月姫 花氷の行方[六]



 夜明けの光を浴びる前に、満月は寝室を出た。今日、満月は再び生まれ故郷へと帰る。それは嬉しくもあったが、大任が圧し掛かった身体は、予想以上に重かった。
 庭園の一隅に腰掛けた玉兎の姿を認めて、満月はそちらへ歩み寄った。玉兎の眸子が閃いて満月を見上げる。
「おはよう、月姫」
 挨拶を返し、満月は所在なさげに両足を揺らす玉兎に寄り添った。
 玉兎の微笑みは、初めて会った時から何も変わらない。当然のように存在を受け入れてくれるから、満月は安心していられた。
「玉兎、」
 満月は名を呼び躊躇った後、それでもまだ逡巡するようにして顔を上げた。
「私から言うようなことじゃないかもしれないけれど、九螢を……お願いね」
 言って、やはり後悔が満月を襲った。自分が口を出すような事柄ではない。玉兎はれっきとしたこの国の鳳で、月に二つとない曜命だ。満月になど口を出されずとも、玉兎は状況を理解している。
 敏感になりすぎている、と満月は思う。今まで、九螢を支えるのは玉兎と満月しか居なかった。だから、まだ自分が必要なのだと思えた。
 けれど、今は違う。民が真実に気付き、九螢を受け入れ、更には彩章・赤鴉・晴尋という強力な味方がついている。それは進歩であり、嬉しいと満月が感じたのは本当だった。その反面、自分の必要性を感じなくなっているのもまた事実であった。
 今は、そんな風に思い悩んでいる場合ではないと頭では理解している。私情で立ち止まっていられるほど、甘い境遇に置かれている訳ではない。
 それでも口にしてしまったのは、九螢に未だに蝕の陰を見るからだ。満月の介さない所で、九螢が再び身を堕としてしまわないか。満月はそう恐れているのだった。
 ――お前になど。
 満月の心配など、九螢はそう言って切り捨てるだろう。昨夜の鋭利な九螢の言葉が、耳について離れない。だから余計、満月は己の存在する意味を考えてしまう。
「月姫が居なくなると、きっと大変だよ。月神様、僕の言うことなんか聞かないから」
 苦笑交じりに玉兎が呟く。満月は頭を振って、力なく地面に目を落とした。訝しげに満月を見やった玉兎が、あっと声を上げる。
 つられて顔を上げた満月は、ぞろぞろと列をなして庭園に出てきた晴尋らを瞳に認めた。いよいよ、計都国曜子捜索の幕が、切って落とされるのだ。

 昨夜、満月は晴尋から地界への送還についての懸念を話して聞かせられていた。満月は既に、地界から輪国へ玉兎に連れられて一回、晴尋によって地界へ送り返されて一回、更にはそこから輪国へ一回、計三回地界と輪を行き来したことになっている。
 その回数の多さに反して、九曜国と地界間の人の往来は、意外にも困難なものであるらしかった。人を渡らせるには、曜の力を多く消耗するため、満月のような例は寧ろ珍しいのだという。
 輪国へ自ら赴くことを決意した三回目は、満月と満月の意志を汲んだ月の力によるものらしかった。自分だけの力で輪国の地を再度踏んだのだと思っていたが、それは思い違いだったようだ。異界へ渡ることは、そんなに甘いことではないらしい。
 今、曜の力を消耗すれば、蝕に付け入る隙を与える。だから満月と晴尋は、今回の計都国曜子捜索の任を、何が何でも一回で成功させなければならないらしかった。九螢も彩章もそのような制限はつけなかったが、満月は晴尋と今回の捜索で曜子を連れ帰ると固く誓った。
 満月は庭園に姿を現した彩章の後ろに晴尋の姿を認めて、目配せした。凪いだ、それでいて深い瞳が、満月を見返す。九螢の言葉が尾を引いて、気分はあまり良いとは言えなかった。けれど、輪国のことに私情を持ち込んだりしたら、それこそ曜子失格だ。
 満月は、集った者たちを泰然と見回した。曜神と曜命と帛鳴、それから月の精たちがぐるりと捜索者を取り囲む様には、異様な迫力があった。最後に満月は、九螢を他の誰とも変わらぬ眼差しで見つめた。目は、合わせなかった。そうして、満月は晴尋に向き直った。
「月姫様」
 晴尋が差し伸べた手を取る。「はざま」ではぐれないための措置だった。
 彩章と九螢のかざした腕から柔らかな粒子が溢れ出し、満月と晴尋の身体を包み込んだ。視界が暗む。
 次に目を開けた時、満月と晴尋は急流が橋げたの下を流れる、橋梁のど真ん中に立ち尽くしていた。

 冬も深まり、草木の緑の消えた街の歩道を、小学生の列が進行して行く。他愛のないお喋りが、すぐ横を何のてらいもなく通過していった。満月は呆けたようにその当たり前の光景を見つめていたが、肌寒さに我に返った。この時期、満月は毎年、制服に加えてコート着用のうえ、マフラーと手袋を装備しているのだ。手足が凍るような寒さに渋面を見せた満月を、晴尋が手招いた。
「コンビニで温かいものでも買いましょう」
 晴尋の視線の先には、コンビニエンスストアが手を広げて待っていた。人口の光が、早朝だというのに強烈だった。中はきっと、過剰なほどの暖房で温かいのだろう。
「コ、コンビニ?」
 満月はしどろもどろになって晴尋をまじまじと見つめた。晴尋と、コンビニという言葉がちぐはぐで、一瞬何のことを言っているのか分からなかった。そういえば、彼も元はこちらの人間なのだ。晴尋があまりにもきちんと「日御子」で、満月はその事実を忘れかけていた。
「あ、でも私お金ないかも」
「それくらいは奢りますよ」
 晴尋が財布を取り出してさらりと言った。
 ここで断るのもおかしい気がして、満月は素直に晴尋について行く。
「何でこっちのお金なんて持って……」
「輪国に呼ばれた時、持っていたので。あちらでそのまま保管していました」
 流石だ。満月は、隙のない笑みを浮かべている晴尋を見上げてそう思った。
 晴尋は、満月の制服とは異なるが、こちらの服を着ている。多分、輪国に連れて来られた際、着用していた服なのだろう。こうして見てみると、晴尋とて、こちらの人間と何ら変わらない若者だ。勿論、あちらで晴尋の姿形が変わるだとか、そんな超常現象が起こる訳ではない。けれど、日御子としての彼しか映っていなかった満月の目には、晴尋の姿は何だか奇妙に映った。
「そうそう月姫様」
 コンビニの駐車場まで来た所で、晴尋がこちらを振り向いた。吐く息が白く、満月と晴尋の間を染め上げる。
「俺のことは晴尋でお願いします」
「――俺?」
 晴尋の頼みより何より、彼の一人称の変化が満月を驚かせた。あちらでは、晴尋は自分のことを私と称してはいなかったか。満月は瞠目して晴尋の言葉を反芻する。晴尋は、満月のあまりの驚きように苦笑して、再び歩き出した。
 自動ドアが開く。暖気が強張った身体をほぐしていった。ごく普通のことなのに、何だか馴染めない。馴染めないのは違う世界を知った満月か、それとも異世界の存在を拒むこの世か。或いは、その両方かもしれなかった。
「俺だって、まだ学生やってたはずの歳です。私なんて一人称を使うのは、彩章様の手前だからですよ」
「学生……って大学生ですか?」
 思わず敬語になる。思えば、外見や仕草から分かるように、晴尋は満月より年かさであるはずだった。
「元、ね。多分、俺はもう居ないことになっているんじゃないかな」
 晴尋の口調が更に砕けてきた。明らかに年下の満月が一緒ということもあって、人目を気にしたのだろう。線路沿いにあるこのコンビニは、早朝だというのに意外と人気があった。若しかしたら、駅が近いのかもしれない。
「居ないって――」
「俺はあっちに行って以来、こっちに戻って来たの、初めてなんだ。ほら、昨夜話した」
 ――九曜国と地界間の人の往来は、困難である。
 満月は、過去に一度地界へ戻って来た。遠い昔のことのようだが、実際の時はそう流れていない。平坦に過ぎてゆくだけだったこちらでの日々が、あの時だけは少し違う時の流れ方をした。
 たった一人の肉親であった父には、申し訳程度の言い訳をした。学校では、京華に出会った。いつも他人の顔色ばかりを疑って、自分の心をおざなりにしてきた満月が、あの密閉された空間で少しは変われたかもしれないと思える出来事もあった。
 何より、黒川家に、家族が増えた。
 満月は、再び輪国に行く心構えを持ちながら、この世界を生きることができた。例え、それが数日間の短い間だけだったにしても、満月にとってとても大切な時間だったことに変わりはない。
 それに対して晴尋は、恐らくは突然輪国に連れて行かれたのだろう。そして、一度も帰っていない。ならば、残された家族や、学校の仲間はどう思っているだろう。
「今からでも、間に合う。ご家族に挨拶に行ったら? きっと凄く心配していると思う」
 満月は、父である悠里を思い、言った。
「……もう俺は、あちらを選んでしまったから」
 聞こえた晴尋の声は、久しぶりに硬質な響きを孕んでいて、満月は押し黙った。晴尋も、満月のようにこの世界での日常があって、様々な葛藤や悩みや憤りの末に、あの世界を選び取ったのだろう。これ以上、第三者である満月が口を出すのは、はばかられた。
 店員がわざわざ二人分に分けてくれた袋が、満月と晴尋の腕からぶら下がって、揺れた。店員の気持ちの良い挨拶の声に押されたように、満月は早足になる。
 開いた自動ドアから、今度は冷気が忍び込んで来た。
「さむっ」
 満月はココアの缶をカイロ代わりに握り締めたが、今度は熱すぎてたちまち離してしまった。
「先程の橋、確か市境にある橋でしたよね」
 再び敬語になる晴尋に苦笑しつつ、満月が頷く。
「ここ、私の住んでる市だと思う」
 曖昧な答えに晴尋は首を捻った。
「私、滅多に出かけたりしないから、こんな端っこのことまでよく知らないけど。電柱とか表札とかに住所が書いてあったから……」
 自分の住んでいる市の土地勘さえないというのは恥ずかしい。俯いた満月に、晴尋の柔らかい声が降る。
「俺の住んでいたところは、あの橋を反対に渡った隣の市ですよ。曜子が引かれ合うというのは、あながち間違いではないのでしょうね」
 晴尋の言葉に、満月は目を見張った。偶然にしては出来すぎているだろう。
「日御子が、隣の市?」
「晴尋で結構ですよ」
 苦笑され、満月は言葉に詰まった。確かに、月姫だとか日御子だとか、そんな呼び方は悪目立ちするだろう。
「じゃ、じゃあ晴さんで」
「晴さん?」
「だって、晴尋さんって何か呼びにくいし……」
 駄目ですか、と不安げに尋ねた満月に肯定が返ってくる。
「確かに満月さんは、男を呼び捨てで呼んだりしなさそうですね」
 満月さん、があまりにも自然に晴尋の口から出てきたので、満月は咽込んだ。こちらでは、異性には常に苗字で呼ばれていたのだ。名前で呼ばれることに、耐性などあるはずがない。
「月神様は例外のようですが」
 追い討ちをかけるような晴尋の言葉に、満月は目に見えて慌てふためいた。
「なっ。べ、べべ別に例外とかじゃなくて、あの、」
「あの?」
 晴尋は、楽しそうに笑みを浮かべている。彼は、赤鴉の言う通り本当に性格が悪いのかもしれない。
 頬張っていた肉まんを飲み込んでから、満月は明後日の方向を見つめた。その顔にはもう、動揺の欠片さえ残ってはいなかった。晴尋もまた、同じ方向に視線を走らせる。満月と晴尋は目を合わせると、どちらからともなく頷き合った。
 間違いなく、計都の曜子が居る。気配が、するのだ。それは本能のように感覚的で、理屈は抜きの不確かなものだ。だが、断言できる。
 計都の曜子は、どんな人間だろうか。男だろうか、女だろうか。……否、誰だろうか。
 そう思った時点で、満月は実はその正体に気づいていたと察するべきだった。


 曜子を失った月の宮は、仄かな斜影に包まれつつあった。
 輪国全土が描かれた地図の盤――通称国盤こくばんの上を、陰が現れては消える。明滅する光の色は、橙と薄青であった。国盤は、九曜の各宮殿にあてがわれた各国の地図であり、曜神はそれを用いて自国から災厄を取り払う。
 実際に禍を被っている地に赴く方が、よりむらなく禍を取り除くことができるが、それには時間がかかりすぎる。禍が頻発している場合は、国盤を用いなければ、対応が間に合わない。
「陰の侵攻が早いわね」
 国盤に意識を集中している彩章と九螢をはばかって、赤鴉が小さな声で呟いた。
「曜子が二人同時に居なくなったから?」
 声をひそめた玉兎が、心配そうに顔を歪めた。赤鴉もまた、不安げに主君に視線をやる。
「そうだろうね。だが、ここはどうにか持ちこたえるしかないよ」
 低いくぐもった声は帛鳴だった。
 玉兎は、肩で息をしている九螢を見つめ、更に苦痛に顔を歪めた。
「僕、もう一度曜を下りて、欠片を探してくるよ」
 月の欠片は、七割が月に戻った。しかし、まだ三割近くが輪国各地に散らばっている。未だに真実を受け入れられない者や、奥地に住んでいて事の次第を知らずに欠片を持っている者が居るためだった。それに加えて、月が砕け四方に散って以来、誰にも触れられずに国土に眠っている欠片もあるから厄介だった。
 曜が完全体を成している彩章に比べれば、曜が砕けたままの九螢に掛かる負担は大きい。
「あたしも行く」
 赤鴉が間髪を入れずに宣言した。玉兎も頷いて玉座の間を後にする。
 陰は着実に国を、曜を、神を蝕んでゆく。この間より、僅かに淡くなった黄金の月の光が、それを証明していた。息が詰まるような重苦しい空気を切り裂く羽ばたきと共に、玉兎は空へと舞い上がる。
 暫くすれば、きっと満月と晴尋が計都の曜子を引き連れて帰ってくる。そして、そう時を待たずに、計都に乗り込むことになるだろう。それまでに、どうにかして輪国側を万全の状態まで引き上げておかなければならない。
 彼方で渦を巻いていた陰が、二色の光を浴びて消え去る。その瞬間、遥か下方の黄金の輝きを玉兎の眸子が捉えた。月の欠片に間違いない。
 玉兎はすっと目を細めると、月の欠片目指して一直線に降下していった。


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