鬼の血脈 七つの福音[六]
窓から射してくる淡い光に瞼を撫ぜられ、千日が深い眠りから目を覚ましたのは、翌日の朝だった。
確かに疲労は極限にまで達していたが、よくもまあこんな得体の知れない場所で寝られたものだ。しかも、千日の誕生日は、鬼に襲われたり疲れ果ててふらふらになったり怖い所長に学校を無理やり辞めさせられたりという踏んだり蹴ったりな仕打ちを喰らった挙げ句、眠っている間に過ぎてしまっていた。
まさしく、最悪の誕生日だった。これ以上悪い誕生日はもう来ないだろう。断言しても良い。
隣のベッドを見れば、そこに眠っていたはずの凌の姿はなく、部屋の中は閑散としていた。
よくよく見てみれば、中々に広い部屋である。豪華とまでは言わないが、ただの十代の若者を家賃も取らずに住まわせてくれるには、十分すぎるほどだ。
小さいが冷蔵庫はついているし、おまけにテレビも備えている。ベッドの寝心地は良かったし、シャワー室もトイレもついていて、不便さは感じさせない。
海の蒼のような色彩でまとめられているのは、凌の趣味だろうか。千日は伸びをしてから立ち上がると、白いクローゼットが置いてある部屋の隅まで手持ちぶさたに歩いて行ってみる。
そういえば、掃除洗濯等の家事もここで働いている職員が請け負ってくれるのだと昨日九重が言っていた。ビップ待遇である。制服は脱いで医務室に預けて来てしまったから、千日の着るものは何もない。
どうしようかときょろきょろし始めた所で、部屋の扉をノックする音が響いた。
「はい?」
とりあえず返事をしてみると、凌の声がして、扉を開ける音と共に彼女が入ってきた。
凌の服は、今日もパーカーだった。でも今日も少しだけ色が違うような気がしないでもない。
「おはよう、凌ちゃん。あたしって若しかして寝坊した?」
「否、大丈夫だ」
そう言って凌は、奥に掛けられているシンプルな時計を指し示す。時刻は午前七時を少し過ぎた所であった。
「あたし、どうすればいいのかな。昨日は疲れて何も考えないで寝ちゃったけど、今日は色々説明あるはずだよね。ここに居るってことは、多分、昨日のことは全部夢なんかじゃなかったわけだし」
「所長が、呼んでいる。朝食を取ったら、センターに来るように、だそうだ」
所長とセンターという単語に、思わず千日は眉根を寄せる。
ぶすっと唇を真一文字に結んだ千日であったが、話を聞かなければならないというのは、全くその通りだったので、大人しく凌の言葉に従うことにした。
「あ、そういえば凌ちゃん、昨日九重さんに渡したあたしの服って……」
言いかけた千日に、凌が手首にぶら下げていた紙袋を寄越してきた。
中を覗いてみると、制服が綺麗に畳まれて入っていた。
知らず、顔がほころぶ。携帯も鞄も、昨日の騒動の間に落としてきてしまっていた。千日と今までの自身の人生との縁は今や、この制服くらいしかない。
千日はぎゅっと制服を抱きしめる。
「ありがとう」
吐き出した息が震える。
凌は、千日の様子を探るような視線を寄越したが、何も言わなかった。軽く手を上げて、踵を返す。
「シャワーを浴びるならそっち。所長は朝に弱いから、そんなに急ぐ必要はない。用意ができたら、声をかけてくれればいい」
呼びとめる間もなく、凌は再び部屋を出て行った。
(気を、遣わせちゃったかな)
閉まりかけた扉から、千日は頭を振って視線を離す。
「早く着替えて、食べるもの食べて、あの神屋とかいう腹ん中真っ黒そうな奴を問い質さなきゃ」
ぐっと両手に力を込めて、シャワー室に向かう。
神屋はともかく凌を待たせているのだから、早く支度をして出て行かねばならない。
バリバリになった髪を片手で掻きまわすと、千日はまだ夢見心地で重くだるい身体に、冷たい水を貪るように浴びた。
支度を終えた千日が凌と共に共有施設棟の食堂に着くと、丁度朝食の時間なのか、辺りは人でごった返していた。
あまり周りに目をやらないようにしていたつもりだったが、ふと白米をかっこんでいる中年の男と目が合う。ぎょっとして視線を外せば、今度は二十代くらいの男と目が合った。
やはり、被害妄想などではなく見られている気がする。
腹は減っていたはずなのに、何だか胃の辺りが疼いてきたせいで、そんな気もどこかに吹き飛んでしまった。自分にそんな繊細な感覚が存在していることに千日は驚くほかなかった。
「ごめん、凌ちゃん。あたしまだあんまお腹空いてないみたい。凌ちゃんが食べ終わるまでどっかその辺をうろうろしてるね」
「具合でも悪いのか?」
腕を掴んでじっと瞳を見つめられ、千日は慌てて凌に笑顔を向けた。
「ううん、もうぜんぜん大丈夫。あたし、元気だけが取り柄なの」
にっと歯を見せても、凌は納得していない様子だった。きょろきょろと辺りを見回してから、ああと声を上げる。
為す術なく凌に手を引かれて行った先で、千日は食堂の隅で煮魚の骨と格闘している若槻と海堂の姿を見つけた。
「お、姐さんおはよーございます」
若槻の呑気な声が響く。
「おはよ」
昨日の若槻の白く輝いていた歯を思い出し、千日は複雑な顔を向ける。
そんな千日の表情を肘をついて見上げていた海堂の瞳が閃いた。
「お、その様子なら凌の正体に気づいたか」
カリコリときゅうりを噛み砕きながら、意地悪く海堂が笑う。
「あんた、気づいてたなら誤解解く努力くらいしなさいよ!」
睨みつけて言うが、海堂は涼しい顔を崩さない。
「若槻、天女を連れて外に行ってろ」
千日の凌に対する申し訳なさと後ろめたさに気づく様子もなく、彼女は淡々と言った。
「えぇー俺まだ朝飯食い終わってないんすけど」
「四の五の言わず出ろ」
凄味を利かせる凌に、若槻は目をぱちくりとさせてから千日の方に目をやった。
若槻は駄々をこねるのをやめて、立ち上がる。にこりと微笑んで、千日の方に手を差し出してきた。
「姐さん、行きましょう」
「あ、あんたご飯良いの?」
「良いの良いの。この研究所唯一のおすすめスポットに案内しますよ」
年頃の異性の手に躊躇いもなく手を差し出せるのは、若槻だからなのだろう。海堂のタオル越しのそれとはえらい違いだ。
(また気を遣われてる……)
自分はこんなに周りに迷惑をかけ続ける人間だっただろうか。
しかしここで断れば、彼らの気遣いを無下にすることになる。
背中にちくちくと刺さる数々の視線を感じながら、千日は若槻の手を取った。じんわりと拡がる体温が心地良い。
共有施設棟を出て、東にある演習場をも通り過ぎると、辺りにはぽつぽつと緑が見えるようになってきた。木々の間を縫うように続く小路を辿って行くと、やがて開けた庭園に出た。木陰によって遮られていた日の光がひと息に溢れ出す。眩しさに目を細めながらも、そこに植えられた色とりどりの花々に気づいて、千日はふっと微笑んだ。
「あら?」
庭園の真ん中に設えられた泉の水音に混じって、柔らかな朝陽に似た高く澄んだ声が聞こえた。
どうやら先客が居たらしい。
庭園の奥の方に目を凝らすと、ガーデニング姿の二十代前半くらいの女性がじょうろを抱えて千日たちの方へと歩み寄ってきた。
「東雲さん、おはようございます」
頭を下げた若槻につられて、千日も思わず頭を下げる。
「あら、若槻くんじゃない。なら、この子が噂の天女様? 随分可愛らしい方ね」
そろそろと千日が身体を起こすと、女が小首を傾げて微笑んだ。
ふわふわとしたパーマがかかった肩より少し長い稲穂色の髪が、朝陽に照らされてきらきらと輝く。ガーデニング用の長袖にジーパンに長靴、おまけにエプロンは泥に塗れていたが、その姿は女の千日の目にも十分魅力的に映った。
「ご挨拶が遅れてごめんなさいね。わたしは東雲唯香よ。ここってあんまり女の子が居なくて寂しいから、仲良くしてくれると嬉しいわ」
エプロン同様泥まみれの軍手をした手を千日の方に差し出してから、唯香は慌てたようにその手を引っ込めた。
「あら、わたしったらいつもこうで。あなたも今はわたしみたいなおばさんにべたべたされても困るわよね。また今度、一緒にお茶でもしましょ」
ふわりと笑って、千日に何も反論の余地を与えない内に、唯香は小路の先に消えて行った。
「東雲さんは数少ない女性所員なんです。趣味はガーデニングで、ここを維持してるのも、彼女なんですよ」
「へえ。すごく綺麗でかわいい人。凌ちゃんもあのフード取ったら美人さんだったけど」
唯香の消えて行った小路を見つめながら、千日が言う。
良かった。男ばかりと思っていたが、ちゃんと女性の所員も居るのだ。しかも、九重以来の普通っぽい良い人である。
「俺は姐さんも可愛いと思いますけどね」
口をあんぐりと開けて若槻を見れば、彼は平然とした顔をしていた。どうやら若槻は、今まで千日が関わってきた男とは少し違った人種らしい。
ここで否定するのは何だか負けた気がするので、千日は明後日の方向を見つめて髪を掻き上げてから、照れ隠しに口を開いた。
「あら、ありがと」
程なく、小路から海堂と凌が手に大荷物を抱えて現われた。
何かと思えば、おにぎりやサンドイッチといった外でも食べられるような軽食がタッパ容器にぎゅうぎゅうに詰められている。凌が持っている方のタッパ容器にはサラダやフルーツやデザートまで詰め込まれていたから、多分あの後二人が食堂で分けてもらってきたのだろうということは容易に想像がついた。おまけにお茶やジュースといったペットボトルの飲み物まで用意してある。
ぐう、と腹が独りでに鳴った。
そういえば昨日はプリン以外殆ど物を食べなかったのだった。
若槻も凌も何も言わなかったのに、海堂だけが腹を抱えて笑いだした。
物凄くムカついたが、散々気を遣わせ迷惑をかけた後なので、千日は大人しくしていた。
「ほら、食えよ」
ラップに包まれたおにぎりをおもむろに海堂が投げた。
千日はムッとしながらもそれを受け取る。
(早く、元気にならなきゃね)
「ごめん凌ちゃん、あたし実は腹ペコで」
腹を押さえてそう言うと、凌は少しだけ笑って甘いものが入っているらしいタッパを千日の手に乗せてくれた。
四人は泉の傍の上品なベンチに腰掛け、皿に各々好きなだけ食べ物を取り分ける。
痺れを切らした神屋が千日たちを呼び出す放送が流れるまで、四人はささやかな穏やかで優しい時間を楽しんだ。
所長室に着くなり神屋が告げたのは、要約すれば次のようなことだった。
まず、あの化け物は鬼と呼ばれ、古くから日本の領内に生息し続けていること。それらは、人を超越した身体能力と生命力を備え、時に人を襲うこと。科学と軍事力の発達により人が鬼に対抗する手段を持った今、鬼たちはほとんど夜の世界に生きるものと化し、その存在を知るのは一握りの人間に過ぎないこと。
そしてその一握りの人間たちの中でも鬼たちと戦う力を積んだ者たちが、研究所の名を冠したこの施設に集い、日夜鬼たちとの攻防戦を繰り広げていること。
海堂たちは、所の中でも特に並はずれた戦闘力を誇る七人構成の特殊部隊の一員であり、通称七福神と呼ばれているそうだ。
「って、どんなセンスよ!」
思わず千日が突っ込む。
「僕は、横文字が苦手でね。部下たちはセンスの欠片もない横文字にしたがったんだけど、僕が押し切った。正義の味方っぽくって良いだろう。天女様?」
弁財天とか天女とかいう理解不能な呼称の元凶は、どうやらこの男にあったらしい。
仏のような微笑みを浮かべながら言う神屋を、千日は冷めた目で一瞥した。
「……まあ、それは置いといて。それじゃあ、あたしが鬼とかいう奴らに狙われている? とかいう理由は何なんですか」
神屋は意味ありげに、左手に持っていたコーヒーカップをデスクの上に置いた。微かにではあるが、まだ湯気が立ち上っている。
「知りたい?」
神屋の穏やかな微笑が、茶目っ気さえ感じさせる陽気な笑みにすり替わる。
「理由も知らずに、こんな訳わかんない話に関わるなんてまっぴらよ。神屋さんが仰ったあたしが鬼に狙われているとかいう話だって半信半疑なんだから、せめて理由くらいはさっさと教えてください」
「まあ。僕は教えたって構わないんだけどね。多分まだ、やめといた方が良いよ」
くすくすという笑い声が、鼓膜に張りつく。
千日はいらいらと、二、三歩神屋のデスクに寄った。
「もったいぶらないで、教えてください」
凄味を利かせた千日に、音もなく神屋の左手が伸びた。顎に神屋の長い指が掛かる。上向かせられ、気づいた時には神屋のぞっとするほど静かな囁きが全身の感覚を縛りつけていた。
思わず目を瞠った千日は、何を言うことも出来ずに、よろよろと後退った。
背中が何かに触れた衝撃に、意識が現実に戻って来る。
「千日ちゃん?」
どうやら九重の身体にぶつかってしまったようだ。慌てて千日は九重に頭を下げる。
ひどく動揺した千日の様子を面白そうに見つめていた神屋が、ついでのように口を開いた。
「ま、当面の君の目標は、我々に協力して鬼を征伐した後に、学校に復帰ってことで良いかな? 何なら、一流大学に入れてあげたって良いけど」
「……そんな気遣いは要りません」
馬鹿にするのもたいがいにしろ、と怒鳴りつけてやりたい。
取り戻したいのは輝かしい未来ではなく、平凡だけれどささやかな幸せを感じる日常だ。
「それじゃあ、まあ話がまとまったところで本題に入ろう」
顔色も変えずに再び話を切り出してきた神屋を、千日は睨みつけた。それに気づいていない様子で、神屋は千日たち五人を見回す。
「さて、諸君。お気づきだと思うけれど、君たちには欠けているものがあるね」
頬杖をついてなぞなぞを掛けるように神屋が言ってすぐに、元気よく若槻の手が上がった。
「はいはーい! 俺たち七福神のはずなのに、メンバーが二人足りませーん」
能天気な答えに、神屋が小気味良く指を鳴らした。
「ご名答。というわけで、君たちには残りの二人を迎えに行ってもらうよ。場所は西の都、炯都。まあ九分九厘、途中で連中の邪魔が入るとは思うけど、何とか頑張ってきてください。お土産は八ツ橋と漬物辺りをよろしく。以上!」
ちゃっかり土産まで要求しながら爽やかな笑顔でまとめると、神屋はひらひらと片手を振って千日たちを追い出しにかかった。
本当に、腹の立つ男である。
鼻の先で扉が閉まる寸前、千日は神屋を探るようにそっと見やった。神屋の顔の表層には、相変わらず能面のように笑みが貼りついている。
不満げに眉根を寄せた千日に気づいたのか、神屋は更に底冷えさせるような温度のない笑顔で何事かを舌に乗せた。
身を乗り出して言の葉の欠片を掴もうとした千日の目の前で、バタンと扉の閉まる無感動な音がした。
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