鬼の血脈 七つの福音[八]



 バスに揺られて二時間、凌に揺さぶられて千日ははっと目を覚ました。いつの間にか眠っていたようだ。
 乗車賃を払い、バスを降りると、千日はそこに広がる光景に唖然とした。
「山ん中じゃん!」
 辺りには緑が茂り、自然の中特有の土の匂いや木々や草花の匂いが立ち込めている。千日たち五名を除けば、そこには人っ子ひとりいない。
 薄らと靄がかかっていて、不気味でさえある。
 こんな所に果たして残りのメンバーが居るのだろうか。実に疑わしい。
「あーここから更に三時間くらい歩いた所にある集落がそうらしいよ」
 少し顔を引きつらせながら九重が言った。
 この山道を三時間。考えただけで身体が重くなる。
 誰もが、面倒くさそうな表情をしていた。勿論、千日以外のメンバーは体力に相当自信があるのだろうから、実質的にはそこまでの負担ではないのだろうが。
 三時間ほど歩くと、山間の集落が見えた。集落の西には棚田が広がっている。まだ三月上旬であるから苗は植わっていないが、その風景はとてものどかだった。
 こんな山奥の集落に、鬼と戦える超人が居るのだろうか。
 千日は訝りながら、あと僅かとなった山道を下りて行く。
「気をつけろよ」
 やや硬い海堂の声がした。
 千日はその意味を図りかねて海堂をまじまじと見る。海堂はその視線には応えず、ただ黙々と歩いた。
 何だか、海堂の身体からぴりぴりとした緊張が伝わって来るような気がする。
 神屋に鬼たちの邪魔が入ると言われたのに、未だにそれがないことを危惧しているのかもしれない。
 千日は気を引き締め、集落に向かって足を運ぶ。
 山間にある農村集落というと今では閑散としたイメージがあるが、ここはそうでもなかった。かといって、賑わっている訳でもないのだが、最近テレビなどで特集されている限界集落といった感じはしない。
 瓦葺の屋根が立派な家ばかりが建ち並び、どこか格式高い印象さえ抱かせる。
 少し開けた広場のような場所に出ると、数人の男の子たちがちゃんばらごっこをして遊んでいた。千日たちに気づくと、少しびくついたような表情になったが、若槻の屈託のない笑顔を見て、少年たちは警戒を解いたようだった。
 その後も珍しいに違いない訪問者たちを見つめる不審げな目にいくつも晒されたが、皆それぞれ千日たちから距離を取り、話しかけてくる者はなかった。
「えっと、ここだね」
 そう言って九重が立ち止まったのは、集落の中でも一際大きな造りの屋敷の前だった。
 千日は疑りの目をその屋敷に向けるが、大人しくその門をくぐるほかない。
「遠い所をようこそお越しくださいました。お話はうかがっております。奥の部屋で当主がお待ちです」
 出迎えてくれたのは若い女で、驚いたことに着物を身に着けていた。屋敷の外観だけでなく、内装やそこに居る人まで雰囲気があって、千日はタイムスリップしたかのような不思議な心地を味わった。
「え、まさかメンバーの一人って……」
 小声で九重を振り仰ぐと、彼は千日とは少し違った表情で、けれども狼狽えた様子は全く同じに頷いた。
 この格調高い家の当主ということは、物凄い頑固で硬派で規律にうるさい寡黙な親父もしくは同じく頑固で硬派で以下略なご老人に違いない。その上、武道の達人で厳めしい道場なんかを開いているのだ。少年たちがちゃんばらごっこをしていたのは、その一環だろう。
 勝手な妄想に千日はぶるりと震え上がると、七福神のメンバーを見回した。
 海堂は口が悪いし、若槻は調子が良すぎるし、凌は千日には親切だが他のメンバーをごみのように扱うし、九重は唯一の常識人だが頑固親父にかかれば軟弱者の烙印を押されるかもしれない。千日は千日で最近の若いもんは……と説教される要素を十分に抱えている。制服のスカートがミニになっている時点で既にアウトかもしれない。
 お前たちと仲間になるなどとは認められんわ! とちゃぶ台をひっくり返され追い返されることになったらどうすれば良いのか。
 千日は着物の女が当主が居るらしい部屋の襖を開けるのを、絶望的な気分で見つめた。
 千日は恐る恐る室内に目を凝らす。畳敷きのその部屋は、流石この屋敷の当主の部屋らしく広く、奥には何やら掛け軸が掛けられており、高価そうな壺が鎮座していた。ちなみにちゃぶ台はない。
 しかし千日はそれ以上この部屋の光景を見るに堪えなかった。
「…………え、あのどこに当主がいらっしゃるんですか」
 千日が若干引きつった笑みを浮かべながら着物の女性に尋ねた。
 女性はたじろいだ様子もなく、
「あちらに」
 と千日が思わず見て見ぬ振りをした物体を示した。
 その物体の周りには、真昼間だというのにビールや焼酎の空き缶が散らばり、やたらと肌色率の高いグラビアアイドルが悩殺ポーズを取った雑誌が広げられている。
 畳に寝転がったその物体は、女性同様着物を引っ掛けていたが、はだけた胸元が丸見えになっている。
 休日のだめ親父そのものの姿である。
 いや、まさか、これがこの屋敷の当主であるはずがない。千日はその後ろに誰かが隠れているに違いないと踏んで、その物体に近寄った。
「お」
 多分もういい歳であろうに、その男は茶目っ気たっぷりに千日を見上げた。
「良い眺め」
 ご丁寧に語尾にハートマークまでつけて、男が千日に微笑んだ。
 千日は恐る恐る男の目線を確かめて、コンマ一秒もしない内にずざぁぁぁと後退る。
 別の意味で、この当主の前でミニスカートは絶対履いてはならなかったことを千日は認識した。スパッツを履いていて良かったと心底思う。
「貴様……」
 おどろおどろしい凌の声が室内に響く。今、霊が出てきても千日は驚かない。
 どすどすと凌が男の方に歩み寄る。
「あれま、女の子二人だったの」
 上擦った響きに、凌の足が止まる。
「な!」
 凌の声に、初めて動揺が走る。
 すっかり勢いをなくした凌の腕を、千日は引っ張った。
「凌ちゃん、近づいたらダメ! 何されるか分かったもんじゃないわ!」
 茫然としている凌を、千日は無理やり引きずる。
「凌の正体を一発で見破った奴は、そういや初めてだな」
 海堂が感心したように呟く。
 千日ははっとして男を見た。
 にやりと笑った男は、おもむろに立ち上がると二、三歩こちらに寄って来た。千日が凌を引っ張って九重の後ろに隠れる。
 凌はいつも通りフードを頭から被っているし、パーカー自体だぶだぶで身体の線は殆ど分からない。若しかすると、国立防衛研究所の凌と千日の部屋以外ではサラシを巻いている可能性もある。何より、女の千日にさえ気取らせないほど、凌の男装は恰好から仕草に至るまで徹底していた。
「どんな格好してようが、どんなに無理して低い声出していようが、女の子は女の子っしょ。それくらい分からないようじゃまだまだだぜー、少年たち」
 男は呆気に取られる一同を見渡し、満足げに頷いた。
三船みふね広太こうた。歳は三十二。えーと、何だっけ。福禄寿ふくろくじゅ? に選ばれちゃったみたい」
 実に軽い調子で男はそう自己紹介した。
「えーっと若槻琢真っす。歳は十六。チーム内でのセクハラはご法度っすよ」
「海堂陸。十七歳。酒は控えろよ」
「九重律です。二十四歳。飲み過ぎで肝臓がやられたら僕が看てさしあげますね」
「……佐倉凌。十八」
「…………天財千日よ。歳は十七」
 妙に冷たい反応を物ともせずに、三船は千日と凌に綺羅星のごとく輝く瞳を向けた。
「うーん、十七に十八か。何と瑞々しい響きだろう。ああ――俺、こんなピチピチギャルに囲まれるなら、ずっと福禄寿やってても良いかも」
 おお神よ感謝します、と大仰に天を仰いで三船が言った。
 凌が、腐った生ゴミでも見る目つきで三船を見やる。その気持ちは千日にもよく理解出来た。
 その時だった。まず、三船がにやにやとしただらしない顔を引っ込め、次に千日以外の四人がさっと顔つきを変えた。
 すぐに、外の方が騒がしくなる。
「まさか、このタイミングで来るとはな」
 海堂が忌々しげにそう言い、襖を乱暴に開けた。訳が分からない千日を尻目に七福神のメンバーたちは各々武器を取り出し始める。
「う、嘘、来ちゃったの!?」
 半狂乱状態の千日の腕を、若槻が落ち着かせるように取った。
「だ、だってここ普通に人が生活してるのに! あいつら手段を選ばなくなったってこと!?」
 叫び声を上げた千日を三船が振り返る。
「この集落の連中はちょっと皆ワケ知りでね。だから、そっちの心配は要らないってわけよ」
 言った三船の声音も顔もへらへらと明るかったが、瞳には焦燥の色が微かに浮かんでいた。
 三船は奥に立てかけられていた刀を手に取り、真っ先に廊下へ飛び出した。
 そのあまりに切迫した様子に、千日はやっとひどく単純なことに思い至る。
 そうだ。この土地は、彼が暮らしている場所なのだ。家族も友人も、彼の全てがここに在る。
 走り出しかけた千日を、強い力が引き留めた。
 驚いて振り返ると、若槻の手のひらが、まだ千日の腕を強く捉えていた。
「何!?」
 若槻の腕を振り解こうと千日は強引に腕を引いたが、それは叶わなかった。ただ燃えたぎるように熱い若槻の手が、いっそう強く千日を離すまいと鎖のように絡みついただけだった。
 口を開こうとも動こうともしない海堂ら四人をいらいらと見つめて千日は怒鳴った。
「何やってんの! 早く行って助けなきゃ! ここには小さい子や女の人だっていっぱい居たじゃない! 何でこんな所で固まってんの!?」
 千日の瞳が、ぎらぎらとした光を放ちながら四人を見据えた。それでもやはり何も言わずに若槻は目を逸らし、凌は唇を噛み、九重は歪んだ笑みを浮かべる。
 海堂だけが、真っ直ぐに千日を見つめた。
「俺たち七福神は、お前を守ることを最優先事項としている」
 冷めた目でそう告げられ、千日は絶句した。
「――何それ……だって鬼が来てるんでしょ? あんたたちはスーパーヒーローだから七福神に選ばれたんでしょ? 早くしないと……ここの人たちが死んじゃう」
 死んじゃう。
 その言葉の意味に、千日は戦慄した。
 そうだ。助けないと、誰かが、人が、死んでしまう。血を流して、冷たくなって、いなくなってしまう。
「……スーパーヒーロー?」
 ひどく歪んだ、海堂の声がした。
 その嘲るような響きに、千日は目を瞠った。
 外から女の悲鳴が聞こえてくる。
 耳を塞ぎたい衝動を堪えながら、千日は悄然として力の緩んだ若槻の手を振り解いた。
 駆け出した千日は、今度は加減を知らない乱暴な腕に引きずられ、その勢いのままに押し倒された。
「退いてよ!」
 千日が半分泣きながら喚く。
 どれだけ凶暴な色をしているのかと見上げた海堂の目には、何の色も映ってはいなかった。
「行って、お前に何かできんのか?」
「な――ッ」
 振り上げた手を、易々と海堂に掴まれ捻り上げられる。
 そのあまりの痛みと、海堂の言葉の正しさに、千日は言葉を失った。
(あたしには、何の力もない……)
 偉そうに海堂たちを罵っておいて、自分が一番役立たずだ。
 そして――千日はこれまで何度も言われて来た言葉を思い出して凍りつく。
「……あたしの――せい?」
 千日は鬼に狙われている。
 千日がこんな辺鄙な田舎にまで来ているのは、全部その一点のためだった。
「あ……や、だ。うそ…………。あ、あたし、あたし、どう、すれば」
 役立たずどころか、千日は全ての元凶だった。
 がたがたと震え出した千日の身体から海堂が離れる。手首を強引に引かれ、立ち上がらせられた千日は、泣くことすらできずに外から聞こえる異常な喧騒に皮膚を何度も何度も裂かれた。
 過呼吸になりかけた千日の背を、九重が擦る。呼吸が落ち着いて来ると千日はすぐに海堂に詰め寄り、ばっと頭を下げた。
「お願いします。あたしのことは放っておいて良いから、皆を助けに行って」
「だから、俺たちの任務は……」
 千日は海堂の嫌悪さえ混じった表情を睨み上げたが、何も言わずにもう一度頭を下げた。
「お願い。お願いだから、行って! あたしのせいで人が知ぬなんて、絶対認められない!」
 千日はそのあまりに利己的な理由に自嘲の笑みが浮かびあがって来るのを感じながら、今度は若槻に向かって頭を下げた。
「お願いします。あたしなんかじゃなくて、ここの人たちを助けてあげて。お願い……お願い」
 若槻の服の裾を握り締めて、千日が崩れ落ちる。
「姐さん……」
 若槻の、気遣うような視線が落ちた。
 壊れ物でも扱うかのように、千日の石のように固まった指を一本ずつ引き剥がしていく。
「すみません先輩。俺行きます」
 海堂の方をちらりとも見ずに、若槻が言った。
 千日は弾かれたように若槻の背中を見つめた。ああ、と声とも息とも震えともつかないものが、千日の中から溢れだす。
「おい琢真」
 絞り出された苛立った低い海堂の声に、凌のそれが重なる。
「悪いが、私も行く。天女の体は守れても、心を守れないようでは意味がない」
 男顔負けの気障な台詞を吐いて、凌が若槻に続いて部屋を出て行く。千日は泣き笑いの表情で、それを見送った。
「僕の本分は治癒・後方支援なんだけどね。まあ、ちょっとは腕も立つし、怪我人が居るなら役に立つでしょ」
 何てことない様子で言った九重が、メスを両手に軽快な足取りで二人を追った。
 後には底知れない沈黙だけが残る。
「あいつら、勝手な真似を――」
 忌々しげにそう吐き捨てた海堂の瞳に、ほんの僅かに怖れの感情を読み取って、千日は声が漏れそうになるのを必死で抑え込んだ。
 何だか、凌の言葉を借りれば、心を本当に守られるべきなのは、千日ではなく海堂のような気がした。
「海堂、行こう」
 そっとその無骨な手を取り、千日は歩き出した。
「お前……!」
 抗議の声に千日は微笑んで振り向く。
「守ってくれるんでしょ?」
 挑戦的に瞳を閃かせて笑みを深めると、海堂の瞳にいつもの自信満々な光が灯った。
「言うようになったじゃねぇか」
 口角を吊り上げた海堂が、自身の髪を乱暴に掻き上げて一瞬俯く。
 千日は何も言わずに前を向いた。背後で、押し殺した深い溜め息が漏れるのを肌で感じた。
 門の向こうで時折上がる奇声と何かを抉るような音と悲鳴に苛まれながらも、千日が歩みを止めることはなかった。
 戦うなどということは到底出来ず、更には千日はこの悲劇を生んだ張本人だ。
 しかし、何もしないでただ自分の無力を嘆いて小さな部屋に籠っていても、何も生みはしない。エゴでしかないが、動けば何かが変わるかもしれない。
 千日は繋がった手のぬくもりを頼もしく思いながら、夢のようだとはもう到底思えなくなったあまりに惨い現実に自ら望んで足を突っ込んだ。


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