鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[三]



 兜京の夜は青い。春の柔らかさと甘みを咀嚼して黒と藍に混ぜたような、野暮ったい重みが高層ビルに圧迫された狭い空に広がっている。
 斑ながら人通りがある都市部からずっと離れた真夜中の郊外の田園地帯に、七福神と戦闘員たちは集結していた。原因はほかでもない。鬼が出没したのである。千日たちが任務を告げられてからまだ一週間と経っていない。
 この辺りに出没する鬼は基本的に山岳地帯に棲んでおり、人間との接触は避ける傾向があるという。だから、科学が発達し、魑魅魍魎といった普通に生活していれば人間の目に触れられることはない訳のわからぬ類のものは、今日過去の遺物という一言で片づけられてしまっている。
 あることないことを書き立てるオカルト雑誌や夏に流行るオカルト番組においては、鬼の存在が語られることもあるが、それもフィクションで扱われる「鬼」と大差はない。
 現在、実在する鬼を認識しているのは国立防衛研究所の所員と、政府の中でも限られた閣僚級の人物だけであるという。いくらその存在が一般人から程遠いものとはいえ、よくもここまで隠し通せてきたものだ。
 鬼の活動がどういう訳か活発化している今、事が露見するのも時間の問題と言えるかもしれない。本来国立防衛研究所は、鬼から国民を守る以外に鬼の存在が一般社会に顕現するのを防ぐ役割を担っている。今回の研究所所員の任務にも鬼の首領をおびき出すという本来の目的に加えて、鬼から、日夜連続通り魔事件の犯人を追うマスコミや鬼に接触しうる一般人の目を遠ざけるという意味も例に漏れず含まれていた。
 目を凝らせば、月明かりに照らされて山の稜線がゆるやかな弧を描いていた。所員が一時間程前に接触した鬼は、おそらくあの岐波山きわやま周辺に生息する鬼だという。
「で、どんなのが親玉なわけ?」
 常盤に広がる暗闇を睨みつけ、千日がすぐ傍の中原に険を滲ませた声で問うた。中原がぴくっと震え、恐る恐る千日の不機嫌の三文字がでかでかと貼りつけられた顔を見上げる。
「え、えっとそれはつまり……すっごいき――」
「きわどい格好をした鬼だよな」
 中原のしどろもどろの説明に割り込んできたのは海堂だった。突如羽交い絞めにされた中原が、苦しそうな喘ぎ声をあげる。
 千日は、大真面目な顔をしつつも何故か中原を拘束したまま石化したように動かなくなった海堂を胡乱気に見つめた。
「きわどい格好? 何それ、三船のおっさんが好きそうな感じの?」
「……おっさんの扱いが日に日にひどくなってってってるんだけどな、千日ちゃん」
 三船が愛読している中年向けの雑誌に載っていた、今にも色々と見えそうな感じのアイドルの水着姿を思い出して千日が言うと、聞きつけた当人が恨めしそうに唇を尖らせた。正直、中年親父がぶりっこしている顔など、誰も見たくない。
「あ、でもでも千日ちゃんがきわどい格好してくれるなら、おっさん大歓迎」
「――山に埋められたいか?」
 絶対零度の凌の声によって、三船の顔がだらしない笑みのまま十数秒間凍結する。
 千日は三船を完全にスルーして、何故か大爆笑を始めた若槻と口元に手を当ててはいるがついには噴き出した九重に視線を移した。
「グッ、ぶふぉ、アハハハ! き、きわどいって、そりゃねーっすよ先輩っ」
「く、ふ、ハハハ。や、ごめんごめん。だって、きわどいって、陸……!」
 ゲラゲラ笑い続けた若槻は、海堂の蹴りによってあえなく用水路に落とされた。同様にじっとりと恨めしそうに睨まれた九重も、両手を上げて海堂を制しながらも小刻みに肩を震わせている。
 一人わけがわからない千日は、不満げに海堂たちを見回すほかない。
「何よー。皆だけで盛り上がっちゃって。結局その大ボスはきわどいの? きわどくないの?」
「ていうか、そんなことより誰かこのかわいそうなオレを心配して!」
 鬼の親玉はきわどいのかきわどくないのか論争にすっかり取り残された中原が、痺れを切らしたのかぴょんぴょん跳ねながら自己主張を始めた。海堂に解放されてから地面にぱったりと倒れ込んで続けていた死んだ振りについて、誰からもツッコミを入れてもらえなかったのが余程ショックだったのだろう。
 土塗れになった中原の顔と髪とジャージが、健気な努力を伝えてくる。
「はいはい! あなたたち、コントをしに来たわけじゃないのよ。夜鬼一頭なんてあなたたちにかかれば何てことないのかもしれないけれど、任務中は気を抜かないようにね」
 場を収めるように手を叩いたのは唯香だ。そういえば気の抜けない鬼退治の場に集結した特殊部隊だったはずが、いつの間にやら前の晩興奮しすぎて眠れずに遠足にやって来た小学生の集団のような有り様になっていた。
 それでも表情を改めたのは千日と海堂と九重くらいで、他の連中は未だに好き勝手なことをしている。
 そんな折、涼やかに千日の髪を揺らしていた風が凪いだ。見上げると、薄雲のかかった明瞭さを欠いた月が、青色の夜空にじんわりと溶け出している。千日は、何とはなしに目を眇めた。
 それは予感と言うには遥かに覚束ない不確かなものだった。
 満月未満の僅かに欠けた月に、突如黒い影が落ちた。ぽかんと口を開けた千日は、突如殺気立った周囲の様子に目を白黒とさせる。
「……わりと大物が来たわね」
 唯香の声のトーンが下がる。その手には小型の銃が握られていて、しかも他の数名の戦闘員と同様に落下してくる黒い影に照準が合わされていた。
「癪だけど、所長の作戦が大成功したってところかな」
 メスを構えた九重が皮肉気に笑い、次々と乱射される銃弾を物ともせずに地上に降り立った人影を見やる。
 人影――どす黒い巨体の夜鬼五頭に取り巻かれて現れたそれは、紛れもなく、異形のものなどではない人影だった。
「大成功、ってほどでもないっしょ。あれもきわどい大ボスちゃんの使いっぱみたいなもんだし」
 へらへらと緊張感もなく告げた三船を押しのけて、千日は三十メートルほど離れた所でひらひらと銃弾をかわして戦闘員たちを翻弄するそれを食い入るように見た。長身で長髪――おぼろげな月明かりと所々にしかない街灯の明かりでは肌の色や顔つきまでは確認できないが、間違いない。あれは始まりの夜に見た、鬼を従えた男その人である。
 そういえばあの時は色々と混乱していた上、次から次へと現実とは思えない出来事に遭遇してしまいあの男について聞く機会を逃していた。
「ちょ、何なのあいつ」
 千日は言うなり、海堂に首根っこを捕まえられ後方へと無理やり引きずられた。一般戦闘員と九重に続いて中原と凌が、千日の脇を通って男と鬼の元へと向かう。
 九重の言うとおり、癪だが周囲の反応を見るにつけ、どうやら作戦は成功したらしい。あの男はそれなりの大物のようだ。あの夜も、確か男は若槻と凌を相手に優勢に立っていた。今回も六対多数という圧倒的にこちらに有利な状況のはずだが、海堂や若槻の表情は硬くなるばかりだ。
「敵だ」
 低く呟いた海堂を、千日は呆れた表情で見つめる。
「はあ? そんなことは分かってるけど、だってあいつ、人でしょう? 何で鬼についてるの? 鬼を使って世界征服を企む結社の幹部ーとか?」
「前から思ってたんだが、お前のその意味わからん妄想は何なんだ?」
 舌打ちした海堂が、ついでとばかりに先ほどから怖い顔をして俯いている若槻の頭を遠慮なく叩いた。
「ッ痛。先輩、すぐ暴力に走るのやめてくださいよ!」
 涙目になりながら若槻が顔を上げ、その瞳に千日の瞳がかち合った。
 若槻は一瞬顔を歪め、千日から目をそらそうとしたが、結局そうはせずにぽつりと呟いた。
「鬼です。あれは人の姿を取っているけど――あの人も、鬼なんです」
(え――?)
 千日は若槻から視線を外して、再び男を見た。確かに動きは人を超越している。だが、あの男からは牙も生えていないし、鋭い爪も伸びていない。それに、憎たらしいほど整った顔と長く伸びた手足はどこからどう見ても人間のものだ。
「やーねー。若槻、あんたも十分妄想豊かじゃない」
 若槻の背中をどついた千日は、笑い声どころか何の反応も返って来ないことに凍りつく。
「え? まじなの?」
「大マジだ」
 言いきった海堂を振り向いて、千日は恐る恐る話しかけてみる。
「あ、あんたもすごい運動神経だけど、まさか鬼なんかじゃないわよね?」
「どこに目をつけてやがる。れっきとした人間だろうが」
 その答えにほっと胸を撫で下ろし、しかしすぐに千日は悪態を吐いた。
「だってあいつ、思いっきり姿形は人間じゃない。変身してるの?」
「戦隊ものじゃねぇんだから、変身なんかするかよ」
「え――じゃ、あれが真の姿?」
 真の姿ってお前何かに影響されまくってんぞ。ぼそりと吐き出された海堂の言葉は右から左に流す。
 千日が幼い頃夢中で見ていた美少女戦隊ハニーライトに出てくる怪人エックスを、海堂は知らないらしい。普段は魅惑的な人の姿を取っているが、新月の晩になるとおぞましい本来の怪物の姿を晒すのだ。
 あの男は、そういった類の擬態を取っているわけでもないらしい。
 今まで千日は、鬼を異形のものだと思い込んでいた。しかし、そうでないというのなら、千日のような一般人には人形を取る鬼と人の区別などつかない。それはひどく、危険な匂いがした。
「鬼も、人に簡単に退治されないよう進化を遂げてきたんです。つってもそんなにゴロゴロいるもんじゃないっすよ。上級と呼ばれる中でも数少ない鬼が、人形を取ってます」
 憤った千日に、若槻が微笑みかける。しかしその笑みも、突如上がった悲鳴と共に掻き消えた。
 見れば、一般戦闘員の一人の肩口から血が噴出していた。人形の鬼が操る刀が、月光を受けて銀色に輝く。その刃から滴っているのは、紛れもなく人の血だった。
「上級鬼相手に、一般戦闘員では歯が立たないわ! りっちゃんは怪我人の手当て、陸くんは千日ちゃんに付いて、三船さんも若槻くんも鬼の相手をお願い!」
 悲鳴にも似た唯香の声を受けて、三船がはいはーいと実に緊迫感のない返事をして千日の元を離れてゆく。それと真逆の反応を見せたのは若槻だ。ピクリと頬を緊張させ、ナックルをはめようとした手が、ほんの僅かに震えた。
 どうも、先ほどから若槻の様子が変だ。それに、よくよく思い返してみれば、あの夜若槻は人形の鬼と何やら因縁でもありそうな雰囲気だった。
「ね、若槻」
 大丈夫? と千日は聞こうとしたが、それは叶わなかった。若槻が、千日に背を向けて駆け出したのである。
「ちょっとちょっと、若槻どうしちゃったの? ていうか、あの人形鬼と何かつながりあるの?」
 思わず海堂に詰め寄った千日は、その機嫌が最高潮に悪いです、という顔を見つめて眉間に皺を寄せた。
「琢真とあの鬼は昔主従だったんだよ。でも今は違う。あいつはこっちの人間だ。お前もあんま面白がってあいつの事情に口出しすんじゃねぇ」
「う」
 それは確かにツッコまれては反論しにくい痛いところである。若槻も、倒すべき敵側に昔馴染みが居るというのは、あまり触れられたくない話題だろう。
 何より、どこか必死そうに、海堂の声は千日の鼓膜に響いた。これ以上問いを重ねるのは、他人の心を土足で踏みにじるような行為なのかもしれない。
「で、でもあたしだって一応当事者っていうか。何か作戦のど真ん中に据えられてるのに、何も知らないのは理不尽っていうか。ていうか何であたしにだけは皆口が固いのよ!」
 さっきの大ボスきわどい論争だって、適当にはぐらかされたことくらい千日にだってわかる。それもわからないほど抜けているわけではない。
 神屋の口から、七福神が千日にとっての全面的に信頼できる相手ではないという趣旨のことを聞かされた時は正直へこんだし、実際彼の言葉通りに現実は展開した。だが、だからといって彼らのことを責める気にはならない。千日が喚いたところで、これは変わりようのない事実なのである。だったら、一人運命を呪うより、千日に対して敵意こそは抱いていない愉快な仲間たちとより良い関係を築いていきたいと思ったのだ。
「ていうか、しゅじゅう? 主従関係ってこと? 何それ、時代錯誤も甚だしいコトバ」
「とにかく、今は琢真とあの鬼は他人同士だ。俺たちの目的は鬼の殲滅。お前がやるべきは俺たちにひたすら守られること。それだけ考えてろ」
 その情けない自分の身の上に千日は鼻白んだ。超人に囲まれていると割り切れれば良いのだが、千日よりも細いのではないかと思われるどうやら超人ではないらしい唯香までも戦っていると知れば話は別だった。
(ここを無事に切り抜けられたら、あたしも何か訓練したりできないか聞いてみよう。運動神経だけはそんな悪くないし)
 その名案に一人満足げに頷いていると、いきなり腕に激痛が走り、世界が廻った。海堂が、千日を無理やり引きずり、地面の上を転がったのである。
 先ほどまで千日たちが立っていた所には、くっきりと鬼の爪の跡が深々と残っていた。
「ひッ」
 舌が張り付いて上手く声が出ない。間髪入れずに重い追撃が千日と海堂から三十センチほど離れた所に突き刺さった。
 目ざとく千日のピンチに凌が駆け付ける。次々と繰り出されるナイフが鬼の目を潰し、足に刺さると、バランスを崩した夜鬼の影が千日と海堂の小さな身体を覆った。
「海堂!」
 少し上擦った凌の声に被さるように、
「言われなくても!」と鼓膜を破るような大声と共に海堂が千日を抱えたまま地面を転がった。先ほどからぐるぐると回転しているせいか、意識がぐらぐらと覚束ない。すりむいた手足もあちこちが痛い。その上、ともすれば捻り潰されそうなほどに強く抱き込まれているせいか、千日の対して鍛え上げてもいない身体は先ほどから悲鳴を上げている。
 それでも夜鬼の巨体に下敷きにされるという事態は免れたようで、千日は海堂にまたしても強引に手を引かれて立ち上がった。すぐ後ろで、凌が夜鬼に止めを刺す気配がして、千日は海堂とほぼ同時に深く息を吐いた。
「ちょっとあんた、あたしすごいボロボロなんだけど!」
「守られておいて何様だお前」
「何様って天女さまよ!」
 ビシッと海堂の鼻の頭に人差し指を突き付けて千日は叫んだ。しかし流石にその言葉に羞恥を覚えて、カタカタと震えながらその指を下ろす。
「なるほど、『天女』となることを認めたか」
 まったく千日の本意ではないことを呟いたのは、海堂ではなく驚いたことに人形の鬼だった。
 千日は瞠目して、存外近くで響いたその声の主に視線を走らせる。
 気づけば、海堂と三船と凌と九重を除く味方は皆、程度の差こそあったが身体に傷を負っていた。
「ならばやはり、殺さねばなるまい?」
 人形の鬼はくつくつと笑いながら、三船の一太刀をひらりと交わした。
 味方はもう致命傷を負った夜鬼二頭しかいないというのに、その軽やかな足取りと涼しげな表情からは余裕すら感じられる。
 千日の売り言葉に買い言葉のもはやギャグにしか思えない咄嗟の一言は、人形の鬼の何かに火をつけてしまったようだ。
「琢真、凌、おっさん、はらたけ、とにかくそいつ抑え込むぞ。九重さんはこのおてんばな天女様を頼む」
 自らも太刀を抜き、海堂は人形鬼に向かって風を切るように走り始めた。砂埃が舞い、よろついた千日を、すぐさま海堂の言うとおりに動いた九重が支える。
「九重さん、もしかしてこの状況めちゃくちゃやばい?」
 引きつった笑みが九重を仰ぐ。しかし九重は千日を安心させるようにいつもの笑みを浮かべて千日の髪をそっと梳いただけだった。
 千日は唇を噛んで仲間たちと人形鬼を見つめた。
 既に夜鬼は全員息絶えている。残るはあの人形鬼だけだというのに、なかなかどうして攻撃が当たらない。
 七福神の方はと言うと、彼らも能力を十分に発揮して対峙していた。しかし、若槻の身体だけが徐々に傷ついていっているのが見て取れた。
 若槻が後れを取っているのではない。人形鬼に執拗に狙われているのだ。
「何なの、あの粘着質な男は!」
 気色悪いのよ、と吐き捨て、千日はどうにか活路が見出せないかと辺りを見回した。
 助けを呼ぼうにも、この状況を一般人に見られるわけにはいかない。
 一般人の侵入を許さないよう周囲に所員が数名配備されていると聞いたが、七福神でも手強い相手に一般戦闘員を差し向けた所で、犠牲が増える以外の何物にもならないだろう。
「これは生け捕りは難しいかもね」
 低い声で囁いた九重を千日は反射的に見上げた。
 そしてすぐに人形鬼に視線を戻す。
 七福神はどうやら、全力を出しているが防戦一方となっていた訳ではないらしい。情報を得るために、致命傷を与えないように戦っているが故にあれほど苦戦しているのだ。
 上級鬼が七福神が束になっても勝てない相手という訳ではないらしいことに、千日は僅かに息を吐いた。
 まだ知り合ったばかりであったが、彼らが傷ついたり――鬼の刃に倒れることがあったら、声を嗄らして泣き続けても悲しみはきっと癒えないだろうと思った。
 またもや、若槻の肩口から血飛沫が飛ぶ。
 ここからでは若槻がどんな顔をしているのかは殆ど判別できない。
 崩れ落ちかけた若槻の身体を海堂が支えて、人形鬼を囲む円から引きずり出す。
 千日は駆け寄ろうとして、その手を九重に掴まれた。いつものように怒鳴りかけたが、九重の静かに首を振る動作を目にして、千日は悄然と項垂れた。
 人形鬼の一閃が、凌の腕を裂いた。それを庇おうと前に出た海堂と三船が目を見張る。隙を生んでしまったと気付いた時には、人形鬼の姿は円の外にあった。
 九重がメスを構えてから、太刀の衝撃が訪れるまで、さほど時間は掛からなかった。二本あったメスの内の一本が宙を飛び、九重の靴が人形鬼の剣幕に押されるように、泥の上を滑った。すぐに怪我をして戦線離脱していたはずの若槻が人形鬼の背後を取る。しかし人形鬼の回し蹴りが脇腹を捉え、若槻は為す術なく地面を転がった。
「琢真!」
 叫んだのが早かったのか、身体を抑えつけられたのが早かったのか、千日には判別がつかなかった。
 いつかの日の夜のように、千日は男に捕らわれた。
 せめて噛みついてやろうと歯を剥き出しにしたが、意図は相手に簡単に知れて、顔にナイフを突き付けられた。
「ちょっとあんた! 嫁入り前の女の子に刃物突き付けるってどういうことか分かってんの!?」
 せめて相手の気を逸らせるように話を振ってみるが、そう簡単に御せる相手であったなら、千日はこんな状況に陥ってなかっただろう。
 仲間たちに目を向ければ、皆同様に苦しげな表情をしている。
 千日を人質に取られては、思うように動けないのだろう。
 それは、役立たずの烙印を二度押しされたようで、耐えがたいものだった。何も役に立てないばかりか、お荷物にしかなれないなんて、認められない。
「変態! 陰険! 粘着! 女の敵!」
 思いつく限りの罵倒の言葉を並べるが、人形鬼の心はそんな言葉では動かせないようだった。
 むしろ味方の方が、人形鬼を激昂させないかと恐れているくらいである。
(これは無事助かったとしたら海堂辺りに大目玉かな)
 不思議とおかしくなって、千日は喉の奥で笑いを噛み殺した。
「何がおかしい?」
 意外にも、人形鬼は千日の噛み殺した笑いに反応した。
 まあこんな状況で笑える女は確かにネジが一本どころか数十本外れているのかもしれない。男が不審に思うのも無理はないような気がした。
「いや、何か、あたしあんたの魔の手から逃れられるような気がして」
 冗談めいた笑みさえ浮かべながら、千日は挑発的に男の冷たい炎を宿した瞳を見上げた。
 男の瞳が一瞬、胡乱気に細められる。
 そして本当に意外なことに、次の瞬間千日の身体は重い衝撃と共に解放された。
 それは一刹那のことだったのだろう。
 最初に千日にナイフを突き付けていた人形鬼の腕がだらんと下がった。僅かに遅れて、人形鬼の頭頂部を、がつんと殴りつけるような一撃が襲った。
 千日はよろめいてつんのめったところを、若槻に受け止められる。
 振り返って人形鬼を視界にとらえた所で、千日は唖然とする。
「な、何あの子?」
 千日は、人形鬼の頭上に立っている――というか人形鬼の頭を踏みつけている少年を、半ば夢見心地で見つめた。
「こ、コントに……コント会場になってるよ!」
 半狂乱状態で千日が若槻の身体を揺さぶると、ぺちんと両頬を包み込むように張られた。
「援軍です! 早くこちらに」
 手を引かれて七福神たちの背後へと千日は連れ去られる。
 そこからもう一度素晴らしき演出をしてくれた少年を振り返る。
 少年は千日たちの視線に気づいたのか、人形鬼をステージの代わりにするかのようにピースサインを目元で形作ると、ウインクまで飛ばしてこちらに要らぬアピールをしてきた。これが三船あたりであったなら、散々白い目で見られ罵られ、場合によっては完全に無視されて終わりだろうが、この少年にかかればその恐れは微塵も感じさせなかった。
 完全に場を乗っ取っている。
「正義の味方参上ー! なんちゃって! おれが来たからにはもう安心! とら、唯香、陸、ターゲットを確保ー!」
 実に気の抜ける口上の後、一番早く動いたのは人形鬼だった。
 明らかな殺意を以て、頭上に刃を走らせる。しかし少年の跳躍の方が数秒早く、刃は虚しく空を切った。
 よくよく見てみれば、人形鬼は利き手ではない方の手で太刀を振るっている。先ほど千日が助かったのは、男があの少年によって潰される直前に銃弾を受けたからだと見て取れた。後方に目線を向けると、傷だらけの唯香が、男に照準を合わせている最中だった。
 助かったのは、唯香とあの少年のおかげらしい。
「七福の内琢真と天女は作戦4989を決行。一般戦闘員は重傷の者は提携先の病院へ、軽傷の者数名は天女を目的地まで護送の後、次の指示があるまでその場で待機。それ以外はここに残り、ターゲットを確保せよ!」
 夜陰から聞こえた男の太い声に、千日は耳を疑った。
 聞き覚えのある――どこか粗野な印象を抱かせるダミ声。けれど、同時に憎めない器の大きさを感じさせる――。
 もちろん、七福神や今までここに居た一般戦闘員の声などでは決してない。
 だが、考える間もなく若槻に腕を取られ、千日の疑念は霧散した。
 仲間たちが、少年と謎の男と共に人形鬼が刃を振るう場に残ることになったのは心配でならないが、ここに千日が居ても足手まといになるだけだろう。
 聞きたいことはありすぎるほどにあったが、千日はそれをぐっと飲み込んで、夜の青と血の匂いに包まれた不気味な田地を抜け、照明の光の溢れる兜京の中心へと急いだ。


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