまっては、満月は授業の時より、数倍よく回る頭を止めることなど出来なかった。
 玉兎は、あの日御子と名乗った男に囚われたりはしていないだろうか。こちらに戻ってから、何度目かのその不安が胸をよぎった。
 ――無駄な殺生はしない主義ですから。
 更には最悪な事態さえ浮かんでくる頭を、満月は殴り飛ばしたい衝動に駆られた。晴尋にやすやすと思い通りにされてしまった自分と違って、玉兎はそのようなヘマをしないはずだ。外見は幼く見えるが、機転は利くし、何より月の者としての自覚が満月以上にはあるだろう。
「満月ちゃーん」
 里菜の朗らかな声に、満月はふと我に返った。教室の真ん中に突っ立って、百面相をしてしまっていた。ああもう馬鹿、と左右に激しく首を振る。久しぶりのクラスで、変な子になるのは出来るだけ避けたい。
「どうしたの? 具合悪いなら保健室行く?」
 どうやらそんなイメージがこの数週間によって定着してしまったらしい。満月は曖昧に微笑むと、どうにか里菜たちの席まで辿り着いた。
 父親手製の弁当を開けると、女の子らしくまとまった彩り豊かなおかずが顔を出した。思わず、笑みがこぼれ、父親は、自分より可愛い思考を持っていると、再認識する。
「なーんかさぁ」
 里菜が一番良く行動を共にしているバスケ部女子が、不意に満月に視線を送って呟いた。見ると、一緒に弁当を囲んでいるクラスメイトたちが、全員満月を向いていた。居たたまれなくなって、満月は
「な、何?」と吐き出した。
「満月ちゃん、変わったよね」
「うん、何か、前は大人しい感じだったのに……否、勿論、今が煩いわけでもないんだけど」
 寧ろ無口だろうと満月は我ながらに思う。
「何か、凄く、堂々としてるっていうか」
「そうそう、怖いもの知らずみたいな。何か、そんな顔してる」
 言われて、満月は微かに目を見張った。数週間前の自分を思い出して、苦笑する。あの頃は、何もかもに脅え、他人の顔色ばかりを窺い、自分を縮こめて生きていた。今も、他人との付き合いが苦手ではあるが、あまり自分を卑下しないで他人と向き合えるようにはなった。が、自分を変えたのかは、分からない。ただ、輪国で数週間を生きたことが、満月の大きな糧となったのだろう。
「そうかな」
 満月は伏し目がちに、しかし端然と笑む。その微笑には、人に息を呑ませる気迫が秘められていた。
 一瞬静まり返った場に、ゆるやかに和やかな談笑が溶け込んでゆく。タコさんウインナーをぱくりと食べた満月の顔からは、先ほどの気迫は嘘のように消失していて、里菜たちは顔を見合せた後、朗らかに笑った。

 満月がその日、クラス内の異変に気づいたのは五時間目のことだった。
「それでは、えぇ、英訳を長永ながえさん、お願いします」
 長永……このクラスで一年弱過ごしてきたが、そんな名前に心当たりはない。訝しむように、聴覚を研ぎ澄ませた満月の耳に飛び込んできたのは、聞き慣れない玲瓏とした声だった。
「ジョゼフの頑なな心を打ち砕いたのは、紛れもなく、ラザールの諦めない真っ直ぐな志と、彼に対する愛だったのです」
 クラスの空気がざわりと蠢いたのを、満月は肌にびしびしと感じた。こういうのは、教室という小さな枠の中で暮らして行くにあたって、良くない予兆だ。
 完璧ですね、という英語教師の快活な声は、驚くほどクラスの雰囲気と調和が取れていない。元々空気が読めないことで高名な教師だったが、ここまで来ると感嘆する。だからといって、満月はそれを悪いことだとは思えないのだけれど。その空気に飲み込まれる外ない満月には、寧ろ、それが羨ましく思える。
「長永が、愛だってさ」
 クラスの中心的存在の男子が、茶化すように囁いた。周りの女子が、それを隠すようにくすくすと忍び笑う。
 何……? 知らない間に、クラスで起こった変異は、薄暗く満月の心に影を落とす。数週間前まで、息苦しく感じることも多々あった学校生活であったが、こうして毎日を共に過ごすクラスに愛着がない訳がない。
 そっと、先刻の玲瓏な声の主を探せば、かちりと漆黒の双眸と一瞬ではあるが、目が合った。きりりと凍てついた光を放つそれは、どこか月神と印象が被る。ストレートの美しい黒髪は、ぴんと張られた背筋に沿って、すとんと落ち込んでいた。
 美少女、というのはこういう人を言うのだろうか。そんなことを思ったが、次に満月は、自分の思考をあっさりと一刀両断した。美少女、というよりは美女と言った方が相応しい。セーラー服を着ていても尚、香る色香は、並大抵のものではないだろう。何しろ、女の満月でさえ、思わず溜め息が漏れそうなほどだ。
 そんな強烈な印象だけを残して、あとは帰りのホームルームまで普段通りに事は運んだ。
「満月ちゃーん」
 号令を終え、まばらに散り始めた人影の一つが、満月を目がけて小走りに走ってきた。くるくるふわふわの髪の毛が左右に大きく揺れる。里菜だ。
「これ、満月ちゃんが休んでた分のノート。満月ちゃん、頭良いから必要ないかもしれないけど」
 満月は一瞬呆けてから、胸にじんわりと暖かいものが注がれてゆくのを感じた。
「ううん。ありがとう。ほんと、ちんぷんかんぷんだったから」
「またまたー。指名されても答えられてたじゃない」
「あれは、前に習ったこと聞かれただけだし」
 困ったように満月がはにかむのを、里菜が追いかけて微笑んだ。
 それから鞄を背負い直した里菜を、満月は覚えず、呼び止めた。里菜の顔が、なぁにと小首を傾げながら、愛嬌たっぷりに満月を向く。満月は自分で呼び止めておきながら、困惑気味に口を開いた。
「あの……五時間目に鈴木先生に当てられてた凄い美人な女の子――あの子、誰かなぁって思って」
 人の目をよく見て話す里菜の目が、たじろいだように泳ぐ。やはり、聞くべきではなかったか、と満月は視線を逸らした。
「……満月ちゃんが学校休み始めてすぐに転入してきた長永京華けいかちゃんだよ」
 里菜が辺りをはばかるように、小さく低く沈められた声で密告する。
「あの子は――満月ちゃんみたいな子は関わらない方が良いと思うよ」
 無意識で眉を顰めてしまったのか、里菜の肩がぴくりと震えた。
「どういう、こと?」
「京華ちゃん、あんまり良い噂を聞かないの。えっと……危ないことに足突っ込んでるっていうか」
 言葉を濁した里菜を一瞥して、満月は小さな溜息を吐いた。こちらでも、あちらでも、満月は守られている。というより、信用をされていないのかもしれなかった。好意的に考えれば、月神と玉兎は考える余地を与えてくれたと取れる。しかし、その裏にあるのは、多分、満月への不信でしかないのだと最近、気付いた。
 余程、情けない顔をしていたのだろう、里菜が心配そうな視線を投げた。
 ……全ては、真実を知ってからの問題だ。無理矢理巻き込んでおいて、途中でさようならと切り捨てられることもないだろう。勝手な憶測で、勝手にしおれていても仕方がない。
 満月は、毅然と顔を上げた。良い子で、守られて、それで何も知らないのは、嫌だ。それは、満月がクラスに心を開きつつあるから、尚更。
「それで、長永さんは、何をしているって噂なの?」
 里菜は、やや渋って、至極言い辛そうに口を開いた。


 薄日が僅かに差し込む一室で、玉兎はふと顔を主に向けた。滅多に苦痛の表情を見せない月神の顔は蒼白で、今にも倒れそうなほど頼りない。それでも眼差しに強烈な精気が宿っていることに、ほうと安堵の息が漏れた。
 出来ることなら、月神様が月姫ともっと一緒にいる時間をつくれたら良かった。月姫には、人を変えてゆく不思議な力がある。この状況下、それは無理な願いだったのだが、それでもそう願わずにはいられない。今となっては後の祭りなのだけれど。
「月神様」
 呼ぶ声に、返答はない。しかし、視線だけはこちらに向けてくれたようで、玉兎は構わず続けた。
「僕が付いていながら、本当に申し訳ありません。簡単に……日神に奪われてしまいました」
「同じことを何度も言わせるな。どちらにせよ、月姫は奪われただろう。それが、彩章のやり方だ。あれもお前も、殺されなかっただけ、ましと思え」
 玉兎が月姫を輪国に連れてきた日、晴尋が近くに現れたと聞き、月宮殿で月姫を庇護下に置くことも考えた。しかし、それでは何も変わらない。月に愛された、しかし月に縛られぬ無限の可能性を持つ月姫だからこそ、最後の賭けとして呼び寄せた。それを、使い時を待って月宮殿に据え置いておくことが可能なほど、月には余裕がなかった。ただでさえ、月に手駒は少なく、日は鶴の一声でいくらでも味方を増やせる。
「月神様――どう、お出になりますか」
 玉兎の声が一段階低くなる。月神は、己の手中を睨みつけるように見やり、それからその手を固く、握り締めた。
「引力を利用する。月の力が増す夜なら、どうにか繋げるだろう――それも、あの娘の意志に大きく左右されるが」
 そこまで言って、月神は薄く嗤った。
 あのような娘に賭けるしか術がないとは、月も落ちたものだ。しかし――どんな方法を選択しても、守らなければならないものがある。月神として、そして輪国を預かる曜神として。
「月姫は、大丈夫です」
 確信めいた玉兎の言葉に、月神は瞑目する。初めて会った日、自分は月姫などではないと泣き喚いた娘は、今、深淵に沈む小さな小さな光を掴もうと、がむしゃらに迷宮を進む。月を、輪国を救いたいと玉兎に告げたあの娘は、その時、どんな顔をしていたのだろう。
「月神様。全てはきっと上手く行きますよ。ですから、どうかご無理をなさらないでくださいね」
 玉兎は、泣き出しそうな瞳を月神に向けて、何度口にしたか分からない言葉を口にした。分かっている、と告げる月神はきっと、どうしてこんなにも玉兎がその言葉を繰り返すのか、本当の所を分かってくれてはいない。
 だから、月姫が欲しい。月と輪国だけでなく、あの人――月神を助けたいとさえ、強く優しい眼差しで語った少女。
 どうか。全てが上手く行きますように。誰も傷つくことなく、誰もが笑顔で――。
 祈りが一片、宙を舞う。何かが、軋んで行く音は、一向に止む気配がなかった。


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