鬼の血脈 七つの福音[五]



 すっかり無口になった千日を連れ、海堂が共有施設と呼んだ建物へ向かう。
 学校へ行けなくなるのは、正直こたえた。
 十歳で両親を亡くした千日にとって、一番近い存在は学校のクラスメイトである。家族を失くしたのに等しい、喪失だった。
(でも……本当に居なくなっちゃうよりは、ずっと良い)
 この騒動が落ち着けば、また会えることだってあるだろう。死んだら、二度と会えない。
「おい、バスタオル無くなってるぞ」
 千日同様、先刻から黙りこくっていた海堂が唐突に声を掛けてきた。
 すっかり気づかなかった。九重が親切にも三枚もわざわざ掛けてくれたというのに。
 探しに戻ろうと踵を返した千日の腕を、海堂が掴んだ。
「タオル三枚くらい無くしたぐらいで怒るような人じゃねぇよ、九重さんは。それどころか、心配する。お前は確かに疲れ果ててる。ここの誰かに頼んでおけばタオルくらい回収してくれるから、早く戻んぞ」
 そう言うなり、海堂が貰っていたタオルの一枚を投げてくれる。
 少し湿っているが、海堂を包んでいたタオルの内一番上にあったものに違いなかった。
「ね、そういえばあんたや若槻や佐倉さんは学校はどうしてんの?」
 佐倉はともかく海堂と若槻は学ランを着ている。彼らは鬼に狙われたりはしていないから、学校には通えるということだろうか。
「は? 学校? 俺は小学生の時にやめた」
 ごく当たり前のことのように、海堂が告げた。
「え、やめたって――だってあんた学ラン着てるじゃない」
「俺たちくらいの歳だとこういうの着てる方が何かと楽なんだよ。いちいち服買いに行くのもめんどくせえし」
 俺たち、ということは若槻も――もしかすると佐倉も学校には通っていないということだろうか。
 確かに高校は義務教育ではない。しかし海堂の言い分からすると彼は中学校にも通っていないことになる。
 ここはそれほど特殊な場だということだろうか。それとも海堂が特殊なのか。
 押し寄せる思考の波に浚われる間もなく、頭がツキン、と痛んだ。
 歩き出した海堂の背中をぼんやりと見つめていたら、少し歩いた後に彼は怪訝そうに振り返って引き返してきた。
 千日の手に握られたままになっているバスタオルを奪い取り、無理やり頭をそれで包み込む。乱暴に髪をわしゃわしゃとされたが、海堂が彼なりに気を遣ってくれているのだろうと分かって、されるがままになっていた。
 確かに、海堂の言ったとおりだ。
 今更気づいたが、自分は何だか心身共に疲れ果てている。棒のようになった足を引きずるようにして歩く。
「おぶうか?」
 聞かれ、千日は力なく首を振った。
「担架もあるぞ」
「ううん、良い」
 とにかく、一人になりたい。相変わらずセンターの中は息が詰まる。
「寒くはないか」
「とりあえず、早く戻りたい」
 海堂が何かしら防寒具を調達しようと辺りを見回しているのに気づいて、千日は早口にそう言った。
 海堂は何か言いたげに千日に目線を向けたが、何も言わなかった。代わりに、千日の髪を拭いたタオルの先っちょを差し出すように向けてくる。
(お前が持てってこと……?)
 意味を図りかねて差し出されるがままに握ってみると、海堂はタオルのもう片方の先を掴んで、今までよりペースを落として歩き始めた。二人の間でタオルがぴんと張られ、その少し控えめな力で、千日の足が自然に動き出す。
(何その……幼稚園のお遊戯的な行動は)
 胸中でびっしょりと濡れた海堂の背中に問いかけるが、答えは返って来ない。
 ああもう、何だか泣きそうだったのに笑えてくる。怒鳴らされたり、笑わされたり、とことん感傷に浸らせてくれない男だ。
 千日は少しだけ声を上げて笑った。同時に、涙が頬を伝う。タオルを握る手が震える。
 多分その気配は伝わっていたはずなのに、共有施設の医務室に辿り着くまで、海堂は決して振り向かなかった。

 医務室に辿り着くなり、千日は蒼白な顔をした九重に着替えと数枚のタオルを渡され、ベッドの方に無理やり押しやられた。カーテンを引かれ、身体を拭いて着替えるように言われる。
 そんな面倒なことをやり遂げる元気は残っていなかったが、あいにく女の人は居ないようだったので、千日は雨と汗でべたついて中々上手くいかない着替えを始めた。
 カーテンの向こうで着替えているらしい海堂と若槻の衣擦れの音が聞こえるが、それ以外は静かだ。最初は手当てと休養を優先させるべきだったのだという九重の悪態が響いていたが、それもすぐに収まった。ちなみに若槻が何故まだずぶ濡れのままでいたかというと、律儀にも千日が戻るのを待ってくれていたらしい。千日のせいで怪我をしているのだから、そんなことまでしなくて良いというのに。一度涙腺が緩んでいたためか、千日の瞳にまた涙の膜が張る。
 佐倉はというと、どうやら彼も自室に着替えに行ったそうだ。彼はあまり、積極的に人と関わるタイプの人間ではなさそうだった。
 どうにか身体を拭き着替えると、またどっと疲れが溜まった。頭がぼーっとする。先刻のように痛くないだけ、ましかもしれない。
「どうかな? 大丈夫? 着替え終わった?」
 衣擦れの音が止んだのを見計らってか、九重が声を掛けてきた。
「はい。すみません。ベッドも少し濡れちゃったかも」
 控えめな音と共にカーテンが開く。九重の柔らかな眼差しが降り注いで、千日はほっと息を吐いた。神屋と少し印象が被る人だが、中身はまるで違うらしい。
「そんなこと気にしないで。僕が座らせたんだから。それより千日ちゃんは早く休んだ方が良いね。部屋まで送って行こうか。それともここで眠る?」
「えっと……じゃあ部屋に行きます。九重さんはお医者さん……なんですよね?」
「ああうん、そうだよ」
「じゃあ、九重さんはここにいた方が良いです。あたし、道を教えてもらえれば、多分一人で行けますから」
 言うと、九重は顔色を曇らせた。
「それは許可できない」
 少しきつい言葉に、千日の肩が跳ねた。何だか、今日の自分はひどく敏感になっている。
「ああごめん。もちろん君が倒れた時のことを考えてのことだよ。僕のことは、少しずつで良いから信用してほしい。別に君にいつも誰かを張りつかせていようとかいう魂胆はないから」
 考えていたことを見抜かれ、千日は少し目を丸くした。
 確かに、九重は信用できる気がした。彼は千日も海堂も若槻も佐倉も同じように大切に扱う。一緒にいると、安心できる。このような状況下、出会ったばかりでそんな風に思う自分が居ることに千日は驚きを隠せないが、そんな気がするのだから仕方ない。
「はい」
 千日は微かに笑って、頷いた。
「お、良い所に来た」
 海堂が医務室の扉の方を見て言うので、千日も思わずそちらを向く。
 扉が開いて顔を出したのは、佐倉だった。相変わらずのパーカー姿だが、色味が微妙に明るくなった……ような気がする。完全に乾いているから、きっと佐倉は同じようなパーカーを数枚持っているのだろう。ちなみに千日もパーカー姿だ。佐倉とお揃いのような気がするが、気のせいだろう。色味も灰色というよりは白に近い。
 海堂と若槻はジャージ姿で裸足で突っ立っている。ぺたぺたと歩く音がうるさい。
「ま、面倒な話は後にして、とりあえず休みましょう、姐さん」
 若槻が言って、にっと笑う。
「あ、姐さんってあたしのこと?」
「ええ、俺、姐さんの一個年下っすよ。ぴちぴちの十六歳」
 男がぴちぴちとか言うな。言いかけて千日は更に疲れるような気がしてやめた。
「ふうん、じゃ、海堂はいくつ?」
「……お前と同じ」
 そういえば、若槻は海堂のことを先輩と呼んでいた気がする。
 そんなことを考えていたら、海堂が苛立たしげに舌打ちをかましてきた。訳の分からない行動を取るのが趣味なのか。
「お前、今俺と琢真の身長比べただろ」
「え?」
 確かに千日は若槻の方をちらっと見たが、海堂の述べたことが理由ではない。
(ははーん)
 千日は先ほど泣いてしまった照れくささもあって、底意地悪く笑ってみせた。
「身長コンプレックス?」
 くすくす笑いながら聞くと、海堂の顔が引きつった。世間的に見れば海堂の背はわりと高い方だ。しかし後輩より低い、というのが我慢ならないのだろう。そういえば、九重も思いだしたくないが神屋も背がずっと高かった。
(でも、佐倉さんはあたしとそんな変わんないのに)
 佐倉にも話題を振ろうかと考えたが、いまいちまだ距離の測り方が掴めないので、今度にしようと思い直す。
「否、先輩。男は身長じゃないです。漢気っすよ」
 阿呆なことを言いだした若槻の腹をグーで殴りつけ、大股で千日の前を横切ると、海堂は蹴りつけるように医務室の扉を開けて足音を立てながら出て行った。
 千日のすぐ脇では、かわいそうに怪我をしている若槻がごほごほとむせている。その背中を擦ってあげている九重は、医者の鑑のような存在だと思う。
 賑やかな空気が疲れを忘れさせる。それは束の間のことだと分かってはいたが、千日は居住区までの道程を四人で笑いながら歩いた。まだまだ自分の置かれている状況は良く分からない。目覚めたら、もっと酷いことが待ち受けているのかもしれない。けれど、仲間たちはそう悪くはないと感じさせた。
 大丈夫、ここでも笑って暮らして行ける。雨上がりの晴れ渡った空を仰いで、千日はその眩しさに目を細めた。

 ……全然大丈夫じゃない!
 居住区に着くなり、千日は展開の凄まじさに凍りついた。
「じゃ、俺たちはこっちなんで!」
 白い歯をキラキラさせながら、海堂と仲良く隣の部屋に消えた若槻が心底恨めしい。
 千日は、佐倉と二人で一つの部屋の前に取り残された。
(いやいや、待て待て。この展開は何? ドッキリ?)
 扉の前で微動だにしない千日を尻目に、佐倉はすたすたと扉に近づき、いとも簡単に部屋に入ってみせた。
 そして千日を招くように扉を開いたままその陰で待っている。
(ここに男女別々という意識は存在しないのか!)
 所長の神屋に念力を送ってみるが、返事はない。神屋は今や千日のブラックリストの頂点に燦然と輝いていた。
 しかし流石に奥のベッドに気づくと疲労が再び身体中を取り巻いたので、物凄い覚悟と共に、千日は部屋に足を踏み入れた。
 まさか花の乙女が男と二人部屋とは……ありえない。
 衝撃の展開に頭がついて行かない。もう少し元気だったら、この研究所に暮らす全員の頭をハリセンで叩きながら回ることが出来る気がするが、あくまでもそれは仮定の話であって、今の千日にそんな元気はどこにも残されていない。
(もうヤケだ。寝てやる。あたしは寝てやるー!!)
 片方のベッドに勢い良くダイヴしてから、千日ははたと気づいた。
 佐倉は何とも思っていないのだろうか。
 恐る恐る後ろを振り返ると、相変わらずフードで佐倉の顔は覆われていて表情がよく分からない。
「天女」
 佐倉が何やら言葉を発した。ビクーッと全身が震える。
「何か口に出来そうなものはあるか。貴女は、ファミレスでも殆ど物を口にしていなかった」
(何ですと!?)
 佐倉が、何だか千日を心配するような普通っぽいことを言っている。
 ファミレスで千日と海堂が舌戦を繰り広げる中、ひたすらマイペースにドリンクバーとデザートに舌鼓を打っていた人間と同一人物とは到底思えない。
 これは、何かの罠だろうか。そうに違いない。
 距離を取りながら、佐倉の様子を覗う。冷蔵庫らしき箱から何かを取り出して近くに置いてあるらしい食器を漁ると、佐倉は程なくこちらに戻ってきた。
 皿に乗っているのは、小さな可愛らしいプリンだ。華奢で可愛らしい細工のスプーンが添えられている。
「私は体調が悪い時でもこういったものは食べられるのだが、天女は甘いものは嫌いか」
 そ、そりゃあ好きですとも! 親友の咲穂からはスイーツの女王との誉れを授かったんだから。
 流石に、そんな台詞は言えずに、千日はぎこちなく頷いた。
 何だか佐倉の雰囲気が明るくなったような気がする。勿論、表情は相変わらず見えないのだけれど。
 これは、喜んでいるのだろうか。
「ね、ねえ。そのフードに何かこだわりでもあるの?」
 きょとん、とした様子で佐倉が押し黙る。
 それからその存在を初めて思いだしたように、ああと佐倉は嘆息した。
「部屋に入ってまで被っている必要はなかったな。すまない」
 言って、佐倉はフードに手をかける。艶やかな短く切り揃えられた黒髪がこぼれ落ち、白いきめ細かな肌が照明に照らし出された。形の良い唇は閉じられ、一見無表情に見えるが、よくよく見れば微かに微笑んでいるのが見て取れる。瞳は、初めて戦う姿を目撃した時と同じく、猫のような印象を抱かせる。
 どこか中性的な顔立ちをまじまじと眺めてから、千日はあっと声を上げた。
「まさか! ごめん、失礼!」
 プリンを避けて、ぎゅっと佐倉に抱きつく。……ああもう、まさかそんな。
「佐倉さんって……! あ、そっか! だから凌ちゃんって九重さんが――あああ! ごめん凌ちゃん! 凌ちゃんって女だったのね!」
 抱きついて、その胸の柔らかな感触に千日はうう、と声を上げる。
(多分、すんごい負けてるし)
 何が、とは聞かないでほしい。というか聞くな。察しろ!
「ああ、そういえば天女に女だと言っていなかったような気がする。すまない。そんなに重要なことでもないと思ったのだが……余計な気を遣わせたか」
 格好や話し方や声の高さや驚異的な身体能力から、男だと思い込んでいた。
 穴があったら入りたい。
 一人で勝手にこの研究所の人間を脳内でぶん殴っていた。しかし断じて神屋には謝らない。
「いや、凌ちゃん! 一番重要なことよ。ていうかその羨ましすぎるナイスバディをどうやって隠してたのよ!」
 言い募る千日に、凌は首を傾げて見つめ返してきた。
「胸のことを言っているのなら、天女は勘違いをしている。戦う時、脂肪は極力少ない方が良い」
「いや――あたしはそんなことを言ってるんじゃなくて。そりゃああたしは貧相な身体ですが……って! 凌ちゃん。折角女同士なんだから、その天女ってやめてちょうだい。千日って呼んで。歳はいくつ?」
「十八」
 意外と先輩だった。
 発育は良いが、まだ何か色々抜け落ちている十六、七くらいかと当たりをつけていたのだが。
「あらら、先輩か。凌先輩、って呼んでも良いですか?」
「否、何と呼んでくれても構わない。ここはそんなに上下関係が厳しくないし、天女は私たちの頭目だから」
 あくまでも、天女にこだわるらしい。
 だが、千日も負けてはいなかった。
「そっか。うん、ならきっとあたしたち良い友達になれるよ。甘党同盟だし。ね、千日って呼んでよ」
「それは気安すぎる」
 頑固さは人一倍らしい。凌は天女というものに崇高な理想を抱いているのかもしれない。中身はこんななのに。
「じゃ、気が向いたら、呼んでね。あたしは今から凌ちゃん呼びしまくるからね」
 にっこり笑って言うと、千日は凌と並んで二人でプリンを食し始めた。この部屋では、甘いものは事欠かなさそうだ。流石、正真正銘乙女の部屋。
 プリンを食べ終えると、千日は歯磨きもそこそこに、泥のような眠りについたのだった。


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