鬼の血脈 七つの福音[三]



 白くけぶるような雨が、降り続いている。
 仄明るい街灯が照らし出す夜の街は、降り止まない雨のせいでますます視界の自由を奪っていた。
 それでも、この異様な圧迫感を消すには至らなかったらしい。それどころか、闇と霧のような雨が演出する視界の悪さが、更に千日の中に恐怖と緊張を植え付けているような気さえした。
 ギィィイ、と黒板を爪で引っ掻いた音に鈍さを加えたような音が頭上から聞こえた。
 咄嗟に後退った千日の身体を、若槻が更に後ろに強く引く。程なく、目の前に巨大な物体が落ちてきた。骨の砕ける音と肉の潰れる音が生々しく響く。血が飛び散って、見るも無残な姿になっているが、これは先ほどまで海堂が相手をしていた鬼だろう。
 思わず口元を抑えた千日の背を、若槻が大きな手のひらで撫でてくれる。
「ごめ……もう、平気」
 ちっとも平気ではなかったが、人生始まって以来の窮地に立たされた千日はそう言い張った。吐くのは、生き延びてからでもできる。死んだらそれさえできない。
 改めて千日は目の前の光景に目を向ける。
 先刻目にした異形のものたちは幻であれば良いとわずかな期待を込めたが、現実はそう甘くはなかった。
 異形のものたちは、こちらを値踏みするように様々な視線を向けてくる。一際痛烈な鋭い瞳を向けてくるのはやはり、まるで異形のものたちを従えるかのように中心に立ち尽くしている人間の男だった。
 心臓が鷲掴みにされたかのような衝撃が、千日の全身に走る。そんなものとは無縁の生活を送っていたはずなのに、実感する。ああこれは自分に向けられた殺意なのだと。
 まともに呼吸もできずに荒い息を上げ始めた千日に、若槻が何かを叫んでいる声がするが、聴覚は機能してくれなかった。
「琢真、持っとけっつー言葉、聞いてなかったのか?」
 音もなく、人が空から降って来る。
 鬼の残骸が広がる地点からそう離れていないところに降り立った海堂の背中で、異形のものたちの姿は千日の視界から消え失せていた。
 少し、呼吸が楽になる。
 雨と汗と涙で滲んだ視界に、その背中は逞しく映った。
「こりゃあ、とんだ天女様だぜ」
 絶体絶命の状況にもかかわらず、海堂は臆していない様子で何だかよく分からない言葉を口にした。
「おい琢真、今度こそその女しっかり持っとけよ。そんで、早くこの気色悪ぃ包囲網抜けて帰んぞ」
 まるでそれが当然だとでも言うかのように豪語する海堂に、若槻が少し強張った笑みを向ける。
「先輩こそ、とちって俺に尻拭いさせないでくださいよ」
 若槻は言うなり千日を左腕で抱え、右手を前方に向ける。これまで気づかなかったが、若槻の右手の指には指輪のような鈍い銀の輝きを放つ物体が連なったものがはまっている。
「もしかして、それって武器なの?」
 思わず尋ねた千日に、若槻が同意するように笑顔を向けてくる。
「女の子の手前ですからね。俺は先輩と違って血まみれになったりするようなえぐいのは好きじゃないんすよ」
 やたら女の子を強調してくる男である。
(そんなこと気にしてる場合な訳?)
 この鬼の大群を相手に、そんな指輪のような武器で対することができるのか、千日には大いに疑問だった。
 しかし、それが要らぬ心配であったとすぐに千日は察する。
 痺れを切らしたように突っ込んで来た鬼に、若槻の拳が炸裂する。鈍い音を立てて、鬼が倒れ伏した。
 それと同時に、若槻が千日を抱えたまま隣のビルの屋上へと跳躍する。
「って結局逃げるのね」
 すぐに追いついて来た海堂も視界の端に捉えて、千日が拍子抜けしたように声を上げる。
「お前、俺たちを何だと思ってんだ。いくら何でも、あんなの全部相手してたら死ぬだろうが」
 先ほどのやたら恰好つけたやり取りは何だったのか。
 だがすぐに千日も、逃げるのが一番確実な方法だと思い直す。
 若槻も海堂も、疲れた様子もなくビルとビルの間をハードル走でもしているかのような気楽さで越えて行く。千日も割と運動神経は良い方だが、こんな人間離れした離れ業には、目を瞠るほかない。
「ねえ、どこか行くあてでもあるの?」
 風に掻き消されないよう、千日は声を張り上げる。
「はい。とりあえずあいつらが侵入してくることはまずないような所です。っつっても、天財さんが気に入るかはちょっと分かんないっすけど」
「おいお前、あんま琢真を喋らすな」
 若槻の横にぴたりと並んで終始無言で走っていた海堂が唸るように言う。
「わ、悪かったわね!」
 確かに訳のわからない怪物に追われる身でありながら(しかも運んでもらっている身でありながら)先ほどから激しく動き続けている若槻に話しかけたりするのは、考えが足りなかったかもしれない。
 しかし、千日とて若槻や海堂を完全に信用したわけではなかった。
 あの後ろの化け物よりは、まだ人間の形を取った得体の知れない二人組の方がまし、と思っただけだ。
 本当に何故こんなことになっているのか。
 悪い夢ならば、覚めてほしい。頬を思い切りつねった千日は、現実味のある痛みにげんなりした。
 海堂も若槻も全く後ろを振り返らない。鬼はあれだけでかい図体をしているにもかかわらず、俊敏だった。若しかすると、もう近くまで追いついて来ているかもしれない。
 千日は恐る恐る後ろを向いた。存外近くに鬼たちの群れが迫ってきている。ともすれば、その荒い息遣いさえ聞こえてきそうだ。
「いーやぁー!! 本当に何なの! あれは何なの!! 宇宙人なの? 地球に攻めてきたの!?」
 思わず若槻の服を握りしめて叫ぶと、若槻が朗らかに笑って言った。
「いやー天財さんって冗談上手いっすねー」
 ……本気で言ったのだが。
 尚も言い募ろうとした千日は、僅かな衝撃と若槻から漏れた苦しげな呻き声を捉えて口を噤む。
「くそっ」
 千日が状況を掴むよりもずっと早く、海堂が悪態を吐いた。若槻を庇うように、足を止めて背後に迫り来る鬼を迎え撃つ。
「すみません、先輩」
 歯を食いしばって言った若槻の肩口の制服が裂けて、血が流れている。それでも若槻は、走り続ける。
「ちょ、血が出てる! 降ろしてってば。道に降ろしてくれれば、あたしでも走れるから!」
「ダメですよ。あいつらの狙いは天財さんなんですから」
(何それ!?)
 やはり自分は、偶然あの鬼と呼ばれる異形の集団に出くわしたわけではなかったらしい。しかし、今はそんなことを考えている場合ではない。
「血が出てるって言ってるでしょ!? あたしはあの化け物をどうにかする力なんてないけど、せめて自分の身くらいは自分で守る」
 人を怪我させておいて、その上で尚もその人のお荷物になるだなんてそんなことは出来る訳がなかった。
「お願いですから! お願いですから、黙って俺に抱えられててください。俺を気遣ってくれてるのはすごく嬉しいです。でも、俺は大丈夫ですから。お願いですから、目的地に着くまでは俺たちから絶対離れないでください」
 血を流しながら、そう静かに凄まれれば、千日も黙っているほかなくなった。
 出来るだけ若槻の負担にならないよう、極力身体を動かさずにぴたりと若槻の硬く隆起した胸に寄り添った。血と雨で斑模様を作っている制服には、極力目をやらないようにする。
 その時だった。
 再び、振動が千日の身体に伝わる。今度は、流石の若槻も走り続けることはできなかったようだ。千日はぐらりと傾いだ若槻を何とか支えようとするが、抱きかかえられている状態では、出来ることなど何もなかった。
 千日は周囲の状況を確かめようとして青ざめる。
「嘘……」
 どうやら若槻は、ビルとビルの間を跳躍している最中に襲われたらしい。為す術なく十階はあろうかというビルの屋上から、若槻と千日の身体が勢いを増して落ちて行く。
 地面にぶつかる瞬間、強く抱きこまれた。
 激しい衝撃に視界に火花が散るが、身体の方は何ともない。若槻の方はと見ると、驚いたことに、まだ千日を抱えたままだった。それでもやはり全力で走り続けた上に負傷したためか、今すぐに走り出すことは出来なそうだ。
 今度こそ千日は、そっと地面に滑り降りる。若槻は息を荒げながらもその行動を阻もうとしたが、彼の腕は千日のすぐ脇を彷徨っただけで何も掴むことはなかった。
 ほっと息を吐いて一歩後退り、千日は状況を確認しようと辺りを見回そうとした。
 しかしそれは叶わず、ひやりと首筋に走った感触に一瞬頭が真っ白になる。
「動くな」
 頭の上に、研ぎ澄まされた刃のような声が落ちる。振り返って確認するまでもない。これは――まるで鬼たちを従えるようにして立っていた男だ。
 ひくりと動いた喉が、男の声のように冷たい刃物の先に触れる。ぷつりと、皮膚が破れる感覚がした。
「死にたいのか。それも良い。殺す手間が省ける」
 男は嘲笑するような響きで、それでいて淡々とそう言った。
(なに……何、言ってんのこいつ……?)
 死ぬとか、殺すとか、意味が分からない。刃が当てられた身体は冷え冷えとして、感覚という感覚がぴりぴりと押し殺された呼吸をしているのに、頭の中だけが靄がかかったように上手く働かない。
「その人を、離せ」
 緊迫した若槻の声が響く。
「何だ琢真。偉そうな口を利くようになったじゃないか」
 男の関心が、若槻に移った。底冷えするような視線が、若槻を射抜く。その隙をついて、千日はそっと刃物から喉を引く。腕を回されているので自由になることは出来ないが、刃物との間隔を僅かに取ることが出来た。
(何……知り合い?)
「ねえ、あんたあの化け物たちの仲間なの? それともこんなことをしておいて、若槻の仲間? 若槻とグルで誘拐犯の一味?」
 この状況でまだ口を開く千日に、若槻はぎょっとしたようだった。対する男の方は、顔色一つ変わらない。並みの女などよりずっと白い雪のような肌に精悍な顔立ち、長身で逞しい肉体も手伝って、豹のような印象を抱かせる。
「誘拐犯に化け物か。無知な上に馬鹿とは救いようがない」
「はあ!?」
 何で、こんな初対面の男に言いたい放題にされているのか。思わず、自らの置かれている状況も忘れて眉間に皺が寄る。
 怒ったら、何だか力が湧いて来た。
「何でも良いけど、離してくれない? あたしなんか誘拐しても身代金なんて要求できないし、あの化け物たちの餌にするにしても絶対まずいから」
 だから化け物の餌にだけはしないでよ、と念を込めてみる。死ぬのは絶対布団の中が良い。長年連れ添った夫と共に、苦しまずに手を繋ぎながら昇天するのだ。
(あたしの人生設計に、こんな訳わかんない展開は要らないんだから)
 絶対無事に家に辿り着いてやる。
 とりあえずは巻きついて来る腕から抜け出し、どうにか男も若槻も海堂も振り切って、家に帰るのだ。
 ――そんなことが、出来ると思っているの?
 どこかから、そんな声が聞こえたような気がした。
 分かっている。そう簡単に事は運ばないだろう。何故か若槻たちは千日の名を知っている。知られているのは名だけではないかもしれない。
(いやいやいや。あたし、前向きだけが取り柄じゃない。やるわよ。あたしはやってやるのよ)
 そう思った矢先、再び男の拘束がきつくなった。
 男に比べればずっと柔で華奢な身体が、悲鳴を上げる。
「貴方であろうと、その人に乱暴することは許されない。離せ」
 若槻が唸る。
 若槻もこの男も何か勘違いをしていると千日は思った。
 千日はこんな非日常的な事件に巻き込まれるような人間ではない。至って普通の、凡庸な一介の女子高生に過ぎない。
「ねえ、あんたたち人違いじゃない?」
 若槻の口ぶりは、何だか千日が特別な存在のようにさえ感じさせる。だから千日は、そうのたまった。
「馬鹿が」
 男が再び吐き捨てる。
 刃物を突き付けられていなかったら確実に殴りつけている。それもグーで腹にお見舞いしてやるところだった。
「その人を離せ」
 緊張と苛立ちに、若槻の声が震える。先ほどまで全身から放っていた人懐っこさは影を潜め、硬質な空気が若槻に纏わりつく。
「奪い返してみたらどうだ。出来るならな」
 鼻で嗤って、男が千日に突き付けていたナイフを若槻の方に向けて余裕綽々にひらひらと振って見せた。勿論代わりに千日の喉には男の硬い腕が巻きついたので、どうすることもできない。
 若槻の顔が、奇妙に歪む。
 と、突然男の腕が弛緩した。ナイフが音を立てて地面に落ちる。千日はその隙を逃さず肘鉄を男の腹にお見舞いして、さっと距離を取った。
 そして気づく。男の背後に、灰色のパーカーを身に付けた人物が知らぬ間に現れていた。
「若槻、しっかりしろ。天女に指一本触れさせるな」
 心地良い低音が雨音に混じる。
 瞬く間に、若槻の背が千日の目の前を覆った。
 灰色パーカーが音もなく男に構え直すのが僅かに目に入る。
 男が地に倒れ伏して力任せに投げつけたナイフを、灰色パーカーはしなやかな猫のような動きで避けた。背は然程高くないが、俊敏性は半端なものではない。
「深く刺したつもりだったが……流石に四家しけ鬼師きしか」
 灰色パーカーがぶつぶつと呟く。
 見れば、男の両の脹脛には深々とナイフが突き刺さっていた。多分、あの灰色パーカーの仕業だろう。
 あれがもし自分に刺さっていたらと思うとぞっとする。
「天財さん、下がって」
 片手を水平に上げて、若槻が低く囁いた。
 千日は言われた通り後退り、男の方を覗き見て仰天する。
「嘘っ」
 男は力ずくで足に刺さったナイフを抜き取ると、打ち捨てるようにして地面に投げた。カラララ、と乾いた音が転がる。造作もなくすぐに男は立ち上がった。顔は灰色パーカーに向いているのではっきりとは分からないが、背中がその怒りを伝えてくる。
 これは確実な殺気だ。男は何の躊躇いもなく、腰に佩いた刀に手を掛けた。一閃が、灰色パーカーの腕に掠る。
 灰色パーカーが止めを刺されるかと息を呑んだ次の瞬間、千日は戦慄した。すぐ目の前に居たはずの若槻の身体が地面に崩れ落ちている。
 先ほどの傷が影響かと思ったが、そうではない。若槻の肩には新しい切り傷が痛々しく刻まれていて――そして千日は、またもや男に追い詰められていた。
 何を考えることもなく、というか何を考えることも出来ず、千日は後退る。
「こ、来ないでよ」
 必死に言い募るが、そんなことを聞くような相手ではない。
 やがて千日は、背中に硬い感触を感じた。行き止まりだ。
 逃げ道を探すが、どこにもない。相変わらず、男の目には冷え冷えとした光が射している。弱冠十七にして通り魔に惨殺される。そんなニュースのワンフレーズが浮かんでは消えて行く。
「おい、俺を忘れてんじゃねーか」
 どこか呑気に響いたのは、目の前の男と同じくらい失礼な海堂の声だった。
 空から降ってきた海堂が、男が動くよりも前に千日の前に立つ。
 どうやらこの男は、空から降って来るのがいたくお気に入りらしい。
 そんなことを思いながらも、千日は安堵に視界を滲ませた。
 何度か刀と刀のぶつかり合う激しい音が聞こえて、決着のつかない内に海堂は千日を抱きかかえて飛び退る。
「琢真! りょう! どうにか付いて来い。連中に捕まるな。とにかく死に物狂いで逃げ切れ!」
 耳元で大声を上げられ、キーンと耳障りな音が鳴る。
 すぐに男が追ってくる気配がしたが、海堂が慌てた様子はなかった。
 黙っていた方が良いかな、と思いながらも千日は恐々口を開く。
「さっきの二の舞になるんじゃないの? あいつ追っかけて来てるけど、大丈夫なの?」
「繁華街やら、夜の店が立ち並んでる所にでも行けば、人気があんだろ。目撃者が数人なら殺して始末をつけるかもしれねぇけど、連中はまだ不特定多数の人間がうろついているような場所には姿を現さねぇはずだ。あの男も、鬼たちを従えて消えるだろ」
 意外にも、返事が返ってきて千日は目を瞬く。
 あの化け物たちの習性なんて全然わからないが、そういうものなのだろう。
「ていうか、あの若槻とかいう人と灰色の人に救急車呼んであげなくていいの?」
「そんな悠長なことしてる暇ねぇだろ。救急車待ってる間に殺されてオダブツだ。それにあいつらは頑丈だからな。ちょっとやそっとじゃ死なねぇよ」
 ちょっとやそっとじゃないから言ったのだが。
 でも驚いたことに、少し離れた所を若槻も灰色パーカーも疾走していた。
 今はただ、海堂の言葉が真実であることを祈るばかりだ。
 雨は次第に小降りになってきていたが、漆黒の空を覆った厚い雲は晴れる気配がない。時折雲の切れ間におぼろげな月が見えたが、何だか不吉な予感がして、千日は海堂の腕の中で丸まるようにして時が過ぎるのを待った。


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