鬼の血脈 七つの福音[一]



 ピピピピピピ。携帯電話のアラームと目覚まし時計の大音声の合唱に、深淵に沈んでいた意識が無理やりに覚醒させられる。
 寝ぼけ眼を擦りながらゆるゆると身体を起こした千日ちかは、欠伸を噛み殺してベッドから滑り降りた。
 時計に目を移せば、五時を一分過ぎたところだった。カーテンの向こう側はまだ仄暗く、小鳥の囀り以外に聞こえるものは何もない。そして、家の中から聞こえる音も、千日が制服に着替える衣擦れの音以外、何一つ聞こえるものはなかった。
 埃を被った学習机の隅っこに置かれた通学用鞄を引っ掴み、千日はいつものように階段を駆け下りる。
 リビングに足を踏み入れ、千日はまず最初にテレビを点けた。お馴染みの司会者が、最近話題をさらっている政治家の献金問題についてコメンテーターと何やら言葉を交わしている。
 やっと、この家に音らしい音が溢れだした。千日はにっと微笑むと、殺風景なダイニングテーブルを唯一飾っている写真立てをその手に掴んだ。
「おはよ」
 茶色いフレームに縁取られたそれには、二十代後半くらいの男女が仲良く並んで映っていた。その男女は、どちらもはっとさせられるほどに艶のある黒髪が印象的であったが、何よりも目を奪われるのは同じように宵を切り取ってきたかのように深い色をしたその瞳であった。穏やかに微笑みながらも、真っ直ぐに伸びてくる視線からは強い意志が感じられる。
 千日は、その瞳がいっとう好きだった。落ち込んだ時に背中を押して元気を与えてくれるのは、ある事件以来、いつだってこの両親の写真だった。
 ――十歳の千日の誕生日、両親は若くしてこの世を去った。交通事故に巻き込まれ、そのまま息を引き取ったのだという。損傷が酷かったという理由で、幼い子供には遺体確認さえ許されなかったこともあって、千日はその訃報を中々信じることができなかった。しかし、あの優しい両親が娘を残して何日も何週間も何カ月も、何年も家を空けるだなんてあり得ないことだと気づいてしまってからは、千日の胸に両親の死は事実として忍び込んだ。
 幸い、生活していくに困らない程度の蓄えはあったし、母親からは一通りの家事を教わっていた。が、兄弟も親戚もない天涯孤独の身となった十歳を迎えたばかりの少女にとって、この家は一人で生きて行くにはあまりにも広すぎた。
 それでも、どうやら人というものは生きていけるものらしい。
 明日で、千日は十七の誕生日を迎える。
 両親を事故で失ってから、七年の時が経とうとしていた。
「あ、時間やば」
 何だか、珍しく物思いに耽ってしまった。
 学業が本業でありながら、千日は掃除洗濯炊事を全て一人で請け負っている。故に、朝はいつも忙しない。
「ああもう、今日クラスで写真撮ることになってるのに」
 鏡と睨めっこをして寝癖をわしゃわしゃと掻き混ぜた千日は、ばたばたと派手な音を響かせながら朝食の支度に取りかかる。
『それでは次のニュースです。昨日深夜に兜京都とうきょうと奥見区おうみくにて女性が何者かに襲われ、死亡しました。被害者は奥見区在住の江原裕子さん三十二歳。鋭い刃物のようなもので抉られた痕と、身体の一部が消失していることから、連日兜京を震撼させている例の切り裂き魔ではないかと警視庁から声明が出されました。犯人や凶器に関する情報は未だ明らかになっておらず――』
 最近はどこのテレビ番組を点けても、この話題で持ちきりだった。まったく物騒な世の中になったものだ。
 奥見区といえば、千日の住んでいる駒場市こまばしの隣の隣にある区である。そういえば、友人の一人が奥見区に住んでいると話していたのを聞いたことがある。どこか遠い世界で起きていた出来事が、実感を伴って這い寄ってきたような、そんな不気味さに千日は眉を顰めた。
「お願いだから、あたしの前に現れたりしないでよね」
 テレビ画面に話しかけるのは、千日の中で既に抵抗を感じなくなっている。
 散々テレビと会話し、時計の針が七時二十分きっかりを指したところで、千日は家を後にした。


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