鬼の血脈 朝の目覚め[五]



 食堂に着くと、千日の目当ての人物はすぐに見つかった。
 いつもならば食事時でなくとも椅子にだらだらと腰掛けてだべっている所員の姿がちらほらと見受けられるのに、今日はそれが嘘のようになかった。
「若槻、凌ちゃん、九重さん、おっさん、はらたけ」
 珍しく集合している仲間たちはしかし、各々好きなテーブルで座し、好きなことをしていた。
「姐さん!!」
 椅子から転げ落ちた若槻が、血相を変えて走ってくる。それより僅かに遅れて、凌と中原が腰を浮かした。
「もう立って大丈夫なんすか! さっきまで寝てたって聞きましたけど……」
 若槻の手のひらが千日の肩に食い込む。
「ちょ、痛いってば」
 千日が抗議の声を上げると、若槻はやっと自分の失態に気づいたらしく、慌てて肩から手を離した。
「すみませんっ」
「もー。あたし、死にかけたんだからね。もっと丁重に扱いなさい。……なんてね」
 千日は言って、背伸びする。年下とはいえ異性なので軽々しく抱きしめるなんてできなかったが、代わりに若槻の頭を撫でた。撫でた、というよりは背が足りなくて殴りつけたという方が正しいような仕草になってしまったのだけれど。
「皆も良かった……無事で」
 若槻を睥睨している凌、気遣わしげな視線を向けてくる九重、椅子の上なのに胡坐をかいて週刊誌を斜め読みしている三船、目を充血させている中原。一条高校で因縁のある相手と戦ったということが影響しているのか、それとも所内に沈殿する淀んだ澱にあてられたのか知らないが、それぞれ消耗した様子を隠しきれていなかった。
「あのね」
 千日は切り出しかけてなお逡巡した。ずるい考えが頭をもたげる。しかし千日はそんな自分を叱咤するように一歩前に踏み出した。
「ごめんなさい」
 腹から背中にかけて走った痛みに耐えながら、千日は腰を折った。
「おいおい、どったの。千日ちゃん」
 三船がさすがに週刊誌から手を離して足を地面に下ろした。それは三船だけのことではなく、誰もが不思議そうな顔をしていた。
 千日は、彼らに言わなければならないことがあった。
 千日の秘密を知っていても、何一つ責めることがなかった彼らに。
「この前、あたし、若槻を鬼だからって突き飛ばしたでしょう。あの時のこと、謝りたくて」
 若槻が目を瞠ったのがわかった。
 彼は、とてもわかりやすい。三船や九重と違って、喜怒哀楽がはっきりしている。その彼が、千日によって傷つけられたと悟られぬよう、あの時静かに目を伏せた。
「あたし、さっき、やっと自分が本当は何なのか知ったの。だから今言っても、都合の良い言葉にしか聞こえないかもしれない」
「……そりゃあな。お前だって、オレたちと同類なんだから」
 中原がそっぽを向いて呟いた。すぐさま凌が目を剥いたが、千日は彼女の激昂した身体を留めた。
「だけど、あたし、あの時のことをなかったことにして、このままずるずる皆と向き合うのは嫌だった。若槻にしたことはたぶん、他の皆にもしてしまったかもしれないことだった。皆が好きだって思う一方で、鬼だと知ってから偏見みたいなものを持ってた……ううん、多分、あたし、自分も鬼かもしれないってどこかで思ってたから、皆が近くなるのが怖かったのかもしれない」
 彼らを突き放すことで、人間であることにしがみついていられるような、そんな錯覚に陥ったのだ。そんなことをしたって本当のところは一ミリも変わらないのに。愚かにもほどがあった。
 半分その血を継いでいるらしいとはいえ、まだ鬼は恐ろしいし、一条高校を襲った鬼たちへの恨みはある。
 けれど、七福神の仲間たちへの思いをそれとごっちゃにして、色眼鏡で彼らを見るだなんて浅薄な者のすることだった。
「まったく、千日ちゃんは素直だね」
「……本当に」
 九重の後を継いで、若槻が溜め息とごっちゃになったような声を上げた。
「あたし……こんなだけど、皆と一緒に居たい。自分の出生が判明したからっていうずるい考えも多分あると思う。だけど、皆と仲間としてこれからもやっていきたい。良いかな」
「そりゃあもう。おっさん、若い女の子なら誰でも歓迎」
「貴様、それ以外に言うことがないのか」
 三船を足蹴にした凌に千日は苦笑する。
 それからもう一つ言っておかなければならないことに思いいたって、千日は凌に向き直った。
「凌ちゃん、あの時はごめん」
 案の定、凌はきょとんとした表情になった。
「ほら、この前のあたしの誘拐騒動の後、凌ちゃん冤罪で研究棟に放り込まれたでしょ」
 あの騒動の後に顔を合わして言葉を交わした数は少なかったが、凌は騒動前の彼女と何ら変わらない態度で接してくれた。
 神屋や若槻が言った通りひどいことは一切行われなくて、もしかすると凌にとっては取るに足らないことだったのかもしれない。だからといって、凌が少しも傷つかなかったはずはないのだ。
 凌の様子はと見てみると、その表情は幾分強張っているように見えた。
「やっぱひどいことされたの!?」
 詰め寄った千日に、凌は一生懸命いつもの顔をつくろうとして失敗したような表情を浮かべた。
 緊張を募らせた千日に、凌は困ったように小首を傾げる。
「別に何もされていない。天女のせいではないから、貴女が気に病む必要はない」
「うそ! 凌ちゃん、怒る時は怒んないと発散されないんだからね! あたしを罵倒するなり所長に飛び蹴り喰らわすなりしないとダメよ!」
 千日に両肩を掴まれてがくがくと揺すられても、凌はそれ以上口を開くことも、神屋に飛び蹴りをしに行くこともなかった。
 いささか落胆した千日であったが、久しぶりに動き回ったからか急な眩暈に襲われた。
 危うく倒れそうになったところを凌に抱きとめられる。千日は凌に礼を言い、九重の医務室行きの強制命令に従うこととなった。
 後にはまばらな会話が起きた。あいつなら本当に所長に飛び蹴りしそう。そう言ったのは中原で、若槻は声を上げて笑った。
 一人静かに複雑そうな表情をしているのは凌だった。
 無意識に服の袖を握りしめたその姿にたった一人三船だけは気づいて、その節くれだって年季の入った大きな手を、そっと彼女の頭に乗せた。

 それから三日、絶対安静の名目で、千日は医務室での拘束を受けていた。
 時折医務室にもたらされる情報やテレビの報道で、政府と民衆の混乱模様は把握することができた。
 その頃にはもう、鬼には人の数倍の身体能力があることや、階級が存在すること、人語を解する頭が居ることなどは公になっていた。だが、人形鬼の存在は依然として伏せられたままだ。それもそうだろう。その存在を知った民衆が疑心暗鬼になり、魔女狩りを始めることを恐れているのだ。実際、黒い巨体を持つものが多いとされる鬼と誤って、山中の熊が殺されるという事件が全国で発生している。それが人にまで拡大しないはずがない。恐慌状態に陥った人というのは何をしでかすかわからないからだ。
 テレビの討論番組などでは、大した知識もない自称知識人が好き勝手な意見を言い合っていた。即刻排除すべきだの、住み分けを要請すべきだの、鬼の頭をひれ伏せさせるべきだの、口にするのは簡単なことばかりだった。
 国立防衛研究所の本来の使命も国民の周知のところとなり、所内は連日人でごった返していた。
 これではいつ人形鬼が素知らぬ振りをして紛れ込んでくるかわからない。
 神屋などはそう言って関係者以外の締め出しを政府に要請したが、留まることを知らない民意がそれを許さなかった。政府は国民の混乱と不安と怒りのはけ口を研究所に求めたのである。
「あの人、絶対若ハゲするタイプね。ざまあみろっつーのよ」
 千日がぬくぬくとした布団の上で吐き捨てた台詞を、九重は耳に入れてしまったようだった。苦笑して、千日に手ずから淹れてくれた紅茶を差し出す。
「千日ちゃん、それ絶対本人の前で言っちゃ駄目だよ」
「多分! まあ、本当に我慢ならなくなったら正面切って言ってやりますけどね」
 鼻息も荒く宣言した千日は、九重の横にひょっこり現れた思わぬ訪問客に顔をほころばせた。九重もその人に気づいていささか不審そうに眉尻を上げる。
「よー、千日。相変わらず元気で安心したよ」
「寅さん! どうしたの? その変な格好」
 久しぶりに目にした雉門はスーツにネクタイに革靴という実に不似合いな格好をしていた。上下スウェットに草履という休日の親父スタイルを見慣れていた千日にとって、その姿は奇妙そのものでしかない。
「変な格好はねぇだろが。案外イケてるだろ」
「寝言は寝て言ってよ。それでどうしたの? さぼり?」
 千日の歯に衣着せぬ物言いに、雉門と九重は顔を見合わせて目元を和ませた。
「流石に今さぼったら、神屋さんに殺されるっての。お前さん、立てるか? その神屋所長がお呼びなんだが」
 千日の表情が目に見えて引きつる。千日はとうに点滴も取れ、軽く体操までできる状態まで回復している。神屋の元へ行けない理由がなかった。
 まあ観念しろや、と千日の頭に手を置いて、雉門は歯を見せて笑った。
「案外早く言う機会がやって来たね」
 どこか面白がるような口調は九重のものだ。千日はじろりと彼を睨み上げて口を開いた。
「他人事だと思ってー! 無事帰ってきたら九重さんお手製のチーズケーキ食べさせてくださいね。今度ははらたけには内緒で!」
 病床で元気いっぱいに暇を持て余していた千日は、九重に菓子を作ってもらったり、七福神の他のメンバーたちとカードゲームをして遊んだりと、世間のそれこそ宇宙人が襲来したような騒ぎとは無縁の生活を送っていた。
 ここ数日は鬼も大きな動きを見せていない上に所内が無法地帯になっていたので、研究所の雑用を手伝わされたりする他に七福神の活躍の機会がほとんどなかったためである。
 千日も何度か嫌々神屋に接触を試みたが、所員から伝え聞く返答のどれもが忙しいの一点張りだった。
 問い詰めたいことは山ほどあったが、喜んで会いたい相手ではないのは確実だ。
 しかし、いつまでもそんなことは言っていられない。
 千日は、この騒動の渦中にあるのだから。そして真正面から神屋とも鬼とも自分ともぶつからなければならないのだから。
 ワイシャツにカーディガンという制服姿に着替えた千日が雉門に伴われて所長室を訪れると、室内にはまだ先客が数名残っていた。
 いずれも恰幅の良い中高年の男性で、中にはテレビで目にしたことのある人物も居た。確か防衛大臣の唐木田とかいう人物だ。その横には軍服と思しき制服を着た男が並んでいる。
 物々しい雰囲気に千日は身じろいだが、彼らはこちらに気づくと途端に歓声を上げた。
「おお。神屋くん、では彼女が――?」
「は。我々の希望である天女です。いささか警戒心が強いところがございますので、あまり不用意に近づかれない方がよろしいかと」
 営業スマイルで神屋が応じる。
 神屋の脅しじみた言葉に、防衛大臣以下数名はたじろいだような様子を見せた。
 おおかた、彼らは千日の正体を知る一握りの人物という奴なのだろう。鬼を恐れながらも、その力を欲している。
(何がいささか警戒心が強いよ。しかもそれくらいでビビるこいつらもこいつらよ。人のこと何だと思ってんの)
 苛々と千日が仁王立ちになっていると、唐木田の隣で急いたような声が上がった。
「こ、神屋くん。彼女は確かに我々の味方なのかね?」
「ご心配なく。羽衣は既に我が掌中にあります」
「まあまあ荻倉中将。彼ほどあの憎き化け物どもに関して精通している者はおるまい。我々は我々の仕事を全うするまでよ」
 荻倉中将とやらの上官らしき男が鷹揚に彼の肩を叩いた。
 神屋は営業スマイルを崩さず、男たちが退出の準備に取りかかるのを黙って見ている。
「それでは期待しているよ、神屋くん。そして君もな。地上に舞い降りた天女よ」
 ただの鬼と人間のハーフに何をそんなご大層な呼び方をする必要があるのか。というかその台詞、口にしていて恥ずかしくないのか。
 千日は思わず、はあ? と防衛大臣に向かって無礼千万な声を上げそうになった。
 寸でのところで無理やり雉門に頭を抑えつけられて礼をさせられる。神屋と雉門はというと敬礼の姿勢を彼らに向けていた。
 バタン、と音を立てて所長室の扉が閉まる。
 頭上でまず初めに大きく息を吐いたのは雉門だった。
「わざわざ千日に会わせる必要があったんですかね?」
 溜め息まじりの問いを受けて、神屋がくすくすと耳障りな笑い声を上げた。
「彼らにとっては、天女が異形だったり巨漢のような大女じゃなかったことが重要なんだよ。天女様もよくよく見れば愛らしい顔をしているからね。見た目の効果はそれなりに大きいよ」
 久々に見た神屋はやつれていたものの、普段通りの嫌な奴加減を存分に発揮していた。
「何? どういうことですか?」
 神屋は、いまいち状況を把握しかねている千日に背を向けて歩いて行ってしまう。定位置であるロッキングチェアに座ってやっと、こちらにその嫌味ったらしい顔を向けた。
「天女様には天女様の役割があるからね。こっちの面倒くさい処理は君の領域じゃない。その辺は気にしないでいて良いよ」
 気にしないでいて良いと言われても、目にしてしまえば気になるのが人の性というものである。まあ、千日は二分の一・人という感じなのだけれど。
「つまり、人同士のことには介入するなってことですか?」
「そういうことになるね。まったく、彼らも本当に自分の仕事を全うしてほしいところだよ。国立防衛研究所は国民の皆々様のための鬼に関する相談窓口でも何でもないのにね」
「あー。その様子じゃ、一般人立ち入り禁止の件はまた見送りに?」
 苦い顔をして尋ねた雉門に神屋は忌々しげに舌打ちをした。
「早いうちにどうにかするつもりだが、国民の心の平穏のためにももう少し情報提供に協力してほしい、だそうだよ。その間にここが人形鬼に乗っ取られたらどうするつもりなんだか」
「え。何か対策してないんですか!」
「血液検査をするわけにもいかないからね。とりあえずは面の割れている人形が居ないかチェックしているけど」
 そんなずさんな、と千日は思ったが、神屋の表情は意外にも明るかった。
「まあ、こちらもそれを利用させてもらうさ。天女様、君、もう一度高天原にさらわれておいで」
 千日の耳は、しばらく神屋が言った言葉を聞き入れようとしなかった。
 人を食ったような態度でこちらを見つめる神屋を千日は唖然と見つめ返した。
「何? 何て言った?」
「だから、高天原邸に誘拐されておいでって言ってるんだよ」
 性質の悪い冗談かと思ったが、どうやらそういうわけでもないらしい。
「どういうことですか? あんたは、あたしが居なくなったら困るんじゃないの?」
「うん。だから今回は僕がじきじきに君を連れ戻しに行く。安心して行っていいよ」
 意味が分からない。
 話の通じない相手だと常日頃から思ってきたが、まさかここまでとは思わなかった。その傍若無人っぷりは桐谷と張れるんじゃないかと思う。
「あんたのわけのわからない都合に踊らされるのはまっぴらよ! 何が何だかこっちにはさっぱりわかんないっつーの。あたしはあんたの思い通りに動く駒なんかじゃない! あたしは……!」
 人だ、という言葉がどうしても出てこなかった。
 あれほど鬼に対し嫌悪を抱いていたはずなのに、半分鬼の血を引いていると言われてしっくりきている自分が居る。未だその事実に抵抗する自分が居る一方で、やっと本当の自分を取り戻したかのような心地に侵蝕されてもいるのだ。
 そんな葛藤を見透かすように、神屋は嫣然として千日を眺めている。
「先の天女様の誘拐事件で、高天原の思惑ははっきりと露呈した。連中は君を求めている。ゆえに君を殺せない。君も連中の思惑を聞いてくると良いよ。その上で君にはこちらの利にかなった行動をしてもらう」
 椅子にふんぞり返った神屋が、まるで王命か何かのように千日に指令を下した。
 神屋は、鬼が喉から手が出るほどに千日を欲していると知っている。それでも千日を一端鬼側に引き渡すことで得られる利益を見越して、リスクを負うことを選んだ。その上、手ずから千日を取り戻せると自負しているのだ。
 千日は神屋を真っ向から睨みつけた。
 千日とて、はいそうですかと頷いて神屋なんぞの言いなりになるのは嫌だった。
 高天原は、千日の学友を殺し傷つけたおぞましい鬼たちの住処だ。憎悪と共に身をかきむしられるような恐怖を感じる。
 しかし――高天原は、千夜は、きっと千日の望む答えをくれるだろう。ただの鬼と人のハーフが何故ここまで人にも鬼にも重宝されるのか。そして、どうして千日が心から愛する一条高校の皆を襲ったのか。
 もう逃げないと決めた。これは、ある意味チャンスだ。神屋の手綱を逃れて、自らの目と耳で情報を仕入れ、自らの頭で身の振り方を決める、チャンス。
「わかりました」
 挑むように言った千日に神屋は妖しく光る一瞥をくれた。
「まあそんな固くならないで。必ず助けに行くよ。何たって君は、僕たちと同じ人だからね?」
 欠片もそんなことを思っていないくせによく言う。
 海堂にも同じようなことを言われたが、あの時は心が軽くなるような、異質である自分の存在を肯定されたような、そんな気がした。
 神屋が口にしたのも同じ言葉のはずなのに、千日の胸をえぐるようだ。
 それを悟られたくなくて、千日は自分の胸の内から目を逸らした。
「だいたい所長、戦えるんですか? そんなひょろひょろで。若ハゲしそうな顔してるくせに」
 雉門の苦笑が聞こえる。神屋は眉ひとつ動かさず、デスクに頬杖をついた。
「楽しみにしておいで。君の期待は裏切らないと誓うよ」
(期待なんて微塵もしてないっての)
 千日が心の中で神屋に向かって思い切り舌を出していると、彼のふざけた笑顔が唐突に真顔になった。まさか感づかれたかと身じろぎをした千日は、神屋が携帯を片手に話し込み始めたのを見て、雉門に視線を移した。雉門はというと肩を竦めて神屋を窺っている。千日の視線に気づくとからりと笑った。
「まあ、心配なさんな。あの人は大人げないが、俺よりずっと強い」
「えー。寅さんの方が絶対まし。所長じゃ返り討ちにされそう」
 女も形無しの神屋の緻密で繊細な顔立ちにちらりと目をくれ、千日は断言した。
「まあそうむくれるな。帰ってきたら、俺もお前さんに何か奢ろう」
「……寅さん。あたしのこと、食べ物でほいほい釣れると思ってるでしょ」
「はは。バレたか」
 千日がぽかぽかと雉門の腕を叩いていると、通話が終わったらしい神屋がゆったりとした足取りでこちらまで歩いてきた。
「ビンゴだ。共有施設棟付近で不審人物確認。防犯カメラの映像をチェックしてた三船くんの話によると、桐谷の分家筋の鬼だそうだよ。早速君の出番だね」
 うら若い乙女を敵の本陣に引き渡すというのに、この男には良心の呵責みたいなものはないのだろうか。嬉々として千日を部屋の外に追い立てようとする神屋が、忌々しくてならない。
「じゃ、適当にその辺をぶらぶらしてろってことですか。で、声を掛けてきた人に警戒もしないで付いて行く? あっちもそんな簡単にあたしを捕まえちゃったら不審がるんじゃないですか」
「まあ、彼らも僕の思惑は承知で来ていると思うよ。せいぜいあちら側に寝返らないことだね。僕も君は殺すには惜しいと思っているんだ」
 物騒な言葉を平然とぶつけて、神屋はエスコートするように千日の背を抱いて歩き始めた。
「あたしの学校を襲ったような奴の味方になるつもりなんか、さらさらありません」
 背中に回された手を弾き飛ばして、千日は乱暴に所長室の扉をぐいと掴んだ。
 振り返ると、少し心配そうに唇をへの字に結んだ雉門と目が合う。千日は彼を安心させるように歯を見せて笑った。
 センターを出て、共有施設棟のある方角へ向かう。
 辺りは一般人でごった返していて、誰がその不審人物なのだかわからない。
 神屋には見くびられたくなくてさも簡単なことのように言ってしまったが、いざ人を平然と殺す集団の元へ行くとなると緊張で身体が震えた。
 せめて人気のなさそうなところへ行こうと曲がり角を曲がった時、それは起こった。
 突然建物の影から伸びてきた大きな手に口と鼻を塞がれる。
「うっ」
 呻き声が漏れた時にはもう、身体に激痛が走っていた。
 ドラマなどでよく見たことがあるスタンガンとかいう代物だった。数秒の後、千日の意識は闇に沈む。男が千日を引きずるようにして車に乗り込むと、後には何事もなかったかのような静寂だけが残された。


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