鬼の血脈 七つの福音[二]



 辺りはすっかり夜陰に飲み込まれ、間の悪いことに雨が降り出していた。
 今日は卒業式前日ということで、千日たち一条いちじょう高校二年生は午前中予行練習に駆り出された。その後は生徒会役員や吹奏楽部、更には合唱の指揮者伴奏者を除いて、四限で解散となり、千日のクラスは少し気の早い『一年間ありがとう会』をファミレスで行う次第となったのである。
 多分半日近く、ファミレスで級友たちとくだらない話で盛り上がったような気がする。従業員から睨まれながらも、千日たちはぎゃーぎゃーと騒いで、この一年の出来事を懐かしく振り返った。体育祭も文化祭も、もめにもめて女子の一部が泣き出してしまったりしたことも、今では良い思い出だ。修学旅行では、数組のカップルが成立した。残念なことに、千日はその例に漏れてしまったのだけれども。
 来年には大学受験を控えている。勿論三年生になっても行事はめいいっぱい楽しみ尽くすつもりだが、このように何の後ろめたさも感じず馬鹿騒ぎができるのもあと数日といったところだろう。
 二次会として行われたカラオケ大会の後に、千日たちはやっと解散した。その時には既にこんな夜中になってしまったのである。今朝の切り裂き魔のニュースが頭をもたげたのはその時だったが、結局千日はクラスメイトの寺田の送って行こうかという申し出を断った。彼のことは嫌いではないが、馬鹿騒ぎの後の高揚感からか、寺田からは下心が滲み出すぎていた。
 だが、今では寺田の申し出を断ってしまったことを、千日はひどく後悔していた。
 老朽化した街灯が、ちらちらと頼りなく帰宅の途についた千日の足元を照らしている。辺りはしんと静まり返り、雨粒が折りたたみ傘を爆ぜる音と千日の足音以外、聞こえるものはなかった。
(なんか、やばいって)
 心の中でひぃー、と情けない悲鳴を上げながら、アスファルトの上にできた小さな水溜りを蹴り上げる。ローファーと紺ソがその飛沫を被ったが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 切り裂き魔への警戒からか、人通りは少なく、時折すれ違うサラリーマンやOL以外の姿は見かけられない。それも皆、二人以上で行動している。何の抵抗の手段も持たないただの女子高生の千日など、切り裂き魔にとって恰好の的だろう。
 勿論、この辺りに切り裂き魔が潜伏しているという確証はない。一人で勝手にこのシチュエーションに恐れおののいているだけだ。それでもこの裏路地の暗がりは、千日を怯えさせるには十分すぎた。
(そうだ、コンビニ……確かこの先にコンビニあったよね)
 二十四時間営業なんてエネルギーの無駄遣いだ、とか何とか思っていたことはすっかり忘れて、千日は僥倖だと拝み倒さんばかりに記憶にあるコンビニに向かって走り出そうとした。
 が、それは突然腹部に走った震えによって中断される。
「ぎゃー!」
 可愛らしさの欠片もない声を上げて、千日は思わず飛び上がった。すぐにそれが慣れ親しんだ携帯のバイブによる振動だったと知り、へなへなと崩れ落ちる。
(あ、あほくさ)
 いくらなんでもびびりすぎな自分が情けないというか、恥ずかしいというか、残念すぎる。
 溜息を吐きながら携帯を開けば、さっきまで会っていたクラスメイトの咲穂さきほからのメールだった。
『誕生日おめでとー! 千日もやっと十七になったね! 青春って感じの歳だよね。今年こそ、絶対彼氏ゲットしようね。あ、でも寺田くんはやめといた方が良いと思う。ああいうのは、だめ絶対! とにかく千日、大好きだよ』
 何とも緊張感のない文面に苦笑すると、千日は携帯が表示している時刻に視線を移した。
「まだ一分早いよ、咲穂」
 言って、千日は立ち上がる。
 咲穂のことだから、メールを千日が受信するまでにかかる時間を見計らって、〇時丁度になるように送ってくれたのだろう。少し、誤算があったらしいが。
 何だか、一気に脱力感が押し寄せた。
 ともかく早く帰ろう。主役は一個上の三年生とはいえ、明日は卒業式なのだ。
 傘を握る手に力を込め、千日は歩き出した。
 しかし千日はすぐさま、先ほどまでの杞憂が杞憂でなくなったことを知る。
 どこからともなく、パリン、という硝子が砕けたような音が耳朶を打った。同時に何か危険な匂いを孕んだ風が、千日のスカートを揺らす。
(え?)
 思考する間もなく、再び携帯がメールを受信したことを知らせた。
(気のせい……?)
 訝りながら携帯の画面を注視する。またもやクラスメイトからの誕生祝いのメールだった。時刻は今度こそ丁度、深夜〇時を指している。
 念のため足元を見渡してみるが、硝子の破片といった類のものはどこにも見当たらない。やはり、気のせいだったのだろう。
 千日は一歩足を踏み出して、その違和感に足を止めた。
 風か空気か――否、千日の存在する空間そのものが、ざわめいている。それはどこか、野生動物が身の危険を感じた時に見せる震えに似ていた。
 千日は恐る恐る顔を上げ、硬直した。
 五階建ての小さなビルの上に、あるまじきものがいた。体長は三メートルはあろうかと思われるほどに大きく、距離が離れているにもかかわらず鉄錆のような鼻を突く臭いが千日の元まで漂ってくる。黒く蠢いているそれは、二つある淀んだ目の玉らしきものを黄色く光らせ、真っ直ぐに千日を見下ろしていた。闇の中で白く光る歯列は人のものとは到底思えない。牙、と呼ぶのが正しいような気がした。
 明らかに、人ではなかった。異形と呼ぶべきものを、千日は生まれて初めて目にした。
 かろうじて掴んでいた傘が、ついには千日の右手から滑り落ちて、地面の上を跳ねた。
 異形のものが、雷鳴のように轟く低い唸り声を上げる。かと思うと、その異形のものは跳躍した。千日の上空を、異形のもののどす黒い影がすっぽりと覆う。夜よりも深い夜の中で、異形のものの目の玉と牙と爪だけが、光明のごとく閃いた。茫然と立ち尽くしたままの千日の眼前に、鈍く光る鉤爪が迫って来る。
 叫ぶ暇どころか、目を瞑る暇さえ与えられない。
 それなのに、千日にはその光景がスローモーションのように見えた。
 ただその瞬間迸るように体内を駆け巡ったのは、死にたくないというシンプルな感情だった。
「馬鹿! 逃げろ!」
 罵るような声がして、我に返った時、信じられないことに異形のものは空に吹き飛んでいた。
 声の主はいつの間にやら目の前に居て、更に信じられないことには地を強く蹴ったかと思うと、落下してきた異形のものを素手で殴り飛ばした。
(男の人……?)
 何が何だか分からないが、千日の命の恩人はどうやら今目の前で宙を飛んでいるこの青年らしい。
 青年の渾身の一撃にも痛がる素振りも見せないで、異形のものは尚もこちらに向かって来る。その顔には憎悪ともいうべき感情が塗りたくられていた。青年が舌打ちして応戦するが、異形のものが倒れる気配も退く気配も微塵に感じられない。
「ッ」
 思わず後退った千日は、肩に何かの感触を感じてその身を強張らせる。
「や、やだやだ! 何、離してよ、化け物!」
「大丈夫。俺は貴女の味方です。今あの鬼と戦っている人も、天財あまざいさんを助けるために来ました。訳わかんないでしょうけど、ちょっとだけ待っててください。今に先輩があの鬼退治してくれますから」
 どうやら、千日の命の危機に現れたのは一人ではなかったらしい。
 突如耳元で響いた声は、千日を気遣うように優しく響いた。
 しかしそんなものに大人しく黙らせられている場合ではなかった。というか、この状況で黙っていられるほど、千日は我慢強くなかった。
「ちょ、あなたたち何? ていうかあれは――!」
 肩に置かれた手を振り解くように無理やり振り向いて、千日は詰め寄る。
 その人は、千日とそう大して歳も離れていないように見えた。どこの学校のものだか知らないが、学ランに身を包んでいるから、高校生であることはほぼ確定だろう。
 ただ千日が今まで接して来た寺田のような男と違うのは、テレビで見る俳優やモデルと比べても見劣りしない整った顔立ちとすらりとした体躯だった。
 いっそ不気味なくらいに微弱な街灯の光を受けた青年の髪色は、両親の遺伝子をそのままに受け継いだ千日の黒髪よりずっと淡い。
 人懐こそうに柔和に細められた瞳とゆるやかに湾曲した唇の形と相成って、初対面であるにもかかわらず、千日はどこか安心感を覚えた。
「俺、若槻わかつきっていいます。若槻琢真たくま。コードネームは恵比寿えびす
「はい? こーどねーむ?」
 聞き慣れない言葉だ。スパイものの映画か何かで、聞いたことがあるような気がする。
「あはは、ま、その辺は追々話します。とりあえずここ、危険なんで離れましょう」
 そう言うなり、若槻と名乗った青年は千日の手を取る。
 反射的に、千日はもう一方の手で若槻の胸を押し返した。
「な、何? あんたたち何なの? あたし、こんなものに巻き込まれる覚えなんてない」
 青ざめた顔でおののいて言えば、若槻はほんの少し困ったように眉尻を下げて首を傾いだ。
 そんな顔をされても困る。あいにく千日は、見知らぬ人にのこのこ付いて行くような軽率さは持ち合わせていない。
「あれは何なの? あたし、あんなもの知らない」
 再び異形のものに目を移して呟く。すると若槻は神妙な面持ちになって、先ほど千日が聞き流した言葉を再度口にした。
「あれは――鬼です」
「ねえだから、あんた何言って……」
 いらいらと言い返した千日であったが、後の言葉が続かなかった。
 そんなものは、少なくとも千日の世界には存在しなかった。けれども二度も聞かされれば、嫌でも聞き間違いではないと認めざるを得なくなる。何より、実体としてそこで呼吸する黒くて禍々しい存在を目にしてしまった以上、その存在を受け入れない訳にはいかなかった。
 千日はもう一度その鬼らしき物体に目をやる。
 丁度鬼と目が合ってしまい、千日は凍りついた。
 ……前言撤回。
(こんなの認められる訳がない!)
「ねえ、これ、映画の撮影とか……」
「どこにカメラ回ってるんすか」
「3Dの映像が流れてるとか……」
「メガネはどうしたんすか」
「あ、あんたさては若手俳優かなんかね! だって顔が良すぎるし。それで特撮のリハーサルとかやっちゃってるんでしょ!」
 素っ頓狂に響いた声に、ついには返って来る言葉はなかった。代わりに、
「おい琢真、てめえこんな茶番に真面目に付き合ってんじゃねぇぞ」
 荒い息遣いと共に、唸るように低い不機嫌な声が降って来た。
 瞠目して仰向いた千日の瞳に、少し離れた所で鬼と戦っていたはずの青年の姿が映り込む。
 バネのような跳躍に見惚れる暇もなく、千日は鬼がすぐ傍まで迫って来ていることに気づいた。
「ぎゃー! ちょ、ちょ、ねえどうすんの! 無理無理! 死ぬ! ドッキリだよねこれ! 誰かドッキリだって言って!!」
 青年は真横に飛び降りて来たかと思うと、騒ぎまくる千日の腰をぐいと浚った。そのまま、バランスを崩して前のめりになった千日を片腕で荷物のように抱え、青年は地面を蹴る。
 いきなりすぎて唖然とされるがままになっていた千日は、近くにあったビルの屋上に降ろされて初めて、自分の身体が宙を舞ったことに気づいた。
「ちょっと先輩、いくらなんでもそれはないっすよ。女の子なんだからお姫様抱っことかさー」
 不満そうな若槻の言葉が背後から聞こえた。我知らず振り返れば、唇を尖らせた若槻と目が合った。すぐに若槻の顔がどこか嬉しそうにほころぶ。
 さっきまで千日と同様にこのビルの下に居たはずなのだから、彼もまたこの高さまで超人的なジャンプで飛んで来たのだろう。
(本当に、何なの。このびっくり人間たち)
 千日は胡乱げに若槻を、それから視線を移して愛想が悪く失礼極まりない青年を見やる。
 朧月に照らされた青年の黒髪は、降り続ける雨と先刻までの鬼との戦闘によって乱されていた。汗か雨粒か判断しがたい滴が青年の頬から首へと伝い落ちる。
 下方に居る鬼を見据える顔つきは険しく、視線だけで人を射殺せそうにさえ思える。若槻と同じ制服を着ているのに、その印象はまるで違った。
 若槻より少し、身長は低いだろうか。どちらも千日のクラスに居る平均的な身長の男子よりずっと背が高かったが、二人を見比べれば僅かに若槻の方が勝っていることが見て取れた。
「おい琢真、あのデカブツの相手は俺がする。てめえはそいつ持っとけ」
 言うなり青年は、肩からぶら下げていた竹刀袋から刀を取り出して構えの姿勢を取った。
 千日はそれをまじまじと見つめて息を呑む。
 竹刀などという生温いものでは決してなかった。薄明るい月光に照らされて濡れたように光る刀身は、鉄製である。現代日本においては博物館などでなければ決してお目にかかれない代物だ。
「女の子を物のように抱えた挙げ句に、持っとけってねぇ。すみません、天財さん。あれが毘沙門天びしゃもんてん海堂かいどうりく。愛想は悪いし態度はでかいし失礼な人ですけど頼りにはなりますよ」
「いや、そんなことどうでも良いからこの状況説明してよ!」
 思わず失礼なことを言ってしまった気がしないでもない。でも、この目の前にいる人間離れした青年の名前など、今の千日にはどうでも良かった。そりゃあ、普段の高校生活で偶然出会ったのがこのような俗に言うイケメン男子だったならば、話は別だけれども。
「この状況で自己紹介とか、あんたの神経疑うわ!」
 怒鳴りつけて言えば、若槻はへにゃりと笑み崩れた。
「だって、名前知らなきゃ相手を呼び止めることすらできないじゃないっすか。コミュニケーションの基本っすよ」
「何がコミュニケーションよ。こんな時にあんたらとのんきにコミュニケイトなんかしたくないに決まってんでしょ! あたしはあの化け物のことを――」
(って、何でこいつらあたしの名前知ってんの?)
 今更気づくとは、我ながら間抜けすぎる。
 千日は覗うようにちらりと若槻の顔に目をやった。そこには人懐こそうな平生ならば見惚れてしまうくらいの満面の笑みが広がっている。それがどうしてだか、怖いと感じた。
 額から、嫌な汗がどっと滲み出る。
 そもそも、あの化け物を前にして動じていない所や驚異的な身体能力からしておかしい。それに、あの海堂とかいう男が持っている刀だって、つまるところ銃刀法違反である。
(逃げた方が、良い――?)
 しかし逃げようと思っても現在千日が居るのは七階建てのビルの屋上である。相手はとんでもない運動神経を持った男二人で、学校という狭い空間において運動神経が良いと評判なだけの女子高生に勝ち目はない。ちなみに一人は刀なんぞを振り回すつもりらしい。それに億が一の確率で上手く逃げられたとしても、下には先ほどの化け物が居る。
(どう考えても、無理!)
 泣き出したい衝動を堪えて、千日は若槻を睨みつける。
 そこで、唐突に千日の頭にある一つの仮説が生まれた。
 夜にだけ現われる目撃情報が依然としてない謎の切り裂き魔。その正体は、若しかするとこの高校生らしき二人組、若しくは、あの異形のもの――鬼。犯行の手口からすれば、断然後者の方が可能性が高い。
 ならば、海堂と若槻の正体は何だろうか。
 若槻は千日を助けるために来たなどということを口走っていた。それは、得体の知れない鬼に何らかの関係を持つらしい彼らが、憐れにも非日常に巻き込まれてしまった一般人を救い出すために吐いた台詞だろうか。
(何か、違う気がする)
 千日は、己を掻き抱いた。濡れそぼったカーディガンに触れて初めて、体温が着々と奪われていることに気づく。遅れて、手の甲がずきずきと痛んでいることに気づいた。
 皮膚が、わずかにめくれて、血が雨に滲んでいた。
 何てことのない些細な傷だ。なのに、どうしてだか千日は激高した。
(こんなの……こんなの絶対違う!)
 若槻や海堂が味方であろうが、敵であろうがどうでも良かった。問題なのは、こんな世界は決して千日の世界ではないということ、ただその一点のみだった。
 千日は刀を構えて何かをじっと待つ海堂をぎらぎらと見つめた。その海堂の刀が、刹那のゆらめきを見せる。
(今だ!)
 千日は走り出した。
 背後で若槻と海堂のどよめきと、ビルの屋上までよじ登って来た鬼の咆哮が上がる。
 屋上から階段への扉は、幸い開いていた。
「天財さん!?」
 若槻の声が閉まりかけた扉の向こう側から千日を呼ぶ。それを振り切るように、千日は全力で走った。真っ暗なビルの通路を、携帯の液晶画面で照らしながら進む。非常階段を示す緑の明かりを目前にして、千日の耳は追いかけて来る誰かの足音を捉えた。
 千日は構わず非常階段を三段飛ばしに駆け下った。
 段々と、追う者と追われる者の間隔が狭まってくる。耐え切れず視線を上げれば、すぐ上のフロアに居る若槻と目が合った。
「天財さん! 危険です。行っちゃいけない!」
 悲痛な声が、耳に届く。
 訳が分からない。確かに昨日までは平穏な日常だったのに、十七の誕生日を迎えた途端これだ。七年前の誕生日に両親を失って以来の最悪の誕生日である。
 一階の非常口が視界に飛び込んだ所で、右肩に若槻の手が掛かった。
 咄嗟に千日は、通学用鞄を若槻の顔面にぶん投げる。衝撃と痛みの所為か、若槻の動きが一瞬止まった。
 千日はその一瞬を逃さなかった。鞄には脇目も振らず、若槻の大きな手のひらからするりと抜け出す。そのまま、肩で息をしながら非常口を飛び出した。
 そこに広がる光景に、千日は絶句した。
 人気のないはずだった裏通りには異形のものたちが溢れ返り、その中心で長身長髪の人間が、瞳に冷たい炎を宿して千日をじっと見つめていた。


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