鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[五]



 翌朝、疲れ切った一行を叩き起こしたのは海堂の携帯への神屋からの着信だった。昨夜、何時に就寝したのかなど定かではないが、三時間も寝ていないことは確実だった。
 神屋なんていっぺん地獄に落ちるが良い、などと隈のできた顔で千日は思いながら、凌以外のメンバーを部屋の外に放り出す。風呂と着替えが終わるまでの間、七福神にあてがわれた部屋は女子部屋と化した。無論、随行してきた一般戦闘員は全員男だったので、彼らはそこで支度することもできるだろう。海堂辺りは女子部屋の前で鬼が攻めてこないか見張っていそうな気はするけれども。
 千日は念のため持ってきていた着替えを取り出し、風呂に向かう。昨夜は風呂に入る気力さえなかった。何だかこの生活が始まってから、女度が音を立てて下がっていっている気がする。
 支度を終えた一行がホテルを後にしたのは七時半を回ったところだった。
 皆、不愉快を隠そうともしないので、一行を取り巻く空気は今朝の空模様のように重かった。千日ももれなく不機嫌丸出しな顔をしながら、注意力も散漫に最寄りのバス停へと向かう。
 だから、今となっては懐かしいと形容するのがふさわしい呼び声が聞こえた時も、千日はしばらくその声の主を認識することができなかった。
「……っ! ……ち……ねえ!! 千日!」
 ひどく切迫したソプラノの声が自分の名を呼んでいると気づくと、千日は覚えず飛び上がっていた。それに呼応するように、周囲の空気が硬質化する。ぴりぴりと肌に触れれば痛いほどの感触は、七福神と所員から発せられたものだ。
「千日……千日でしょう!?」
 声の主はそれに気づいているのかいないのか、千日を取り巻く警戒をくぐり抜けるようにして駆け寄って来る。少女を阻むように立ち塞がったのは海堂と凌だった。
 見るものを射殺せそうな視線が少女を貫く。少女は一瞬立ち竦んだが、それでも気丈に言い募った。
「どいてください! 何なんですか、あなたたち。私はそこに居る子の友達なんです。警察呼びますよ!」
 不安と緊張に震えながらも怒気を孕んだ声だった。間違いない。千日はこの声の主をよく知っている。
 背の高い若槻を押し退け、千日は海堂と凌の手を掴む。
「ごめん、あたしの知り合いなの。悪い子じゃないから、通して」
 それでもまだ少女との間に割って動こうとはしない二人を見かねて、千日は脇をすり抜けた。海堂の怒声が聞こえたが、とりあえずは無視をする。
 少女と顔を合わせた千日は、確信が揺るぎないものとなるのを感じながらも、その瞳を見てぎょっとした。
「咲穂! 何、どうしたの、その目! すっごい腫れてるんだけど」
 少女――咲穂の瞳は、千日の指摘通り、泣きはらしたように真っ赤に染まっていた。
 指摘された咲穂の瞳から、まだ足りないとでもいうかのように透明のしずくがはらはらと伝い落ちる。
「何もどうしたのもこっちの台詞だよ! どうして急に学校辞めちゃったの!? 携帯に連絡しても『お掛けになった電話番号は現在使われておりません』だし、家に行っても誰も住んでなかったみたいにもぬけの殻だし、先生たちも千日の行方を知らないっていうし! あの日、千日の帰り道の近くで例の通り魔が現れて一人が犠牲になったってニュースでやってて、それで私、千日も巻き込まれたんじゃないかって不安だったんだよ! いつまで立っても千日の名前はニュースに出てこなかったけど……」
(そこまでやったのか神屋の野郎……!)
 確かに、今までの生活の処理は神屋に任せていた。というか、任せざるをえなかった。
 国家機密が絡んでいるが為にある程度のことは覚悟していたはずだったが、千日の痕跡を消すかのようなそのやり口には舌を巻く。
 咲穂が驚くのも無理はないだろう。
「ごめん。ちょっと色々あって、連絡もできなかったの。メールの返事も返さないままでごめんね」
 まさか、正体不明の化け物に襲われたと思ったら対鬼特別部隊七福神のメンバーに救われて、流されるままそこの頭目の天女になっちゃいましただなんて、口が裂けても言えない。咲穂なら、千日の頭がおかしいとは思わず信じてくれるかもしれないが、もっとも大切な友人である彼女を巻き込むつもりは毛頭なかった。
 千日が言葉を濁したのは明らかに咲穂に伝わったのだろう。咲穂は眉を吊り上げて千日に詰め寄った。
「色々じゃすまさないんだから! ていうか、何なのそのボディーガード……にしては何か柄の悪そうな人たち」
 海堂の眉がぴくりと動く。咲穂は一見可憐な少女だが、物怖じせずに何でも思ったことを言ってしまうところがある。千日はそれを彼女の美点だと思うが、咲穂のことでメンバーと争うのは避けたいところだった。
「うー、あー、ま、同僚みたいなものかな。人相は悪いけど、悪い人たちじゃないから安心して。それより咲穂、どうしてこんな所に? 学校は?」
 ここは兜京の中でも西端にほど近い地域である。千日の住んでいた駒場市や一条高校のある若生区わこうく、咲穂の家のある遠見市とおみしく――つまり東端にある地域とは真逆に位置している。
 千日が解せないのはもっともだった。
「学校はもう春休みに入ったの! それで私、居ても立ってもいられなくって、兜京で千日が行きそうな場所を毎日まわってたの」
「あたしが行きそうな場所?」
「ここ、私たちが友達になって初めて行った水族館があるところの近くだよ。覚えてない?」
 もちろん覚えている。今思えば恥ずかしいほど頑なだった中学時代の千日を、咲穂は水族館に連れて行ってくれた。千日は、咲穂が苦手だった。他のクラスメイトのように、適当にやり過ごすことが叶わない、知らず知らず人の心に踏み入ってくるような少女だったからだ。
『千日ちゃんって私のこと嫌いだよね』
 イルカのショーをオレンジジュースを吸いながら見ている時、唐突に咲穂が言った。
『でも私、あなたとは仲良くなれる気がするの』
 つぼみが花開くように笑って、咲穂は手を差し出した。握手を求められているのだと気づくのに、何十秒掛かったか気がしれない。
 とにかく千日は、咲穂の思惑通り、日々その仲を縮めていった。
「でも――でも、毎日って……咲穂あんた」
 それだけ、千日が咲穂に心配をかけていたということだ。千日も、咲穂が何の痕跡も残さず消えてしまったら、同じようなことをしたかもしれない。
 けれど今は、連続通り魔が――正しくは鬼が活動を活発化させている最中である。いくら昼間とはいえ、当てもなく不慣れな場所を探索するには優れない時分だ。
 一般人である咲穂が正しい情報を持ちえないとはいえ、通り魔の出没する都市を抵抗の手段を持たない女子高生が毎日のように一人で捜索するなど危険すぎる。
 千日の懸念を読み取ったのだろう。咲穂は小首を傾げると、後ろを振り返って手をぱたぱたと上下に振った。
 怪訝そうに咲穂の肩に手を掛けて覗くと、千日はまるで手のひらからこぼれていった日常がするすると戻ってきたかのような心地を味わった。
「うっそ、寺田くんじゃん。何で」
 千日を取り巻く仰々しい面々に圧倒されているのか、へっぴり腰になりながらも寺田が咲穂の手招きに応じて駆け寄って来る。
 千日の記憶では、咲穂と寺田の間に恋愛関係はまるでなかったし、友達としても特に親密な関係にあったというわけでもなかった。
 千日は流石に堪忍袋の緒が切れそうになってきた海堂を一瞥しつつも、咲穂の耳に唇を寄せ、小声で囁く。
「何? 寺田くんと付き合ってんの?」
「ちがうちがう。寺田くんが気があるのは千日の方。千日の家に行った時に偶然鉢合わせしたの。それ以来一緒に行方を探すの手伝ってくれてたんだよ。メールでは寺田くんやめときなって言ったけど、あれ取り消す。ほんと良い人だよ。おすすめ」
 どこか上擦った声と共に、咲穂は千日を小突いた。
 千日も、流石にあの夜は自分に気があるのではなかろうかと疑った覚えはあったが、学校からも家からも痕跡を消した同級生をわざわざ追って来るほどだったとは思わなかった。
「……元気そうで良かったよ。俺、天財が連続通り魔に誘拐でもされたのかと思ってさ。マジで焦ったよ」
 どこか照れくさそうに寺田が笑う。その顔は、歳相応のそれで、千日は少々ほだされてしまった自分を感じた。
「うん……ありがとう。何ていうか、すごい嬉しい」
 家族のいない千日を心配してくれる可能性があったのは学校の友達や隣人くらいだった。それも突然居なくなって何日もすれば、段々と気持ちが薄れていってもおかしくない。
 それなのに、こうして咲穂と毎日、貴重な春休みの時間を割いてくれたというのは――何より自分が忘れられていなかったというのは、何にも代えがたい喜びだった。
 いくら海堂や若槻などが普通ではお目にかかれないような造作や体躯をしていても、やはり異性として気になったりするのは一緒にいて安心できるような人物だ。
 寺田は調子の良いところはあるし、下心だってあったのは覚えている。だが少なくとも寺田は、千日と似通った風景をその瞳を通して見ているということはわかる。百八十度違う景色や、まるで違う色彩を見たりはしていない。
(それにしても……誘拐ってあながち間違ってないな)
 千日は苦笑し、咎めるような海堂の視線を片手で制した。
「ごめん。あたし、二人に会えて本当に嬉しいんだけど、この後予定あるから行かなきゃいけないの」
「そんな。予定って何? 今どこに住んでるの? 学校は? 連絡先は?」
 千日と寺田が初々しさたっぷりに話しているのを嬉しそうに見守っていた咲穂が、悲痛な声を上げた。
 千日はその質問の嵐にどれ一つ答えられない歯痒さと申し訳なささと、何よりこれを逃せばまた咲穂と言葉を交わせるのがいつなのかすら分からないという寂しさと苦しさに唇を噛んだ。
「ごめん――言えないの」
「言えないって――」
「安心して。別に危ないことに巻き込まれてるわけじゃないの。ちゃんと仲間もいて、皆優しくしてくれるし、過保護なくらいで。咲穂とはれるくらいの過保護なんだよ。お前はおかんか、って感じ。笑っちゃうでしょ」
 前半は嘘だったが、後半は紛れもない事実だった。
 尚も今にも泣き出しそうな顔をして見つめてくる小柄な咲穂の頭を撫でる。
「今すぐにとは言えないけど、絶対、戻って来るよ。あたし、やっぱ一高の皆が大好きだし、連絡も――取れるようになったら、真っ先に咲穂に連絡する」
 咲穂は千日のパーカーをぎゅっと握りしめて、普段ならばほとんど見せることのない険しい顔を仰向けた。
「絶対、絶対、ぜーったい大丈夫なんだよね? 千日、我慢してない? 本当は泣きたくなってない?」
 少しでも千日の瞳が揺らごうものなら、無理やりにでも引っ張って連れて帰る。そんな目をしていた。
 千日はまっすぐに咲穂の視線に応える。
 本当は、愚痴も泣き言も怒りも、たくさん咲穂には聞いてもらいたいことがあった。すぐにでも咲穂の家に行って、ベッドの上でごろごろしながら、これまで千日に降りかかった災難を一から十まで語り尽くして、存分に慰めてもらって、気のすむまで甘いものを食べたりしたい。
 けれど、それは、今ではない。
 今、咲穂に必要以上に接触すれば、彼女に危害が及ぶ可能性がある。
「大丈夫、大丈夫。まったく咲穂は心配症なんだから。寺田くん、咲穂のことよろしくね」
 いつも通りに笑って、千日は咲穂の肩を押した。
 咲穂のほの甘いシャンプーの香りが離れていく。名残惜しくて、手を伸ばしそうになった。
 千日はぐっと目を閉じ、三秒数えてから瞼を押し開いた。咲穂と寺田の納得しきっていない表情に、苦笑を返す。
 思い直したかのように駆け寄ろうとしてきた咲穂を、海堂の背中が遮った。
 千日は気付かない振りをして歩き出す。
「良い友達だね」
 咲穂たちから千日の姿が見えなくなってからしばらくして、九重が言った。
「はい、あたしの自慢の友達です」
 ともすれば唇が震えそうになりながら、千日が言葉を返す。
 研究所に辿り着くまでの間、一行の口数は少なく、曇天の空からはやがて小雨が降り出し始めた。


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