鬼の血脈 降誕と水死する恋[十二]



 夜が哭いている。
 夜鬼の鳴く声を指して綾がそう評したのは、まだ彼女と道を違える前の、月のない晩のことだった。
 俊敏さが売りの足が、ひどく重たく感じる。速くと願えば願うほど、泥濘に足を取られてしまうような感覚に、中原の背に嫌な汗が浮かんだ。
 センターを出てから数十頭の夜鬼とすれ違ったにもかかわらず、綾の姿はなかった。
 やがて視界から建物がほとんど消え、地面がアスファルトから砂地に変わる。演習場の脇に、二つの小さな影が見えた。
 しかし、程なくして、一つの影が地面と見分けがつかなくなる。
 どく、と心臓がこめかみに響くほどの音を立てる。見知った血のにおいに、呼吸がいっそう乱れるのを感じた。
「遅いよ。待ちくたびれちゃった。ようやくナイトのご到着?」
 薄曇りに絡めとられた淡い月光を浴びた背が、こちらを振り向く。
 中原と大して背格好の変わらない少年の半身は、鮮血に染まっていた。
 全身を巡る血液が凍結したかのような感覚に、世界が暗転しかける。鬼狩りの少年――猿女の足元には、おびただしい量の命が流れ落ちた幼馴染の身体が人形のように横たわっていた。
 中原は息を止めて、瞬きもせずにその光景を見下ろしていた。
 五感が静止しているせいで、液晶の中の出来事のように、現実味がない。そうしてずっと棒立ちしていれば、眼下に広がるこの信じられない情景を本当の出来事だと飲み下す必要なんてなくなるのだとでも、思ったのかもしれない。
「……にげ、て」
 血のあぶくを吹きながら、綾が中原を見上げた。
 途端、幸せな嘘が破れて現実が浸蝕してくる。
 それでも微動だにしない中原を嘲るように、猿女が綾の腹を蹴り上げた。
 気がついたら、足が動いていた。後先考えず猿女に掴みかかってすぐ、均整の取れた顔にひどく愉しげな笑みが刷かれる。
 次の瞬間、腹部に猿女の膝がめり込んでいた。
「ねえ、今度はもうちょっと楽しませてよ」
 ややもすると耳たぶに口づけられるほどに近くで、甘い声が落ちる。まるで誘惑するような声音に、臓腑の底でリミッターが外れる音が聞こえた。
「――殺す」
 言って、手のひらを振り上げた。全身の水分が沸騰したように身体が熱い。まるで自分のものではないみたいなスピードで、長く伸びた爪が振り下ろされた。
 人形とはいえ、鬼種は鬼種だ。鬼が自身の能力を最大限に生かした戦い方をする時、それは自然、夜鬼や夕鬼と同様のものとなる。
 爪の間に肉片が入り込む感覚とともに、猿女の肩口から血飛沫が上がる。
 醜い叫び声とともに、猿女が後方へと大きく跳んだ。
 中原はその影に吸いつくようにして、猿女のすぐ後を追いかけた。
「あはは。やっぱりおれ、この瞬間が好きだよ。命のやりとりをしてる、この瞬間だけが、おれに生きてるって充足感を与えてくれる」
 猿女はそう言って、ポケットから取り出したプラスチックの容れ物の蓋を開けると、タブレット菓子を摂取するような気安さで、錠剤じみた何かを大量に飲み下した。
 鬼狩りの若い衆の中には、一時的に身体能力を引き上げる薬を服用する者が居るというから、その類かもしれない。
「でもねえ、おれが一番好きなのは、敵を殲滅したあとにおれのことを一番褒めてくれる首領なんだ」
 ぐっしょりと濡れた衣服を引きずって、猿女がにっこりと笑う。
「だから、おれが十分楽しんだら、きっちり死んでね?」
 繰り出した拳を受け流され、猿女が身体を反転させたと同時に首筋に手刀が叩き込まれる。紙一重のところで首の骨を持っていかれるのは免れたが、すぐに腕を取られてあらぬ方向に曲げられた。
 骨が砕ける音が響くのに、綾のすすり泣く声が重なる。左肘が、百八十度違う方向に曲がっていた。
 遅れて、今まで味わったことのないような激痛に晒される。骨膜の損傷ばかりではない。筋肉も断裂しているかもしれない。
「威勢のわりに、雑魚だね。つまんないの」
 猿女は溜め息まじりにそう言って、中原に馬乗りになった。腕を振り子のようにぷらぷらと揺らして、今度は小指に手を掛ける。指を順繰りに折っていくつもりかもしれない。
 知らず、歯を食いしばった。涙がこぼれそうになるのだけは、どうにか堪える。
「やめ、て。それ以上、たけに手出ししないで」
 消え入りそうな声が、猿女に懇願する。ヒトに膝を屈することを、あれほど嫌っていたはずの綾のものとは思えない声音だった。
 中原は信じられない心地で、綾を振り向いた。地面を這うようにして、こちらに手が伸ばされている。
「うるさい外野は黙っててよ」
 舌打ちとともに、苛立った声が降ってくる。思いきり腹を蹴飛ばされたかと思うと、猿女の標的は綾に変わっていた。
「ねえ、もしかして君たち、好き合ってるの? あはは、まじ? おれさあ……そういうの反吐が出るほど嫌いなんだ」
 憎悪すら絡めながらなお愛らしい笑顔を浮かべて、猿女は肩で切り揃えられた綾の髪を乱暴に掴んだ。綾の頬に爪があてがわれ、ぱっくりと裂ける。
「ッ」
「二家門閥の姫だったっけ? ねえ、お願いするなら、それ相応の態度があるんじゃない?」
 猿女は、綾の頬の傷口に執拗に指を這わせる。指が食い込むたびに、綾の身体が小さく跳ねた。
 中原の視界が、ちかちかと明滅する。
 腹の裡を、どす黒く蠢くなにかが覆いつくす。
 気づいた時には、柔らかい感触のなにかを犬歯が食い破っていた。
「ぐ、あァ」
 腕から血を撒き散らしながら、猿女がよろめく。
 中原は、その様を微笑みさえ浮かべて眺めた。
 ヒトの血のにおいは、芳醇で甘い。鬼を狂わせる代物で、下級の鬼ほど強くヒトの血を求める習性がある。また、それは上級の鬼であれ、例外ではない。人格形成段階にある年若い鬼は、容易に殺戮の本能に身を委ねてしまう。
 まだ言葉も理解できない頃からそう口酸っぱく大人たちに忠告をされてきたことなど、今の中原の意識からは飛んでいた。
 すぐ近くで、誰かがなにかを叫んでいる声が聞こえる。でもそれも、今の中原の衝動を制するものには成りえなかった。
 往生際悪く、猿女はプラスチックケースの中の錠剤を飲み込んでいるようだ。
 だが、そんな子ども騙しで覆る力量差ではない。
 言葉も忘れ、口から涎を垂らして、中原は猿女に飛びかかった。猿女の頭が地面に打ちつけられ、爪で切り裂かれた胸に赤い華が咲く。
 悦びの雄たけびを上げて、そこに齧りつこうとした途端、あらん限りの力で以て、宙に放り出された。
 猿女によるものではない。
 中原は唸り声を上げて、無粋な介入者を睨みつける。
 月影に照らされた男の手に握られた鈍色に輝く刃が、中原の首筋に押し当てられた。

「……令の鬼だ」
 目前で繰り広げられる鬼狩りや所員と夜鬼の乱闘の中で、目を瞠ってそう呟いたのは、九重だった。
 九重に抱えられた撫子が訝るように彼を仰いだが、凌としてはあの夜鬼たちが誰の直属だろうとどうでも良かった。
「鬼姫はどこだ? こうも血のにおいが濃いと、行方を辿れない」
 襲いかかってきた鬼狩りの太腿にナイフを捻じ込み、凌が呟く。
「姫様のことも心配だけれど、この包囲網をどう突破するか考えてちょうだい」
 小規模な爆発を繰り返し起こして応戦する蝶子が、苛立ち混じりに接近してきた所員の股間を蹴り上げた。
 蝶子の言うとおり、研究棟周囲には一個中隊ほどの戦力が集中していた。
 凌と撫子という、筆頭四家の姫を逃すわけにはいかないということだろう。ヒトは千日の他に姫位継承者を求めていないはずだが、保険代わりに保持しておきたいといったところだろうか。現在姫位継承権を棄てている凌はともかく、三船綾に続いて撫子は第二位姫位継承権を持っている。
「凌ちゃん、退くよ。千日ちゃんの居場所も分からず、このまま特攻するのは自殺行為だ」
「貴様、それでも鬼姫の鬼師か?」
「正確には、僕たちどっちも千日ちゃんの鬼師じゃないよ。儀式やってないし」
「そういう問題じゃない」
 間髪入れず呟き、九重と背中合わせになって鬼狩りの腕を掻き切る。生温かい返り血が口に入り、凌は眉間に皺を寄せると、すぐさま唾を吐き出した。
「それより、鬼姫がヒトとの争いを望んでいないというのは、本当なんだろうな?」
「あの子は、共存を望んでいるよ。僕も彼女の欲する未来のために、この命を使うと決めた。……君はどうやら綿貫の姫らしく根っからの保守派みたいだけど、どうするの?」
「鬼姫の意志が、私の意志だ。そもそも、私に意志など存在しない」
 言い捨てた凌に、九重の物言いたげな視線がぶつかる。
 けれどもそれにガンをつけるより前に、弾丸が肩口を食い破った。
 いくら有象無象の集まりとはいえ、これだけ数が揃えば十分に脅威になりうる。
 九重も蝶子もいくらか被弾していた。この程度では支障はないが、さすがに蜂の巣になれば、その先にあるのは死しかない。
「――凌。いいえ、九重の坊やの方が、ふさわしいですわね」
 蝶子の呼び声に振り返る。
「綿貫蝶子は、姫様のご意向に抗った叛逆者。そのように、お伝え願いますわ」
「母上?」
 わけの分からない凌をよそに、蝶子は笑みを深める。
 九重は、絶句して蝶子を眺めていたが、すぐに正気を取り戻して言い募った。
「本気ですか」
「誰が生き残るべきかは明白ですもの。ただ、おびただしいほどのヒトの犠牲を出したことになれば、姫様への攻撃材料を与えることになる。だから、これはわたくしの独断。よろしくて?」
「母上。私にはなにがなんだか」
 困惑顔の凌をよそに、蝶子ははっきりと宣告をした。
「今からわたくしが自爆するということよ、凌」
 ついに凌が目を見開くと、蝶子の華やかな笑みが広がった。嘲笑といった方が、正しいかもしれない。
「凌――あなた、いつまでお人形でいるつもりですの?」

 人工的な明かりに彩られた兜京の夜空は、のっぺりとして、安っぽい三文映画の背景のように深みがない。とはいえ、冬ともなれば冷気に引き絞られた空には満天の星々が浮かび、それなりに見られるものになる。だが、今宵はあいにくの曇天で、幕引きにはいささか味気ない。
『三船さん』
 鬼姫の呼び声が、未だ尾を引いている。
 ひどく肝が据わっているように見えて、いつも泣き出しそうな瞳で目前を睨みつけているような娘だ。
 愚直なまでにまっすぐで、自分の感情に誤魔化しを許さない。さぞや生きづらいだろうと、同情じみた念さえ抱く。
 もし、三船が綾を手にかけたと聞いたら、きっと千日は泣くだろう。大泣きして、錯乱したように怒るに違いない。
 それとも、もう、猿女の手によって綾の命は果てた後だろうか。
 まったく、今日は不幸な一日だ。三十を過ぎたさぼりたい盛りの中年を、こんなにも走らせないでほしい。そういえば今朝の十二星座占いで最下位だった気がする。ヒトの星座占いに鬼の誕生日が対応するのかは知らないが。
 馬鹿馬鹿しいことを考えながら、その裏で心臓が壊れそうな音を立てている。
 不意に衝動的な怒りが込み上げ、視界に捕らえた白い倉庫の壁を蹴り飛ばした。鋼材でできた壁は面白いように曲がり、原形を失っている。
 だが、そんな風にわけの分からない怒りを転化したところで、腹の裡が治まるわけでもなかった。
 ガンガンと痛む頭が、煩わしい。一刻も早い幕引きを全身が求めていた。そうでもなければ、あの鬼狩りの首領のように、頭がイカれてもおかしくない。
 建物群から遠ざかり、やがて三船の視界に三つの影が飛び込んでくる。
 どれもこれも背格好が似ている。おまけにひどい血のにおいが風に乗ってやってきた。一つは綾のもの、もう一つは猿女のものだ。あともう一人、戦場にいるはずなのに、二人のにおいが濃厚すぎて判然としない。
 ヒトを超越した、異様とも言える速さで、なにかが影に踊りかかる。瞬間、猿女の血のにおいが濃くなった。鬼だ。
 しかし、綾以外に人形の鬼が侵入したとは聞いていない。しかもあの背丈、おそらく子どもだろう。
 そこまで思ったところで、鬼の正体が知れた。
 綾が、豹変した殺人鬼と化した中原の名を、繰り返し叫んでいる。それで、三船は事態をほぼ正確に理解した。
「くそ野郎が!」
 叫び、三船は抜刀した。跳躍し、中原の首根っこを掴んで、力の限り放り投げる。それから、すぐに太刀を構え、仰向けに転がった中原に馬乗りになると、その首に刃を突きつけた。
「獣に成り下がるのが、お前の望みか?」
 言い、肉に太刀を沈み込ませる。
 綾の細い悲鳴が響いた。
 上級鬼のものとは思えない獣のような唸り声を上げる中原のものより、何故か綾のものの方がひどく耳障りだった。
「すぐに、お前のことも相手してやるよ」
 後ろを振り向いて、薄く笑う。
 綾が、その身を強張らせたのが手に取るように伝わってきた。まるで、悪役じみている。
 なんだか笑えてくる状況だ。理性はたしかに笑いを希求しそれを体現しているはずなのに、なにか違うところが荒れ狂っている。
 舌打ちして眼下の鬼を見下ろす。
 中原の理性を失った瞳が、三船を睨み上げた。本能しか宿していない瞳はしかし、別の本能に屈した。三船の血は、中原より位が高い。というか、そもそも中原の直属の主は三船だ。
「……おやっさん?」
 粘ついた声は、戸惑いを孕んでいる。しかし中原はすぐに、五メートルほど離れたところで血を流して倒れている猿女に目をやった。今度はその瞳に、怯えが過ぎる。
「血に狂ったかと思えば、自分が手にかけた獲物を憐れむ。なあ、お前はなにがしたいんだ?」
 中原は、皮肉に怖気づいたように目を逸らしたが、すぐに三船を睨みつけた。
「おやっさん……ここに、なにしにきたんだ?」
「決まってる」
 軽く笑うと、中原は全身が総毛立ったように、身体を震わせた。それでもやはり目は、逸らさない。これまでで、初めてのことかもしれなかった。
「――本当に、綾を殺して、千日を裏切ることが、正しいと思ってんのかよ?」
「今度は説教か? 良いご身分になったもんだ」
「オレの主なら、オレを納得させる義務が、おやっさんにはあるはずだ」
 声は情けなく震えているくせに、目だけは頑なだった。そんな中原の様子を見ているのは、愉快でさえある。
「正しいとは、思ってないさ。これまでやってきたことが正しいなんて、ただの一度も思ったことはない」
「なら!」
「ただ、選んだ。それだけだよ、はらたけ。結果、綾もお前も俺の手からこぼれ落ちた。鬼姫は――あの子は、結局なにひとつ選べなかった。あれもこれも欲しがるだけなら、犬でも出来る」
「千日は――オレたち皆を、こぼさず助けようとしてる」
「思うだけなら誰でも出来る。なあ、はらたけ、俺はお前も綾も、大事だよ」
 言うと、中原の瞳が泣き出しそうに歪んだ。
「ふざけんなよ!」
 繰り出された拳を、難なく受け止める。
「姫様は……たしかに甘いかもしれない。パパほど、現実も見えてなくて、感情的で、鬼姫としてはやさしすぎる方」
 思わぬ横槍に振り返れば、綾が立ち上がっていた。
「だけど、あの方は私たちと生きたいと言ってくれた。パパみたいに、諦めても逃げてもない」
 綾はずるずると身体を引きずりながら、三船と中原の横を素通りする。
 三船のこめかみが、ずぐりと脈打った。
「――俺が、いつ、なにから逃げたって?」
「気づいていないの?」
 月明かりを浴びて微笑む綾が、ほんの一瞬、在りし日の妻の姿に重なった。似ているところなんて、目元と鼻筋くらいで、中身はまるで違うというのに。
「千夜姫様は、気高かった。いつだって鬼のために、ヒトを屠る、強靭な鬼姫だった。千日姫様は、まだぐらぐらしていて、鬼師の忠誠一つ、勝ち取るのに苦労してる。ヒトに肩入れするのも、理解できない。だけど、姫様は私たちと生きたいって言ってくれた。……私、姫様と一緒に、未来を探して、そのために戦いたいって、今はそう思うの」
「綾!」
 三船の下で、中原が叫んだ。
 よくよく見てみると、綾が向かっているのは、どうやら猿女の元らしい。
 いくら鬼狩りとはいえ、人間の身体であの出血量では生きているか怪しい。綾の行動の理由が分からず、三船は眉を顰めた。
 綾が、猿女のすぐ傍に崩れ落ちる。
 瞬間、猿女の手が、ピクリと動いた。翻した手に、バタフライナイフの白銀が閃く。三船の心臓が軋んで、呼吸が止まった。
「ねえ、パパ。……私を、助けて?」
「綾!!」
 中原の絶叫が、神鳴りのように轟いた。
 鞭打たれたように、三船の身体が跳ねる。思考が、飛んだ。
 二の腕を、刃が抉る感覚で我に返る。
 いつの間にか抱き込んでいたやわらかな物体が、身じろぎした。
「……パパ」
 呆けたような声が、ひどく懐かしい。
 血塗れの、もうとてもではないが立ってはいられないような怪我を負ってしかし、綾は満足そうに微笑んだ。
(ああ、くそ)
 もう、取り繕いようがない。否定して、否定して、否定してきたはずの感傷が、ぶくぶくと膨れ上がる。
 ――俺は、ずっと、こうしたかった。
 今さら、込み上げてくる衝動を受け容れる。
 今さら――今さらすぎて、笑えてくる。今まで、選ばなかった分の命は、仲間は、切り捨ててきた。それが、自分の娘の命かわいさに、これまで自分が偉そうに主張してきた“選択”さえ捻じ曲げた。千日を嘲笑う資格など、もはやどこにもない。そもそも、自分の心の奥底の思いから逃げ続けてきた三船に、自分の心と向かい続けてきたあの娘を嗤うこと自体が、間違いだった。
「ごめん、ね」
「なにが。……いい加減、黙ってろ」
 綾は蒼白な顔だった。おそらく、最期の力を振り絞って、こんな馬鹿げたことをしでかしたのだろう。いくら二家門閥の長姫とはいえ、これほど血を流せば命に関わる。
 悔恨や自身への憤りにまして、いとしさで胸が決壊しそうだ。三船が一番守りたかったものが、今この腕の中にある。
 震える手で、応急処置を始めた。
「三船、広太。……どういう……つ、もり?」
 猿女が、侮蔑の籠った目で、三船を仰いだ。
「ご覧の通りよ」
「どい、つもこいつも……揃って、空っぽ、の……頭、してるね。さすが、あの……馬鹿な、天女様が、率いてる……だけ、あ、る」
「耳が痛いわな――はらたけ」
 誰より呆然としていた中原は、三船の呼び声にするりと駆け寄ってきた。
「その子の止血」
 中原は首振り人形のように素直に頷いて、三船が手渡したタオルやら引き裂いた衣服やらを受け取った。
「な、んの……つもり?」
「――千日は、ヒトを傷つけることを望んじゃいないから」
 三船が答えるより早く、澱みなく中原が答えた。
「ふざ、けるなよ……化け、物が……殺せ、よ」
「殺さない」
 覇気のなくなっていた猿女に、明確な怒りが掠める。
「下等生物なんかに――! 鬼なんかに負けたおれに、生きる価値なんて、ないんだよ……! それも、鬼の施しなんかで生き永らえるだなんて、……死んだ方がましだ!」
 見れば、猿女の周囲にはカプセル状の錠剤が転がっていた。鬼狩りには珍しくもない。肉体強化剤だ。当然、副作用がある。身体が蝕まれ、精神に異常をきたす者も後を絶たない。寿命すら縮める劇薬だと聞いたことがある。
 なにより、その量が異常だった。血潮に溶けだした錠剤の数はおびただしいほどで、この年若い鬼狩りの薬への依存度を示している。
 思えば、猿女はよく神屋に懐いていた。あの男が幼少から手ずから育てた秘蔵っ子というからには、命の価値すなわち鬼の殺戮と説いていたところで、驚かない。
「……屈辱に塗れたヒトの姿は、醜いねえ」
 笑いまじりにそう呟けば、中原が何言ってんだこの親父というすさまじい形相で三船を見やった。
 猿女が剣呑な光を孕んだ強い目で、三船を凝視する。
「必ず……殺しに、行く」
「それまでお菊ちゃんが生きてたらぁね」
 女の子みたいな呼称に、ますます猿女は殺気だった。思ったより、しぶとい。
 中原が黙って手当てするのを、猿女は甘んじて受けている。
(……さて、)
 なにをどうするか。
 こうなったからには、三船はおそらく信じられないことにあの理想主義の鬼姫様に膝をつくことになるのだろうが、もうこの際、事が落ち着くまではそのことについて深く考えるのを止そう。絶望的なまでに自分の情けなさが露呈したので、これ以上結論を先延ばしにしたところで大差はないはずだ。と、無理やり自分を納得させる。
 戦力は二名。とはいえ、綾を抱えているので、実質一名といったところか。相変わらず遠くの方で銃声が響いている。
 千日やその他の鬼たちは、首尾よく抜け出しただろうか。脱走を知らせる放送が流れていないあたり、まだ所内に留まっている可能性が高い。
 問題は、研究所を抜け出した後だ。ここまでの騒ぎになったからには、特殊部隊への出動命令も下り、こちらに押し寄せてきている最中の可能性がある。とはいえ、研究所も鬼狩りの自由の利かなさには不満を持っているようだったから、もしかすると、内部で片をつけようとしている線も捨てきれない。ヒトも一枚岩とは言いがたいのは好都合だ。
「なんにしろ、俺は足と、拠点の確保かね」
 言って、口笛を吹く。烏が二羽、三船の肩に舞い降りた。
 短く手書きのメモを二通、それぞれ烏の足にくくりつける。
 通信機器による連絡は、すべて研究所によって押さえられているので、意味がない。
 覚悟がなくても立たなければならない戦場があると、三船に言ってのけたのは誰だったか。まったくその通りで、本当に笑えてくる。
 飛び立った二羽の烏を仰ぐと、冬の夜空に白い息が立ち上った。肌寒さを覚えて、綾の身体を抱えなおす。ついでに中原の頭を引き寄せると、まだ疑問符を百個くらい浮かべたままでいる馬鹿みたいな瞳に見上げられた。
 やはり、子どもの体温というのは、三船のそれより随分と高い。まるで混沌じみた心を抱いて、ただ一つ信じられるのは、この腕に抱えた命の重み、それだけだった。


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