鬼の血脈 朝の目覚め[四]



 千日と海堂と若槻が三年四組の教室に乗り込むより少し前、一階昇降口では三船の怒声と鈍い叩打音が響いていた。
 千日たちと別れてすぐ、中原は三船に後を任せて先に行くように命じられていた。以前、千日が高天原邸に誘拐されて彼女を助け出しに行った際にも、中原は綾と戦うはめになったが、その時は戦力外も甚だしかった。三船が今回もそうなることを見越して、綾との戦闘にならぬよう取り計らってくれたことは中原にも漠然と理解できていた。
 だから中原は一時は三船と綾を残して校内に潜入した。しかし十分もしない内に居ても立ってもいられなくなり、この場所まで戻ってきてしまったのだった。
 父娘は、そこで刃を交えていた。綾が昇降口の柱に叩きつけられた時、中原は我を忘れて三船に飛びかかってしまい、彼によって殴り飛ばされる次第になったのである。
 元々、七福神に加入したいと申し出たのは八割がた綾が影響していた。人一倍責任感が強く高天原への忠誠も厚い綾が、父である三船の背信行為に憤ることは中原にも想像がついていた。しかし年々減り続ける仲間と薄れゆく高天原の威光を考えれば、中原には三船の言い分もわからないではなかった。
 三船は里一番の女好きで、更には真っ昼間から酒の匂いを常にぷんぷんさせている男だった。それでいて誰より腕っ節が強く、一族に危機が訪れれば、危険も顧みず自ら前線に飛び込んでいく。彼はへらへらした笑みを浮かべてその両腕で何もかもを掬いあげてしまう、高天原配下筆頭四家当主でもあった。
 三船の妻は、綾や中原が幼いころに人間との戦いの渦中で命を落としている。片羽を失っても、三船家は高天原を離れ人側に与するまでは良好な状態を保っていた。三船はもちろん、綾も、駄目駄目な中年親父姿には苦言を呈していたものの、そんな父を尊敬しているように見えた。
 だからこそ、父に裏切られたという思いは綾の中に強烈な火傷のように痕を残しているのだろう。
「綾! オレもあんま人間は好きじゃないけど……けど、もう高天原はダメだ! こんな風に一般人を殺戮までしたら、もう鬼に居場所なんてない!」
「……人間の方が余程残酷に鬼を葬っている。それに姫様は鬼のために心を砕いておられる。鬼を裏切ったあんたなんかに、高天原のことを言う資格なんてない」
 綾の無感動な声が、中原を貫く。
 険しい顔で娘に刀を向けた三船に、綾は薄く嗤って見せた。
「人側について、何か変わるの? 結局道具扱いじゃない。パパも三船の……鬼の誇りを失って人なんかにへこへこしちゃって、馬鹿みたい。ママは、他でもない人に殺されたのに!」
 歪んだ嘲笑が、とめどもない怒りの奔流へと形を変えた。一連の綾の表情は烈しく他を圧倒するものだったのに、中原にはどうしてか今にも泣き出しそうな顔に見えた。
 綾の言うとおり、鬼に背を向けて人についたところで、待っているのは兵器として使用される未来だけだった。人と人の間で繰り広げられる醜い戦争で、鬼は確かに強力な武器となるだろう。
『それでも、鬼としての尊厳を奪われて鎖に繋がれて畜生に成り下がるよりははるかにましなはずだ』
 一族のものすべてを集めた集会で、三船はそう言った。
 三船は、今回の作戦で人側の利となるように働けば、一族もろとも命は救われるよう人側と約束を取りつけた。狩りとして無残に肉親や知人が殺されることはもうない。
 そればかりか、ある程度の自由も与えられることになっている。人と鬼の戦の敗者として捕縛されれば、鬼はそれこそ檻に入れられて生命の尊厳を踏みにじられたモノとしての扱いを受けるだろう。しかし、三船の一族はこの戦いに勝利をもたらした立役者として重宝され、人の兵士とほとんど変わらない待遇に置かれる。
 それだって鬼の誇りを傷つけるものであったが、モノに成り下がるよりは――これ以上血も涙もない侵略を受けるよりは、友や家族を失うよりは、ましだと思えた。そう、まし――鬼にとって最良の選択などないのも同然だったのだ。
「じゃあ綾。お前は誇りとやらのために高天原について、犬死にか」
 嘲りに満ちた三船の言葉に、綾の眼光が炯々と怒気を強めた。
「私たちは人に屈しない。人に寝返った鬼も、赦さない」
 綾の暗器が宙を飛び、中原の衣服と肌を引き裂いた。血飛沫がわずかに宙を舞い、中原は顔をしかめて大きく後ろに跳躍する。
「はらたけ。戦えないのなら、すっこんでろ」
 クナイを器用に太刀で弾きながら、三船がすごむ。
 中原は三船が表情一つ変えずに綾に襲いかかる姿に戦慄した。
 中原は、綾と敵対してまで生命の尊厳などに固執するつもりは毛頭なかった。大嫌いな人間の輪に入って、おてんばな天女を守ると決めたのも、すべては綾に会えるかもしれないという一縷の望みに賭けたからだった。
「おやっさん! 自分の娘だぞ!?」
「悪いが、綾一人と一族を天秤に掛けることはできない」
 三船は能面のような顔をして宣告した。綾の表情もぶれない。
 中原だけが、鈍器で頭を殴られたような顔をして、茫然と斬りつけ合う二人を見つめていた。
「三船、中原、早く来い! 天女が――倒れた!」
 父娘が血で血を洗う戦いに本格的に踏み込もうとしたところで、天からの助けのような朗々とした美声が轟いた。
 自然と、綾の動きが緩慢なものとなっていく。中原は三船と共に驚いて空を仰いだ。
 息急き切った凌が鬼のような形相で――実際、鬼なのだが――階上からこちらを見下ろしていた。

 辺り一面、深い闇に包まれた森だった。
 噎せ返るほどの深緑の匂いが少女の身体を絡め取るように触手を伸ばしている。
 白いワンピース姿の少女は、裸足でぬかるんだ道を小走りに進んでいた。少女が進めば進むほど、後ろから追いかけてくる水音まじりの足音が増えてくる。かといって止まれば、その足音たちは今にも少女の背後に流れた黒髪を捉えそうなほどに、大きなものとなって迫ってきた。
 少女は息を荒げながら、ひたすらその実体のない影から逃げていた。
 木々のざわめきが少女の居場所を告げるように視界の端で揺れる。自然さえもが、今や少女の敵と化していた。
 息を切らした少女はやがて森の奥に澄み渡った深い碧の泉を見つけた。口内を唾液がじんわりと侵していく。ひどく喉が渇いていた。
 耳を澄ませてみれば、追っ手の足音は少し遠のいている。
 少女は迷わず、泉のほとりに膝をつき、凍るように冷たい水面に手のひらを差し入れた。途端に水面が震え、波紋がゆるやかに広がっていく。
 掬った水を飲み干そうと水面に顔を近づけて、少女ははっと身を強張らせた。
 ――だれ?
 水面に映った顔は、少女のものでは決してなかった。
 日を浴びたことがないのではないかと疑うほどに白い肌と、妖艶なまでに赤く染まったなめらかな弧を描く唇。長く伸びた髪は、毛先さえも遊ぶことを知らず、まっすぐに落ち込んでいる。現実味のない美しい娘は、少女に向かって微笑んでいた。
 少女は思わず自分の顔に触れた。そこにはいつもと変わらぬ自分の顔があった。鼻の高さも頬の弾力も睫毛の長さも骨格も、何も変わらない。
 ほっと息を吐いた少女は、己の顔に触れる指先の白さに気づいて声を失った。
 ほどよく日に焼けていたはずの肌が、雪のように白く染まり、適度に切りそろえられていたはずの爪が驚くほどに長くなった。そしてその変化は、先ほど水面に触れた指先から手首へ、手首から肘へと瞬く間に広がっていく。肩より少し長いくらいだった黒髪が、するすると伸び、腰のほどを越えた。
 その変化の形はやがて、少女がついさっき見た水面の中の娘と同じものへと収束した。
 少女は悲鳴を噛み殺した。
 気づけば、足音がすぐそこまで迫っていた。
 少女は逃げ出そうとして、足を踏み外した。
 華奢な身体がずぷりと泉の水にはまる。冷たかったはずのそれは、何故か生温かかった。少女は水面を見下ろして恐怖に身を竦めた。
 碧の泉が、何故か濃厚な赤の海に塗り替えられている。おまけに鉄錆のような匂いが体中にまとわりついていた。少女の白いワンピースは、その赤を吸って毒々しい色に染まる。
 少女が立ち上がると、森はその姿を消していた。
 少女を残して、後にはひたすら赤い海が広がる。生き物の気配という気配が一切なかった。
「いや……」
 少女は小さく首を横に振り、為す術なくその場に崩れ落ちた。
 粘ついた水音が身体を包む。
 少女は怯えきった顔で果てのない赤い空を仰ぎ、慟哭した。

 誰かの泣き叫ぶ声で、千日は目を覚ました。
 見覚えのある白い天井と照明の光が視界に広がる。
 自身の上のあたたかく柔らかな重みは、布団だろう。どうやら千日は眠っていたようだった。
 嫌な夢を見ていた――ように思う。
 確か、森に居て、何かに追われていて、やっと見つけた泉で突然自分の姿形が変わってしまったのだ。ファンタジーにもほどがある。
 千日は微かに笑うと、そういえばその夢に続きがあったということを思い出した。どんな夢だっただろう。
 しばらく考え込んで脳裏に閃いたのは、水面と鮮烈なまでの赤色だった。
 ――赤。
 乾いた唇が、その言葉をなぞる。
 自分は何か、大切なことを忘れている気がする。
 千日は身を起こそうとして腹部に走った激痛に呻き声を上げた。
 目を落とすと、入院患者が着るような淡い緑の病衣を纏っている。鎖骨の下からは細いチューブが伸びていて、ベッドサイドの点滴装置につながっていた。このような身の上にはまったく覚えがない。千日は恐る恐る病衣の合わせを解き、腹部を確認して渋面をつくった。
 腹部から背中に掛けて、仰々しいほどの包帯の白が覆っている。
(いつ怪我なんて――怪我?)
 洪水のように、一条高校での惨劇がフラッシュバックする。
 鬼の爪と牙に倒れた所員や生徒、千日を嘲るように嗤った桐谷、咲穂の驚愕に見開かれた瞳――そして、他人と自分のものが混ざったおびただしいほどの、血。
 千日の目の前が真っ赤に染まった。
 夢の中で聞いた己の声よりもひと際大きい悲鳴が、医務室に響く。
「どうした!?」
 すぐさまカーテンを開けて飛び込んできたのは、海堂だった。
「あぁ……ああぁあ」
 引きつった喉は、獣のように意味を為さない音声を発し続ける。
 どれほど多くの命が一度に奪われたことだろう。突然異形のものに襲われて、どれほど恐ろしい思いをしただろう。友の屍が累々と積まれた教室で、皆何を思ったことだろう。
 ――どうして自分一人、のうのうと生きているのだろう?
 鬼の爪に確かに貫かれたのに? おびただしいほどの血が、体内から流れ出ていったというのに?
 千日は何かに憑かれたように、病衣の合わせをもう一度解いた。
「おい!」
 海堂が慌てたように声を掛ける。それすら千日には聞こえなかった。
 眩いほどに白い包帯を手首に巻きつけて解いていく。
 確かに鬼の爪が貫いたはずの腹部には――傷がなかった。それどころか、手術痕さえ残っていない。
「あはははははは」
 壊れたように、千日は笑った。
「海堂、あれから何日経ってんの?」
「……三日だ」
 ――三日。三日であれほどの大怪我が治るはずがない。――人間ならば。
「あたしは……鬼、なんだ?」
 海堂は顔が強張らせ、そっと目を伏せた。
 千日はいくらか乱暴に病衣の襟をかき合わせる。
 思えば、いくらでも疑いの余地はあった。
 何の取り柄もないはずの平凡な女子高生が、国立防衛研究所の保護を受け、対鬼特殊部隊・七福神のメンバーとなったこと。鬼に執拗に狙われるばかりか、鬼の本拠地であるという高天原邸にまで連れて行かれたこと。七福神のメンバーがほとんど鬼であったこと。
 本当は自分が鬼かもしれないとどこかで思いながらも、そんな事実を認めたくなくて騙し騙し今の今まで無邪気に自分を人間だと信じてきた。
 海堂も、七福神の皆も、もちろん神屋も、所員もこのことを知っていたのだろう。呆れを通り越して、滑稽だった。
 そしてそんな愚かな道化のせいで、多くの人間が犠牲になったのだ。
「正確にはお前は鬼と人間のハーフだ」
 ハーフ。千日の唇はわずかに動いたが、結局それは言葉にはならなかった。
「母親が鬼で、父親が人。お前は両親からその話を聞いてなかったみたいだけどな」
(……お母さんが、鬼……)
 確かに母は強い女だったが、それはあくまで精神的な意味合いにおいてのみのことだと千日は思っていた。どこか浮世離れしたところはあったが、千日にとってはごく普通の母親だった。
 母も七福神の皆のように、鬼師のように、戦場で武器を振るったことがあったというのだろうか。
「何で……どうして? そんなの、聞いてないよ」
「俺もよくは知らねえよ。けど……事実だ」
 苦虫を噛み潰したように海堂が言う。
 そういえば、海堂は鬼を嫌っていた。ハーフとはいえ、鬼の血をひく千日を彼は良く思ってはいないのだろう。
「あたしがここで特別扱いされてるのは、その辺が原因なんだ?」
「……そうだな」
(お母さんもお父さんもお互いのことを知ってて結婚したのかな)
 人である父はともかく、鬼であるらしい母が知らないわけはなかっただろう。自分が鬼だと千日に教えなかったというのも、今となっては恨めしい。
「……悪かった」
 海堂の口から漏れた謝罪の言葉に千日は目を瞬いた。ぶっきらぼうに目線は逸らされているが、その言葉に真摯な思いが見え隠れしている。
「どうしたの?」
「俺は、お前を守らなけりゃいけなかった。なのに、あんな怪我をさせた」
 千日にとって鬼に貫かれたのが衝撃的だったのと同じくらい、あるいはそれ以上に、海堂は知り合いが串刺しになっている姿に度肝を抜かれたのだろう。そして千日を守るという任務を帯びながらもそれを全うできなかった自分を悔いているのだ。
 千日は、三年四組の教室で壁に叩きつけられた海堂の姿を思い出した。彼も若槻も、必死に千日と生徒を守ろうとしてくれていたように思う。
「何で。海堂はちゃんと守ってくれたじゃん。それにあたしが勝手に飛び出したんだし。しかもあたし……もう傷なんて残ってないし」
「そういう問題じゃねぇよ」
 苛立ちの滲んだ海堂の言葉は、千日をほんの少しびくつかせた。
 その気配を敏感に感じ取ったのだろう。海堂はがりがりと頭を掻いた。
「悪りぃ」
「ううん」
 気まずい沈黙が下りる。千日は俯いて布団を握りしめる己の拳を見つめた。
「それにしてもあたし、本当に鬼なんだね。あんな怪我したのに、傷一つ残んないなんて。もしかしたらあたしもスーパーヒーローになれるかも、なんて――」
 話題づくりのためにどこか硬さの残る笑顔で切り出した千日に、海堂は険呑な眼差しを向けた。そういえば以前にもスーパーヒーロー云々で海堂の地雷を踏んだことを千日は思い出した。
 取り繕おうと顔を上げた千日は、いささか乱暴に手首を掴まれた。
 驚き見開いた瞳に、海堂の真っ直ぐな視線がえぐるようにぶつかってくる。
「お前は、人だ」
 その強い口調に、千日は海堂を苛立たせたのが別の要因にあったことを思い知らされた。
「でも、あたしは……」
「お前が人であろうとする限り、お前は人だ。間違えるんじゃねえよ」
 掴まれた手首が軋むほどに痛い。
 けれどそれが海堂なりの慰めであり励ましの言葉であるとわかっていたから、千日は口を噤んでいた。
「……海堂、ちょっと行きたいところがあるんだけど、行っても良いかな」
 しばらく経って千日が切り出すと、案の定海堂は怪訝そうな表情を浮かべた。
「言っとくが、研究所の外は無理だぜ。兜京どころか、日本中が今大混乱だ。ここもマスコミに囲まれてる。お前や琢真たちの情報はまだ極秘扱いで漏れてねぇけどな」
 千日は鼻白んだ。
 ついに鬼の存在が明るみになってしまったのだ。安穏とした生活に溺れていた国民は、突然認識せざるをえなくなった自国が抱える深い闇に、しばらくは怯え蝕まれ続けるのだろう。
 それに慣れる日が来るのか、それとも人がこの戦いに勝利しその闇から解放されるのか、はたまた闇に君臨する女王の支配を受けることになるのかは、誰も知らない。
「ちがうちがう。ちょっと、皆に会いにね。まだ少し傷が痛むけど、激しく動かなきゃ大丈夫そうだし」
 千日は言って、ベッドの下にちょこんと並んでいたスリッパの方へ足を伸ばした。
 途端に稲妻が落ちたような痛みが背中から腹にかけて走る。
 海堂は千日の歯を食いしばった顔を見てベッドに押し戻そうとしたが、結局そうはしなかった。
 点滴装置を杖代わりにして千日が立ち上がる。
 死にかけた上、三日もこんこんと眠り続けていたためか足元がおぼつかない。
 海堂は七福神の皆を呼んでくるかとも聞いてくれたが、千日は間髪入れずに首を左右に振った。
「琢真は食堂に居た」
 気を遣ってくれているのか、海堂はそんな情報まで寄越してくれた。
 千日は微かに微笑むと、キャスターのついた点滴をカラカラと引きながらスリッパでぺたぺたと歩き出した。
 医務室を出ようとしたところで、ああ、と海堂が声を上げる。千日が振り向くと、海堂はこちらまで歩いてきた。
「何? 付き添いなら良いよ?」
「いや……あのお前の友達……咲穂とかいう女と寺田とかいう野郎だけど」
「二人は!? 無事なの?」
 千日は弾かれたように海堂に詰め寄った。
 海堂は千日が鬼に貫かれた後の教室での顛末を知っているはずだった。
「ああ。女の方は軽い怪我をしてるが、二人とも無事助け出された」
 全身から力が抜ける。
 自然と安堵の息が漏れた。目尻に涙までもが浮かぶ。
「良かった……本当に……」
 そのままずるずると床にへたりこみそうになったが、千日は点滴にしがみついてそれを阻止した。
「他の……人は?」
 海堂が目に見えて険しい表情になる。言葉に詰まったその様子を見れば、状況が芳しくないことは自ずと知れた。
「死者は四二名。重軽傷者は二六五名だ」
 一条高校の全生徒数は九三八名。約三分の一が傷ついた。
 唇が震える。彼らは一瞬にして、夢も希望も、命すらも断たれた。
 千日には到底、償いきれない重みだ。
「天財、やっぱり休め。お前、顔が蒼白だ」
「良い」
 千日は腕にかけられた海堂の手のひらを払った。
 彼らのために何ができるだろうと考えてすぐ、今の自分には何一つできることがないと思い知った。そもそも、彼らのためになどとはおこがましいにもほどがある。
 ただ、千日には自分でも思いもよらなかった出生という武器がある。何がそんなに魅力があるのだか知らないが、鬼も人もそれを巡って争っている。千日はこれまで、何も知らずにひたすらそれを利用され続ける日々だった。けれど、今はほんの少し天財千日という一個の命の真相に近づけた気がする。
 鬼と人の果てない戦いの鍵を握っているらしい自分には、何かしらの役目があるはずだ。たとえば、あんなむごい惨劇を繰り返さないだとか、そんな類の。
 これからは利用されるだけでなく、自らが何ができるのかを考えて立ち回ろうと思った。
 立ち止まったり瞼を閉じていては、足元から崩れ落ちて、あの夢のような血潮に沈んでいってしまうような、そんな気がした。
 もう、何からも目を逸らさず、逃げるのもやめよう。
 自分にできることを見つけて、そのために懸命に生きよう。
 海堂の怪訝そうな瞳に、千日は強い瞳を返す。
「海堂、ありがと。教えてくれて」
 千日が泣き出したり怒り狂うとでも思っていたのか、海堂は拍子抜けしたような顔をした。
 千日の抱える真相にはまだ謎が多く残されているが、海堂が告げなかったということは神屋が口止めしているか彼自身も知らないのだろう。海堂に対して教えてくれないと責めるのはお門違いで、それは神屋に向けてやるべきことだ。
 そして一条高校での一件は、神屋が緘口令を敷かなかったこともあるだろうが、海堂が千日のことを慮って告げてくれたことにちがいなかった。被害者数を口にした時の海堂はその気遣いを後悔するような顔をしたが、ごまかされたりするよりはずっと良かった。
「いや……」
 海堂は半ば茫然とそう言い、千日のおぼつかないくせに危ういところがない不思議な後ろ姿を見送った。


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