鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[一]



 畳敷きの広い部屋の中心に、雪白の色をした布団が敷かれている。掛布の色も、合わせたように一点の曇りもない白色だ。年頃の少女のものにしては華やぎのないと、祖母が口癖のように言っていたのを思い出して、娘は一人鼻白んだ。
 横たえていた身体をそっと起こすと、娘は胸に落ちかかった腰のほどまで届くぬばたまの髪を、抜けるように白く細い指で後ろに払う。
 一人で居るには広すぎる部屋を見渡して、娘はそっと息を吐いた。幼少のころより慣れ親しんだ部屋には、娘が眠る布団以外何一つ、家具らしい家具どころか物というものが存在しなかった。自ら望んでそうしたとはいえ、時折この部屋は物寂しく、娘の深更を映し取ったかのような紺碧をたらし込んだ漆黒の瞳に映る。
 ふと、娘は障子戸の向こうから僅かに射し込んだ朧げな光に惹かれるように、ふらふらと歩き出した。寝てばかりいるせいか、足元さえ覚束ない。自分の部屋を移動するというただそれだけのことが、ひどく億劫に感じられた。
 やっとのことで窓辺に辿り着くと、娘は障子戸に掛けた指にぐっと力を込めた。
 仄暗かった室内に、日の光が矢のように射し込む。その眩しさに、娘は思わず目を瞑った。それでもめげずに、娘は続いて窓に手を掛ける。前髪をさやさやと揺らす風のいたずらに、ついに微笑が漏れた。
 長く冷たい冬が終わった証に、ほのかな甘さを孕んだ匂いが立ち込める。窓の外に彩りはまだないが、そう時を待たずに薄紅の花が競い合うように爛漫とつぼみを広げ始めるだろう。
「姫」
 突然部屋の外で響いた声に、娘は振り返る。
 さながら夜の月のごとく冷たい響きだが、娘はその響きを気に入っていた。
「入りなさい」
 娘の囁きを受けて、襖が慎ましやかに開かれた。
 見れば、見上げるほどの上背を持つ男が、膝を揃えてこちらに向かって頭を下げている。
「いつも思うけれど、それって無駄だわ。さっさと用件を伝えたらどう?」
 棘のある言葉に、男は顔色一つ変えずに立ち上がり、こちらに向かって来る。歩を進めるごとに、高い位置で一つに結い上げられた長い黒髪が揺れる。女の髪にさえ引けを取らないそれに、娘は少し苛立ちのようなものを感じる。
 しなやかな獣の姿を縫い止めたような男の精悍な顔つきに、笑みは刷かれない。それどころか、娘が立ち上がっているのを認めて、男は形の良い眉を寄せ、いつもの小言を言い始めた。
「姫、また勝手に立ち歩きなどをなされて」
「だったら私を抱えて外に連れて行って。そうしたら、勝手に歩き回るのをやめるわ」
 娘は、腕を広げ、男に近づいた。
 男は、困ったように後退りする。
 いつもの光景だ。箱庭のような世界に閉じ込められた娘の手を取って、外に連れ出してくれる者は、誰一人として居ない。
 それが分かっているから、娘はねだるように男に近づき、小首を傾げる。
桐谷きりたに。お前は私の願いを何もかも叶えてくれそうな顔をして、一度だって私が心から望んだことを叶えてくれたことはなかったわ」
 娘は目を細めて男――桐谷を睨めつけるが、結局それは慈愛に満ちた微笑にすり替わる。
「お帰りなさい。今回は上手くやったみたいね」
「そう毎回不覚を取ったりなどしません。今回は姿さえ見られていない。まあ、あいつは感づいたかもしれませんが」
 桐谷が口角を上げたのを見て取って、娘は少し面白そうに瞳を閃かせた。
「随分とご執心ね。彼、あちらで楽しくやっているのかしら」
「またぼろぼろになっていましたよ。守るに値しない愚かな小娘を死にかけながら守って、何が楽しいのだか」
 ふてくされたように言う桐谷が、柄になく可愛らしい。
「ふふ、妬けるわね。最近、お前はそんなことばかり言ってるわ」
 言って、娘は目を丸くしている桐谷の頬を撫でた。
「お前のそんな顔を見れるのは、私くらいかしらね。そうそう、朗報があるの。入って」
 スッ、と襖が音を立てて開く。
 桐谷が振り向いた先に、まだ年端もいかない華奢な少女が立っていた。桐谷は値踏みするように少女を見つめる。大の男でも竦んでしまうような冷たい視線を、少女は事もなげに受け止めると、あろうことか桐谷を睨み返した。気の強そうな真っ直ぐな瞳だ。
 桐谷は少女から目を離すと、再度娘を向いた。
「では、姫。鬼師が揃ったと?」
「あちらも数を揃えたようだもの。私は形式にあまり関心がないけれど、皆は血にばかり……」
 娘は言い終わらない内に、眩暈を覚えてふらりと傾いだ。桐谷が即座に娘の前方に回り込んで、その身体を抱きとめる。
「早く、あの子に会いたいわ」
 娘がこぼした囁きに、桐谷は唇を噛んだ。
「俺は、貴女以外を認めるつもりはありません」
 空気を震わせながら発せられた桐谷の固く強張った声に、娘は微笑を返すだけだった。


BACK | TOP | NEXT