鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[七]



 放心状態の千日を引きずるようにして、令がサービスエリア内の売店に入って行く。
 親子連れで賑わった店内の通路を器用に抜けて、食品売り場に辿り着いても、千日はうんともすんとも言わないままだった。
「腹減ってなかったりする?」
 いつだか千日たちを襲った人形の鬼とは違い、令は千日の腹の虫の事情まで気遣ってくれているらしかった。千日が逃げ出そうとでもすれば、この鬼は態度を豹変させるのだろうが、九重と双子の兄弟であるというのも頷けるようなそんな気がしてくるのだから不思議だ。
「九重さんが――鬼?」
 メンバー一の常識人であり皆を癒す医者でもある九重の正体に、千日は驚きを隠せなかった。人形というのは貴重な存在だというが、そのどれもが以前出会った長身長髪の人形鬼や夜鬼のような残忍で獰猛な性質を持ったものを言うのだと思っていた。
 千日とて令の発言をすべて真実として受け止めるつもりはない。それでも彼の顔に細工はどうやらないようだったし、兄弟ならば九重の性格や言動をある程度把握しているのも頷ける。
「おーい、俺の話、聞いてる?」
「帰りたい……」
 千日は令の気遣いを無下にしまくって、そう呟いた。
「何? 兄貴に問い詰めんの?」
「そうよ。あんたの話なんか信用ならないし」
 そう言いつつも、千日は令にサンドイッチとおにぎりといちご牛乳を押しつけた。令は三拍ばかりの間、千日のその要求の品々を見つめていたが、やがてペットボトル入りのお茶とゼリー飲料を追加してレジに向かって行った。
 車まで戻り、二言三言も喋らない内に車はサービスエリアを出て行った。
 どこに連れて行かれるのだか分からないが、この鬼の態度を見る限り、少なくとも山奥に着いてすぐくびり殺されたり、ドラム缶に生コンと共に押し込まれて海やら埋立地やらに遺棄される、ということはない気がする。いや、ないと思いたい。
「うっぷ」
 おにぎりをやっとのことで飲み込んで、千日は眉間に皺を寄せた。食事を取りながら、殺人現場の想像などするものではない。
「何? 酔った?」
 令がゼリー飲料を片手に口を開いた。
「いや、大丈夫だけど」
 鬼と普通に会話していることに戸惑いを覚えながらも無視するのもどうかと思ったので、千日は複雑そうな表情でそう返答した。もしも九重が鬼だというのが本当ならば、そんな戸惑いなど滑稽なだけだったが、少なくとも彼の方は敵ではない。
「人間連中も多分もうあんたが居ないことに気付いたと思うから、全力で飛ばすわ。なんなら寝てれば?」
(いや、流石に敵を前に寝られるほどあたしは図太くないんですが)
 明らかにスピード違反なのではないか、と疑うほどに速度を上げた令に視線だけでツッコミを入れる。それでも昼食後(しかもわりと激しい運動をした後だ)の車内というのは自ずと眠気がやって来るもので、千日の意識は春のまどろみの中に浚われて行きつつあった。
(皆、気づくかな……また迷惑掛けてるよ……でもさすがに双子(仮)を一発で見分けるのは難易度高すぎるって)
 そんなことを思ったのを最後に、千日の意識は完全に霧散した。

 千日の消えた研究所は大騒ぎだった。
 初めに異変に気付いたのは、教練後に所内をランニングし始めた海堂と若槻だった。警備が居ないことに不審を抱いた二人は辺りを捜索し始め、傍の植込みの中でいびきをかいていた中年の男二名を発見したのである。
 警備はどちらも九重が門に入って来たのを見たのは覚えている、と声を揃えた。
 神屋に呼ばれた九重は、事態を耳にしてすぐに合点がいったというような顔をした。ちなみに九重は該当する時間帯、所員二名と昼食を取っていたという確固たるアリバイがあった。
「やられた……」
 九重が、七福神の残りのメンバーと唯香と神屋の集う所長室で珍しく乱暴な声を上げた。
「じゃあ、律。天女様をかどわかした彼は君の弟で間違いないのかな?」
「貴方ならよくご存知でしょう」
 どこか冷えた声で九重が神屋に視線を交わらせた。
「僕は彼を手引きした人間が居るんじゃないかって思っているんだけど。あの時間帯、確かに所内の門付近の敷地の活動がほぼなくなる。彼の肉親である律はもちろん――最後に天女と会っていた凌、君も十分疑いの余地がある」
 防犯ビデオを既にチェックし終えていた神屋が、七福神一同を探るように見渡した。
 凌は何も答えず、仏頂面を決め込んでいた。確固たる証拠もないのに言いがかりをつけるな、とでも言いたげな表情だった。
「まあ、君たちだけじゃ、もちろんないけどね」
 流し目を送られた唯香の肩が、一瞬だけぴくりと震えた。
 海堂はそれぞれの反応を瞳の奥に焼き付けるようにじっくりと観察し終えると、神屋に向き直った。
「それより、天財の行方は掴めたんですか? 事態が発覚して、もう一時間も経ってますけど」
 そう問うと、神屋は肩を竦めた。神屋には所員からだけでなく、警察からの報告ももちろん入っているはずだが、どの方面からも収穫はないらしかった。
 防犯ビデオの映像の記録が正しいならば、千日がこの研究所から消えてすでに三時間が経過していた。めぼしい道路では検問の態勢も敷かれたというから、どこかに隠れ潜んでいる可能性もある。若しくはすでに目的地に到着しているか――。
 鬼たちの目的を鑑みれば、千日が殺されることはまずないだろう。しかし、絶対とは言えない。若槻と因縁を持つあの鬼は、理由は定かではないが千日に殺意を向けていた。
「兜京都内で現時点で判明している鬼たちが根城としていた廃墟や山奥はすでに洗った。となるとやはり、高天原たかまがはら本邸が怪しいと思う。鬼も、天女様をわざわざ連れて行って引き合わせたいのは何よりもまず、高天原の人間だろうからね」
 神屋は、海堂が考えていたのと同じことをそっくりそのまま口にした。
 高天原本邸――千日が言うところの、鬼の親玉が巣食う場所だ。
 鬼との抗争の長い歴史においても、高天原本邸に人間が手を出したのは数少ないと聞く。それは単に彼らが人間では到底叶わない強大な力を持つから、というだけではない。
「本当は僕が直接赴きたいところだけど、そうもいかなくてね。知っての通り、高天原は現在弱体化している。天女様奪還作戦は、君たちと――それから東雲くん、寅、きくに一任したいと思うのだけど、どうかな」
 人間側の切り札を奪われたのだ。
 各方面からの対応に苦慮しているのがありありと分かる顔色でどこか面倒くさそうに笑顔を付け加えた神屋に、一同は揃った賛意の声を上げた。

 令に肩を揺すられ千日が目を覚ますと、最後に確認した時間から一時間以上も経過していた。千日は令に視線を合わせ、鬼に拉致されたのが夢ではないことを悟った。
 それにしても敵の根城か何かに連れて来られているというのに爆睡はないのではないか、と今更ながらに思う。
 シートベルトを外した千日は、ドアまで開けて待っていてくれた令に急かされるようにして外に出た。
 と同時に風が千日の黒髪を浚った。視界に白っぽい小さな何かが飛んできたので、覚えず目を瞑ってしまう。しかし恐れていた衝撃は訪れず、千日は薄目を開き、辺りを見渡した。
「わあ……」
 感嘆が自然に漏れた。
 視界いっぱいに広がっていたのは、薄紅や白色をした春を告げる花だった。黒塗りの車から十メートルも離れていないところから続く石段の道を、左右から伸びた何本もの桜が彩っている。まだ八重咲きといったところだが、見るものを引き込む絢爛さは既に兼ね備えていた。
 その淡い柔らかな花々に対比したように薄青く広がる空には、朱と橙と薄くぼやけた紫の他に僅かな灰色の色彩が入り混じり、天真爛漫の様相を見せる桜にどうしてか郷愁の念と陰りを与えていた。
 いつの間にか、薄暮が迫ってきていたらしい。千日は促されるままに石段を上った。少し先を行く令の広い背中を見つめて、そういえば夕暮れ時のことを逢う魔が時とも言うのだったと、忘れておけば良い情報を思い出した。背中を押すように、冷たい風が吹く。桜がさやさやと音を立てて、千日の首筋をひとひらの花びらが滑って行った。
(死にそうになったら、流石に逃げよう)
 固く決意し、少し距離が離れたためか振り返ってこちらを見てくる令の後を追う。
「ここ、どこなの? 都内?」
「一応、都内。限りなく蔡珠さいたまに近いけど」
 せっかく目隠しも何もされなかったのに道筋もろくに覚えず爆睡してしまった千日は、まさか答えが返ってくるとは思わず胡乱気に令を見た。
「それでここは何なの? 観光名所?」
 さすがにそんなわけはないと思いながらも、千日はそう問わずにはいられなかった。
 石段を登り切った先に見えたのは、瓦屋根が印象的な白塗りの屋敷だった。炯都で見た三船の家よりもずっと規模が大きい。城郭建築でこそなかったが、千日はそこが城だと言われても頷けるような気がした。
「流石にあんたにそこまでサービスする余裕はないっての」
 ということは、ここは恐らく鬼が巣食う本拠地か何かだろう。
 千日の憶測に応えるように、令は微かに口の端を持ち上げた。
「俺たちの眠り姫がおわす、高天原本邸だよ。あ、高天原っつーのは鬼の頂点に君臨する家名ね」
「ねむ……りひめ?」
 鬼の本拠地にしてはメルヘンなことを言う。
(それにしても……)
 鬼の本拠地というのは、もう少し血生臭い匂いのする薄暗い場所だと思っていた。もっと言えば、獰猛な顔をした鬼が何頭も咆哮を上げているような獣じみたものさえ想像していた。それが、どうしたことだろう。辺りは静まり返っていて、ささやかに花々を揺らす風の音さえ聞こえてくる始末である。そもそも、屋外には夜鬼のような人形ではない鬼の類はおろか、人影すらも一つとして確認することができなかった。
 夕暮れ時の感傷的な気分も手伝って、どこかうらぶれたような気配さえ漂ってくる。
 屋敷内に足を踏み入れた千日は、人の姿――もちろん人形鬼に違いないが――を見て取って、逆に安心感を抱いた。先ほどまでは千日と令の他にはこの世界に誰も居ないかのような、そんな気がしてしまっていたからであろう。
「来たか」
 初めて訪れた場所だというのに、聞き覚えのある声がした。しかも、できれば聞きたくなかった種類の。
 視線が突き刺さる。無視しようにもしきれないことを悟って、千日は早々に白旗を上げた。二度ほど襲撃された経験もある、若槻と因縁のあるらしい鬼が、凍るような眼差しで千日を見下ろしていた。
(ほんと、こいつだけは勘弁してくれないかな)
 以前感じた殺意のようなものは感じなかったが、憎悪は相変わらずその白皙の美貌に塗りたくられている。以前会った時とは違い、女でも羨むほどのストレートの黒髪は、頭の高い位置で一つに結わえられていた。しかも、和装だ。開いた胸元から広がる色気は、千日に羞恥よりもこの男に近づいてはならないという警告を与えた。
 背後に令が立っているので逃げるにも逃げられず、千日は苦虫を噛み潰したかのような表情でスニーカーの靴紐に手を掛けた。
「貧相な娘だな」
 玄関を上がると、男は失礼にもそうのたまって、千日の全身をじろじろと舐めまわすように見てきた。傍に七福神の仲間が居たならば千日も何か言い返すことくらいはできただろうが、自らに向けられる圧倒的な嫌悪を前にそれを口にすることはできなかった。
「そのような身なりで、我が姫のお目に掛かろうなどとは」
 男は言うなり、千日の腕を強引に引いた。
 反射的に、千日の身体が強張る。
「勝手なこと言わないでよ! あたしは好きでこんなとこ来てんじゃないっつーの! お姫様だか何だか知らないけど、そんなにあたしが嫌なら今すぐ解放しなさいよ!」
 恐怖が消え去ることはなかったが、男の理不尽な物言いに対して沸きあがって来た怒りのままに、千日は言葉をぶつけた。
 男の視線が千日に落ちる。その瞳はまるで硝子細工でできた人形のように変化がない。
 千日の渾身の叫びも、鬼の心には何一つ響かなかったようだった。
じん。姫のご意向に背くようなことはするなよ?」
 念を押すような令の言葉は男に向けられたものか。
 縋るように令を見たが、彼が男の手から千日を解放してくれるような気配はなかった。
「あんた、千日……だっけ? こいつは桐谷迅。どうしてもこいつとは居られないって思ったら、大声で叫びな。少なくとも、高天原家の意向はあんたを生かす方向で決定してる」
 令はそう言って千日が連れ去られるのを黙って見送った。
 海堂が言っていたように、鬼は徹底的な階級社会を持っているらしい。令はそれを利用して一度ならず二度までも桐谷に釘を刺してくれたようだ。それが千日のためでなく姫とやらのためでも、ありがたいことには変わりはなかった。
(でもどうせだったら、こいつと引き離してくれたって良いじゃない)
 姫とやらの意向が違ったものだったら、千日は既に殺されていただろう。そんなことがありありとわかる目を向けてくる人間とひと時でも一緒に居たいはずがなかった。
(今ここで大声で叫んでやろうかな)
 千日は長い廊下を進みながら、そんなことを考える。正直、桐谷は後ろ姿を見ているだけでも恐ろしい。どこに連れて行かれるのだろうかと不安ばかりが募る。
「入れ」
 突然止まった鬼が、襖を開けると半ば千日を突き飛ばすような形で部屋に押し込んだ。
 どうにか持ち前の反射神経で転ばずに済んだが、背後でぴしゃりと襖の締まる音がした時には背筋が冷えた。
 そんなに狭い部屋ではないというのに、桐谷の威圧感が部屋の空気を蝕んでいて、息苦しかった。
「脱げ」
「……は!?」
 流石に乙女の貞操の危機には全身が素早く反応した。後退りしたものの、すぐに距離を詰められる。
 髪に触れられる感触がして、千日の肌は恐怖と緊張に粟立った。髪紐が解けて、千日の長い黒髪が雨粒が弾けるように背中を滑る。
「そのような格好で、我が姫にお目通りいただくわけにはいかない」
(あ、そういうことですか)
 千日は自分のトレーニングスーツ姿を見下ろして、合点がいったように表情を緩めた。
 姫様至上主義のこの男には、千日のむさくるしいトレーニングスーツ姿は姫に見せるには見苦しくてならないというわけらしい。
「でもあたし、着替えも何も持ってないんですけど」
 桐谷の意向に沿うようなことを言うのは嫌だったが、彼を目の前にしてあまり機嫌を損ねるようなことは言えなかった。せめてもの反抗に、桐谷を睨み上げる。桐谷は、千日のその精一杯を蚊ほどにも意識していないのだろうけれど。
「そこの衣装箪笥を使え。間違っても逃げようなどとは思うな。貴様の身体に余計な傷が増えるだけだ」
 桐谷はそう告げるなり、部屋を出て行った。
 良かった。花の乙女の着替えを覗いたりしてはならないという良識くらいはあの男も持ち合わせているらしい。
 呪縛が解けたかのように、呼吸がしやすい。足音が遠ざかる気配はしていないから、桐谷はこの部屋のすぐ外かその周囲に居るのだろうが、千日にとっては目視できないということが何より重要だった。
(衣装箪笥ってこれ……?)
 左手にあった漆塗りの桐でできた箪笥に目を向け、千日はおもむろにそれに近寄る。牡丹をあしらった黒色の金具は壮麗そのもので、どこかよそよそしくさえあった。厳かで古風、という形容がよく似合う。
 覚悟を決めて衣装箪笥の取っ手に手を掛けると、千日はその華美な衣装の数々に面食らった。
(ぜ、全部着物……)
 予感はしていたが、実際そのうん十万は下らないだろうというきらきらしい衣装を見て、驚かない庶民の方がおかしい。
(あたし、運動の後なんですが)
 だからといって、お風呂を借りたいなどと言うわけにもいかない。だが、清潔な身体ならともかく、こんな高価なものを汗をかいた身体で纏うのは気が引ける。
 本当なら敵地でめかしこむなど馬鹿げていると嘲笑いたいところだが、あの桐谷とかいう鬼の逆鱗に触れるのだけは何としても避けたい。
「あ……」
 色鮮やかな着物が収められた段のすぐ下に、白っぽい布が沢山詰められた引き出しがあった。
 千日は着物など七五三の時くらいにしか身に付けたことはなかったが、母は時たま和装をすることがあった。
 着付けを覚えようなどとは一度として思わなかったが、これには覚えがある。
 確か、裾除け、肌襦袢、長襦袢とかいう和装をする際の下着のようなものだった。よく見れば、足袋も備えられている。
 手触りからしてこれらも一級の品に違いなかったが、心もち着物に袖を通す躊躇いが薄らいだ。
 千日は、母のまるで迷いのない手つきを思い起こしながら着物を身に付けた。
(お母さん、あたし、二十歳まではこんな機会ないと思ってたよ)
 敵地に一人という状況も相まって、感傷的な気分になってくる。
(これ、誰の着物かな。姫とかいう人の? でもあの鬼があたしに姫様のものなんて着せるかな……。絶対なさそう。ていうか姫って何よ。姫って)
 百面相をしながら着実に着物を着つけていた千日であったが、最後の最後で難題にぶち当たった。
(うわ、帯とか無理!)
 ただでさえ不器用なのに、千日にそんな高等な技術が望めるはずもなかった。
 とりあえずぐるぐる身体に巻きつけてみるが、襟元やら裾やらがどんどん崩れていくばかりでむしろ事態は悪化している。
(どうしよう。やっぱ無理でしたって言いたい。ていうか、何であたしがあの男の美感に付き合ってやらなきゃいけないんだっての)
「済んだか」
 千日が諦めの境地に達し、愚痴を垂れ流していた時、またしてもその聞きたくない声が聞こえた。
 済んでない、と叫ぶ直前、襖が躊躇いもなく開かれた。
 桐谷と目が合う。一応形にはなっていたから良いようなものを、もしも千日が下着姿であったらどうするつもりだったのか。
 いきなり刃物を突き出してくる非常識極まりない男に何を言っても無駄だとは思ったが、千日は声を荒げずにはいられなかった。
「普通、いきなり入って来ないでしょ! あんた、常識って言葉知ってる?」
 桐谷は怪訝そうな顔をしていたが、千日が襟元を正すのを認めて鼻を鳴らした。
「貴様の貧相な身体などに興味はない。それより何だ? それくらいもまともに着つけられないのか」
 千日は、口角がひきつるのを感じた。
 正直言って――、うざい。うざすぎる。うざいことこの上ない。
「そうよ! それくらいもまともに着つけられないんです。無理なんです。わかったら、あたしをさっさと解放しなさいよ!」
 殺されるかもしれない、という恐れよりも目の前の常識ゼロ男に対する怒りの方がはるかに勝った。
 畳に脱ぎ捨てたトレーニングスーツを手に取り、千日は桐谷を部屋から追い立てようと詰め寄る。しかし桐谷は千日の手からトレーニングスーツをもぎ取ると、やりかけのままの帯に手を掛けた。
 ぐいと腰を浚われ、これまた豪奢な姿見の前に立たされる。
 首筋に、ひどく冷たい指先が触れた。
 乱れていた襟元が、嘘のようにぴしりと正され、すぐに桐谷の手先が裾まで伸びた。
「ちょっ」
 跪いた桐谷の後頭部が衣擦れの音と共に少しずつ揺れる。迷いのない手つきが母のそれに似ていて、泣きそうになった。
 しばらくされるがままになっていた千日であったが、胸元に帯があてがわれた瞬間、流石に我に返った。
「待っ……!」
 待てと言ったところで聞くような相手でもない。帯を器用に回していく手つきに、躊躇いが生まれるはずもなかった。
 見下ろせば、膝立ちした桐谷の顔がすぐ傍にあった。
(……もう、どうにでもなれ)
 さっきとは違う意味で泣きそうになりながら、千日は微動だにせず棒のように硬直しきった。目を開けていられず、硬く目を瞑る。
 そのまま事が早く終わるのをひたすら強く願った。
 永遠にも思えるような時が過ぎ、桐谷の指が身体から離れると、千日はそっと目を見開いた。あまりに力を込めて目を瞑っていたせいで、視界がちかちかする。
 ようやく目が平生の調子で働き始めると、千日は姿見に映った自分の姿に面食らった。
 春の桜と陽光の橙を溶かして混ぜたような色の地に、乱菊や牡丹が美しさを競うように咲き誇る。深緑と藍の横縞が印象的な帯は、ともすれば散漫にも見えがちな着物全体の雰囲気を引き締めて、大人びた落ち着きを与えていた。
「へえ。見られるようになるもんだな」
 しげしげと自分の姿を見つめていた千日に声を掛けてきたのは、令だった。いつの間に現れたのだか、襖に背を預けて腕を組んでいる。
 千日は令の出現に胸を撫で下ろし、さりげない動作で桐谷の傍から離れた。そろそろと桐谷を仰いだ千日は、先刻よりもずっと烈しさを増した目で射抜かれ、立ち竦む。常闇に沈んだ瞳は、黒く染まった太陽のように、千日の胸に侵蝕した。
 ――どうして?
 同じ人形の鬼である令は、正体がばれた時こそ千日を脅すような素振りを見せたが、今のところ千日個人に対する殺意といった類のものは覗かせていないように思える。鬼という種の全てが千日に憎悪を抱いているとは思えなかった。
 むしろ――桐谷のそれは、私怨のようなものにさえ思える。しかし千日には、桐谷にそこまで恨まれる覚えがさっぱりなかった。桐谷には、十七を迎えた夜に初めて出会ったのだ。それ以前には、桐谷の名前も顔も一切知らなかった。
 わけもわからず、人に恨まれたり嫌われたりするのは悲しい。
(悲しい?)
 千日は、自分の胸にせり上がって来た感情の正体に驚いた。
(あれは人じゃない。鬼よ)
 鬼は人間の敵だ。恐れを抱くことはあっても、人に向ける感情と同じように嫌われて悲しいなどとは甚だおかしい。
 きっと、九重が鬼かもしれないと聞いて、少し鬼に気持ちが傾いているだけだ。この屋敷に居るものたちは、すべて千日とは相いれない存在である。
 千日はどうやら混乱しているらしい頭をぶんぶんと左右に振ると、桐谷だけでなく令からも十分な距離を取った。
「それで? あたしを誰と会わせてくれるって?」
 口の端を上げると、令は姿勢を正し、桐谷はひどく不快そうな表情を浮かべた。そちらがわざわざ会わせるだけのために千日の姿に駄目出ししたくせに、勝手なものである。
「姫の寝所はこの屋敷の一番奥だよ。あんたに会いたがってるから行ってやって」


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