鬼の血脈 ロスト・チャイルドの眠る夜 1



 そいつがこれから苦楽を共にする七福神のメンバーとして研究所に現れたのは、海堂が春の彼岸の日に千日と出逢う、二年も前のことだ。

 若槻琢真。歳は一つ下の十四。筆頭四家桐谷家の右家が若槻の血を引く嫡男であり、戦闘能力は未知数。ヒトの手に墜ちた主家の息女・撫子の命と引き換えに七福神のメンバーとなることを打診する。
 当初、神屋以下鬼狩りの面々が恵比寿の枠に期待していたのは、ずば抜けた戦闘能力を誇る桐谷の嫡男である迅である。けれども彼は実の妹ではなく、鬼姫への忠誠を選んだ。鬼の中でも異常とも言うべき鬼姫への執着と忠誠を示すと囁かれる彼のことだ。半ば分かりきっていた結末ではあったが、彼の代わりに桐谷の姫という餌に釣られたのは、存外毛並みの良い男鬼であった。
 上位血統に数えられる若槻の血の正統継承者であることから、その将来性と桐谷家に対する抑止力としての機能を期待されて、受け入れられる。
 神屋から手渡された調書の内容を頭の中でもう一度整理しながら、海堂は目の前の人好きのする――海堂からしてみればそうとう胡散臭い――若槻の顔をじろじろ眺めた。無遠慮と眉を顰められても仕方ないくらいには、相手に対する気遣いがない。
 研究所に転がり込んできて一カ月ほどは撫子とは別の研究棟にぶち込まれて監禁生活を余儀なくされていた若槻であったが、晴れて今日から七福神のメンバーとして認められた。もっとも、海堂の監視という条件つきではあるが。今回の措置に至ったのは、数日前に下級鬼が研究所に侵入した際に、神屋から殲滅を命じられた若槻が成果を挙げたことが大きい。
「何すか。俺の顔、何かついてます?」
 両手で頬を擦りながら、若槻が海堂を上目遣いに見上げる。
 一個年下でもあるせいか、若槻の背は海堂より小さい。
「海堂陸だ」
 若槻の言葉を完全無視して、海堂は短くそれだけ言った。海堂が七福神計画のメンバーの一人ということは既に若槻も説明を受けているはずだったし、特に馴れあう必要性はない。
 そもそも、海堂はこの天女計画に反対だった。いくら鬼に軍事的価値を見出そうが、ケダモノはケダモノだ。
 肉親と友の仇の種族は全て殺戮する。ひたすらそう思って、ついでに言うと常に薄笑いを浮かべて一向に海堂自身を見ない神屋に認められたくて、剣の腕を磨いてきた。
 現鬼姫の千夜の容体は思わしくない。直系の子孫もなせていない。このまま行けば、次代の鬼姫は鬼狩りの保護の下にある天財千日という少女になる。
 とはいえ、それで鬼を隷属種としての位置に貶め、かつ「共生」していくのが可能なのか。今ヒト側に居る天財千日という混血の最高位血統保持者の協力を仰いで、協力が得られないのならば無理やり従わせることによって。
 ヒトの中で育ったという天財千日が鬼姫として君臨する期間は、長くて七、八十年。大抵の鬼姫はもっと早く次の代に位を譲る。ヒトとして育った天財千日という扱いやすい鬼姫を戴いている間は良いだろう。ではその次は? その次の次は? 鬼が鬼としての誇りを失わない限り、いずれ再び争いが勃発する気がしてならない。
 自然いつもの仏頂面を更に取っつきにくいものにしていた海堂は、突然右手を掴まれて動揺した。
「俺、若槻琢真って言います。歳は十四。海堂さんはいくつっすか?」
 ぶんぶんと右腕を上下させられる。もしかしなくても、握手のつもりらしい。
「……今回の作戦に、歳は関係ねえだろ」
「大アリっすよ。もう仲間なんすから、仲良くならないと! 俺の見立てじゃ同い年か一個上なんですけど、どっすか。あ、でも鬼とヒトじゃ外見年齢とか違うのかな。鬼の方がちょっとだけ寿命長いっつうし、ってことは、ええと、ヒトの方が成長早いとしたら――」
 若槻は妙に耳に障る声で、海堂の年齢分析を繰り広げている。面倒くさくなって、海堂は口を開いた。
「十四だ。この秋、十五になる。お前の一個上だ。これで満足か?」
 不機嫌を露わにした海堂なんて意に介せず、若槻は笑顔を無駄に振り撒きながら「はい!」などとのたまった。その姿はきゃんきゃんとよく吠える犬のようで、尻尾まで見えるような気がした。その姿がやけに海堂の癇に障る。
「それじゃ、先輩ですね。決めた。今から海堂さんのことは先輩って呼びます!」
「はあ? ……もう良い。勝手にしろ」
 若槻の話はある種の魔力を持つように、海堂をずるずる会話の渦に引きずり込む。鬼なんかと無駄な話をするつもりなど更々ないのに、思わず無駄口を叩きそうになって海堂は話を打ち切った。
 自分の部屋に向かおうとして、うんざりする。
 そういえば、このうるさくて仕方がない空間と成り下がった空間こそ、己の部屋だった。
 これまで海堂一人が暮らしていた部屋には、若槻のためのベッドとちょっとした家具類が運び込まれて、心なしか狭く、また居心地の悪い空間となった。これから毎日ここで若槻と寝食を共にしなければならないのかと思うと、げっそりする。お喋りで気に喰わない奴は神屋一門の一員として暮らしてきた時にも存在したが、そう言う類の奴と一緒にこれほどプライバシーも何もない状況に放り込まれたのは初めてだ。
 うっかり殺鬼衝動を起こしても、止める者が誰も居ない。逆に言えば、この一見人懐こいタチの鬼に寝首を掻かれるなんてことも起こりうる。ただでさえ悪夢にうなされる毎日だと言うのに、更に寝つきが悪くなること必至だ。
(まあ、だから死んでも問題ない神屋家でも御三家でもない俺が選ばれたんだけどな)
 自嘲気味に呟いた言葉は、胸の内に留める。死んだら、海堂がそれまでの人間だったというだけだ。そんな神屋の声が聞こえてくるようだった。
 よほどこの若槻琢真という鬼が馬鹿でない限り、敵地の檻の中でそんな愚行は犯さないと思うが、と海堂は警戒対象の顔を盗み見る。笑み崩れた姿は、馬鹿丸出しだ。若干不安になってきて、海堂は太刀の柄の感触を確かめながら、もう一度ばかり退路を確認した。
 初夏のうららかな日差しの射し込むある日の昼下がり。こうして、まだたった二人だけの対鬼特殊部隊・七福神は産声を上げた。

   ※

 若槻が主家の姫である撫子を気に掛けているというのは、どうやら本当のことらしかった。内部に入ることすら出来ないのに、研究棟の方に足を伸ばしている姿は散見されたし、実際神屋には面会の申し入れが再三にわたって行われた。
 鬼との小競り合いがあるたびに、若槻は返り血で汚れた青白い顔を晒した。同族を手に掛けているのだから、彼の心情を慮れば何か慰めの言葉でも言うべきだったのかもしれない。けれど、この時点で海堂にとって彼はオニという記号の一つでしかなくて、決して心を尊重されるべきイキモノではなかった。

 共有施設棟の食堂の隅っこに押しやられるようにしてぽつんと座っている若槻の真向かいの席から二つぶんの空席を数える斜め前の席。そこが食堂における海堂の指定席だ。
 窓の外はざあざあ降りの大雨で、思い出したように雷鳴が時折轟いた。景色を灰色に染める夕立ちはうるさく窓を叩いたが、戦闘員たちの囁き声まで消せるほどの効力は持ち合わせていなかった。
「若槻家ってあれだろ。東三家の……」
「三家門閥で、一家に次ぐ保守派。何せ、神屋家先代当主を手に掛けた桐谷の分家だ」
「所長のお考えは分からないではないが、家族を殺した種族と仲良くやるだなんて、反吐が出るね」
「まあ、そう腐るなよ。あの若槻ってガキがいつまで従順な犬として振る舞うか、見物じゃねえか。尻尾を出したら、所長も考えを改めるさ」
 血気盛んな戦闘員の若い連中に至っては、憎悪を孕んだ目で若槻を睥睨して憚らない。
 正直にいえば、海堂個人としては戦闘員たちの意見とおおむね同意見であった。けれど、海堂は鬼狩りの中でも御三家に次ぐ戦闘力と発言力を持つ。ゆえに、飽きるほどに繰り広げられるそれらの悪意ある会話に同意することも眉を顰めることもしなかった。
 だから、場を諌めるようにパンパンと手を打つ音が聞こえた時、思わず顔を上げてしまった。
「あなたたち。無駄口を叩いている暇があったら、居住区の大部屋の掃除でも手伝ってくることね。掃除のおばさんが怒り心頭だったわよ。食べカスと、変なDVDと、エッチな漫画で足の踏み場もなくてゴミ屋敷みたいになってるって」
 鈴を転がしたような声に、それまで椅子の上で踏ん反り返っていた戦闘員たちが飛び上がる。
「陸くん、せっかく同じくらいの歳の男の子の友達が出来たんだから、そんな風に意地張ってないで早く隣に座ってお喋りでもしながら食べてはどうかしら?」
 一人で食べるより何倍もおいしいわよ。
 そう付け加えて歩み寄って来たのは、東雲唯香――まだ二十歳を過ぎて間もないこの研究所で数少ない女性戦闘員で、妙に男性所員から人気がある。華やかな容貌と誰にでも分け隔てなく接する彼女の性分がそうさせるのだろう。色ごとに疎い海堂でもそれくらいは察しがつく。しかし、彼女の思いやりがまさか敵である鬼にまで及ぶとは意外であった。詳しいことは知らないが、彼女も海堂と同じで幼少期に鬼に襲われた過去を持つと聞いている。
「……同じくらいの歳の男鬼の、ですけどね」
 そう呟くと、視界の片隅で若槻がひゅっと息を呑んだのが見えた。
「屁理屈言わないの。私たちはもう、命を預け合う仲間よ。こうなった以上、お互いに信頼を得る努力をすべきだわ。ね?」
 唯香は微笑んで首を傾げると、若槻に会釈した。
「東雲唯香よ。これからよろしくね。若槻くん」
「え、あ……はい。こちらこそ」
 若槻はびっくりした様子で、目を瞬きながらそう言うにとどまった。
 書類の束を抱えた唯香は用事の途中だったのか、少し名残惜しそうにしながらもすぐに踵を返した。途中、先ほどの所員たちをじとっと見つめることも忘れない。彼らは唯香から嫌われては世も末だとでも思ったのか、慌てた様子で料理をたいらげお盆を返却棚に置くと、居住区に向けて駆け出した。
 一連の出来事は食堂に居た面々の注目を集めて、仕方なく海堂は若槻の隣ではなく真向かいに座った。
 若槻は監視対象であり、目を離すわけにはいかないが、だからといっていつも一緒に居てなおかつ会話を楽しみたい相手ではない。今日は見世物状態となっているこの場を乗り切るために想定外の席に座っておいて、明日からはまたいつもの指定席に戻れば良い。
 海堂は激辛のカレーを一人黙々と食べることに熱中した。
 やたら口だけは回る若槻のことだから、何か話しかけてくるかと思ったが、さっきからだんまりを決め込んでいる。海堂としては都合が良いのだが、何だか調子が狂う。
 相手はヒトじゃなくて鬼なんだから、そんなことを思う必要なんてないはずなのに、気まずさが海堂の胸を侵蝕した。
 思えば、日を追うごとに若槻の顔から明るさが消えている。誰よりも毎日若槻を見ている海堂だから知り得た、紛れもない事実だ。
「……おい」
 唯香の言葉が暗示にでもなっていたのか、海堂は仏頂面のまま、無意識に呟いていた。
 予期せぬ事態に、若槻がいまいち箸の進んでいないかつ丼から顔を上げる。
 後に引けなくなって、海堂は自棄になって勢い任せに口を開いた。
「食う?」
 そう言って、スプーンですくった牛肉を若槻の方に傾ける。
 若槻は数秒の間、空から豚でも降ってきたみたいにあんぐりと口を開けて海堂を見つめていたが、やがて耐えきれなくなったように噴き出した。
「俺が? 先輩に? あーんしてもらうんすか? 先輩硬派で奥手そうに見えて、案外そういう趣味?」
 すみませんけど、俺、女の子にしか興味ないんです。
 若槻はご丁寧にもそんな言葉を添えてきた。
 今度は海堂が唖然とする番だった。少しして、真っ青に顔を染め上げたかと思うと、真っ赤になって怒鳴り散らす。
「ちげえよ! 馬鹿か、てめえ」
「じゃ、天然っすか。案外可愛いとこあるんすね」
 若槻はげらげらと下品な笑い声まで上げ始める。
「は……かわッ――!? てめえが! 毎日毎日飽きもせずにかつ丼食ってるのが悪りぃんだろ!」
「あ、それで俺にカレー食わせてくれる気になったんですね。先輩も毎日飽きもせずにカレーのくせに」
 若槻は納得がいった様子で、だが依然として海堂の癇に障る笑みを浮かべたまま呟いた。
 それから、海堂が差し出したままその状態で固まっていたスプーンにかぶりついて、綺麗にその中身をたいらげてしまう。
 思わず海堂はスプーンを取り落とした。
 不覚にも自ら提案したことではあったが、まさか男相手にこんな恥の極みみたいな行為に及ぶ日が来るとは。まだ異性にすらしてもらったことがないのに! いや別に、女相手ならこういうバカップルみたいな真似を進んでしたいわけではない。断じて。
 などと一人脳内で思春期特有の葛藤に励んでいた海堂は、若槻の愉しげな笑みが崩れる瞬間を見逃した。もしその現場を目撃していたら、これまでのことを綺麗さっぱり水に流して一人悦に浸ることが出来ただろう。それほどに、若槻は顔面崩壊していた。
「うげええええええええええ」
 口の中のものも飲み込まないまま、若槻があまり食事中には聞きたくない類の声を上げる。
 若槻がどうして突然こんなオーバーリアクションを始めたのか、海堂には訳がわからない。
「……何、お前悶えてんだ。きしょいからさっさとフツーにしろよフツーに」
 そう言う海堂のことをキッと睨みつけて、若槻は目の前にあったコップを手に取ると一気に飲み干す。海堂が恵んでやった、というか奪われたカレーはほとんど味わわれることもないままに、喉の奥に消えてしまったようだ。
「いくら俺が気に喰わないからってこんなん食わすことないじゃないすか! 見損ないましたよ! 女子のいじめレベルに陰湿っすよ!」
 若槻は若干涙目にさえなって、相変わらず訳のわからないことを一人喚き立てている。
 海堂は首を傾げ、若槻と同じようにカレーを一口ぶんすくうと、それを口の中に放り込んだ。若槻とは対照的に、よく噛んで飲み込む。
「何言ってんだ? くそ旨いだろ」
「いや、何抜かしてんですか。それどう考えても人の食べるもんじゃないっすよ。旨いとかまずいの次元じゃないですもん。辛いっつうか痛いです。もはや俺を殺そうとしてるとしか思えないっす」
 若槻は信じられないものを見る目つきで海堂を眺め、やがて諦めたように呟いた。
「わかりました。先輩が味覚異常者だってことは十分すぎるほど伝わりました」
「異常者って失礼な奴だな。俺はちょっと辛いものが好きなだけだっての」
「ちょっとどころじゃないっす。ほんと、新手の毒物かと思いましたよ」
 ぶつぶつ言いながら、若槻は空になったどんぶりを乗せたお盆を抱えて席を立つ。
「それから先輩が、わりと情にもろい人だってこともわかりました。お先に」
「あ、てめ、一人で行動すんじゃねえ!」
 叫び、人の食べるもんじゃないとの烙印を押されたカレーをかき込む。誰が何と言おうと旨いものは旨い。しかしそれをゆっくりと味わう暇もなく、海堂は若槻を追って食堂を出て行った。


TOP | NEXT