鬼の血脈 朝の目覚め[一]



 曇りがちな空から降り注ぐ朝日が、あどけない表情で千日の黒髪を撫でている。
 千日は静まり返った部屋のベッドで膝を抱えて座っていた。膝に埋められていた顔をゆっくりと起こす。頬が薔薇色に染まっていてもおかしくない年頃の少女のものにしては、青ざめ憔悴した顔が痛々しいが、それに気づくものは千日自身を含めただ一人として居なかった。
 千日は目線だけを隣のベッドに向ける。相も変わらずベッドはもぬけの殻だった。そこに眠っていてしかるべき凌は今、尋問という名目のもと、研究所最北端に設けられた研究棟に閉じ込められている。
 海堂や神屋の疑いもわからないではない。彼らが、鬼である上に鬼側上層部と血縁関係・主従関係・友人関係を持つ七福神の五名を警戒するのは、人として当然のことだろう。千日の胸中も例に漏れず複雑なものだった。現に高天原邸から無事帰還を果たして一日経つというのに、千日は七福神の面々と顔を合わせるのが億劫で部屋に引きこもっていた。
「凌ちゃんとこ、行ってみるか」
 しかしまずは風呂だ。昨日は散々神屋に張りついて抗議した挙句、疲れ果てて眠ってしまった。
 千日は顔を洗うと、手早く制服とバスタオルその他風呂用セットを引っ掴み、部屋を後にした。部屋にもシャワールームはあるのだが、凌のいない部屋で風呂に入るのは何となく気が引けた。共有施設棟の風呂場は夜と朝に入場できると前に凌が話してくれたのを思い出して、千日はそちらに向かうことにしたのである。
 まだ日が顔を出して間もないため、慎重な足取りで廊下を歩く。隣の部屋には海堂と若槻が居るはずだし、その隣の部屋には三船と中原が眠っているはずだ。九重は一応居住区に部屋があるというが、共有施設棟の医務室で眠りにつくこともしばしばだという。
 居住区には三棟同じような建物が並んでいるが、千日たちにあてがわれた棟には建物自体の大きさに対して、人口が驚くほど少なかった。他の棟の収容人数を耳にした時、いくらなんでもこの棟に七福神しか居ないというのはビップ待遇すぎやしないだろうかと思ったものだ。だがそれも、今思えば、七福神に鬼が含まれているからという理由なのかもしれない。
 居住区を出て、千日は曇天の空を仰いだ。辺りには千日と同じように共有施設棟に向かう所員がちらほらと目についたが、まだほとんど人の姿は見えなかった。
 共有施設棟の女性用の風呂場は安っぽい銭湯のようなつくりをしていた。脱衣場には大型の扉も何も付いていないロッカーが三列並んでおり、化粧台として主に使われるのであろう長い洗面台が入ってすぐのところに鎮座していた。
 流石にこんなに朝早くから朝風呂に入っている人間は居ないだろうと思っていたのだが、奥のロッカーの一つに荷物が入っているのを見つけた。
 社交的な振る舞いができる気分ではなかったが、今更部屋に引き返すのも面倒で、千日は寝間着をさっさと脱ぎ捨てた。
「あら」
 浴場に足を踏み入れてすぐ、聞き覚えのある声が鼓膜に触れた。
「天財さんもお風呂? 珍しいわね。ここのお風呂いつも朝は人が居なくて、わたしの貸し切りなのよ」
 愛嬌たっぷりに浴槽から声を掛けてきたのは唯香だった。
 頬や額にはりついた髪から滴がぽたりぽたりと垂れている。湯気のせいか潤んだ瞳と浴槽から覗いた鎖骨は扇情的で、千日はその様子に面食らった。
「そうなんですか。あたし、ここは初めてで」
「夜はわりと賑わっているのだけどね。落ち着きたい時はやっぱり朝に限るわ」
 言って、唯香は浴槽の奥の方に引っ込んでしまった。
 千日もタオルで隠しているとはいえ裸で立ち話をしているのも気まずいので、唯香の心遣いに応じてさっさと身体と髪を洗った。
 そそくさと湯船に浸かると、唯香が隣までやってきた。
「昨日は災難だったわね」
「あはは。そうですね。まさかまた誘拐されるとは思いませんでした」
 海堂と若槻と凌に拉致された記憶がまだ鮮明なうちに、今度は鬼の親玉のところにさらわれるだなんて誰が思うだろう。
「ひどいことはされてない?」
 首を傾けて唯香が言う。
 千日は唯香の言わんとしていることを理解できず、瞬きを何度か繰り返した。
「ここ、男の人が多いでしょう。だから、言えないこともあるんじゃないかと思ったりしたの。余計なお世話だったかしら」
 そこでやっと千日は唯香の意図を飲み込んだ。
 つまり唯香は千日に鬼から性的な暴行を受けていないかと聞いているのだ。鬼と人がそういう行為に及ぶのか千日には甚だ疑問であったが、人形鬼は一応表面上は人の姿を取っている。
「いえ。そういうのはありがたいです。でも、ぜんぜんそんなことはないですよ。常識知らずは居ましたけど」
「常識知らず?」
「若槻にやたら執着してる人でなしの変態鬼ですよ! や、この場合は鬼でなしかな?」
 一人くるくると表情を変化させている千日が面白かったのか、唯香はくすりと笑う。
「桐谷迅ね」
「あ、そうです。そんな名前でした」
「彼にはわたしたちも何度も手を焼かされているわ」
 苦笑して唯香が言う。千日は三度彼を見たが、手を焼かされているなどという生易しい言葉で片付くような相手ではなかったように思う。
 だがそれは、唯香だからこそ言える言葉なのだろうと思い直した。人間である上に女性で、さらには華奢な唯香であるが、所内でも群を抜いたスナイパーだと一部の男性所員たちが酔いしれたように語っていたのを思い出す。中年のおっさんから若い年下の所員まで、唯香は男たちの絶大な支持を得ている。まるでアイドルだ。他の女性所員の名もたまに耳にするが、唯香の比ではない。
「あなたをさらったのは、九重令だったそうね」
 普段聞く声よりいくらか低いトーンの声が落ちた。
「はい。あの鬼も何かよくわかんない奴で。サンドイッチとおにぎりといちご牛乳おごってもらいましたけど」
「……そう」
 唯香は心ここにあらずといった態で浴槽を立った。
「東雲さん?」
「唯香で良いわ」
 花がほころぶような笑顔に一点の陰りを見つけて、千日の胸はますます戸惑いを刻んだ。
 しかしこれ以上彼女を引き留めても、五歳も年上で気配り上手の唯香が胸中を吐露するはずがなかったし、千日も無理やり聞き出すつもりなどさらさらなかった。
「あ、じゃあ唯香先輩で。あたしのことも――」
「千日ちゃんで良いかしら」
「あ、はい」
「またお喋りしましょ。もし何かあったら気軽に言ってちょうだいね」
 秘めごとを囁くように千日に唇を寄せてそう言って、唯香は背を向けた。
 いつでもどこでも華やかな人だな、と感心して唯香のモデル顔負けのプロポーションを見つめていた千日は、あることに気づくとその呆けた顔を一瞬にして引き締めた。
 唯香のすべらかで張りのある背中のちょうど真ん中あたりに、大きな古傷らしきものがあった。すでに色は薄まっているので遠目から見ればわからないかもしれないくらいだったが、そう離れていない距離で見れば一見して過去にひどい傷を負ったのだということが察せられる。しかもよくよく見てみれば、背中だけでなく身体中に細かな傷の痕があった。
 千日は危うく、声まで漏れそうになる始末だった。
 唯香を見ていると華やかで柔らかな印象ばかりが記憶に残るが、彼女もまぎれもなく研究所の戦闘員だ。
 鬼と人が戦うとはそういうことなのだ。
 若槻や凌などは怪我をしても、そう日を待たずに全快する。しかし、人は違う。人は鬼のような強靭な肉体を持っていないし、一人の力は微弱なものだ。
 だからこそ人は周到に策謀を廻らし、敵であるはずの鬼を引き込みさえする。
 千日は唯香が脱衣場を出るまでの数分間、珍しく難しい顔をしていたが、やがて制服に着替えて共有施設棟を後にした。
 先ほどと比べれば、目につく人影は多い。しかし唯香と話したことで気が紛れたのか、幾分気が楽だった。未だ足を踏み入れたことのない研究棟に向かう。研究棟は研究所の中でも群を抜いて物々しい雰囲気が漂っていているため、苦手だった。もちろんそれは千日の偏見に過ぎなかったのだが、人を閉じ込めておく用途にも使われると知ってからは、それがあながち間違いではないような気がしてきていた。
(あれ……?)
 千日は、三棟ある研究棟のうち、一番奥の一棟の入り口辺りに途方に暮れた様子で立ち尽くしている若槻の姿を認めた。
 第一声に迷う。あちらはこちらに気づいていないようだが、見かけてしまった手前無視するのも気が引けた。
「おはよう」
 無難な言葉を選び、千日は未だこちらに気づかない若槻に近づいた。
「……あ、おはようございます。姐さん」
 いつもよりいくらかゆっくりと、若槻の表情が柔らかいものへと変化する。千日はその変わらない笑顔に見つめられ、胸が痛くなるのを感じた。
「どうしたの? 若槻も、凌ちゃんの様子見に来たとか?」
 若槻は二度、三度瞬きした後、ああとどこかぎこちない表情を浮かべた。
「ま、そんなところです。姐さんもですか?」
 奥歯に物が挟まったような若槻の物言いに引っ掛かりは覚えたものの、千日は何も言わなかった。
「うん。どこに居るのかな」
「さあ、そこまでは。多分入れてくれないと思いますよ。警備も厳しいですし」
 若槻のその言い様からすると、彼がここに居るのは凌が目的ではないような気がした。千日は、当たり障りのないようにふうんと呟く。
「凌ちゃん、ひどい目に遭ってないと良いけど……」
「大丈夫っすよ。本当に危なくなったら佐倉さんなら逃げられるでしょうし」
「……うん」
 硬い表情で応じ、千日はせめてもの抵抗で一番奥の研究棟に踏み込んでみる。
 しかし若槻の言葉通り、入口には警備の人間が居て、おまけに中の様子も施設の入り口に入ったくらいではわからないようになっていた。警備も千日を入れることはできないの一点張りで、特に収穫もなく若槻の元へ戻る。
「ダメだった」
 千日の悄然とした顔つきを見て、若槻が微笑もうとして失敗したような曖昧な表情を浮かべた。
「行きましょう。姐さん、昨日何も食ってないでしょう」
 誰かに聞いたのだか、彼自身が千日を気に掛けていたのだか、若槻がそんなことを言った。
 千日は頷いて、共有施設棟までの道を若槻と辿り始めた。
「姐さん、俺たちのこと、もう聞いたんですよね」
 若槻が意を決したような表情でどこか遠くを見つめていたので、その話が来るだろうなということは察しがついていた。
「うん、聞いた。七福神の皆と鬼の関係――あんたは、あの変態鬼の分家の嫡子だとか何とか」
 変態鬼という単語に若槻はほんの少しだけ笑った。
「……驚かないんですか。いや、それより……怖くないんすか? 普通に話せるとは思ってなかったです。正直なとこ」
 若槻の寂しげな笑みが、いつか所員に信用されていないと言った時のそれに重なった。今なら、若槻がそう言った理由がよく分かる。
「じゃああたしも正直なとこ。何ていうか、わかんないのよね。自分でも。そりゃあちょっとは抵抗あったし、あんたに会うまでどうしたら良いのかわかんなかった。けど、会ってみて、よくわかった。どうしたってあたしには、あんたが悪い奴に見えない。でもやっぱり、得体の知れない感じはしちゃうの。だから、やっぱりよくわかんない」
 千日は言い、地面に転がっていた小石を蹴り飛ばした。数歩先まで転がって行ったそれを目で追い終えると、若槻を仰ぐ。
 若槻の大人びた横顔が、どうしてか今にも泣き出しそうに見えた。
「や、ごめん。あんたのこと嫌いってわけじゃないのよ。あたし、あんたのことわりと好きだし」
 慌ててそう付け足すと、若槻はぷっと噴き出した。
「姐さんで良かったって思います」
「は?」
 突然意味深なことを言い出した若槻の真意を計りかねて、千日は彼の顔を覗き込む。
「いや、気にしないでください。独り言です」
「あたしが聞いた時点で独り言とは言わないのよ! 大人しく白状しなさい!」
 いつもの調子を取り戻した千日と若槻の騒がしい話し声が、ゆるりと朝の喧騒に溶けてゆく。そんな二人を、物言わぬ二対の瞳がそれぞれ離れた場所から食い入るように見つめていた。


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