鬼の血脈 朝の目覚め[二]



 共有施設棟の食堂に行くと、珍しく九重の姿があった。ここで暮らし始めてもうずいぶん経つが、この場で九重を見たことは片手で数えられる程度であった。
 九重は視線に気づくと、迷うことなく千日を手招く。若槻は一瞬の逡巡の後、千日の後に付いてきた。
「珍しいですね。九重さんがここで食事してるなんて」
「千日ちゃんに会いたかったからね」
 九重が千日から目を逸らさずに言う。それで千日は、九重が今ここに居る理由を悟った。
「……双子の弟さんのことで?」
「うん。令には僕が一番注意を払ってなければいけなかった。なのにまんまと君を危険に晒してしまった。……ごめんね」
 九重が心底申し訳なさそうにきつく唇を結んで頭を下げた。千日は大げさなくらい手を左右に振って、九重が垂れた頭を上げてくれるのを待った。
「あたしがもっと気をつけてれば、今回のことは防げたんです。九重さんのせいなんかじゃ絶対ない」
 千日は言って、九重の向かい側の席に腰掛けた。若槻も黙って千日の隣の席に落ち着く。
「……君は優しいね」
 九重の瞳が緩く細められる。その顔は確かに微笑んでいるのに、千日には何か別の表情に見えた。まるで――何かを諦めたような。そんな哀しい笑みだった。
「あたしのこと優しいだなんて言うの、九重さんくらいですよ。九重さんほどその言葉が似合う人は居ません」
 九重は何も答えず、自然な仕草で千日から視線を逸らした。
「あの、もし良かったら聞いても良いですか。どうして、九重さんがここに居るのか」
 いつもとどこか違う様子の九重に切り込んだ質問をするのは後ろめたい思いもあったが、それでも聞かずにはいられなかった。
 令や鬼側と確執があって人間側に身を賭しているのか、それとも何か別の理由か。
 海堂は利害関係の一致と言ったが、そんな一言で片づけられても千日に納得などできるはずがなかった。
「……唯香を追って、だよ」
 思いもよらぬ名前が登場して、千日は目をぱちくりとさせた。
 考えてみれば、わからない話でもない。九重と唯香は幼馴染だという話だった。
「唯香は、数年前の鬼と人の抗争に巻き込まれて初めて僕たちの正体を知ってね。その抗争で僕たちの家も一族も壊滅的な打撃を受けたから、九重家は別の場所に家を移すことになった。唯香もその際家と両親を失ったんだ。口止めのために鬼に関わった生存者はだいたい研究所の人間に引き取られるから、唯香もそういう流れでここに身を寄せることになってね。唯香は僕たちの行方を知りたがっていたから、人間の女性にしては――その頃唯香はまだ中学生だったんだけど――びっくりするくらい、めきめきと頭角を現していった」
 家族も友達も失った唯香にとって、鬼とはいえ九重と令は拠りどころだったのだろう。彼らに会いたい一心で、唯香は鍛錬に励んだに違いなかった。そして強くなった唯香は実戦に参加し、あんな酷い傷まで負うようになったのだ。
「唯香はただ僕や令に会いたいだけだったかもしれない。だけど、一度戦場ではち合わせしてしまえば、僕らは鬼と研究所の戦闘員でしかないからね。僕は、それに耐えられなかった」
 九重はそっと目を伏せた。若槻の顔も何かを耐えるように厳しいものになっている。
 研究所は、七福神を対鬼戦略の要と位置付けている。研究所は鬼である九重を諸手を挙げて受け入れただろう。もちろん鬼に対する監視の目は厳しく、今回の凌のような扱いも公然とまかり通るというネックはあるのだけれど。
「でも、そうしたら……九重さんは鬼や――弟さんと……」
「うん。それでも、選んだ」
 俯き加減にそう言う九重の微笑ははっとするほど清冽で、千日は思わず息を呑んだ。
 千日はいつもより少ない食事を取った後、いつも通りに微笑んで医務室に去っていく九重の後ろ姿を見送った。
「何か……すごいね」
 千日はそんな感想を述べることしかできず、珍しくろくに食事にも手をつけないでいる若槻に目をやった。
「そういえば、若槻はどうして七福神に入ったの?」
 若槻の肩がぴくりと震える。心なしか、顔色も悪いような気がして、千日は慌てて笑顔を取り繕った。
「ごめん。答えたくないなら、良いよ」
「……すみません。ただ俺は……臆病だったんです。九重さんみたいにはできなかった」
 そうこぼした若槻に何か引っかかるものを感じる。けれども複雑な事情を持ってここに居るに違いない若槻にそれ以上問いを重ねることはできなかった。
 千日は寝癖の残る若槻の髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜ、食堂を後にする。
 九重と唯香の過去は、千日にはなかなか衝撃的なものだった。千日と同じように、ある日突然日常から追放された唯香。そしてそんな唯香をきっと心から想い、家族や自分の種族と争ってでも彼女と運命を共にすることを選んだ九重。普段笑みを絶やさない二人は、何を思い、日々を送っているのだろう。千日にはとても、想像がつかない。
 今日も休養するようにとの神屋からの通達があったので、千日は大人しく部屋に戻ることにした。
 居住区の七福神の部屋があるフロアまで来て、千日は廊下まで響いてくる怒声に足を止めた。千日の怒鳴り声もたいがいうるさいが、この声も相当なものである。まだ変声期を迎えていない少年のものだった。
「……んで!……あやは! ……そんなの! …………ふざけんな!」
 さすがに扉を隔てているためか細部までは聞き取れない。
 千日は、後ろめたさを覚えたが、結局三船と中原に与えられた部屋の扉に耳をそばだてた。今度はひどく静かな中に怒気を秘めた低い男の声が聞こえてくる。
「俺たち一族は、既に鬼を捨てた。綾もそれがわからないで高天原の鬼師に志願するほど馬鹿じゃない。お前はわざわざここまで追いかけてきて、綾に武器を向けられて俺に逆ギレか?」
「――ッ。でも! おやっさんは何も思わないのかよ! オレは――オレは、綾に拳を向けるなんて、できない。……絶対、できない」
 涙声が大きくなってきたかと思うと、突然千日と中原、三船を隔てていた内開きの扉が勢いよく開いた。扉に手を掛けていた中原はひどく驚いた様子で室内に倒れ込んできた千日を見下ろした。しかし、何も言わず、部屋を出て行ってしまう。
 後には、何やら面倒くさそうに頭を掻いている三船と、部屋の入り口でへたり込んだままの千日が残される。
「ご、ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃ……いや、するつもりだったのか」
 心中をだだ漏れにする千日を見やって、三船は軽く笑った。
「まー、あんだけでかい声で怒鳴ってりゃ、嫌でも聞こえらあね。怪我はなーい?」
 千日は立ちあがって、擦りむいた膝をはたいた。少し痛むが、怪我というほどではない。
 スカートを正し、千日は三船に大きく頷いた。
「三船さん、聞いてもいい?」
 恐る恐る三船ににじり寄ると、彼は仕方がないとでもいうように顎をしゃくった。
 千日は促されるままにテーブルまで付いていく。
 三船・中原の部屋は、凌・千日の部屋よりいくらか殺風景な印象だった。
 凌はしばらく前からここに居るというから、ある程度は好きなように内装や調度品をいじっていたのだろう。凌・千日の部屋が海の蒼でまとめられているのに対して、三船たちの部屋は白い壁にカーテン、それから特に色味のないベッドなどが几帳面に並んでいた。おそらく、本来備えられていたものや配置と何も変わっていないのだろう。まだ彼らはこちらに来て日も浅い。まあ、酒瓶が転がっていたり、三船のものと思しきベッドにグラビア雑誌が広がっていたりするのには何も言うまい。
「何が聞きたい?」
 三船は依然としてはだけた着物を正す素振りがない。さすがに気を遣えやこの親父、と思ったものの、千日は躊躇わず核心に迫った。
「おっさんの一族が鬼を捨てたってどういうこと?」
 三船は見るからに渋い顔を千日に向けた。しかし妙に芝居がかっていたので、そう聞かれるのは三船の想定内だったのだろう。
「ま、千日ちゃんも高天原に連れてかれたならわかると思うけど、今鬼の勢力はめちゃめちゃ弱まってるわけよ。正直なとこ、鬼っていう種はほとんど絶滅しかかってんの。近年の戦いじゃ、ほとんどが人間が優勢でね。それで、生き残るためにあえて人側に与することを決めたような鬼も居るのよ」
 それが、三船率いる一族だということか。
「じゃ、おっさんの住んでた里に居たのは全員鬼?」
「そ。鬼を裏切った俺たちが鬼から敵視されんのは、まあ、当然だわな」
 炯都に三船たちを迎えに行った時のからくりがやっと解けた。
 あの里の住人が鬼にうろたえなかったのは彼ら自身が鬼だったからに他ならなかったというわけだ。海堂が妙に人助けに乗り気でなかったのも頷ける。何しろ、彼らは全員決して人などではなかったのだから。
「それで里の人たち、炯都に置いてきちゃって平気なの? また鬼に襲われたりしたら……」
「んーまあ、あれでそれなりに腕が立つ連中だからね。あの時は綾の捜索のために出払っていた連中も多かったし、千日ちゃんたちの方にも警戒が向いてた。でも今は違う。後のことはあいつらがどうにかするっしょ。それにそもそも、うちの一族が人側の保護を得られるかは俺の働きいかんってやつなのよ」
 研究所としては、信用に足るかどうかもわからない大所帯の鬼を一気に引き入れるのには不安があるということか。
 三船にとって七福神入りは一種の賭けなのだろう。一族が生き残れるか否か。普段のおちゃらけた様子からは三船のそのような背景など知りえるはずもない。
 千日は、三船の瞳を覗き見た。
 三船の口ぶりからすると、綾は彼が里で言っていたように本当に家出のような形で三船邸を後にしたのだろう。捜索隊が出ていたことからもそう推測するのが妥当だ。
 とすると、三船は図らずも娘と対立することになったのだろう。
 中原には彼の加入以前も今も覚悟を問うようなことを言っていたが、三船自身はどうなのだろう。いくら一族の命が懸かっているとはいえ、娘が亡くなるようなことがあったら本末転倒ではないか。
「綾ちゃんは……どうして鬼側に?」
「綾はもともと鬼を裏切ることに反対でね。多大なる恩を受けた高天原を裏切るのかってさんざ言われたわな。俺んとこの一族は、代々高天原の姫を守護する鬼師の任に就いてたから、そういう風に言う連中も少なからず居て、どうしても耐えられないって奴は里から出してやった。でもさすがに綾は俺が抑えつけてたんだけど、ついに爆発して家を飛び出して、挙句俺が就いてた鬼師になっちゃったってわけ」
 綾のことを口にする三船に表情の変化は一切なかった。
 三船の胸中を推し量るには千日の対人スキルはあまりにも足りなすぎた。
「辛く……ないんですか」
 辛くないわけがないと思いながらも、千日の口はそんな直接的なことしか吐き出すことができなかった。
「まあ、否定したら嘘になるわな」
 その乾いた声に、千日の方が俯いた。
 三船は決して娘に冷たいわけではない。ただ、理性を優先させただけだ。弱体化する鬼の中に身を置くのを一族の当主としてよしとしなかった。そこから、自分の娘がこぼれた。彼女一人のために、一族もろとも望みの薄い未来に舞い戻るわけにはいかなかったのだ。
「答えてくれて、ありがとうございます」
「あ、千日ちゃんちょい待ち」
 椅子から立ち上がった千日を、三船の声が追いかけてきた。
 千日が振り向くと、目の前に白いマグカップが差し出されている。千日は怪訝に思いながらも、素直にそれを受け取った。
 ほのかに立ち上る湯気と共に、鼻腔を甘い匂いがくすぐる。先ほどから室内に充満していた匂いの正体はこれだろう。
「ホットチョコレート。はらたけが飲むっつーから入れてやったんだけど、このままじゃ冷めちまうから、良かったら千日ちゃん飲んでよ」
 千日はぱっと顔を輝かせた。思えば最近甘いものを食していなかった気がする。いちご牛乳を二日前に飲んだことなどすっかり忘れて、千日はマグカップに口をつけた。千日に言わせれば、一日一甘味なのだからしょうがない。
「やっぱ、女の子に飲んでもらえる方が、おっさん嬉しいわ。ね、今度凌ちゃんと一緒の時に作りに行ってあげよっか」
 にやにや笑ってそんなことを言う三船の顔に、飲み終わったマグカップをいくらか強く押し付けた。すぐにぎゃっという情けない悲鳴が上がる。千日は我関せず歩き出した。


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