鬼の血脈 朝の目覚め[六]



 次に目を覚ました時、千日は神屋の思惑どおり、高天原邸の客間に敷かれた布団に横たえられていた。千日が身体を起こすと、すぐ傍で物音がした。
「起きられましたか」
 抑揚のない声は綾のものだった。綾は布団の脇に膝立ちになり、なかなか目を覚まさない千日を甲斐甲斐しく世話していたらしい。
 その横には綿貫の姿があった。彼は足を崩して座っていたものの、一部の隙もなく千日を窺っていた。
 形だけでも思いがけずさらわれたように見せかけた方が良いだろうか。白々しく悲鳴でも上げようかと思った矢先、左手の襖が開いた。
「やっぱ度胸あんね。わざわざ乗り込んでくるなんて。まあ、こっちにとってもその方が好都合だけど」
 寝ぼけ眼で欠伸までかましながら現れたのは令だった。
 千日の顔がさっと強張る。神屋が言っていたように、鬼たちもこちらの思惑などお見通しらしい。こうまで言われて演技するのも馬鹿らしい。千日は立ち上がると令の双眸をじっと見つめた。
 凌や九重や三船や中原にとって、彼らは大切な家族であり友人である。だから千日には単純に彼らを憎むということは難しい。だからといって、親しみが湧くはずもない。一条高校の見る影もない無残な姿は千日の瞼の裏に焼きついて離れない。
「あんたたちには聞きたいことが沢山ある。あたしの質問に答えてくれるのはどいつ?」
 すっくと立ち上がった千日は鬼たちを睨めつけた。
「嫌われたもんだね」
 令が微笑を浮かべて言った。
 憮然と令を見上げた千日の元にどすの利いた綿貫の声が落ちる。
「姫がお待ちです。歩けますか」
「あ……はい」
 つられて敬語になってしまい、千日は鼻白んだ。いかにも頑固親父といった態の綿貫だったが、ずっと年少で女である千日に対する配慮が感じられた。あの凌の父親だということが、何となくわかるような気がする。でも、それでも彼が千日の学校を襲ったという事実は何一つ変わりようがない。
 目の前のことにすぐに気を取られてはっきりしない自分の心が嫌だった。千日は半分鬼の血を引いていようと、人間として育った。ヒトを襲う鬼に情を移すなど間違っている。
 千日は令たちに導かれ、この間と同じ眠り姫の眠る部屋へと誘われた。部屋の入り口には、刀を抱えて座り込んでいる桐谷の姿もあった。こちらに冷たい一瞥を寄越すと、すぐにまた瞑想しているかのような体勢に戻ってしまう。
 令が襖を開けて、千日を中へと促す。どうやら鬼師たちは外で待っているつもりのようだ。
 千日は幾分ほっとして、千夜の部屋の畳を踏んだ。
 千夜はやはり、布団に横たわったままだった。以前は身体を起こしてくれたものだが、今回は調子が悪いのか千日に気づいてもわずかに首を動かしただけだった。
「こんな姿勢でごめんなさいね」
 機先を制され、千日は千夜を怒鳴りつける気が失せてしまった。
 相変わらず、千夜は青白いまでに白い肌をしていた。その美貌も相変わらずであったが、彼女からは何か良くないにおいがした。嗅覚を刺激するようなものではない。それは、千日の肌を粟立たせるような、昏いものの這い寄る気配だった。
「……どうして、一条高校を襲ったの」
「それが、貴女の一番大切にしているものだとわかったからよ」
 千日の強張った声に臆することなく、平然と千夜は答えた。揺らいでいた怒りの炎が息を吹き返す。千日の瞳は得体の知れないものを見るように千夜を映した。
「何言って――ふざけないで。それであんたたちは何を得するわけ!? あたしの大切なものを破壊して、何がしたいの?」
 今にも掴みかかりそうな勢いで怒鳴った千日に、千夜はそれさえやさしく包むような母なる海のような瞳を向けた。
「貴女に、大切なものがあっては困るの」
「意味分かんないわよ! あんたは――あんたたちは一体何がしたいのよ! あたしが鬼の血を引いていることは聞いた! だからってどうしてあんたたちがそこまであたしに執着するの!?」
 千夜はほんの少し困ったような顔をして、傍にあった脇息を手で手繰り寄せた。苦痛に顔を歪めて起き上がると、脇息にもたれて息も絶え絶えに口を開いた。
「千日、よく聴いて。貴女は次期高天原家当主、鬼姫なの」
「は――?」
「貴女は私と同じ血を引いている。第一位姫位きい継承者よ。貴女の母親は、先々代鬼姫だった」
 この少女は、何を言っているのだろう。
 悪い冗談にしか思えなかった。
「天財千里ちさと――いいえ、高天原千里は、先々代高天原家当主よ。それも、稀代の鬼姫。戦場で剣を振るう様は鬼神のごとく、それでいて、その存在は鬼の間で禁忌。自ら鬼を裏切った鬼姫など、前代未聞だったのだから」
 絶句する千日を気にも留めず、千夜はそれだけのことを一気に言い放った。
「嘘……だってお母さんは普通の……」
「少なくとも、千日が居た世界における『普通』ではないわ。貴女がこうして鬼からもヒトからも望まれる理由を考えてみなさい」
 確かに、千日の今置かれている状況を考えれば、千夜の言葉はもっともなような気がした。
 けれど、母――千里は、本当にごく普通の兼業主婦だった。否、確かに普通と言うと語弊がある。料理が下手で、掃除も苦手だったし、何より短気だった。夫とはしょっちゅう口喧嘩を繰り広げていて、果てには物まで飛ぶ始末だった。だが娘には惜しみない愛情を注いでくれたし、さばさばとしていて常に彼女の周囲は明るかった。娘の贔屓目もあるかもしれないが、美人だったように思う。
 今突然、母が鬼姫だった、剣まで振るったなどと聞かされて納得できるはずがない。
「貴女がこの前身につけていた着物、あったでしょう。あれは、千里の遺品よ」
 千日は瞠目した。
 千日の住んでいたマンションにも千里の着物はいくつか残されていたが、それも今となってはどうなったのかわからなかった。肉親との縁が、千日が嫌う鬼の棟梁である高天原の家で見つかるとはどんな皮肉だろう。
「でも……証拠がないじゃない」
 千里とその夫が眠る墓には骨すらなかった。死者を鬼か人か見分けることができるのか定かではないが、どちらにせよそれは不可能だ。
 彼らは交通事故で死んだと聞かされているが、もし千夜の話が本当ならばその話も本当のところはどうなのだかわからない。
「写真といった類はもう焼き捨てられていてね。千里が高天原のものであったと証明することはできないのだけれど、確かなことよ」
 千夜は曖昧に言葉を濁した。
 千日は俄然勢いづいて、千夜の布団の端を皺が残るほど強く握りしめた。
「そんなんであたしが納得するはずないでしょ! そんな嘘、誰が信じるって言うのよ」
「……困ったわね」
 思案気に溜め息を吐いて、千夜は千日を見上げた。
「千日、いずれ貴女にもわかる時が来るわ。だから、とりあえず話だけは聞いてちょうだい」
 そんな日なんて一生来るはずがない。
 百歩譲って母が鬼であったことを認めたとしても、鬼姫なんて立場にあったことはありえない。母はとにかく不器用で、針もまともに扱えなくて、つくろいものなどは全て父が請け負っていた。そんな母が、剣を自在に操って鬼神のようだったと言われても、馬鹿馬鹿しい作り話だとしか思えない。
 だが、一応話を聞いておくくらいは良いだろう。まがいものの話の中にも真実の一片くらいは見出すことができるかもしれない。
「それで? その先々代鬼姫様が裏切ったってどういうことなの?」
 千日が投げやりな態度ながらも話を聞く態勢に入ると、千夜はいくらかほっとした表情を浮かべた。
「高天原千里は、戦場で鬼狩り一門の狗馮こまより一斗いちとと恋に落ちた」
 忌々しげに千夜が呟く。
 一斗は千日の父の名だった。旧姓は教えられていなかったから、千夜の言った姓が正しいのかはわからない。
「鬼狩り?」
「鬼狩りを知らないの?」
 軽く目を瞠った千夜にどこか気まずい心地を抱きながらも、千日はぎこちなく頷いた。
「そう……鬼狩り一門は、神屋を頂点にいただく、古くから続く鬼退治専門のヒトの家系よ。一門の棟梁である神屋家は猿女・雉門・狗馮の三家を従えている。狗馮家は現在廃絶されているけれどね。彼らにも会ったことがあるでしょう?」
 千日はそう問われ、声なき声が漏れるのを感じた。
 神屋があの若さで国の機関の所長なんてものを務めているのは、若しかするとそれが関係しているのかもしれない。
 雉門が一回りも若い神屋に敬語を使っているだけでなく、どこかくだけた親しみやそれに上回る忠誠めいたものを感じさせたのは、そういう背景があったからだろうか。彼らがただの職場の上司と部下の関係であるとは、千日にはどうしても思えなかった。
「つまり、あなたの言い分は、鬼姫とそれを狩るはずの鬼狩りが恋に落ちちゃって、その間に生まれたのがあたしだってこと?」
「ええ」
 千日はさすがに呆れ返って何も言えなかった。
 とてもじゃないが、父――一斗は、鬼狩りなどという任に就いていたようには思えない。頼りになる一家の大黒柱だったが、だいぶ千里の尻に敷かれていた。それに、虫一匹殺せそうにない顔をしていた。
 そんな映画か何かにでもなりそうな、戦場で芽生えた種族を越えた大恋愛の末に結ばれた夫婦のようには、まるで見えなかった。
「だから、千日には次期当主の役目を継ぐ資格がある。鬼の中には貴女が禁忌の鬼姫の子だということや、人の血が混ざっているからと認めようとしない者もいるわ。けれど、貴女は認められなければならない」
「ちょっと待ってよ! どうしてそういう方向に話が行っちゃうの? あたしは鬼姫になるつもりなんて全然ない!」
 自分でも気づかずに蒼白な顔で怒鳴りつけた千日を千夜は痛ましそうに見つめた。
「千日、鬼にとって、鬼姫の存在は絶対なの。鬼は最高位の血統の鬼の女性を鬼姫として一門の頂点に据える。現在の最高位血統は高天原の血。その血液保持者は、貴女と私よ。そしてほぼ無条件に鬼は鬼姫の名の下にひれ伏すわ。鬼姫の下に統率の取れた平穏な暮らしを送るのが、鬼の幸福。鬼姫なしに、鬼は生きることができない」
 そんな鬼たちの社会の説明をされても困る。
 千日には何ら関係ない世界の話だ。千日にとって鬼は憎い仇でしかない。
 ――否。己が鬼の血を引いていることや、七福神のメンバーたちのことを考えれば、無関係と言い切るには説得力に欠ける。こうして鬼姫である千夜と対峙している時点で既に関係ないだなんてことが言えないことは頭ではわかっている。千日の学友たちは、咲穂は、鬼に襲われたのだ。千日が千日であるがゆえに、こんな事態を招いてしまった。
 憎い仇。鬼が、そんな一言で表せる存在でないこともわかっている。この目の前の一見無害そうな娘がクラスメイトを殺したのだと知っても、彼女や鬼師を殺されて当然とは到底思えない。
 ぐらぐらと心が揺れて、どうしてか嗚咽が漏れそうになった。何か支えになりそうなものを求めて千日の心は手を伸ばすが、何一つ掴むことなくその手は空を切った。
「それが何よ……いくらあたしがその高天原の血を引いてるって言ったって、あなたが居れば、あたしなんか必要ないでしょ。見たとこ、歳も同じくらいじゃない」
「同い年よ。それに、私たちは従姉妹同士でもある。私の方がちょっとだけお姉さんだけど」
 千夜は目を細めて緩く口の端を上げた。
 千日は唖然と千夜の微笑を見つめる。
 まだ千夜の言い分を認めるつもりはなかったが、確かに千里が高天原の一員だったとしたら彼女とも血縁関係にあるだろうとは思っていた。しかしまさか従姉妹(仮)とは。
「そ、そんなの、認めないからね」
「寂しいわね。……とにかく、鬼は貴女を必要としているわ」
「だから! あなたが居れば、そんなの必要ないでしょ!?」
 千夜は笑みを深めて、それからふっと千日から視線を外した。窓の外に注がれた視線が、ゆるりと弧を描いて、千日の元に戻ってくる。
「私は、もうじき死ぬわ」
 静かな声だった。
 その顔も一切揺らぎがなく、明日の天気でも述べているような、何の感慨もないものだった。
 千日は言葉を詰まらせて一瞬自失したが、わけのわからない怒りのままに千夜の腕をつかんだ。
「――何よそれ! 鬼と人の抗争でってこと!? でもあんたのことは、桐谷や令や綾ちゃんや綿貫さんや……鬼たち皆が守ってるでしょ! あんたを喪いたくないのなら、それこそ命懸けであんたを守るはずじゃない!!」
 叫びながら、千日は自分の頬を熱い滴が伝ってゆくのを感じていた。どうしてかわからない。この鬼の頂点に君臨する少女が千日の大切なものを奪ったのだとわかっているのに、どうしてこんなに哀しいのだろう。自分に鬼姫の役目が火の粉として降りかかってくるかもしれないなどという不安とは全く別の、喪失の痛みが千日の胸を締めつけた。
「泣かないで」
 ふと、細く白い指が伸びてきて、千日の目尻を拭った。
 千夜の言葉とは裏腹に、千日の瞳からは涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「鬼師も、皆も、確かに私を守って大事にしてくれるわ。けれど、彼らにもどうにもならないことがあるの。私は、不治の病に冒されている。医者が言うには、あと半年もてば良い方だと」
 千日は絶句した。
 どうしてこんなに動揺しているのかわからない。ただ、わけのわからない感情の奔流に飲み込まれて、呼吸すらままならなかった。
「私はあの子たちが好きよ。あの子たちを守りたい。だけど私にはそれが叶わない。だから託すわ。千日に」
「そ、んな……勝手なこと……言われても……、困る」
 千夜の強い瞳を見ていられなくて、千日は俯いた。
「貴女にヒトへの未練があっては困る。だから今回は、鬼という存在がヒトに露見しても構わない。そういう覚悟で貴女の一番大事なものを奪いに行った」
「な……んで」
「鬼姫になったら、貴女はヒトと対立しなければならないから。ヒトは、ますます鬼への締め付けを強めているわ。鬼姫は、鬼のためならヒトなんて平気で殺せなければならない。あちらに大切なものがあっては困るわ」
 千日は無言で千夜を睨みつけた。
 勝手だ。あまりにも。
 神屋も千夜も、皆勝手だ。
 勝手に千日を祀り上げて沢山のものを奪い去ったくせに、とんでもないものを要求してくる。
「返事は、決心がついてからで良いわ。無理やりここに閉じ込めていても、貴女はますます意固地になるだけだろうから。けれど、決心がついたらここに来なさい」
「決心なんか……、するわけない」
 千日は悄然と呟いた。怒鳴りたかったのに、声を出すだけでもひどく億劫だった。
「するわ。貴女はきっと、あの子たちを見捨てられない」
 予言めいた言葉を最後に、千夜は鋭く研ぎ澄まされた瞳で千日が入って来た襖の向こうを見つめた。
 訝る千日の耳が、部屋の外の騒音を捉える。
 激しい剣戟の音がこちらに迫って来ているのがわかった。
(所長……?)
「行きなさい。私はあの男と顔を合わせたくないの。千日――鬼狩りには気をつけなさい」
 険しい視線を向けられ、千日はまるで操られるように立ち上がった。
 はやる胸を必死で抑えつけて千日は襖を開いた。身体に纏わりつくような鉄錆の臭いは、襖や床に飛び散った血のせいだとすぐに気づいた。
 向こうの部屋に、刀を手に立っている人影があった。千日の上顎に張り付いた舌が、声を上げようと震える。けれどそれは、吐息にすらない。
 千日の気配に気づいたのか、その人は畳に倒れ込んだ人影から目を離してこちらを見た。ぱったりと目が合う。千日の表情の抜け落ちた顔を見て、その人は朗らかに笑った。
「やあ天女様。無事で何より」
 血の赤で彩られた室内で、唯一血に塗れていないその男は、刀を一振りすると鞘にそれを収めた。
「しょ、ちょ……」
 千日の唇が、掠れた声で男を呼ぶ。
 正面を向いた神屋はやはり、一滴の血も浴びていなかった。
 千日は、神屋の向こうに倒れている男を認識して戦慄する。
 千日よりも長い艶やかな黒髪は今や、血溜まりの中で無残な姿を晒していた。紺の和装の脇腹の辺りから、どくどくと洪水のように血が流れ出している。苦痛に歪められた瞳が、立ち尽くして動くことのできない千日を捉えた。
「き、りたに」
 震える千日の肩に、神屋の手がかかる。
「そんな顔しなくても、鬼はあれくらいじゃ死なないよ。特にあれはとびきり強い鬼だから」
 その整った微笑に吐き気を覚えた。この惨状の中で笑える神経がわからない。
「僕としても、貴重な上級鬼をここで処分してしまうのは懐が痛むからね」
 三船の言っていた鬼の軍事的転用のことを指して言っているのだろうとすぐに察しがついた。
 鬼を生き物とも思っていないその口振りに千日は憤る。
「所長……一人で来たんですか」
「ああうん、そうだよ。不満だった?」
 単身敵の本拠地に乗り込んできて、傷一つ負わず、返り血すら浴びていないというのか。
 神屋のことは、以前から食えない男だと思っていたが、これほどまでに恐ろしさを感じたのは初めてだった。ただのヒトでありながら、鬼である桐谷を倒した。否、桐谷ばかりではない。ここに来るまでには、他の三人の鬼師や上級鬼、下級鬼が相当数居たはずだ。
 千夜は千日を一先ずは返すつもりのようだったから、鬼たちも全力で抵抗したわけではないのかもしれない。しかし千日は、七福神のメンバーたちが束になっても桐谷相手に苦戦を強いられていたのを知っている。それを、こんなにあっさりと負かしてしまうだなんて。
「いいえ。とにかく早く帰りましょう」
 ぐずぐずしていたら、鬼の増援が来るかもしれない。
 そうなっては、また血を見ることになるのは明白だった。千日はもう、ヒトの血も鬼の血も見るのは嫌だった。
「そうだね。囲まれでもしたら面倒だ」
 言うなり神屋は千日を目線で促して、歩き出した。面倒だなどと言いながら、走ったりする気はまるでないらしい。
 千日はただひたすら鬼が現れないように祈りながら、神屋の後を追った。


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