鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[二]



 国立防衛研究所に辿り着いてすぐ、七福神一行は神屋の部屋を訪れた。
 事の首尾については主に海堂が、集落や急遽代役として布袋に就任した中原についての質問には三船が答えていく。
 神屋はどこか面白そうに三船と中原を見比べたが、結局恐れていたような深刻な事態には陥らず、にわか仕立ての対鬼特殊部隊・七福神はあっさりと認められた。中原が自分アピールを始めるまでもなかったのだから、本当に驚くばかりだ。
 千日は拍子抜けするほかなかったが、下手に口を出して神屋のへそを曲げるようなことはしたくないので、特に口を開こうとはしなかった。
 報告会は神屋のお疲れ様ーという軽い調子の言葉で打ち切られた。彼に個人的に残るように言われた海堂を残して千日たちは所長室を後にする。
「オレの強さがあの所長には一目で分かったんだな!」
 中原が鼻唄まじりに胸を反らしてそんなことを言う。
 それはないだろ……と誰もが思っていたが、何も知らない幼気な少年を脅しても可愛そうなだけなので、誰も何も言わなかった。というのは建前で、多分皆、本心では神屋の本性に気づいた時の中原の反応を楽しみにしているに違いない。
「メンバーが集まったのは良いけど、あたしたちって今後どうすればいいの? その辺所長から説明あるのかと思ったけど、ないし」
「ふふ、それはわたしが説明するわね」
 不満げな千日の声に応えたのは、曲がり角の向こうから現われた唯香だった。今日は、先日のガーデニング姿とはまるで異なる淡い色のパンツスーツを着こなしている。細身だが出る所はちゃんと出た女性らしい美しいシルエットが眩しい。
 ぽかんとした表情になった千日とは対照的に、初対面にもかかわらず、いち早く三船が唯香の元に馳せ参じた。
「何と麗しい、天使のような方だ」
 三船が、気障を通り越して阿呆丸出しな台詞を気取った仕草をしながら吐く。
 唯香は一瞬きょとんと目を瞠ったが、すぐにくすくすと笑い出した。流石に、あれだけ美人だとこういう変態の変人にも耐性がついているらしい。
「初めまして、あなたが三船さんですね。そっちの彼は……?」
 小首を傾げた唯香が、屈んで中原に笑いかける。
 中原の顔が一瞬で赤面するのが、千日にも見て取れた。流石に、お年頃である。
「オ、オレは、な、中原……た、毅です」
 中原が尻すぼみになりながらも何とか自己紹介をする。中原が敬語で喋っているところなど、初めて見た。というか、敬語が使えたことが驚きである。
 何となく千日は同じ女の格好をしている自分と唯香を見比べて、打ちひしがれた。これぞ、格差社会である。
「毅くんね。何か困ったことがあったらいつでもお姉さんに相談してね」
 ふわりと花開くように笑った唯香が、千日に視線を戻す。
「今後のことについてだけど、わたしたち一般戦闘員と連携を取って、最近世間を騒がせている鬼たちの討伐を行ってもらいたいの」
「ええ! 東雲さんも戦うんですか?」
 素っ頓狂な声を上げた千日に唯香がくすりと笑いかける。
「うふふ、結構強いのよ、わたし」
 千日は、ただの男子高校生のような海堂や若槻が人間とは思えない動きを見せたり、同じ女であるはずの凌がナイフを巧みに操ったりと、人は見かけによらないことを思い知らされたばかりである。それでも唯香があの獰猛な鬼たちを相手に血生臭い戦いを繰り広げているとは到底想像しがたい。
 悪戯っぽく笑って、唯香は続けた。
「知っての通り、鬼たちは夜に動くことが多いから基本的に活動は夜間になるわ。今、所員たちの大半が兜京の各地に散っているから、彼らから出没報告が届いたら、すぐに現地に向かって所員たちのサポートをお願いしたいの。今、ニュースでやっている被害者の半数が所員なのよ。最近は上級の鬼たちが出没することも多くてね」
 顔を曇らせた唯香に、おもむろに九重が近づいた。
 珍しく、九重の顔から笑顔が消えている。
「唯香。顔に傷ができてる」
 指摘され、僅かに眉を動かした唯香が、頬に走った傷に手をやった。
「あら、こんなのかすり傷よ。りっちゃん」
 何てことないといった顔で笑った唯香だったが、九重は険しい表情を解かない。何だかただの職場仲間とは思えない親密な匂いを嗅ぎ取って、千日は若槻に目をやった。
「ああ、九重さんと東雲さんは幼馴染なんすよ」
 道理で、と千日は頷く。
 しかし、どうも千日には九重と『りっちゃん』という響きが重ならない。幼馴染という関係が為せる業だろう。
「りっちゃんは、昔から本当に心配症なのよ。皆さんも、りっちゃんのお節介には気をつけてね」
 まだ何か言いたげな九重の機先を制して、唯香が茶目っ気さえ覗かせながら言う。
 幼馴染という甘酸っぱい響きに勝手に打ちひしがれた三船は放っておいて、千日は先ほどから気になっていた疑問を口にした。
「あの……その仕事ってあたしも行かなきゃいけないんですか?」
 千日は、正直言って七福神の足手纏い以外の何物でもない。千日を狙って鬼が出て来るなどということがもしあったら、被害の防止どころか、被害の拡大に貢献しかねない。
 その懸念を読み取ったのだろうか。唯香は再び顔を曇らせた。
「ええ……ごめんなさいね。もしもの時に一番確実にあなたを守れるのは陸くんたちだから、あなたたちを切り離すわけにはいかないの」
 だから、どうしてただの小市民である千日がそこまでして守られなければならないのか。しかし、神屋が教えなかったことを唯香が教えてくれるとは思えない。千日は代わりに、違う提案を唯香に持ちかけた。
「例えば、あたしを七福神の誰か一人と研究所に残しておくとかいうのもダメなんですか?」
「ごめんなさい。わたしにはこれ以上話せないわ」
 ひどく申し訳なさそうに、唯香が千日を見つめる。
 気づけば、千日は唯香だけでなく七福神のメンバーの面々からもじっと見つめられていた。その視線がどこか心地悪く、千日は身じろいだ。
 本来ならば、千日のような一般人は、ここに居て良い存在ではないはずだ。神屋が話さなかったことを、果たしてメンバーたちは知っているのだろうか。
「九重さん、俺、まだちょっと背中が痛っ痒いんで、ちょっと見てもらえないっすか?」
 空気を読まずに発せられた若槻の声に、千日ははっと我に返る。
 千日を中心に張り詰められていった緊張の糸が、するりと解けた。
「ああ、そうだったね。ごめん、僕はとりあえず医務室に戻るよ。何かあったら皆も医務室に来てね」
 九重が若槻を連れて歩き出す。次に三船がへらへらした笑いを浮かべながら唯香に所内案内を頼んだ。快くそれを受け入れた唯香に、三船と、彼に邪険にされながらも中原がついて行く。
「天女。部屋に戻るか」
 凌に問われたが、千日はふるふると首を横に振った。凌がどこか気遣わしげな視線を寄越して、去って行く。
(……ダメだなぁ)
 何だか、この数日でうんと人づき合いが下手になった。
 千日が今この場所に存在する理由。鬼に狙われる理由。それを聞けば、何かが壊れるような予感がする。理由なんてものは分からない。単に、神屋に言われた意味深な台詞が脳に刷り込まれてしまっているのかもしれない。しかし千日は、神屋に怒りを抱く自分が居る一方で、認めたくはないが、神屋に言われた台詞がしっくりと来ている自分が居ることも自覚してきていた。
「ふざけんなー!!」
 突如叫び、千日は神屋の部屋に向かって全力で走り出した。
 こんなもやもやといつまでも悩んでいるなんて、鬱憤が溜まるばかりで良いことなんて一つもない。
 ノックもせずに、ドアを蹴り飛ばすような勢いで、千日は所長室に踏み入った。
 少し驚いたような顔をしている海堂と目が合う。対する神屋は、面白そうに目を細めただけだった。
「やれやれ、天女様はお行儀というものが分かっていないみたいだね」
 首を竦めた神屋を、千日は睨みつけた。
 そういえば海堂が居たのだったとしぼみかけた思いが、神屋の挑発するような言葉と仕草にますます勢いを増して千日の火照った身体に火を点ける。
「あたしを炯都に行かせた理由は何ですか。三船さんを連れて来るだけなら、あたしが行く必要はどこにもなかったはずです。あたしが行かなければ、傷ついたりしなかった人も居るかもしれない! それに、これからの一般所員と七福神の鬼退治にあたしまで行かせる魂胆は何ですか」
 一気にまくし立て、荒く肩で息をする千日に向かって、神屋がくすりと笑う。
「君の利用価値が高いからだよ」
 千日は相変わらずわけの分からない神屋の言葉に鼻白んだ。
「どういう……意味ですか」
 神屋は気だるげに髪をかき上げると、どっかりと腰を下ろしていた椅子から立ち上がった。重さを感じさせない足取りで、千日の目の前まで歩いて来る。
「今回釣れたのは、どこにでも居る大して上手くもない魚だが、ゆくゆくは君で鯛を釣ることができると僕は期待しているんだよ」
 鬼には階級があり、鬼を使役する上級の鬼も存在するという。ということは、もしかしたら鬼の親玉のようなものが、存在するのかもしれない。つまりは――
「それは、これからも一般人や所員を犠牲にする危険を冒して、あたしに囮になれってことですか。あんたのお目当ての鬼が出て来るまで」
 神屋が感心したようにヒュウと口笛を吹く。だが、あまりに芝居がかっているので、まったくそのようには見えない。
「君は最初に会った時より随分と物分かりが良くなったようだ。でも、分かりきったことを聞くのは賢くないよ」
 千日の肩に手を置いて、神屋が笑う。ひどく整ったそれに、吐き気さえ覚えながら、千日は神屋の手を振り切った。
「天女どころか、死神じゃない」
 自ら吐き出した台詞に、千日は愕然とする。
 死神――その言葉が千日以上に似合う人間は居ないだろう。周囲の人を皆危険に巻き込んで、のうのうと自分は守られている。
 唇を震わせた千日は、尚も笑う神屋を認めて、瞠目した。
「君は勘違いをしているよ。多くを救うために小さな犠牲は付き物だ。連中は君を無視できない。そのことは、連中をより早くより確実に仕留めるのに大きな意味を持つ」
 では、三船の故郷で傷ついた人々の命は切り捨てられてしかるべきだったとでも言うのだろうか。これから千日が原因で傷つき死に至るかもしれない人々も、大義のための小さな犠牲と片づけられるのだろうか。本来ならば、傷つく必要すらない一般人を千日が死に追いやるというのか。
「あたしは、行かない。あたしのせいで誰かが傷ついても良いとかふざけたこと言ってるんだったら、あたしはここから一歩も出ません」
 きっぱりと言い切った千日であったが、神屋の表情に僅かな変化さえ起きることはなかった。
「君の意志はどうあれ、力づくで君を連れて行ける連中が君の仲間なんだよ」
 千日は神屋の言葉が信じられず、後退りした。
「皆だって、無駄に戦ったり誰かが傷ついたりするのは嫌なはずでしょ!? あんたの言葉なんて――」
「聞くよね、陸」
 千日の言葉に割り込んで、神屋は朗らかに言いながら海堂を振り向く。
 千日は、海堂を縋るような思いで見つめた。海堂が、僅かな沈黙の後に、ゆっくりと頷く。
「な、んで――」
「勿論、君の仲間は有能だから、犠牲を出さずに済むかもしれない。僕だって、下手に被害が拡大すれば、困ったことになるからね。君たちが犠牲を出さず、上手く立ち回って、早々に連中の頭を引きずり下ろしてくれることを望んでいる」
 いかにも仕事に実直で他への配慮を忘れない出来る上司の顔をして、神屋は言った。
 そういえば、炯都での三船以外の七福神の動きに、一般人への心遣いなどなかった。あの時は、千日の懇願によって、結果的に人々を守るという形を取ることにはなった。だが、今後彼らがどう動くのか、千日には皆目見当もつかない。
 それ以上に、千日は自分が何者なのか、今ではさっぱり分からなくなっていた。
 十歳の誕生日まで、はきはきと明るい母と、母にはてんで弱いが頼りがいのある父にたくさん愛されて育った。十歳の誕生日、両親を亡くし、それからはただ、生きるために生きた。幼稚園から一緒だった小学校の友達に、両親の代わりにたくさんのものを貰った。皆、優しかった。それでも、両親が揃った周りの友達が羨ましくて仕方なかった。寂しかった。どこか卑屈に世界を見つめていた。
 中学時代、千日は逆毛を立てた猫のようだった。最初は友達なんて居なかった。否、友達だと信じ切れなかった。いつか両親のように居なくなるのではないかと思うと怖かった。出来る限り、人を愛さないようにした。
 中学三年生の春、咲穂に出会った。その名の通り、秋の実りと豊かさを思わせる愛に溢れた少女だった。頑なだった心がするするとほぐれていった。おまけに、生まれて初めての恋をした。受験期に入って彼とのことはうやむやになってしまったけれど、千日はもうたくさんの人を愛せるようになっていた。
 高校時代、面白おかしく、けれど後悔しないように毎日を過ごした。たくさんの大切なものができた。
 両親を失ったことは確かに少し、周りの同年代の少年少女たちと違った。けれど家庭に恵まれずに育った子どもはこの国にはいくらでもいる。千日に特筆する点であったとは思えない。
 それが、今ではまるきり違う世界に立っている。そして、既に受け入れた。受け入れざるを得なかった。
(あたしは、誰なんだろう。何なんだろう)
 さっきまで、それを知ることを千日はひどく恐れていた。崩壊の予感がした。
 けれど今は、こうして鬼と人の戦いの鍵を握っているかもしれない自分のことを、知りたいと思っている。
 神屋は未だにそれを教えてくれる気配がない。神屋が教えないことは、この所内に居る全員の口から漏れることはないだろう。
 ならば、前線に出て鬼たちの思惑を知るのが、一番の近道なのかもしれない。
 ただ、そのために人が傷つくのは嫌だ。そんな思いは、もう二度としたくない。
「殺させねぇよ」
 睨むように虚空を見つめていた千日に、ぶっきらぼうだが確かな覚悟を持った海堂の言葉が響き渡る。
 ぽんぽん、と海堂が千日の頭を気軽に軽く叩く。そのまま肩を抱かれて少し強引に扉の方へと歩かせられ始めた。
 これ以上余計なことを言ったり聞いたりしないように、神屋から引き離すつもりかと勘繰った千日であったが、どうやらそうではないらしいことに気づいた。神屋の方から、声がかかった。
「陸。せいぜい仲良くね」
 海堂の呼吸が一瞬だけ乱れたような気がして、千日は彼をそっと仰ぐ。そっぽを向き、前髪に隠れたその顔からは、上手く表情を読み取ることが出来なかった。


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