鬼の血脈 七つの福音[七]



 兜京駅発炯都駅行きの新幹線たから七〇一号は、予定通り八時に運行を開始した。
 連休の初日の朝のためか、車内は家族連れやカップルで賑わっている。この和やかな空気を破って白昼堂々鬼が姿を現すなどということは、万に一つもないだろう。千日はそうのんきに構えていたが、海堂たちの反応は半々だった。
「炯都に着くまでの約二時間半、俺たちは密室に閉じ込められているわけだからな」
 そう言ったのは通路を挟んで向こう側の席で携帯を弄っていた海堂で、それに頷いたのは凌だった。凌は千日の隣の席の通路側で興味もなさそうに観光ガイドをパラパラと捲っている。メンバー二人を欠いた七福神一同は通路を挟んで男女に分かれて横並びに座っていた。
「でもこんなに人いっぱい居るのに、連中が現れたら大騒ぎじゃない?」
 千日が鬼への恐怖も手伝って、むきに反論する。
 『連中』とはもちろん鬼のことだ。
 流石にこんな公の場で、鬼や化け物といった単語を発するのははばかられた。
「皆殺しにすりゃ、問題ねぇだろ。目撃者ゼロにするためなら、あいつらやりかねないかもな」
 すぐ後ろに小さな男の子が座っているにもかかわらず、海堂はそんな物騒なことを口にした。
 確かに先日の夜の街においては、あのまま鬼たちが追撃を続ければ、目撃者を全員抹殺ということはできなかっただろう。
 千日の眉根にますます皺が寄る。
「たとえ目撃者が居なくても、すごいニュースになっちゃうじゃない。そんなハリウッド映画顔負けのパニックもの。むしろホラー?」
「まあ、連中も進んで大事にはしないっすよ」
「その内、そんな気遣いもしなくなるかもしれないけどね」
 若槻のフォローをさりげなく九重が両断する。訳もなく人を脅かすようなことはしなさそうな彼が言うのだから、その可能性は高いのだろう。
 千日は、何もかもが変わってしまった十七の誕生日に、鬼たちを率いるようにして襲いかかってきた例の男を思い浮かべてぶるりと震えた。
「大丈夫、天女は私が守るから」
 ページを捲る手を休めて、凌が微かに微笑んで言った。
 千日は思わず凌に抱きつく。
「ああもう凌ちゃん、痺れるぅ」
 言うと、海堂が呆れたように鼻を鳴らすのが聞こえた。
 若槻は携帯ゲーム機に向かいながらも、楽しそうに声を上げている。同様に微笑みながらも九重だけが、神屋に渡された残り二人のメンバーの所在地を示した地図を広げて、任務らしさを保っていた。そうでなければ、修学旅行の電車の中の馬鹿騒ぎと大差ないだろう。
 千日は凌から離れると、窓の外に目をやった。青い空と白い雲のコントラストが眩しい。
 千日は目を細めると、脳内に響いてきた声に唇を噛んだ。
『やめといた方が良いよ――死にたくなるから』
 所長室で、神屋に耳打ちされた言葉だ。
(死にたくなるから?)
 あいにく千日は、ちょっとやそっとのことで人生を投げ出さない主義を掲げている。
 現に、これまで信じてきた世界の常識が覆されても、学校と友達を理不尽に取り上げられても、割とすぐに立ち直った。勿論それには海堂たちの力も大きかった。だが、この十七年間、何が起ころうと千日が自分から命を断とうと思ったことは、万に一つもなかった。両親を亡くしても一人で生きてきた図太さは半端なものではない。
 神屋も、千日がそう柔な人間でないことは感づいたはずである。
 その上で、神屋は現状を呑んだ千日に対してああ言い放った。それは、暗にこれ以上の悲劇が待ち受けていることを告げているような気がしてならない。
 何故、鬼に狙われるのか。
 何故、研究所に保護されるのでもなく戦闘部隊七福神の一員として迎え入れられたのか。
「あー!」
 千日はダン、と床を踏み鳴らした。前の席に座っていた若い金髪の男が驚いて飛び上がるのが視界の端に映る。
「考えるの、やめ! 凌ちゃん、その観光ガイド一緒に見て良い?」
 きょとんとした凌の瞳がフードから覗く。
 一日中首を捻って考えていても、千日の常識と無いに等しい推理力で辿りつけるような答えではないはずだ。
 神屋は、鬼退治が終了したら学校に戻っても構わないと言った。何でこんな状況に身を置かれているかはともかく、さっさと任務を果たして日常を取り戻すのだ。
 千日はぐっと拳を握り、残りのメンバーはどんな人物たちであろうかと思いを巡らせた。

 炯都駅に着いてすぐ、千日は凌にこっそりとお手洗いに行きたいと訴えた。
「海堂、その辺で適当に飲み物と弁当でも買っておけ。バスで二時間、だっただろう?」
 凌がそう機転を利かせて言った。
 海堂が怪訝そうに凌を振り返る。
「ああ? 単独行動はあんまり賢くねぇぜ?」
 鬼たちを警戒しているだけあって、海堂は凌を牽制する。そんな海堂を、凌が睨みつけた。
 まったく、プライバシーも何もない。千日はむっとしながら凌の隣に並んだ。
「トイレよトイレ! あたしが言ったの。まさかあんたトイレにまで着いて来る気じゃないでしょうね」
 じっとりと不審者を見る目つきで千日が言ったので、海堂は言葉を詰まらせたようだった。
「……なら、まどろっこしいことすんな! 普通に言えよ!」
 逆ギレされ、千日は思いっきり眉間に皺を寄せた。
「そりゃあないっすよ先輩」
 若槻がなだめるように言う。
 海堂は本当に、微妙な乙女心というものを分かってくれない。別に、分かってほしくもないが。
 というか何でトイレの話題でこんなに盛り上がらなくてはならないのか。
「凌ちゃん、念のため千日ちゃんについてってくれる?」
 険悪なムードを断ち切るように、九重が言った。
 凌がもちろんだとでも言うように頷く。
「ごめんね凌ちゃん。トイレなんてすぐそこなのに」
「否、大丈夫だ。デリカシーのない奴は放っておいて行こう」
 凌に手を引かれ、千日は海堂に背を向ける。
 デリカシーがないって俺のことか! という海堂の声に凌は振り返りさえしない。
 これからもこんな厳重警護という名の監獄のような生活に耐えなければならないのかと思うと、憂鬱で仕方がない。凌が居て本当に良かったと思う。
 女子トイレの傍まで来て、千日は長蛇の列にげんなりした。
「うわ、そっか。駅のトイレって結構込むんだよね。どうしよ、どっか外に出てみた方が良いかな」
「否、あまり海堂たちから離れるのは危ない。並ばせてしまって天女には申し訳ないが、人が多い方が安心できる」
 凌が心底申し訳なさそうに言う。
 結局鬼の気配の欠片もなかった新幹線の車内の平和な光景と駅構内のざわめきを思えば、こんな場所に鬼が出没するとは到底思えないのだが、念には念を入れた方が良いのだろう。
「凌ちゃんがそんな風に言う必要ないって。本当に迷惑かけてごめんね。凌ちゃんもなんかあたしに話したいことあったら気軽に言ってね」
 そのまま他愛ない話を続けてしばらくすると、千日の前に並んでいた四十代くらいの婦人がトイレに入って、間もなく大学生くらいの女性が出てきた。
「じゃあ私は外で待っているから」
 凌がトイレのドア付近の壁に背をもたれかからせて言った。千日は頷き、トイレに入る。
 流石大きな駅のトイレだけあって清潔なだけでなく広いし豪華だ。化粧用の鏡まで置かれている。
 千日は空いているトイレの個室まで近づいて、突然近くのトイレの個室から飛び出してきた人影に激突された。
「う、わ!」
 間抜けな声が漏れたが、どうにか倒れないよう踏み止まれた。それほど衝撃がなかったためだろう。目をやると、千日の胸の辺りにどうにか届くほどの身長の小柄な少女であった。
「大丈夫? 怪我ない?」
 屈んでそう問いかけると少女は少し目を瞠って、千日から距離を取った。慌てて、肩から下げたポシェットの中を探る。
 千日はそのあまりの慌てぶりに首を傾げていたが、すぐに見知った声に気を取られて後ろを振り返った。
「あ、凌ちゃん」
「どうかしたのか? 声が聞こえたような気がしたのだが」
 少し警戒するように、凌の声のトーンが下がる。
「あ、うん。今ちょっと女の子とぶつかっちゃって」
「……女の子?」
 凌が眉間に皺を寄せて千日の周囲を見回した。
「どこにも居ないが」
 言われ、千日は目を丸くした。
「え、だって今……」
 少女を振り返るが、その姿はもうどこにもなかった。
 凌の顔つきが鋭くなる。
「や、でも凌ちゃん。普通の子だったよ? 何か恥ずかしがり屋な子だったみたいだし、このトイレ広いからどっかに隠れちゃったのかも」
 しどろもどろになりながら、千日が弁明するように言う。
「あ、トイレまだ行ってなかったんだった」
 凌が刃を研いだような眼差しで見つめてくるのを感じながら、千日はトイレの個室に入った。
 同性とはいえ、このように凝視されながらトイレに入るのは恥ずかしい。せかせかとトイレから出てくると、凌は周囲に睨みを利かせている最中だった。
 やはり、そんな大事なのだろうか。当人に自覚がないというのが、申し訳なくてならない。
 行きより俄然早足になった凌を追いかけて、売店まで辿り着くと、先ほどのいらいらが抜け切っていないらしい海堂に「おせーよ」と一喝された。


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