鬼の血脈 朝の目覚め[三]



 それから数日、立て続けに連続通り魔のニュースが流れた。兜京の街は今や、常時警官が一定間隔に配備され、監視カメラが至る所に設置されている。民間人は常に複数人で行動し、夜には少しの距離でもタクシーを使って移動するという。
 もちろん監視カメラに犯行現場が映っていたとしても、それが公になることはない。鬼の存在を世間に公表するわけにはいかないからだ。これらの行政の対応はことごとくかりそめのものにすぎなかった。何か対応を取らなければ、国民から非難されることは目に見えている。
 研究所は、凌の裏切り疑惑騒動どころではなくなった。所員総出で事の鎮静化に動いている。
 こうなっては千日も研究所に匿われるばかりとなった。千日が奪われるのは何としても避けたいということなのだろう。
「連中の意向が変わった?」
 センターの会議室に押し込められた千日は、海堂の言葉をそっくりそのまま問い返した。会議室には、いつ鬼が襲撃を掛けてきても対応できるよう、七福神と所員数名が常に詰めている。
 昨日まで凌は研究棟に隔離されていたのだが、やはりそれでも証拠のようなものは見つからなかったようで、今日は彼女も顔を揃えている。
 久々の七福神集合の日だというのに、一行の表情は硬かった。
「ああ。今朝も、鬼の目撃者が二名出ている。今までは、目撃者をほとんど出さずに民間人を惨殺してきたあいつらにしては、最近の動きは派手すぎる」
 言って、海堂はミネラルウォーターを口に含んだ。海堂が千日と所員以外――つまり、七福神の残りの五名に目を合わせる様子はない。高天原邸から帰って来てから、海堂は五人――鬼の血をひく者たちとの接触を避けていた。
 千日の見る限りでは一番心を許していたように思える若槻とも、必要事項を伝える以外に口を利いているところを見ていない。
「そういえば、どうして鬼はあたしたち人に気づかれないようにしてたの?」
「現在、鬼は劣勢です。そうでなくても、人に存在が知られれば、鬼に対する弾圧は強くなるでしょう。歴史上、鬼は人社会にまじわって生きながらえてきました。人と敵対する一方で、鬼もその形態に膝を屈しなければ種を存続することはできなかったんです」
 若槻が何やら小難しいことを説明する。
 この数日の間に、人間に成り済まして会社や学校に通う鬼の話も聞いている。
 簡単に言えば、人と同じような生活を送る鬼たちが、人社会から爪弾きにされるのは彼らの存続にかかわるということのようだ。
「それならいっそ、鬼の存在を公表しちゃった方が、人にとっては都合がよかったんじゃないの?」
 鬼と人の区別は、知識のある者が血液検査を行えばわかるという。
 人が鬼を一掃したいのならば、鬼の存在を公表し、血液検査を行うことで人社会に鬼が紛れ込むことは防げたはずである。
「馬鹿か。そんな簡単なことじゃねぇよ」
「それに、人は鬼の存在そのものが消えることを望んでいないんだ」
 吐き捨てた海堂の後を継いだのは九重だった。
 千日は、怪訝そうな顔を九重に向ける。しかしそれに応えたのは九重ではなく三船だった。
「人のお偉いさん方はね、鬼を軍事的に利用しようとしてんの。まあ、平均的な鬼一頭で常人の三倍の能力だからね。やっこさんたちが鬼の獲得に必死になるのもわからんではないわな」
「そんな……!」
 憤りを感じて、千日はパイプ椅子から立ち上がる。
 しかしそれが、そんな理由で鬼の存在を隠し人を危険に晒し続ける国へのものだったのか、鬼をそのように利用しようとしている国へのものだったのか、判別がつかなかった。
 千日は、それに気づかない振りをして大人しく腰を下ろす。海堂の視線が、ひりひりと肌に痛い。
「そっか。だから、この前、鬼姫を殺したりしなかった……?」
 千日は、自分が発する言葉の不穏さに顔を顰めた。
 だが、ああして堂々と鬼の親玉の屋敷が人社会にある理由がこれでわかった。他でもない人がその存在を黙認しているのだから、当然だ。
 所内に七福神を呼びだす放送が入ったのはその時だった。
 アナウンサーばりのよく通る滑舌の良い声が、今日は何かに追われる者のように切迫している。
「何だろうね」
 千日たちは関心を無理やり呼び出された先の神屋に向けて、席を立った。それまで漂っていた何とも言えない微妙な空気を紛らわすのに、その呼び出しは天啓であるかに思えた。人と鬼、どちらも同じ息を吸っている狭い室内で、鬼に対する人の仕打ちを話題にするのは酷な話だった。
 しかし千日はそんな軽はずみな考えをすぐに後悔した。神屋が口にしたのは、耳を疑うような話だった。
「都内にある一条高校が鬼の襲撃を受けている」
 千日は、かろうじて飛びかけた意識を保った。
 発せられた言葉の意味が、わからない。冗談にしてはいささか度が過ぎている。
 千日は、口を開こうとして閉じる、開こうとして閉じるということを何度か繰り返した。
「敵の数は?」
 隣に居た海堂のひどく冷静な声が信じられない。
 否、この空間に居る人びとの淡白な反応すべてが異質なものに思えた。
「夜鬼が二十頭程度、人形が十頭程度、雑魚が三十頭程度という話だよ」
「――待って――。一条高校って、あたしの……?」
「そう。君の通っていた高校だね。連中は君の周りの人間から切り崩しに掛かって来たというわけだ」
 千日の口はもはや、二の句を継げなくなっていた。
 早鐘のように鳴る心臓は、まるで壊れた玩具のように感じられる。
「ここまで大々的にやられちゃ、僕がいくら何をどうしようと、鬼の存在の顕現は防げない。既に、民間人からの問い合わせが役所に殺到しているし、民放連中は番組内容を全変更して、白昼堂々現れた怪物についての大げさな放送を始めた」
 隠す必要がなくなっていっそ清々しいとでも言いたげに、神屋は告げた。恐れていた大混乱が訪れたという動揺は感じられない。
「所員の話じゃご丁寧に鬼師まで駆り出されているという話だ。七福神の出番というわけだね」
 つまり、血縁同士、知人同士戦えという話だった。
 若槻と中原が一瞬身じろいだが、七福神にそれ以上の反応は見られなかった。
「ああ、天女様は晴れてお留守番だよ。事態が変わってきたからね」
 神屋は千日の無言の抗議を取り違えて、そうのたまった。
 神屋にとって、鬼同士が殺し合うことは何の意味も為さないのだろう。彼らは、人ではない。いつもならば、千日も七福神を弁護しようと思っただろうが、今は到底そんな気になれなかった。
「あたしも、行かせてください」
 言うと、海堂がぎょっとした顔を千日に向けた。
 今回の襲撃は、言わば千日への挑発だ。千日の突かれて一番痛いところを、確実に突いてきた。千日にとって、学び舎の友は家族に等しい。
 それを多分知っていて、彼らはわざわざ一条高校を襲ったのだ。罠の可能性は十分ある。それでも、行かないわけにはいかなかった。
「君から志願するなんて、何かの前触れかな」
 こんな時でも軽口を叩ける神屋の神経がわからない。
 睨みつけた千日に、神屋は愉快そうな笑みまで見せた。
「……良いよ。君に大切なものがあるのは良いことだ」
 意味のわからないことを口にして、神屋は満足げに頷いた。意外にもすんなりと千日の出撃は認められた。だが、神屋には神屋の思惑があるに違いない。千日の切実な思いが神屋の胸に響いたわけでは決してなかった。
 警戒するように己の左の二の腕を右手でぐいと掴んだ千日の前に、ジャージ姿の海堂の背中が現れる。
「所長! それは――天財を無意味に危険に晒します。また奪われることになったら――」
「陸――君、誰に口を利いてるの?」
 海堂のどこか切々とした声に、柔らかいのに尊大な神屋の声が被さる。
 海堂の顔はここからでは見えないが、黙りこくってしまったところから、彼が良くない表情をしているのは容易に想像がついた。
 天女を守るためとはいえ、海堂が庇うような真似をしてくれたことは嬉しかった。
 けれど今は、その厚意に甘えるわけにはいかなかった。
 千日のせいで、一条高校の仲間たちは命の危機に晒されている。
「本当は寅や菊や東雲くんもつけたいところだけど、彼らは今、別件で出ている。君たちの働きに期待しているよ」
 神屋は組んだ手の上に顎を乗せて、非常事態に何ら臆したところはないといった様子で千日たちを送り出した。

 燃えるように赤い夕陽が、まるで西の空を喰らうようだった。黒ずんだ朱の雲は押し寄せる波頭のように荒れている。
 一条高校より半径五キロメートル以内の区域の住民には退避命令が出され、その境目には見覚えのある研究所所員が一定間隔で立っていた。交通規制を敷く警察官の顔は皆強張り、カメラやマイクを手に集まった報道陣も総じて半信半疑といった表情をしていた。千日たちを乗せた車が二台に分かれて大通りを走って来ると、彼ら全員に警戒の色が強まった。
 運転手の所員が首に下げたIDカードのようなものを警備の所員に示す。警備が頷くと同時に、それまでまばらだったカメラがフラッシュをたく音が一斉に鳴り出した。まるで護送される大量殺人鬼のような扱いだ。それも、事が事だけに仕方がない。
 救急車のサイレンの高音が時折すれ違う以外、学校までの道のりは不気味なくらいの静寂に包まれていた。マスコミのヘリコプターも、半径五キロ圏内には近づけないことになっているという。鬼によっては高い跳躍力を誇るものも居るためだということだった。
 外の異様な光景にもかかわらず、千日の意識は既にそこになかった。頭の中にあるのはただ一条高校のクラスメイトのことだった。一条高校は、先月までの千日の世界の全てだった。彼らは千日を置いて三学年になってしまったが、それでも千日の心がそこから離れたことは一度としてなかった。還ってくる場所は、あの場所だと決めていた。
 やがて、千日も毎日歩いていた通学路の一角が見えてくる。その頃には研究所の医療班の車両もちらほら目につくようになってきていた。迷彩服を着た隊員の姿も見える。彼らが所員なのかそうでないかは見当がつかなかった。
 大柄の男に抱えられた血に濡れた制服を纏った女子生徒や、電柱に背を預けて応急処置を受ける男子生徒が目に飛び込んでくると、いよいよ現実味が増してきた。この期に及んで夢であれば良いとまで思っていた千日の浅はかな考えは、目をそむけることを許さない凄惨な光景に吹き飛ばされた。
 小刻みに揺れる身体をどうにか手放さないことが、千日にできる唯一のことだった。
「やっぱり、戻るか」
 隣の座席でそれまで一文字に結んでいた口を開いたのは海堂だった。千日は、かろうじて首を横に振る。
 応急手当の仕方は多少覚えた。それに、鬼の狙いは千日だ。行けば、何らかの取引材料となれる可能性もある。炯都の時よりは、できることも増えたはずだ。
 咲穂が鬼の爪に引き裂かれるという最悪な状況さえ思い描いてしまった己を叱咤する。青ざめた顔を、両の手のひらに埋めた。
「……姐さん」
 気遣わしげな若槻の声が、堅い手のひらと共に丸まった千日の背中を滑った。
 千日は、反射的に起き上がって、その手を力いっぱい振り払う。
 唖然と口を開いている若槻と目が合った。千日は己が何をしでかしたのか、やっと理解した。
「……ごめん……」
 若槻には何の非もないというのに、千日はその瞬間鬼である彼を拒絶していた。
 若槻の瞳が寂しげな色を帯びた。しかしすぐにそれは瞼の裏に覆い隠される。
「いえ、俺も配慮が足りませんでした。すみません」
 穏やかな声音を、千日は茫然とした心地で聞いていた。だが、後悔する暇ももっとちゃんと謝罪する暇も与えられず、車は一条高校の正門で停車した。
 否、一条高校であったはずのものという表現が正しいだろう。
 一条高校という慣れ親しんだ門札は、長い鉤爪で引っ掻かれたような生傷を晒している。門も全壊はしていないが、半分ほどは強い力で打撃を受けたのか、ばらばらに砕け散っていた。門の向こうから点々と滴っているのは、真新しい血液だ。よく見れば、千日たちが通ってきた道路にまでその痕跡は伸びている。
 校門をくぐってすぐ、夜鬼のものと思われる死骸に出くわした。血と鬼の獣じみた臭いが入り混じって、思わず吐き気を催した。けれどそれも、惨劇のほんの一面に過ぎなかった。
 グラウンドを見渡せば、倒壊したサッカーのゴールがあった。その向こうに、蠢くいくつかの黒い影を捕える。夜鬼だ。銃を構えた所員も三名居るが、千日の目から見ても劣勢なことは明らかだった。
 身構えた千日の耳に、辺りを劈くような少女の悲鳴が聞こえた。
「嘘……生徒が居る――!」
 千日の目が、異形のものと人形と思しき鬼の向こうに追いつめられた数人の生徒を捉える。
「僕が行く。千日ちゃんは待ってて。必ず助けるよ」
 言ったのは九重だった。珍しく険呑さを湛えた瞳が、一点に集中する。千日はその視線を追い――気付いた。あそこに居る人形鬼の内の一人は、九重の双子の弟、令だ。
 九重が鬼や弟と敵対することを選んだと告げた時の鮮やかな微笑が、千日の脳裏に蘇る。
「九重さ……」
「話し込んでる暇なんてねぇぞ。被害が大きいのはどう見ても校舎内だ」
 海堂の言葉で、千日は我に返った。今は九重の力量を信じよう。
 時折すれ違う夜鬼やそれよりいくらか能力の劣る鈍足の夕鬼ゆうきを倒しながら、昇降口へ向かう。一条高校は一階だけでなく二階にも昇降口がある。二手に別れようと言い出したのは海堂だった。そしてご丁寧に、一階の昇降口付近には三船綾が、階段を上がった二階の昇降口付近には綿貫惣介が立ちはだかっていた。
 一階には三船と中原が、二階には千日、海堂、若槻、凌が向かう。綿貫の相手をすると申し出たのは凌だった。
「待って凌ちゃん! 何でわざわざお父さんと――」
 凌の腕を掴んで引き留めた千日を海堂が嗤う。
「わざわざ肉親を選んだのは、傷を負わせないためかもな」
 千日は、海堂のその歪な笑みを信じられない思いで見つめた。凌は何も言わなかった。以前なら、負の感情こそは瞳に宿して海堂を睨みつけていたのに、今彼を見つめる凌の瞳は、何の色も映していない。
「天女、気をつけて」
 ダガーナイフを両手に、凌はそれだけを口にした。千日はまだ、凌が自分のせいで尋問に掛けられたことを謝れていなかった。なのに凌は、千日を責めない。そればかりか、いつものように千日を気遣ってくれる。
「絶対、無事でいてね」
 千日は早口に言い、海堂に抱えられてべったりと血糊が付着した階段を駆け上がった。その後を無言で若槻が追いかける。
 昇降口を入ってすぐの下駄箱には、見慣れた所員の一人が目を閉じて寄り掛かっていた。肩口から腹部に掛けて、刀か何かで深く一太刀にされている。彼の周りには血の海ができていた。ひゅうひゅうと喉から息が漏れていたが、千日は背中の医療パックには手を触れず、ただ静かに目を背けた。
 これでは、助からない。千日の応急手当の技術などでは到底救える状態ではなかった。今すぐ医者にかかればどうにかなるかもしれないが、校内は未だ鬼が占拠している。可能性は限りなく低かった。
 千日の眼球に涙が盛り上がる。それは、男を悼み、己の不甲斐なさを嘆くものだった。
(ちがう……)
 この男は、千日のせいで命の炎が燃え尽きようとしているのだ。千日に、何かを嘆く資格などないのも同然だった。
 千日たちは、一言も発さず、男のすぐ横を駆け足のまま通り過ぎた。
 きっと、こんな状態の人間がたくさん居るに違いなかった。
 千日のその予感は当たって、数メートルもしないうちに男子生徒の遺体を発見した。顔がぐずぐずに潰れてしまっていて、頭部で彼が何者であったかを判別することはできなかった。
 上履きのカラーに目を落とすと、青色だった。千日の学年は赤色だ。少なくとも、同学年の生徒ではない。
 千日がこの高校に通っていなければ、彼はこんな惨い死を迎えなかっただろう。そう分かっているのに、いくらか安堵した息を吐いてしまった自分の身勝手さが千日を蝕む。知り合いでなければ死んでもいいなどとは到底思わない。けれど、知り合いでなかったことに心からほっとしている自分が居るのも本当だった。
 それからしばらく、生きた人間には一人として出くわさなかった。
 幸いと言うべきか、鬼が一条高校に現れたのは帰りのホームルームが終わって少しした頃だったという。狭い教室に何十人もの生徒が窮屈に押し込められた授業中だったならば被害は相当なものだっただろうが、放課後ならば話は別だ。部活動が盛んな高校だったが、それでもある程度は帰宅部の生徒もいるし、部室や体育館やグラウンドや様々な教室に生徒が別れるので一度に多くの命が奪われたとは考えにくい。
 もうほとんどが校内から脱出した後だと無理やり思いこみ、千日たちは異臭が立ち込め、人のものか鬼のものかもわからない濁った赤い水たまりを避けるようにして進んだ。
 既に十三名の死者を確認している。もう生き残りは居ないのではないか。そんな諦念が頭をもたげた。
 微かな悲鳴を捉えたのはその時だった。海堂が咄嗟に若槻と久方ぶりに目線を交わした。
「この階じゃないですね。上です」
 言うなり、三人は駆け出した。二階の踊り場から三階まで、飛ぶようにして駆け上がる。
 物音を辿って千日たちが足を踏み入れたのは、三年四組だった。
 机や椅子のほとんどがばらばらに砕け散って、教室の前方で瓦礫の山が築かれている。そこはもはや、千日が通っていた学び舎の様相を完全に喪失していた。
「あ……」
 若槻が身じろぐ。
 教室の中央よりやや後ろに、覇者の風格さえ漂わせた人影があった。そこから伸びた細く長い影は、千日の身体を丸ごと飲み込んでいる。あの背中には、見覚えがあった。
 割れた窓から差し込む斜陽が、男の乱れた黒髪を不気味に染め上げている。夕陽のせいかと思った赤く濡れた髪は、そうではなく、血を浴びているからだとすぐに気づいた。
「……桐谷」
 千日は、呻くように彼の名を口にした。
 桐谷がゆっくりと振り返る。美術室に置かれた石膏でできた胸像のように整った美貌が、今はおびただしい赤の侵食を受けていた。桐谷に傷は一切ない。すべて、返り血だ。
 千日は、桐谷が従えた夜鬼の向こうに、二人の制服姿の男女を見つけた。しかもそのうちの一人は――千日がこの場で一番出会いたくないと願った人だった。
「咲穂!!」
 千日は桐谷のことも夜鬼のことも一切忘れて、彼女の元へ駆け出した。途中、強い力に肩を無理やり引かれる。節くれだった、刀を操る手――海堂だ。
「落ち着け!」
 耳元で大声で叫ばれ、千日の鼓膜はわんわんと悲鳴を上げた。
 それでも目は床に身体を投げ出した咲穂に釘づけになっている。千日の呼びかけにも応えず肩口が引き裂かれて血が滲んではいたものの、ここから見る限り気を失っているだけのように見えた。そんな咲穂を支えるように、寺田が床に膝をついている。しかしその眼は虚ろで、焦点が定まっていないように見えた。彼らの周りには、級友と思しき何人かの生徒が折り重なるようにして、無残な変わり果てた姿を晒している。中には千日と仲良くしていた女子生徒の姿もあった。
 現実とは思えない光景に、千日の意識は何度か飛びかけた。もはや千日は、気力だけでその場に立っていた。
「随分と遅いご到着だな」
 桐谷は言い、刀についていた雫をはらった。壁に、赤の飛沫が模様をつくる。桐谷の微笑が若槻に向き、笑みの片鱗をも消失させて感慨もなさげな顔が千日に向く。
 若槻はそんなかつての主の姿を、青ざめた顔でひたすら見つめていた。
「姐さん……俺が相手をします。姐さんは彼らを助けて逃げてください」
 かろうじて聴覚を震わすようなささやかな声で、若槻が言った。彼の身体も声もかもしだす雰囲気もひどく強張っている。そんな若槻を桐谷は嗤った。
「お前では話にならん。力量差も忘れたか」
 揶揄するような響きが、硝子細工を張り巡らしたかのように危うい若槻の膜を破った。
 海堂が舌打ちをして、若槻の隣に並ぶ。
「あいつを抑えるのは、俺一人でも無理だ。さっさと倒すぞ」
 乱暴だが、その言葉は確かに若槻のこぼれ落ちた心をすくい取った。
 千日が吐き出した息を吸うよりも早く、桐谷が動いた。躊躇いを持たない一閃を、海堂の刀がぎりぎりのところで受け流す。たたみかけてきた蹴りを、若槻の腕が防いだ。
 目の前で繰り広げられる命のやり取りの向こう側で、夜鬼の巨体が動いた。爛々と光る金色の瞳が、浅く息をする咲穂と寺田を捉える。
「待って!」
 千日の金切り声に、その場に居た全員の動きが止まった。
 しかしすぐに思い直したように、桐谷の突きが海堂の利き腕を掠めた。夜鬼も、桐谷のそれよりはいくらか長い逡巡は見せたものの、結局赤黒く染まった爪を咲穂と寺田に向ける。
 寺田は動かない。動けない。否、もう彼の瞳にこの日常を喪ったおぞましい世界は映らない。
「待ってよ! あんたたちの狙いはあたしなんでしょ!? その鬼を止めて! 咲穂たちに手出ししないで!!」
 桐谷は、薄笑いさえ浮かべた。
 夜鬼の眼球が獰猛な光を帯びる。助けに向かおうとした海堂と若槻を、桐谷の力任せの一太刀が壁に叩きつけた。
 千日は迷わず駆け出した。夜鬼の鉤爪が勢いよく振り上げられる。空気を切り裂くその音さえ、けたたましいベルのように千日の耳に届いた。
 振り下ろされる夜鬼の爪と、倒れ伏した咲穂の間に、千日の身体が割って入った。咲穂を守るように千日の身体は夜鬼に背を向けている。
 熱い衝撃が、背中を突き破った。たたらを踏んだ足が、咲穂の青白い指の先にぶつかった。
 咲穂の睫毛が震えて、血を噴いた千日を視界に捉えた。ゆるゆると、咲穂の大きな瞳が、驚愕の色に染まってゆく。
 千日は咲穂の視線を追って、腹部に走った違和感に、目を落とした。血に塗れた黒い切っ先が皮膚を破って突き出している。夜鬼の鋭利な爪は、千日の背中を切り裂いたばかりか、その身体を貫通していた。
 夕焼けとおびただしい血の海の赤に彩られた教室で、千日の獣の咆哮のような断末魔が、世界の終焉を告げるように木霊した。


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