鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[八]



 その部屋に足を踏み入れた時、どうしてか鼻をツンとさせるような寂しさに襲われた。
 いつの間にか辺りはすっかり夜のしっとりとした空気を纏っていて、障子戸から滲むように漏れ入って来る月光は冷たく暗い室内を照らし出していた。
 部屋には何故か、電気の明かりが点いていなかった。よくよく見てみれば、そもそも照明具の類が備え付けられてさえいない。それどころか、家具らしい家具一つ見当たらなかった。
「来たのね」
 宵の闇に溶けるような、それでいて月明かりのように聞くものを吸い寄せるような娘の声がした。警戒心を剥き出しにしていたはずの千日の足が、ふらふらと我知らず動き出す。
 令がすぐさま障子戸を開いて、照明代わりの月光で部屋を満たした。
 部屋の中心にある雪白の布団から身を起こした娘の顔が、淡い光に照らし出される。
 娘は、桐谷などよりもずっと白い肌をしていた。
 千日よりずっと長い黒髪は頭頂部から毛先まで一切の乱れなく、流水のようにすとんと落ちている。
 紅を引いていないのに妖しいほど赤く染まった唇は、どこか嬉しそうに弧を描いていた。
「あなたが……姫?」
「そうよ。私が高天原家現当主であり、鬼姫おにひめ千夜ちよ
「鬼……姫? それに、ちよ?」
 年のころは千日とそう変わらないように見えた。それでいて少女と言うにはあまりに泰然としすぎていて、女と言うには頼りなさすぎた。
 千夜は、その唇と同じほどに赤い浴衣に身を包んでいた。浴衣から覗いた手首は今にも折れそうなほどに細い。
 鬼の棟梁がこのような儚げな娘であると、誰が思うだろう。
「どうして……どうしてあたしをここに連れて来たの?」
「そうね……千日には、知ってもらわなければならないことが山ほどあるわ。まずは私たちのことから説明しなければ」
 千夜は言って、千日の背後に立っていた桐谷に目配せをした。
 桐谷が無表情のまま頷いて、千日が入って来たのとは別の襖を開ける。
 そこには、対照的な二つの人影が立っていた。
 一つは、二の腕の太さが千夜の腕の五倍ほどもありそうな大男だった。身長は一八〇を優に超えている。その威圧的な体格にあつらえ向きの厳格そうな風貌には、長い年月を生きてきたもの特有の深い皺が刻まれていた。
 もう一つは、小柄で華奢な少女だった。おかっぱの黒髪が一房、明るい花モチーフのゴムでくくられている。年のころは中原と同じくらいだろうか。目が合うと、黒目がちな瞳は臆することなく千日を見上げてきた。
「あれ……?」
(この子、見たことあるような……)
 千日は眉を寄せ、記憶の糸を手繰り始めた。だがいかんせん最近の千日には色々なことがありすぎて、記憶を掘り起こすのも一苦労だ。
 あの瞳を、千日は知っている。
 そう、確か――任務で炯都に行った時――。炯都?
「それだ!」
 千日は突如叫び、少女に近づいた。
 千日の勢いに少女はどこか引き気味な表情を見せている。
「あなた、炯都駅のトイレで会った子だよね? すぐに居なくなっちゃったけど」
「……確かにお会いしました。あの時は謝罪も何もせずに申し訳ありませんでした」
 無表情に、少女が応える。
 千日がそれに言葉を返すよりも早く、桐谷が動いた。
「綾……貴様、そのことを黙っていたな」
 かろうじて抜刀さえしていないものの、鞘に収められた刀が少女の喉元に突き付けられた。その瞬間、その少女も鬼かもしれないなどということは千日の頭からすっかり抜け落ちた。
「ちょっと! あんた本当に脳みそ入ってる? 何でそんな簡単に刃物向けられんの? しかもこんな小さい女の子に!」
 桐谷の刀の矛先が千日に代わる。しかし千夜にたしなめられると、桐谷は大人しく刀を自らの腰に戻した。
(犬か!)
 千日は思わず吐き出しそうになった言葉をどうにか飲み込んだ。
「特に聞かれなかったから、答えなかっただけ。千夜姫様に害意を持ってそうしたわけじゃない」
 少女は桐谷を睨めつけ、淡白にそう告げた。あの恐ろしい桐谷を相手に、大したものである。
「あなた、綾っていうの?」
 尋ねた千日に、少女は首肯した。
 綾――その名前にも覚えがある。しかしどこで聞いた名であったか。
「その子は高天原配下筆頭四家の一つ、三船家の嫡子よ。三船綾」
 千日の声なき問いに答えたのは千夜だった。
「三船!?」
 何故、またもや七福神と同姓の名が飛び出してくるのか。しかも、確か三船は娘の名は綾だと言っていた気がする。中原もそんな名を口にしてはいなかったか。
 そして高天原配下ということは、自動的にこの一見人の子と見まがう少女も、鬼であるということになる。
 どくん、と心臓が嫌な音をたてた。顔から血の気が引くのを肌で感じる。
「ちょっと待って。そこの令とかいう人が九重さんの双子の弟で、綾ちゃんは三船のおっさんの娘? そういえば、若槻はそこの非常識男と主従関係だって言ってたような……」
「やーっと、認めてくれた?」
 令が、朗らかに笑う。
(うそでしょ)
 認めたくなかった。九重に問いただすまでは、彼が人であると信じたかった。
 しかし、ここの鬼たちの言い分を素直に受け止めるのならば、少なくとも七福神のうち九重と三船は確実に鬼の血を引いていることになる。
「若槻とはらたけも……そうなの?」
「琢真は桐谷の分家若槻家の嫡子だった。つまり、鬼の一族だ。そもそもあの再生能力を見て、人間ではないと分からないのか」
 千日の青ざめた顔を一瞥すらせずに桐谷が言った。
「……それは! それは、思った。思ったよ。思ったけど、でも――」
 若槻が鬼であるという疑いにまで、どうやって昇華させれば良かったというのだ。
 若槻は、初めから千日に良くしてくれた。非日常に代わった日常で、心を許せる人物だった。それは、若槻ばかりでない。
「たけは――たけも、三船家の分家の子です」
 綾が、指先まですっぽりと覆ったパーカーの袖を握りしめて呟く。
 そういえば、中原は綾と同い年だと言っていた。もしかすると、中原と綾は本家と分家の子という関係に留まらず、友達同士だったのかもしれない。綾が必死に感情を押し殺している様子を見て、千日はそんなことを思った。
「つまり、九重さんも三船のおっさんも若槻もはらたけも……鬼?」
 千日は、自らの髪をぐしゃぐしゃと両手で掴んだ。
(そんな……そんなことって……)
「凌もです」
 不意に、それまでだんまりを決め込んでいた大男が口を開いた。凄みがあって低いけれども敵意こそは感じられない声は何故か、千日に向けられていた。
 この話の流れで、男の言う凌が千日の知る凌でないはずがない。けれども、千日の頭は考えることを拒否した。鬼たちから背を向け、ひたすら虚空を睨む。しかし桐谷と令の肩を借りて立ちあがった千夜によって、容赦のない現実が千日の抵抗も空しくもたらされた。
「その人は筆頭四家綿貫家当主、綿貫わたぬき惣介そうすけ。姓は違うけれど、凌の実の父親よ。この四人が、現在の鬼師きし。鬼師というのは鬼姫を守護する役目を負う者たちのことよ」
 次々と明かされていく事実は、驚きなどという感情を通り越して深い憤りの沼地へと着地した。
 何で、どうして。そんな行き場のない思いが次から次へと千日の胸にせり上がる。
「それじゃあ……」
 張りついた舌を何度も湿らして、千日は震える唇を開いた。
 しかし、確信に辿り着く前に、その部屋にひどく不似合いな電子音が高くさえずった。
 千日は、桐谷が懐から携帯電話を出して話し始めるのを違う世界の出来事のように見つめる。
 桐谷の顔が、不意に歪んだ。忌々しげな舌打ちが、耳を掠める。桐谷はすぐに電話を切って、令を向いた。
「人間連中がここを嗅ぎつけてきた。応戦してるが、間もなく押し切られる。お前と、それから惣介、綾、死んでも食い止めろ。姫を守れ」
 綿貫と綾は頷くと、慌ただしい様子で部屋を出て行った。そういえば、外から時折怒鳴り声と咆哮のようなものが微かに聞こえてきている。
 七福神の皆だろうか。
 千日はしゃんと背筋が伸びる思いがしたが、同時に彼らにどういう顔を向ければ良いのか分からなくて俯いた。
「桐谷……あの子たちだけではないということ?」
 苦しげに胸を押さえて問うた千夜の身体を、桐谷が硝子細工を扱うように布団に横たえさせる。千夜は、そんな桐谷を反抗的に睨みつけると、ごほごほと咽る身体で気力を振り絞って上半身だけはかろうじて起き上がらせた。
 桐谷は千夜に横になるように促すが、烈火のごとく怒りを露わにする彼女に効き目はなかった。その細い身体のどこに、そんな強いエネルギーがあるのかと疑いたくなるほどの眼差しが、桐谷に問いの答えをせっつく。
「三家の連中も一緒です。太郎は居ない」
 桐谷は渋々千夜の身体を支え、そう呟いた。
 汗で頬に髪を張りつかせた千夜は、荒い息をしている。千日がこの部屋に入って来た時も布団に寝間着姿でいたということは、もしかすると病に冒されているのかもしれない。
 鬼姫だと名乗った千夜のことを良い気味だとは到底思えず、千日は懐に入れていたハンカチを取り出した。
 千日は一瞬の逡巡の後、おもむろに千夜の布団の傍らに膝をついた。玉のように浮いた汗を、ハンカチで拭ってやる。千夜は少し、驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んだ。千日もその笑みに絆されるようにして笑い返そうとしたが、強い力に突き飛ばされて尻もちをついた。
「いった……」
 千日は顔をしかめ、痛む身体を起こす。
 青ざめた顔をしている桐谷と目が合って、千日は彼に乱暴な扱いを受けた怒りも忘れてぽかんと口を開いた。
 桐谷が千日に向けていたのは怒りでも憎しみでもなく、ましてや殺意などでもなかった。千日の身体はその感情を敏感に受け取って、びりびりと震えた。意外なことに、その時千日が感じたのは、恐れ、だった。紛れもなく、今この瞬間、桐谷は千日に恐怖していた。
 千夜も、初めこそは眉を吊り上げていたが、すぐに泣きそうな表情に変わって、桐谷の頭をぎゅっと抱きしめた。
 千日は支え合う二人の姿を茫然と見つめた。
 言葉を発するのが憚られるようなそんな空気を破ったのは、ぱりんという硝子の砕ける音と鈍い着地音だった。


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