鬼の血脈 ロスト・チャイルドの眠る夜 2



 スモークフィルムで覆われたワゴンが二台、田園地帯の一角に静かに止まる。スライド式のドアが乱暴な音を立てて開くと同時に、海堂は外へと飛び出した。途端に、晩夏になっても居座り続けるうだるような熱が絡みつく。もう日が山の端に沈もうとしているのに、外気はまるで太陽の動向などお構いなしとでも言いたげだ。背中に汗を吸ったTシャツが貼りつき、額から伝った汗が顎にたまる。
 鬼狩りと七福神に出動命令が出たのは、その日の午後五時を回った頃だった。兜京郊外の西斐和郡に鬼が、しかも人形を含む鬼が出没したという情報は、近頃の平穏に胡坐をかいていた所員たちを震撼とさせた。
 鬼の急襲に遭ったのは、散村にある一邸だ。屋敷の主は、鬼狩りを引退した六十過ぎの男で、神屋家先代当主と共に一時代を築いたことで知られる。逆にいえば、鬼たちの憎悪の対象であり続けたとも言うべき名の知れた鬼狩りであった。彼には妻子があり、この田舎に越して来ると現役時代の穴を埋めるように妻との二人暮らしを始めたが、そんな穏やかな日々は彼が殺し続けてきた敵の種族によってあえなく破られた。
 研究所に危急を知らせる電話のコール音が響いてから、もう十五分が経とうとしている。一刻の猶予も許されない状況だ。
 山際に接する屋敷林に覆われた邸宅は、一見どこも異常が見られない。しかし一たび敷地内に足を踏み入れると、ガラス片の散らばった縁側がまず目に入った。
 人形鬼とは、まだ数えるほどしか遭遇したことがない。奴らの身体能力、戦闘能力は人間とは天と地ほどの差がある。神屋家現当主や御三家といった類稀なる能力者でもない限り、彼らと一対一の戦闘になって生き残ることは不可能だ。奴らを殲滅する方法は、ただ一つ。近代兵器を投入した集団戦法しかない。人形鬼を初めとする上級鬼の絶対的な数の少なさは、せめてもの救いである。
 神屋じきじきの手ほどきにより、御三家に次ぐ戦闘力を誇ると言われる海堂は弱冠十四歳ながら、今回の作戦の要と言うべき存在だ。
 狗馮家が廃絶されて以来、御三家は雉門家と猿女家のみとなり、守りの柱石を一つ失った。海堂は、神屋が目を掛けた鬼狩り候補の中で最もその才を示した。これ以上御三家の枠の一つが宙に浮いたままであるのはよろしくないというのが鬼狩りの総意である。天財千日を獲得し鬼を従えた暁には、海堂家が御三家の一つに加えられるという推測が浮上するのは当然の成り行きだった。もっとも、神屋自身がそのような発言をしたという証拠はどこにもないため、所詮噂の域を出ないのだが。
 そういう訳もあって、年嵩の戦闘員たちも海堂には敬意を払う。中には経験も浅くどこの馬の骨とも知れない海堂を軽蔑し妬む者もあったが、殆どの者はそういった考えを慎重に腹の中に隠し持っていた。
 海堂の手招きに応じて戦闘員たちが後に続いて来る。屋敷からは、物音一つ聞こえない。もう鬼が去ってしまった後なのか、鬼狩りを迎え撃つために潜んでいるだけなのか、判断がつかない。
 緊張と焦りと恐怖で、思考が歪む。普段は十四の少年とは思えない冷静な判断がウリの海堂だったが、こういった状況にはぐらつくこともたびたびあった。
 十の誕生日に起きた惨劇が、脳裏を過ぎるのだ。落下する女と、最期まで微笑って逝った女と、竹刀を握り締めたまま事切れた男の肖像。
 途端に、殺意と憎悪が噴出する。あまりに強い怨念で、視界がくらくらした。
 それが仇となったと気づいたのは、若槻の叫ぶ声とともに身体に浮遊感を感じた時だった。
 あまりに突然のことに理解が追いつかない。気づいた時には海堂は元居た場所から二メートルも後退していて、そしてそれはどうやら若槻の仕業らしかった。
「やっと来たか。退屈していたところだ。あまりに呆気なく死ぬのでな」
 抑揚のない声が、先ほど海堂が立っていた場所から聞こえる。手には血塗れの太刀。現代日本にそぐわぬ長身長髪。白皙の美貌はまるで人形のように感情を宿さず、ただ静かに海堂の斜め上――刺殺される直前の海堂を抱きかかえて飛び退った若槻の顔を見つめている。
「……若」
 若槻の顔が、一瞬泣き出しそうに歪んで、擦れた声が絞り出される。その声は確かに目の前の作り物めいた男を呼んでいた。
 若槻が『若』などと呼ぶ男はこの世に二人と居ない。
「桐谷……迅?」
 茫然と海堂は呟く。若手筆頭の戦闘力を持つと言われる彼は、鬼狩りの中でもよく話題に上る人物である。神屋が天財千日の次に欲しがった鬼が彼であることからも、桐谷の鬼という種族の中で占める重要度がわかろうというものだ。
 冷静さを欠いていた頭が冷えた。怒りに身を任せて無事でいられる相手ではない。
 すぐに戦闘員たちを彼を取り囲むように配備させた。
「琢真。そろそろ社会勉強も済んだだろう。東悟は心労のあまり倒れた。姫さまもお心を痛めておられる」
 若槻の目が見開かれる。
 東悟、とは若槻東悟のことだろう。若槻の父であり、妻は既に他界している。
 桐谷はアサルトライフルの銃口のただ中に晒されながら、まるでその事実に頓着せずに、若槻に話しかけている。
「……今すぐ、降伏しろ。首領はお前を望んでおられる。何なら、お前に近しい血縁者の救済も辞さない」
 さっそく交渉を持ちかけた海堂に、桐谷は見向きもしなかった。それどころか、海堂の言葉を完全無視して、再び若槻に向かって口を開く。
「琢真、何か言ったらどうだ。貴様の主は誰だ?」
 虫けらが彼の周りでブンブンうるさく翅を震わせても、もう少しましな反応が返って来ただろう。まるでこの世にはヒトなどという種は存在しないとでも言うかのような態度だ。
 若槻は何も応えない。ただ、蒼白な顔をしているということだけは、海堂からも察せられた。
「もう一度言う。降伏しろ。お前は鬼狩りによって包囲されている」
 海堂は辛抱強く声を掛けた。威嚇用の銃弾が桐谷の足元の地面にめり込む。ようやく、桐谷の視線が若槻から外された。
「外野を片づけなければ、落ち着いて話も出来ないらしいな」
 苛立ち混じりの声が聞こえた――耳元で。
 うだるような暑さは嘘みたいに消えて、触れれば切れてしまうような冷たさしか感じない。
 先ほどまで三メートルは距離が開いていたはずの桐谷は今、海堂の喉首に白銀に光る剣を突き立てている。
 これまで桐谷と顔を合わせたことはない。けれど、確信をもって海堂ははっきりと理解した。白刃が薄い表皮を貫き、息の根を止められるまで、桐谷はほんの玉響の時すら必要としない。
 死ぬのだ、と悟った。
 血反吐を吐いて、ただ復讐のためだけに五年近くもの時を過ごしてきた自分が、ここで呆気なく。何の抵抗すら出来ぬままに、憎い鬼の刃に貫かれて。
 そう思っていたのに、またしても海堂の命は繋ぎとめられた。――相応の対価と引き換えに。
「なっ――おい、お前」
 海堂を庇って地面に倒れ込んだ若槻の肩口から、血が噴出している。にもかかわらず、若槻はすぐに海堂を抱えて立ち上がり、更に後方へと跳んだ。
 着地が乱れ、若槻の喉が呻き声を発する。海堂を下ろすと、そのまま若槻はぐらりとこちらに倒れ込んできた。海堂の服が、若槻の血液を吸収してどんどん重くなっていく。
「――ッ! おい!」
 たまらず海堂は声を荒げた。
 なぜ若槻が自分を庇ったのか、わからない。
 若槻は、七福神の仲間だ。けれどそれはあくまで儀礼上のことで、もし若槻が命の危険に晒されても、捨て身で助けるなんてことは絶対にしないだろうし、彼の方もそうだと思っていた。
 だって、いくらヒト側についたところで、若槻は鬼だ。
 同じように、若槻にとっても、海堂はヒトだ。
 だから、まさか若槻がこんな風に己の身をなげうつだなんて、想像だにしなかった。
「……なんで」
「……喋ってる暇なんてないっすよ。俺の知る限り、あの人は誰より強い鬼です。気づかれずに遠くから狙撃でもしない限り、あの人に穴を開けるだなんて不可能です」
 戦闘員を退かせてください。じゃなきゃ、全滅です。
 囁き声で、そう付け加える。
 まともに口を利くことなど出来ないひどい大怪我に見えるが、若槻はしっかりとした口調で告げると、海堂を残して一歩前に進み出る。
 若槻の言うとおり、戦闘員が放った弾丸はことごとく避けられ、桐谷の身体を貫くどころか掠りもしていない。
 格が違うのだ、と海堂も悟らざるを得なかった。これまで海堂が苦戦しながらもどうにか降してきた鬼たちが、有象無象の集まりにさえ思える。
「琢真。何故そんな取るに足らないゴミ蟲を庇う?」
「……取るに足らないゴミ蟲かどうかは、俺が決めることです」
「……あの売女のために身を売ったのと同じようにか」
 若槻の肩がぴくりと震える。海堂の位置からはっきりと若槻の表情を見ることは出来ない。けれど、僅かに覗いた横顔が驚愕を示しているのは明白だった。
「売女って……若、貴方の妹じゃないですか!」
「以前も言ったはずだ。あいつのことは、もう妹とは思っていない」
 背後から狙った銃弾をひらりとかわしながら、平坦な声で桐谷は言う。
 桐谷撫子は、自ら鬼狩りに囚われた。その理由を海堂はよく知らない。けれどその事実は、兄をして売女と言わしめるまでに撫子を貶めたらしい。
「お嬢様は、貴方のことが何より大事だっただけです!」
「鬼にとって至高の存在とは、鬼姫であらねばならん。貴様なら分かるはずだ。戻って来い。貴様はてんで使い物にならないが、俺が側近くで仕えることを認めた男だ」
 桐谷は、ついに唇を吊り上げ微笑った。見たものを酔わせるような、甘美な魔力を秘めた笑みだった。抗いきれず、若槻の呼吸が乱れる。
 若槻の様子が気に掛かったが、海堂は戦闘員に手で撤退の合図を送った。桐谷から目は話さないまま、彼らはじりじりと後退を始める。
 桐谷がそれに気づかないはずがなかったが、彼は若槻に意識を集中させると決め込んだらしく、追撃の手が及ぶことはなかった。桐谷の関心はもはや――否、最初から、若槻にしかないようだった。
 もしかしたら隠居した鬼狩りを襲うようなことをしたのは、若槻をおびき出すためだったのかもしれない。
(どうする?)
 逃げるなら、今だ。
 若槻を残して車に乗り込めば、おそらく海堂と戦闘員は助かる。車を追ってこちらを殲滅させることなど桐谷には朝飯前だろうが、彼はこちらに関心がないので、そんな無駄なことをするとは思えなかった。
 それに、そもそも若槻は元々桐谷の配下で、妹のことはともかく彼のことは欲しているようである。殺されることはあるまい。もしこれが桐谷の演技で、若槻を裏切りの報復に殺すようなことがあっても、海堂には関係ない。ヒトでないのだから、鬼であるのだから、元々生きる価値があるとも思わない。
 思っていない、はずだった。
「……おい」
 背中越しに呼びかけた声に、若槻は驚きを隠せない表情で振り向く。大方、海堂もこの場から逃げ出したとでも思っていたのだろう。
 いらついた。
 自分は身を呈してヒトを守っておきながら、この子犬みたいな男は、海堂に見捨てられることを信じて疑わなかったわけだ。
 先ほど若槻が海堂に見せた落ち着いた様子は、すでに掻き消えている。怪我のためか、主であった男と対峙しているためか、圧倒的存在への本能的な恐怖からか、若槻の顔は青ざめている。さっきは無理をして平静を装っていたらしい。
(馬鹿じゃねえの)
 若槻を徹底的に罵りたいという欲求に駆られる。
 だが、それはもっと別の感情の波に飲み込まれて四散した。
 海堂は、一秒前に思っていたこととはまるで違う言葉を若槻に投げた。
「そんな奴の言うことに、耳貸すな」
 ともすれば、擦れた声が震えてしまいそうだ。桐谷へか、若槻へか、あるいは自分へか、誰宛てなのかすら分からない正体不明の怒りで、何故か視界が滲んでくる。
「先輩、なんで」
「何ではこっちの台詞だっつうの。ホント、てめえ見てるといらいらするんだよ!」
 若槻への明瞭な怒りがぶり返す。
「来い。お前はもう、こっち側なんだから、ぼけっとそんなとこ突っ立ってんな」
 若槻の顔が、ひどい間抜け面になる。その向こうで、桐谷が冷笑するのを、海堂は見た。
「人間風情が何を吠えだすかと思えば」
 言うが早いが、桐谷がまたもや海堂の肉眼から掻き消える。
 次に視認できたのは、背後から若槻の首に腕を回している桐谷の姿だった。加減などする気が更々ないのだろう。怪我をしている上に苦しい態勢を強いられた若槻が、苦しげに顔を顰める。
「琢真。お前に流れる血は、どちらのものだ?」
 桐谷の爪が、若槻の流血のやまない肩に食い込む。
「黙れ! そいつはこっちを選んだんだ。いつまでも主人面してんじゃねえ」
 咆哮と共に、海堂は桐谷に向かって斬りかかる。
 桐谷を相手にしてその行為が何の意味も成さないことくらい分かっていたが、そんなことはもはやどうでも良かった。
 桐谷の一閃で獲物が弾き飛ばされ、海堂自身も宙を飛んだかと思うと地面に叩きつけられる。あまりに強い衝撃のせいで、起き上がることすら出来ない。
「せん――」
 思わず駆け寄ろうとした若槻の呼び声は途中で潰れる。桐谷の拘束は解ける気配がない。
「そこに転がった蟲けらは、琢真、貴様がヒトなどというゴミ蟲どもを選んだなどと抜かしているが、まさかそんなことはあるまい?」
 若槻は応えない。応えられない。
「もしそのゴミ蟲の言うことが真実だと言うのなら、琢真、俺を殺してみると良い」
 若槻の耳朶をなぞるような粘ついた空笑いが、為す術もなく地に這いつくばった海堂の聴覚に妙に清かに響き渡る。
 泥を掻きむしって、海堂がようやっと身を起こした。
 その目に、頭を振る若槻の姿が飛び込んでくる。
「嫌です」
「なら、そいつを殺せ」
「それも、嫌です」
「琢真。これ以上、俺を怒らせるな」
 若槻は仕掛けが狂った人形みたいに首を振り続ける。
「嫌です。俺――お嬢様が死ぬのも、貴方が死ぬのも、先輩を殺すのも……ぜんぶ、嫌だ」
 若槻の瞳から涙が止めどなく溢れ出し、身体から力が抜ける。
 若槻の全体重を支えることになった桐谷に、わずかな隙が生まれた。
 海堂の足が、疾風のように地面を蹴る。二メートル後方に突き刺さった自身の刀には目もくれない。懐剣を手に、桐谷の背に躍りかかる。
 肉を断つ確かな感触があった。桐谷の腕から、若槻が解放される。
「――虫けら風情がいきがるなよ!!」
 振り向くと同時に、桐谷の白刃が舞う。後方に飛びながら咄嗟に構えた腕から、鮮血がほとばしる。腕を持っていかれたかと思ったが、どうやら掠っただけのようだ。
「は――その虫けら風情に背中取られて、何抜かしてんだ?」
 斬りつけられた腕が痛くて仕方なかったが、無理やり口の端を吊り上げて海堂はニッと笑う。逆上した桐谷は、後退する海堂を追ってきた。桐谷と若槻の距離が、開く。それほど大きな距離ではない。しかし若槻の速さならば、逃れられるはずのぎりぎりの距離。桐谷に追いつかれそうになる刹那、海堂は声を張り上げた。
「走れ! 住宅街に出ちまえば、こっちのもんだ!」
 狙い通り、桐谷の注意が再び若槻に向いた。すでに、若槻は弾丸のように駆け出している。
 別方向に走り出した海堂と若槻の間で、桐谷に迷いが生じた。
 残りの力を振り絞って、海堂が家の敷地から飛び出す。海堂の意向を汲んで敷地のすぐ脇に乗りつけてきたワゴンが、駆け込み乗車を知るやいなや凄まじいスピードで走り出す。遅れてドアが閉まる音がする直前、向こうの方でもう一台の車が急発進する音が聞こえた。

 その出血量から一時は病院に連れて行かれそうになった海堂だったが、近くのホテルで医療班の治療を受けて済ませることで無理やり押し通した。勿論、後で提携先の病院に行くことを仲間の鬼狩りに誓わされた後に、ではあったが。
 幸い、海堂だけでなく若槻もそれほど深い傷という訳ではないらしい。すでに再生が始まり、出血は止まりかけている。つくづく、驚異的な種族だと思わされる。
 人払いしたホテルの一室からは、華やかなネオンサインがいくつも見える。夜の闇が薄まったかのような都会の夜景の中では、月も星も褪せたやわい光を放っていた。
 若槻はベッドに腰掛け、サイドボードに突っ伏して項垂れている。
「……助かった。お前がいなきゃ、俺は今日三度死んでた」
 朝見た時とまったく同じ、しつこい寝癖が残ったままの若槻の後頭部を眺めて、海堂が呟く。
「……」
 若槻は応えない。
「おい。聞いてんのか」
「……」
「寝るんだったら、ちゃんとベッドで横になれよ」
「……」
「おい、まさかほんとに寝ちまったのか?」
 微動だにしない若槻を見て、嫌な予感に襲われる。出血が止まってきたからと油断していたが、実は危険な容体なのだろうか。鬼を殺すためにその能力や特性の知識を掻き集める努力はしてきたが、生かすための知識など皆無だ。海堂では手に負えない。
「なあ、返事しろよ! 琢真!」
 叫んだ瞬間、それまで身じろぎ一つしなかった若槻がガバッと身を身を起こして、へにゃりと笑う。
 呆気に取られる海堂をよそに、若槻はふにゃふにゃに溶けたみたいな笑顔を貼り付けたまま、
「ようやく俺の名前呼んでくれましたね。先輩、おいとかお前とかてめえとしか言ってくれないから、俺の名前覚える気ないのかと思って、拗ねてました」
 悪びれる様子すら見せず、そう言う。
「は――? すね……」
「そんな俺が心配でしたか?」
 言葉に詰まって絶句した海堂をよそに、若槻は悪戯っ子そのものみたいな声音でぶりっ子調に首を傾げる。そのいかにもあざとさ全開な様子を見て、ようやく海堂も事態を飲み込めてきた。腹の底から、沸々と怒りが湧いてくる。
「紛らわしいことしてんじゃねえよ!」
 額に思いきりデコピンして、唾を飛ばしまくりながら海堂が怒鳴る。
 若槻はイテッと両手で額を押さえたきり、その手の中に顔を埋めるようにして身体を丸めてしまう。
 どんなふざけた言葉が返ってくるかと思って構えていた海堂は、拍子抜けした。
「おい、今度は泣き真似か? この俺が二度も同じ手に引っかかるわけ――」
「……琢真です」
 くぐもった声が聞こえる。
「おいじゃなくて、琢真。そう言ってください。それくらいのご褒美ないと、やってらんないっすよ」
 海堂の瞳が見開かれる。
 若槻の声は、震えていた。
 今度のは、嘘じゃない。
 こっちの調子が狂うくらいに素直であけすけで、妬ましいくらいに真っ直ぐなこいつが、これほど巧く嘘がつけるはずがない。
「……琢真」
「…………はい」
 己の手から膝に、顔を埋める場所を変えて若槻が応える。
 それから、思わず心の声が漏れたといった具合で、若槻が呟く。
「俺、魔物の巣窟に足を踏み入れる勇者みたいなつもりで、こっちの世界に乗り込んで来たんですよ」
 その言葉は少し複雑に過ぎて、海堂には正確な意味を理解することは不可能だった。けれど、彼が言わんとしていることの半分の半分くらいは何となく分かった気がした。
「いや……やっぱ何でもないです。今の、忘れてください」
 慌てた様子で、若槻が赤く腫らした目を上げる。
「……そうか」
 意味のない言葉をこぼして、海堂は何となく黙り込む。ちょうどその時、歪な沈黙を破るようにドアをノックする音が響いた。海堂を急かす声が聞こえてくる。
「あいつらうるさいから、とりあえず俺行くわ。お前は一応、ここで安静にしてろよ」
「はい。明日、また。あ、そうだ。俺も、ありがとうございました。待っててくれて。守ろうとしてくれて」
「……仲間なんだからって、最初に言ったのはお前だろ」
 素っ気なく海堂は言い捨てて、部屋の出口へとずんずん歩き出す。背後でにへらと笑み崩れる気配。やっぱり癪に障る。
 けれど怒鳴り散らすのは堪えて、海堂は扉に手を掛けたまま顔だけ若槻を振り返った。
「そうだ、お前、こっちでやりたいこととか、行きたいとことかねえの?」
「――え」
「案内してやるっつってんだよ。色々、礼と……詫びだ。休日くらいは外出しても良いように、俺からも取り計らっとく」
「え、あ、じゃあ俺、ゲーセンが良いです! ゲームみたいなの、したことなくて」
「は? そんなんで良いのか。兜京タワーとか、そういうんじゃなくて?」
「んじゃ、その次に行く時は、その兜京タワーで!」
「その次って何回遊び回る気だよ。こっちは鬼にしてやられて、どう鍛え直すかで頭いっぱいだっつうのに」
 呆れたように言って、部屋を出る。
 扉が閉まり切る寸前、先輩と海堂を呼び止める声が聞こえた。
「おやすみなさい」
 何だか久しぶりにその言葉を聞いた気がして、海堂は思わず立ち止まる。
 もう扉は閉まってしっかりロックまで掛かってしまった後だというのに、海堂は誰に言うともなく、「ああ」と呟いた。
 その後すぐに鬼狩り仲間に車に押し込まれたが、その無機質な揺りかごに揺られ始めると、とろとろとした眠気がやって来た。間もなく、規則正しい寝息を立て始める。
 その日、海堂は珍しく、おかしな夢に取り憑かれることなく、穏やかな眠りを迎えた。


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