鬼の血脈 降誕と水死する恋[十三]



 神屋によって断罪が下るより早く、鼓膜を破るようなすさまじい爆発音が轟いた。驚いて飛び上がってすぐ、足裏の違和感に気づく。地面が揺れていた。少々規模の大きい爆発のようだ。
「な、なに――?」
 どうやらすぐ近くで起きたものではないらしい。眼前の雉門は音がした方には目もくれずに、千日を背に庇うように平然と前に出た。
 それで千日も、神屋に目線を戻す。神屋もどこかで起きた爆破事件は眼中にないようだ。こちらに向けられた粘ついた視線が揺らぐことはない。
 すぐ後ろに、夜鬼が十頭ほど唸り声を上げていた。どうやら神屋を追いかけてきたらしい。
 彼らは千日の敵を正しく認識したようで神屋に襲いかかったが、瞬き三つぶんほどの間に二頭が骸と化した。
 刀身にどろりと纏わりついた鮮血を振り落として、神屋が一歩こちらに踏み出してくる。吐く息一つ乱れていない。所作を取ってみても、まるで舞台俳優かなにかのように無駄がなく、それでいて見る者を釘づけにするような華があった。
「寅。まさか君に、そういう趣味があるとは思わなかったんだけれど?」
 能面のように貼りついた笑みが、空々しい。
「俺も一度くらい若い子と不貞を働いてみたいんですがね、あいにく嫁さんにぞっこんなんですよ」
 雉門はそんな軽口を言って、肩を竦めてみせる。
「なら、どういうわけか、すみやかに報告する義務があるんじゃないかな」
 雉門が、きょとんと目を瞬かせる。
「……お前さんがまさか、俺を喪うことを恐れるとは思わなかったな。生きてりゃ、面白いこともあるもんだ」
 なにをどう解釈すれば、神屋がそんな感情を抱いていると読みとれるのだか知れない。だが、そう言ってくすりと笑った雉門に、ついに神屋の嘘くさい笑みが歪んだ。
「寅さん?」
 なんだか不穏な言葉に、千日は雉門の服の裾を掴む。
 雉門が振り返って、その固い掌で千日の頭頂部から頬の輪郭を辿った。
「千日。……ごめんな」
 その一言にどれほど深い意味が込められているのか、理解しきれるはずもなかったけれど、全く分からないでいられるはずもなかった。
「……馬鹿なこと、考えてないでしょうね?」
「うん?」
「寅さんは、あたしと一緒に逃げる。そうだよね?」
 千日は、弾劾するように強く雉門を睨みつけた。眼鏡の奥の瞳がゆるくすぼまる。
 本当は、雉門がどう答えるかなんて分かっていた。
 雉門がこの局面で過去を打ち明けたのは、ここで千日と別れるつもり、、、、、、、、、、、、だということに他ならない。
「お前さんには、刺されても文句が言えないと思っていたんだがな」
「……刺さない代わりに逃げて」
 雉門は無精ひげを撫でて曖昧に笑うと、千日の頭をぽんと撫でた。
「そりゃ、恐ろしい殺し文句だね」
「ふざけないで」
「ふざけてないよ」
 言い、雉門はぴったりとくっついて離れようとしない千日を引き剥がす。
「分かってるな? お前さんの望みのためには、お前さんが欠けることだけは、あってはならない」
「だから、一緒に――!」
「僕が、指を咥えて君たちを見逃すとでも思っているのかな」
 神屋の温度のない声に、続けるはずだった言葉の行方を失った。
 いつか見た狂気が、ゆらゆらと灯火のように揺れている。
 まただ。神屋は千日に、過去の亡霊を見ている。雉門が言うところの、病気、、だ。
「ねえ、鬼姫。早く、一斗を返してよ」
「天財一斗は死んだ。いい加減、夢と現実の区別くらいつけなさいよ」
 怒りを押し殺した声が震え、焦りを隠せない指が雉門の背中を引っ掻く。
「鬼姫、僕は冗談を聞きたいわけじゃないんだ」
 神屋の指の腹が、刀の柄をなぞる。すでに彼の周囲には五頭の夜鬼の死体が積み上がっていた。
 雉門が、千日の背を押す。
「千日、行け」
「やだ」
 すぐに、千日は雉門の腕に取りつく。
 たくさんヒトを失って鬼を失って、令を失って千夜も失って、この上雉門まで失くして、それで――。
(どう生きろって?)
 雉門は、千日の父を殺したかもしれない。たくさんの罪を犯したかもしれない。
 それを赦すつもりはない。これまで千日がその宿命と愚かさゆえに、災禍を撒き散らしてきたのと同じように、死んでも赦されるべきではない。
 けれど、罪と平行線上に伸びた情は、どこに行き場を求めればいい?
「千日」
 呼ばわる声に、涙腺が緩みそうだ。
 でも、泣いたらまるで、雉門の主張を認めたことになる気がして、千日は眉間に力を込めた。
「お前さんはほとほと、不細工な顔をするのが好きだな」
 呆れたような声が、からからと笑う。
「させてるのは、いつも周りだもん」
「はは。違いないね――琢真!」
 不意に厳しい一声が轟いたかと思うと、ふわりと身体が浮いた。つんと血のにおいが香る。乱れた吐息とこの寒空の中で滴る汗、激しく上下する肩がそれまでの戦闘の激しさを物語っている。
 見上げると、若槻によって抱き上げられていた。
 堪え切れず、千日は彼と一戦を交えていた鬼狩りを振り向く。
 海堂は、倉庫の壁に叩きつけられて地面に足を投げ出し、ぜえぜえと荒く浅い息を繰り返していた。
 一瞬その視線が交錯して、息が止まる。気を抜けば引き込まれて二度と戻って来られないような、暗がりみたいな目だと思った。
 見ちゃ、だめだ。
 頭の中でしっかりとそんな声が響いているのに、目が離せない。
 目を逸らすより早く、視界がブラックアウトする。目元を覆っているのはどうやら、若槻の手のひらだった。
「――たく、ま?」
 燃えるような吐息が耳朶に落ちかかり、唇が掠めた。なにかを言おうとして浅く息を吸い込み、けれど結局なにも言わずに唇を噛みしめる。視界を奪われているのに、そんな気配が手に取るように分かった。
 目隠しが外される。視界いっぱいに広がった若槻の顔にはいつもの真摯な瞳があり、けれどどこか泣き出しそうに歪んでいるようにも思えた。
「――すみません。今の俺じゃ、所長をぶっ倒して雉門のおっさんを助けるのは、不可能です」
「やだ」
 と言えたなら、どれほど良かっただろう。
 雉門は鬼狩りで、千日は鬼姫で、たしかに今この瞬間、命に値段が発生していた。若槻にもそれが分かっている。千日はむしろ、なにを犠牲にしてでも全力でここから助け出せと命じるべき立場だった。
 令が遺した言葉が蘇る。
 彼は千日を称して、高天原の血脈をひく者。鬼の血を被り、鬼の血に塗れ、生きていくさだめを背負った者だと言った。
 それは半分正解で、半分間違いだ。
 千日は混血ゆえに、否――その願いゆえに、鬼だけではなくヒトの血の川も築いて、その川を踏み越えて生きていくのだ。
 それ以外に足場を見出せない。少なくとも今はまだ。
 金縛りにあったように身体が動かない。
 雉門はそんな千日の髪に、手遊びのような気軽さで指を絡めた。
「せめてもっと、甘やかしてやれりゃあ、良かったんだがなあ……」
 どこか間の抜けた、囁きが微笑う。
(なんでよ)
 なんでこんなに、ままならないのだろう。なぜ、この時代に、千夜の後に、その血脈を飲み干して立っているのが、自分なのだろう。
 こんな風に、大切なものを山ほど取りこぼしていくのに、なんで誰もかれも最期に笑みすら刻みつけて、とても鬼姫にふさわしいとは言えない千日を送り出すのか。
 しゃにむに答えを求める心は、地中深く埋まって、一条の光も射さない。
 ついに、神屋を取り囲んでいた夜鬼の息の根がすべて止まった。
 雉門が背を向ける。もうどれだけ千日が雉門の名を呼んだところで、絶対に彼が振り向くことはないだろう。
 七年、ともに過ごした。雉門がどういう人間かは、分かりすぎるほどに分かっている。監視役と監視対象なんて乾いた関係で、雉門にとっては贖罪から始まった捩れたつながりにすぎなかった。千日にとっては、父殺しの犯人だ。だけどそれでも、そこでたしかに情は育まれた。たくさんの過ちを抱えて、だけどそれでも、これからだっていくらだって繋げていける関係だと思っていた。
 そう、思っていたのに。
「……琢真、頼んだぞ」
「なにに代えても、守り抜きます」
 雉門の背に若槻はそう応えて、走り出す。
 宙に浮いた身体がぐらぐらと揺れる。視界も思考も土台をなくしていた。
「寅さん!」
 若槻の腕に手を掛けて、千日はもう小さくなり始めた雉門の背中を食い入るように見つめる。
(ごめんなさい? ありがとう?)
 なにか言いたかったはずなのに、浮かんでくる言葉はどれもこれも的外れで、形にならない。
 かじかんだ手のひらを握りしめるが、指先はとうに感覚を失っていたらしかった。厚く垂れ込め始めた空からは月光さえ消えて、道端で寿命を迎えようとしている照明の明滅が世界と思考をぼやかしていく。
 若槻から伝わる振動のたびに痛む手の感覚だけが、現実めいていた。
 やがて研究所に張り巡らされた高い壁の前へと辿り着く。若槻は千日をきつく抱くと、速度をさらに上げて高く跳躍した。
「行ったな」
 足音が闇に紛れていくのを、雉門は背中で見届ける。大義のための犠牲なんて柄じゃないし、それほど高潔な魂など持ち合わせちゃいないが、やってやったという達成感に血が沸き立った。
「なにがおかしいんだい」
 二十八歳児に問われ、自身が笑っていることに気がついた。
「さあね。……生きるのも死ぬのも、お前さんと千日のためだと思っていた。まったくそのとおりになって、驚いてる。これ以上、ふさわしい役どころもないだろうな」
「鬼姫を殺せば、すべて元通りになるよ。君も、一斗も」
 この期に及んで、神屋は夢に溺れているらしい。けれども、らしくもなくほんの少しその顔が強張っているような気がするから、全部が全部狂っているわけでもないらしい。おそらくそれは、神屋自身にすら分からぬほどのささいな違いだ。でも、雉門にはそれで十分だった。
「幸光、なんにも戻らんよ。なにひとつ、元には戻らない」
 神屋の指先が震えた。刀を構え直して、細く息を吸い込む様は見惚れるほどに洗練されている。造作も立ち姿も戦い方も、すべてが精緻な美を突きつめた作り物のようだ。
「……跪いて、僕の爪先にキスをする気は?」
「あいにく、そういった趣味もないね」
 鞘から抜き放った刀身はぬめり、死に花を咲かせるにはいささか頼りない。
 ますます表情の抜け落ちた神屋を見やり、雉門は上手くいかないもんだなと思う。千日にはただ憎悪されて当然で、それまでに築いた他の思いなんてどこかにかなぐり捨ててもらって構わなかった。神屋も、決して深入りしようとせずに漫然と傍に侍った雉門のことなど大して気にかけていないかと思ったが、蓋を開けてみればどうにもそこそこ思われているらしい。
 本当なら、死んで清々したと思われるような存在に徹するのが、雉門に唯一許される生き方だったのに、まったくどうして業が深い。
 きっと千日は泣き、神屋は自分でもそれと分からずますます夢に沈んでいくのだろう。
 そう思うと、後悔にもまして罪深い充足が、じわりと身の裡を侵していった。
(俺もそうとう、いかれてる)
 右脚を踏み出す。この老いた身体では、主たる年若い鬼狩りの長にはまるで釣り合いが取れないが、それでも時間稼ぎくらいにはなるだろう。
 深く、息を吸う。肺腑を冬が刺し、膿んだ思考を切り裂いた。
 かじかんだ足の裏が踏みしめる固い地面の感覚を意識する。ゆったりとした雉門の動きに焦れたように、神屋が先に強く地面を蹴りだした。
 珍しく荒々しく振り下ろされた剣筋を軽くいなし、そのまま最短距離で斬りつける。上着に触れた刃先はすぐに返され、踏み込んだ足が一瞬ぐらついた。その隙を見逃すはずもなく、神屋の太刀が二度、三度と攻勢をしかけてくる。防戦一方となると、押し切られるのはもはや、時間の問題だった。
 重い一撃が、雉門の手から刀を吹っ飛ばす。細い身体のどこにそんな力があるのか、甚だ不可思議だ。地面にからりと金属音が響くよりずっと早く、臓腑に熱いものが深く沈みこんでくる。
 縺れた吐息とともに、口内から血塗れの唾液が飛びだした。
 神屋がさらに足を踏み込む。内臓のあたりで留まっていた剣先が、背中を食い破った。
「残念だよ、寅。……本当に、残念だ」
 歌うように弾んだ声音はしかし、いつもほど均整が取れていない。笑えることに、やはり神屋はそのことに気づいていないらしい。まったく、面白いように雉門の周りには不器用な人間ばかりが、顔を揃えた。
 自然、神屋の肩にもたれるような格好になって、雉門はその後頭部に腕を回した。
 結局なにひとつ遺せず、雉門に叶うのはもはや、一つの祈りしかない。
「……なあ、幸光…………そろそろ、お前は……お前自身を赦しても……いい、ころだ」
 意識が、暗闇に引きずり込まれる。ずるりと力が抜け、ゆるやかに身体が崩れ落ちていく。
 刹那、手のひらを液体のようなものが伝った。それが最期に感じた感覚で、後はすべてが無に還っていく。
 物言わぬ空からは、みぞれまじりの灰色の雨が、死者たちを弔うように降りだしていた。


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