鬼の血脈 朝と夜が出逢う夜[八]



 桐谷が抜刀して千日と千夜の前に立ちはだかる。
 金属と金属のぶつかり合う、嫌な音が鳴り渡る。身を乗り出した千日の目に飛び込んできたのは、見知った顔だった。
「海堂……」
 千日は囁きがこぼれおちる音を、他人事のように聞いていた。
 体格で勝る桐谷の一閃が、海堂を壁に叩きつける。海堂は激しく咳きこんだが、すぐに体勢を立て直して桐谷に向かって行った。
 切り結ぶ一対の影を避けるように、割れた窓から人影がなだれ込んできた。
 七福神の皆かと身構えた千日の目に、それとは異なる人物が映り込む。その二つの影のうち、一つはあまりに意外なもので、千日は瞠目して声を失った。
「無事、みたいだな」
 低いダミ声が耳を掠めた。
 その声は、十七になるまでの千日にとって、日常の一端を占めていた人物のものだった。
「嘘……とらさん?」
 雉門ちもん虎次郎こじろう、四十歳――千日の住んでいたマンションの隣の一室の住人だ。虎次郎という名にちなんで、千日は彼を寅さんと呼んでいた。トレードマークの四角いフレームの眼鏡と無精ひげが懐かしさで千日を満たす。両親を早くに亡くした千日にとって、親代わりとは言わないまでも、重要な位置に陣取っていた人物である。
「気持ちは分かるが、話は後な。今はお前さんを助けるので精いっぱいだ」
 千日の身体を事もなげにさらった雉門は、隣の少年に目配せした。この少年にも見覚えがある。確か、海堂が神屋の秘蔵っ子だとか何とか言っていた。
 少年は、無邪気な顔をして、千夜にナイフを突きつけた。海堂から雉門たちに標的を移そうとしていた桐谷の動きが止まる。無防備になった桐谷の身体に、海堂の膝蹴りが叩きこまれた。腰を折って倒れた桐谷の横を通り抜けて、海堂がこちらまで歩いてくる。
 千日はどうしてか自分の身体がひどく緊張しているのを感じた。外で応戦していたという鬼たちの返り血か何かを浴びた海堂たちが、恐ろしく思えたからだろうか。否、違う。もっと別の、何か――。
「ちょ、もう良いでしょ。そのお姫様、放してあげて」
 刃物を向けられても怯えた表情一つ見せない千夜であったが、少年の力とはいえ首に腕を巻きつけられていては苦しそうだった。だから躊躇いなく千日はそう声を上げた。
「あれ? 天女様、もしかしてあっちに寝返っちゃった?」
 まじりけのない無垢な少年の笑顔が、千日に投げかけられる。千日は生唾を飲み込んでから、ゆっくりと口を開いた。
「あなたが言ってるのが何のことかよく分かんないんだけど、とにかく、その子身体が悪いみたいなの。放してあげて」
「天財、それは鬼姫だ。それは俺たちの最大の敵でもある」
 海堂が苛立ったように千日を糾弾した。
「それは――分かってるけど……でも――」
 でも、かわいそうだ。
 喉まで出かかった言葉を、千日は飲み込んだ。
「でも――あんただって鬼なんじゃないの?」
 さっき桐谷が七福神と所員の来襲を告げる直前に問おうとしたうちの一つを、千日の口が吐き出した。
「はあ? 前も言っただろうが。俺は人間だっての」
「え――だって若槻とか凌ちゃんが鬼なんでしょ?」
「……それは否定しねぇけど。でも俺は正真正銘人間だ」
「そ、そんなの口で何とでも言えるじゃない!」
「何なら研究所に着いたら血液検査の結果見てみれば? 俺が人かそうじゃねえかすぐ分かると思うぜ。つーか、そんなつまんねーことぐだぐだ言ってねえで帰んぞ。お前、どんだけ迷惑掛けたと思ってんだ」
 千日は、へなへなと力が抜けていくのを感じた。
 てっきり、海堂も鬼なのだとばかり思っていた。そして――。
 千日は、大きく左右に首を振って、胸の内にたまったしこりを押し出した。
「ねえ、この人たち、どうするの?」
 千日は、恐る恐る海堂に問いかけた。海堂は鼻白んで、桐谷に一瞬だけ目をやる。
「鬼姫に手を掛けたら、俺たちがここから脱出できる可能性は低くなる。今回は、これで休戦だろ」
 鬼姫という人質があれば、鬼たちは人間側に手が出せない。逆に鬼姫という人質を失えば、人間側は鬼の怒りを買って、徹底的に破壊し尽くされるだろう。外から響いてくる喧騒に耳をすませ、千日はぎこちなく頷いた。
 雉門の存外たくましい腕が、千日を畳に下ろす。代わりに雉門は、千夜の華奢な身体を抱き上げた。
 このまま、千夜を連れて行くつもりなのだろう。千日は桐谷の殺意のこもった視線が海堂たちに向けられるのを見て、おろおろと両者を交互に見つめた。
「姫に触れるな。下衆が」
 呪わしい響きが、這い寄る。しかしそれは、けらけらと明るい笑い声に弾き飛ばされた。
「心配しなくても、君たちの大事な大事なお姫様は返してあげる。おれたちもそんな死にかけのお姫様なんか要らないし」
 あどけない天使のような表情で、少年は悪魔のようなことを囁いた。
 味方の言葉に悪寒を覚えながらも、千日は触れれば今にも爆発しそうなちりちりとした雰囲気を纏っている桐谷に近づく。海堂にすぐさま止められたが、桐谷が動く様子はなかった。余程、千夜が傷つけられるのを危惧しているのだろう。それは、見ていて痛々しかった。
「ねえ、あたしもちゃんと見てるからさ。ひどいことにはならないようにする。だから、そっちも引いてくれない?」
 千日は自分の言葉をしっかりと自身で噛み砕くようにして、そう桐谷に告げた。
 海堂と少年の視線が気になったが、あくまでもこれは交渉であるなどと言い訳じみたことを胸の内で主張する。
 桐谷は大人しく携帯に手を掛けた。短い通話の後、外の喧騒が嘘のようにぱったりと止んだ。
 千日は後ろ髪を引かれる思いで千夜の部屋を後にする。窓枠から覗いた桐谷の無表情が、千日の胸に痛かった。

 千日たちに七福神と唯香が合流して間もなく、千夜は高天原邸の門の辺りで解放された。七福神側の損傷も激しかったが、鬼側の損傷ははるかにそれを上回っていた。暗がりの中、遠目に見えた綿貫と令と綾は、程度の差こそあれ無事のようだった。千日は我知らず安堵の息を吐いて、千夜を迎えに来た夜鬼を車のスモークガラスの中から見つめた。千日や桐谷が危惧していたような事態に陥らなかったことは、胸のあたりに燻ぶっていた罪悪感をほんの少し薄めた。
 千日は、雉門に抱きかかえられた千夜の表情をそっと思い出す。千夜は、千日に何かを言いたそうにしていた。しかし千夜が口を開こうとするとすぐさま雉門や海堂や神屋の秘蔵っ子が目ざとく見咎めたので、彼女が千日に伝えたことは何一つなかった。
「皆は大丈夫なの?」
 千日はやっと関心を車内に移して呟いた。
 車は二台あった。大きなワゴンが一台と、千日が乗っているこの黒塗りのセダンが一台だった。ワゴンカーの方には、海堂以外の七福神の面々が乗り込み、九重が運転席に座った。
 千日は海堂・雉門・唯香・神屋の秘蔵っ子という慣れないメンツに囲まれ、どこか困惑気味である。
「俺たちはほぼ無傷。あっちには多少は怪我してる奴もいるけど、問題ねぇよ」
 あっちとは、七福神の五名のことだろう。問題ないというのはつまり、彼らが鬼だからに他ならない。
 右隣に座った海堂の声が冷たい響きを持っていることに今更気づいて、千日は胃が縮こまるのを感じた。
「それで、どうして寅さんがここに居るの?」
 半ば答えが自分の中で出ているのを感じながら、それを振り払うようにして千日が尋ねた。
 助手席の雉門が首を後部座席に向ける。
「悪りぃな。俺はお前さんの監視役だった」
 眼鏡の奥の愛嬌のある焦げ茶色の瞳が、ためらうように揺れている。
 半ば覚悟していたこととはいえ、実際に耳にすると心がざわめいた。
 千日を普通の女子高生だと思っていたのは、他ならぬ千日自身だけだったということだ。雉門は、千日の両親が死んですぐ、入れ替わるように隣に越してきた。あの頃からもう、もしかするとそれよりずっと前から、千日は国立防衛研究所の人間に目をつけられていたということになる。
「そう」
「何だ? 怒んないのか? お前さんのことだから、殴る蹴るじゃすまないかと思ってたぞ」
 拍子抜けしたような雉門の態度に千日は苦笑する。
「研究所に着いたら心配しなくても存分にぶん殴ってあげるわよ。けど……今は疲れた」
 千日は後部座席に深く背を預け、溜め息を吐いた。長い一日だった。またもや千日を取り巻く状況は一変した。それは千日が考えていたよりもずっと、複雑らしい。
「ていうか、これ着てきちゃったけど返さなくて大丈夫かな」
 まどろみの中に落ちかけていた瞳が、見慣れない着物を捉えて覚醒する。
「何のんきなこと言ってんだよ。今から返しに行けってか? あの鬼に殺されるぞ」
 海堂が窓に頬杖を突いたまま面倒くさそうに言う。
「あら良いじゃない。良く似合ってるわ」
 運転席の唯香がミラー越しに微笑んだ。
 似合っている似合っていないの問題ではないのだが、海堂の言うことももっともだと思ったので、千日はぎこちなく微笑んだ。
「東雲さん、あんまおだてないでください。こいつ、調子乗りますから」
 海堂がそう呟いたので、千日は勢いよく肘鉄を食らわせた。今は疲れた、と言ったことなど既に忘却の彼方にある。
「もう、これだから陸はさー。天女様、すごいきれーだよ。何て言うの? 馬子にも衣装って感じ?」
 少年がフォローにも何もなっていないことを天使の微笑みで告げた。
 千日は口角がぴくぴくと震えるのを感じながらも、微笑んで応えた。大人の対応という奴だ。
「ああそうだ。遅くなっちゃったけど、おれ、猿女さめ菊助きくすけね。歳は天女様の二つ下。一応、研究所の所員だよ」
「よろしく。あたしは天財千日よ……ってもう知ってるか」
 千日は苦笑交じりに呟くと、後ろを走っているワゴンに目を移した。
 運転席の九重の隣に、凌の姿が見える。若槻と中原は仲良く二列目に並んで座っていたが、三船は三列目でごろごろ寝転がっているようだった。
 いつもと何ら変わらない光景だ。だが、こちらの車内とあちらの車内には、決定的な違いがあるという。
 高天原邸の鬼たちにも七福神の一員である海堂にも肯定され、千日もそれを事実と受け止めたはずなのに、こうして彼らの姿を眺めていると、彼らが鬼だということが何かの悪い冗談のように思えてくる。
「――凌ちゃんたち鬼なのに、どうして人間側についてるの? ……その、家族や友達と対立してまで」
「……利害関係の一致ってやつだ。だが常に裏切る可能性があることを忘れるな。今回九重令を手引きしたやつが居たんじゃないかって、所長も疑いを持っている」
 何の感慨もない海堂の言葉が、きりきりと胸に痛い。
「あんたも? あんたもそう思ってんの?」
「俺は常に、仲間の裏切りを想定している」
 海堂は、僅かにすら揺らぐことなく言い切った。
 七福神が衝突もあるけれど仲の良いチームだと思っていたのは、千日の幻想だったのだろうか。海堂は若槻や九重と笑いながら、常に彼らの行動に目を光らせていたというのだろうか。
 正直、彼らが鬼だとわかっても、無事な姿を見た時ひどく安心した。それに好きだと思う。できるなら、一緒に居たいと思う――今でも。
「あたしは――」
 しかし、千日のそんな切実な思いは、研究所に着くなり虚しく飛散することになる。

「ちょっと! どこにそんな証拠があるって言うのよ! だいたい、あんたの警備態勢とあたしの迂闊さが原因でしょ!? 凌ちゃんは全然関係ないじゃない!」
 所長室にけたたましい少女の声が数十分前から響き続けている。誰かは言うまでもない。所内一、人騒がせな七福神が一人、天女である天財千日に他ならなかった。
 神屋は何度吐いたか知れない短い溜め息を吐くと、何度したか分からない説明をもう一度舌に乗せ始めた。
「だからね天女様。何も凌を殺すとか拷問に掛ける、とかじゃないんだよ。ここでは疑わしい人物は尋問に掛ける。それで疑いが晴れるのなら、凌にとっても悪い話じゃない」
 凌がわざわざ千日と門の辺りで別れたことは、防犯ビデオにばっちり記録されている。だからといって彼女の裏切りと断定するのは早計に過ぎるが、天女至上主義の凌が人目につかない場所で、しかも人の出入りが比較的激しい門の付近で千日と別れたというのは疑うに足る理由である。
「だから! 散歩に行こうって言ったのはあたしだっつってんでしょ!? あんたその耳腐ってんじゃないの? 尋問で三日牢に入れるって、女の子にすることじゃないでしょ? ていうか、証拠もないのに身柄を押さえるって冤罪も良いところじゃない!」
 神屋は先ほどから千日に浴びせられる罵詈雑言を耳半分に聞いていた。このまま千日の弾丸トークを聞いていたら鼓膜が破れる自信がある。断言しても良い。
「はー。だから、人道的扱いの元に、って言ってるでしょ。僕にとっても七福神は対鬼戦略の要だからね。ひどいことには絶対ならないよ。分かったら、帰ってくれる? もう夜も遅いっていうか、もうすぐ夜が明けるし」
 しっしとハエを追い払うように神屋が手を振る。千日の相手をするのが流石に面倒になって、神屋は部屋の奥に控えていた人物に目配せした。所長室に居た全ての人間が警報機人間の怒号から少しでも離れようと早々に部屋を後にする中、雉門だけは時折顔をしかめながらも健気に所長室で待機していた。ちなみに雉門の頬にはまだ、誰に張られたのだか、赤い色をした手形が薄らと残っていた。
「ちょっと、寅さん! また殴るわよ! 頭にきた! ほんとあの性根のねじ曲がった男、一度ぶん殴らないと気が済まないんだから!」
 雉門に羽交い絞めにされながらも、千日がじたばたと抵抗を続ける。
 しかし四十にして鍛え抜かれた肉体を持つ雉門の腕から抜け出すなどという芸当はできなかったらしく、千日は所長室の外へと引きずられていった。
 程なく、所長室の扉が開く。
「あのうるさくて馬鹿なのが天女様? おれ、もっと何ていうか、知的美人を想像してたんだよね」
 いの一番に所長室から退散していたはずの猿女だった。神屋のデスクに頬杖をついて、飴玉を転がしている様は、かわいらしいと言えなくもない。
「何? 気に入らない?」
 神屋が猿女のさらさらの色素の薄い髪を梳いて尋ねる。
 猿女は、上目づかいに神屋を見上げた。
「首領は、やけに気に入ってるみたいだね」
 どこか不満げな猿女の声が小さく耳を掠めた。頬が膨らんでいるのは飴玉のせいか、それとも彼の不満の表れなのか判別しがたい。
「そう見える? ふふ、そうかもね。嫌いじゃないよ、ああいう子は」
「おれだって、がんばったんだからね。陸はいちいちうるさいし、寅もおれのこと子ども扱いするし、唯香は何かおれによそよそしいし」
 猿女が言う、彼に対するそれぞれの態度は全て神屋にとって頷けるものであったが、そうとは言わずに彼の頭を撫でた。
 大方猿女は、神屋が先ほど千日に向かって言った七福神は対鬼戦略の要だという部分を盗み聞きでもしていただろう。七福神ばかりが神屋に評価されるのを気に入っていないのだ。
「まあ、これからの料理次第だけど」
 猿女にも聞こえるか聞こえないかの声で呟き、神屋は小さく笑みを浮かべた。
 日を追うごとに、千日は無知なままではいられなくなっている。いずれ彼女が行き着く先に、神屋が払う関心は少なくない。あの憎らしい小生意気な顔が絶望に歪むのかと思うと、いっそ愉快なほどであった。
 神屋は焦れたように窓の向こうの東の空を仰ぐ。しかし未だ朝日が顔を出す様子はなく、舟を漕ぎ始めた猿女につられるように、その長い睫毛をそっと伏せた。


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