鬼の血脈 朝の目覚め[七]



 幸いにも、出口まで鬼が現れることはなかった。それに、千日が危惧していたほど通り道に争いの後は見受けられなかった。
 桐谷やその他数名の鬼たちは、千夜の部屋が荒らされることのないように神屋と切り結んだのかもしれない。
 花が落ちて新芽が萌え出づる葉桜の並木道をしばらく行くと、細い街道に出た。古風な造りの家屋が道の脇に並んでいる。道には車も人通りもなかった。不気味なまでに閑散として静まり返っている。いくら鬼の存在が一般人を脅かしているとしても、真っ昼間からこんな状態で、人びとは暮らしていけるのか心配になる。
 鬼の本拠地がすぐ傍にあるとは公言できなくても、鬼が出没する地区ということくらいは政府が発表したのだろうか。
「所長。何でここ、人が全然居ないんですか? 皆避難とかしてるんですか?」
「いや、そもそもここにヒトは住んでいない。ここは鬼の里だからね」
 千日はぎょっとして辺りを見回した。
 確かに高天原邸からそう離れてもいない地域にヒトが住まうことを鬼たちは良しとしないだろう。
「ここの連中にも足止めを喰らうかと思ってたんだけど。意外と楽に事が運んで良かったよ。でも、君をすんなり引き渡すとはね。……天女様、何か高天原の姫と密約でも結んだかな?」
 千日は目を見開いて神屋を見上げた。
「何……言ってんですか。どうしてあたしが鬼と秘密裏に取り引きなんかしなきゃなんないんですか」
 神屋は貼りつけたような微笑を崩さない。
 ひどく怯えた千日をあやすような猫撫で声で神屋は応える。
「そりゃあ、君が鬼姫の血を引く高天原の姫だからだよ」
 ガツンと頭を殴られたような衝撃が来た。
 千夜の言葉は、まだ耳半分に聞けた。しかし神屋までもがそんなことを言うのならば、それは多分、本当なのだろう。
「……お父さんが鬼狩りだったっていうのも、ほんと?」
「ああ、一斗? そうだね。彼は優秀な鬼狩りだったよ。高天原千里に出逢うまでは、ね」
 千日はいよいよ蒼白になった。
 今まで信じていたものが、がらがらと音を立てて崩れてゆく。
 千日にとって、両親はその存在を喪ってもなお、心の拠りどころだった。二人とも駄目なところもあったけれど、そんな部分も含めて大好きだった。
 母のことは、一点の疑いもなく、ヒトだと信じていた。海堂から鬼だと知らされても、既に身近に人とそう変わらない七福神の面々が居たから、決定的な痛みにはならなかった。けれど母はただの鬼ではなく、鬼を従えた鬼姫だったという。
 父のことも知らなかった。鬼狩りだなんてものだったなんて、一度として千日に教えてくれたことはなかった。ほのめかしたことすら、なかったように思う。
 千日の好きだった両親は幻想だったのだろうか。そんなものは、本当はなかったのだろうか。あの笑いの絶えなかった家庭は、まがいものだった?
「……お母さんに出逢って、お父さんはどうしたんですか」
 千日と神屋は旧市街を抜け、現代的な家の立ち並ぶ通りに出た。神屋がポケットから車のキーを取り出して、傍にある広い空き地に入っていく。おおかたそこに車を停めてきたのだろう。千日も神屋に倣って後に続いた。
 空き地には車が一台停まっていて、針葉樹がぽつぽつと植わっていた。ほとんど日光が届いていないせいか、まだ日も高いのに薄暗く影が落ちている。寂しい、うらぶれた雰囲気のある場所だった。
 車に背を預けて、神屋は千日に向き直る。
「君の父親はね、鬼狩り一門の三家の一つ、狗馮家の嫡男だった。それはそれは優秀な、ね」
 どうやら神屋は一斗の話をしてくれるようだったので、千日も傍の木に寄りかかった。
「僕も彼とは随分仲良くさせてもらったよ。彼は忠実なしもべであると同時に、僕の一番の友人だった。十も歳が離れているとは思えないくらい、僕らは気が合った」
 一斗は生きていれば今年三十九歳だ。神屋は二十八歳だと聞いている。
 千日は密かに、こんな男と親しくできたという父を尊敬した。
「でも、ある日彼は鬼狩りを抜けたいと言い出してね。僕は耳を疑ったよ。問い詰めてみたら、鬼姫を愛していると言うじゃないか」
 神屋の薄茶の虹彩に、暗い影が落ちた。知らず、身体が強張る。千日を向いた顔にはまだ仮面の笑顔が貼りついていたが、もはやそれは何の意味も持たなかった。
「彼は僕の制止も振り切って、狗馮家を出て行った。そして、あの女と一緒になった。そこで生まれたのが――君だ」
 桐谷に向けられた時とは比べ物にもならないほどの憎悪を感じた。あの時は、もっと混じり気のある複雑な思いをぶつけられたように思う。しかし神屋の方はもっと歪んでいて、そのくせ純粋で穢れを知らないようなものだった。腹の底から湧き上がってくるような恐怖に、千日の肌が粟立つ。
 落ち葉を踏みしめる音が聞こえたかと思うと、千日は神屋に一瞬にして距離を詰められていた。
 神屋の腕が千日を木の幹と彼自身の身体の間に閉じ込める。
 青ざめた千日を、尚も彼は嗤って見つめた。
「君は、高天原千里に生き写しだよ。そのくせ、諦めが悪くて向こう見ずなところは一斗にそっくりだ。君を視界に入れるたび、どれだけ僕が必死で殺意を抑えていたと思う?」
 神屋の手のひらが、言葉とは裏腹に千日の頬を愛おしむように撫でて、首筋に滑った。
「しょ……ちょ」
「幸光だよ。僕の名前も忘れたの? 一斗」
 やさしく微笑んで、神屋は「一斗」を見た。
 首にかけられた手に力が込められる。大して力は入れていないのだろうけれど、千日の細い女の首は簡単に軋んだ。抵抗しようともがいた指は、虚しく神屋の皮膚を引っ掻いただけだった。
 足から力が抜ける。それでも神屋が千日を解放してくれる様子はない。
 恐ろしかった。首を絞められて死ぬかもしれないという思いよりも何よりも、神屋に潜んだ狂気がただ恐ろしかった。
「一斗。君が僕に謝るなら、過去のことは水に流してあげても良いと思っていたんだ。けど、君は僕の許しなく、勝手に死んじゃって。どれだけ僕が君を待っていたと思う?」
 神屋の指の感触が少し緩んだ。
 千日はすかさず神屋の手首を叩いた。
 肩を上下させて息を吸う。喉の辺りが不自然に痛かった。
「あたしは……」
 掠れた少女の声に、不快そうに神屋は眉を寄せた。
「あたしは、一斗じゃない」
 睨みつけた千日に、初めて神屋は怒気を閃かせた。
 乱暴に胸倉を掴まれ、地面に叩きつけられる。目の前を、星が飛んだ。
 歯を食いしばった千日を嘲笑うように、神屋は華奢な身体に圧し掛かる。
 ボタンの弾けたワイシャツの襟を、千日は必死で掻き合わせた。神屋の瞳には何の熱も灯っていない。あなぐらのように暗みがかって深く、硝子でできたように人間味を感じさせない瞳。それなのに吐く息だけは生温かく、ひどく現実めいた感触で千日の鎖骨の辺りをなぞった。
「神屋さん!」
 千日の聴くことをやめようとしていた耳に滑りこんできたのは、男というにはまだ幼く少年というには荒っぽい叫び声だった。
 神屋も聞こえているだろうに、顔を上げる気配はない。
 ひどく急いた足音が近づいてきたかと思うと、千日を拘束していた神屋の身体が鈍い音を残して吹っ飛んだ。
 ぼんやりと覚束ない視界に、見知った背中が映る。海堂だった。
「飼い犬に手を噛まれるって、こういうことを言うのかな」
 くすくすと耳障りな笑い声が神屋から漏れた。
 神屋は海堂に殴られたらしい頬を押さえ、こちらを見つめている。
「神屋さん、貴方は――」
「まあ良いや。陸、どうやってここに来たの? よく嗅ぎつけたね?」
「俺ですよ」
 神屋の問いに答えたのは、ちょうど空き地に足を踏み入れたところの雉門だった。すぐ傍に乗りつけたタクシーがある。どうやら着いて間もないようだった。
「寅。君、ほんと余計なことしかしないよね」
「お互いさまでしょ。貴方に言われたくはありませんね」
 ずかずか歩いてきた雉門は神屋の足元に落ちていた車のキーを拾ってロックを解除した。
「陸、お前さん、千日を連れて帰れるな? このしょうもない大人は俺が送って行くから、お前さんも千日連れて帰って来い。少しぶらぶらするくらいは俺が許す」
 しょうもない大人呼ばわりされて、神屋がいささかむっとしたような表情になる。海堂は、はいと硬い声を上げて首肯した。
 千日は死んでも神屋と顔を合わせてはいたくない気分だったので、ほっとした。
 雉門に促され、神屋は渋々車の後部座席に乗り込んだ。
 そう時を待たずに車が発進する。
 視界から車が消えると、張りつめていた糸がぷつりと切れたのか、千日はその場にへたりこんだ。
「天財!」
 血相を変えた海堂に背中を支えられる。
「ごめ……大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ!」
 怒鳴りつけられ、肩を掴まれる。神屋とのことがあったせいか、それだけのことで千日の顔が強張った。
 海堂が、千日の無残に破けたワイシャツにちらりと目線をやって立ち上がる。羽織っていたジャケットを脱ぐと、千日の頭の上に放った。
「着とけ」
 いつものぶっきらぼうな態度だったが、今の千日にはそれが深く染み入った。
 さっき千夜の元で涙腺が緩んでしまったためか、涙がぼろぼろと溢れだす。
 ぎょっとした様子の海堂が、ついにはしゃくり上げ始めた千日を見下ろす。わずかな逡巡の後、ジャケットごと千日を抱き寄せた。
「かい、どう……」
「他に誰も居ないんだ。こういう時くらい素直に泣いとけ」
 ぐっと頭を、程よく筋肉のついた幅の広い肩に押しつけられる。千日は返事をしようとしたが、嗚咽が漏れているせいか息苦しいせいか、くぐもった声しか出なかった。
「洟はかむなよ?」
「かまないわよ。ばかっ」
 実はかなり良い奴かもしれないとか思って不覚にもときめいてしまった乙女の純情を返してほしい。だがそれも含めて海堂の気遣いなのだろう。千日は恥もすっかり押し流して、声を上げて泣き始めた。時折、所長の阿呆人でなし男の風上にも置けない女の敵とか高天原の自己中高飛車女などと罵ることも忘れなかった。
 しばらくして海堂のシャツをすっかり涙で重くした後に千日は顔を上げた。
 意外なことに、海堂は千日が泣きやむまで何も言わず肩を貸してくれていた。
「ひでー顔」
 千日の腫れあがった瞼と赤くなった鼻の頭と涙の乾ききっていない頬を見て、海堂は笑った。
「なに。文句あんの」
 憎まれ口を叩いてくれる方が下手に慰められるより楽だったので、千日は存分に勝手に振舞わせてもらった。
「いや、別に。お前、もう良いの? 何か他に喚いておきたいこととかねぇの?」
 問われ、千日は言葉に詰まった。
 泣いて全部すっきりしたかというと、正直なところそういうわけでもなかった。まだもやもやしたものが胸の中に渦巻いている。
 ここのところ、次から次へと新しい事実が判明して千日の心は破裂寸前だったが、中でも顕著だったのが両親のことだった。
「……何ていうか、アイデンティティの喪失みたいなものを体感しちゃったっていうか。あたしは何者なんだろ、っていうか。誰よりわかってたつもりだったのに、お父さんとお母さんのことが、急に見えなくなっちゃったっていうか。いや、鬼姫と鬼狩りの娘で、だから狙われるんだってことはわかってるんだけど。――何あたし語っちゃってんだろ……忘れて」
 涙腺が弱くなると固く引き結んでいたはずの口元まで緩くなるのだろうか。
 千日は慌てて早く帰ろうと海堂を促した。
 身振り手振りで空き地の入り口を指し示して歩き始めた千日の腕を、海堂が掴んだ。
「お前が何者であろうと、お前はお前だろ」
 驚いて振り返ると、くらくらと眩暈がくるほど強い瞳でまっすぐに見据えられた。
「お前が見て聞いて、信じてきたものだってお前の両親の姿だろ。お前はお前の信じるものを信じてりゃ良いんじゃねえの」
「……海堂、鬼嫌いなのに、変なこと言うね。あたしのお母さん、鬼だよ? ……多分」
 海堂は一瞬苦い表情を見せた。だがすぐに、さっきと同じ妙に力の入った顔に見下ろされる。
「……天財の母親と父親が出逢ってなければ、今ここにお前はいねぇだろ」
 千日が人間側にとっての対鬼戦略の要であるとか、そういう打算抜きの言葉だった。顔を見ればすぐわかる。自分には似合わない言葉だったなんて、後悔しているのがありありとわかる、そんな顔だった。
「そーだね、うん。あたしも、正直色々な人とか事態にふざけんなって思うけど……でも。海堂や皆に会えて良かった。あたしが鬼姫の血、引いてなかったら、若しかしたら会えてなかったかもしれないんだもんね」
 海堂の言葉がこそばゆくて、でもそれ以上に嬉しくて、千日は満面の笑顔を浮かべた。
 海堂の表情が抜け落ちる。不思議に思った千日の耳に、ひどく小さな囁きが届いた。
「……そういう、ことなのかもな」
「は?」
 わけがわからない千日をよそに、海堂がくしゃりと笑った。いつもの皮肉気な笑みの印象は影を潜めている。少年らしい、真夏の太陽のような笑顔だった。
 とくん、と胸がずっと昔に置いてきたような懐かしい響きを奏でた。
「お前が、底無しの馬鹿で助かったってことだよ」
「は!?」
 一時の星屑が散りばめられたような感覚はすぐにすぼんで、千日の胸には烈火が音を立てて燃え盛った。
 いつものように罵りの応酬が始まって、馬鹿騒ぎして帰路を行く。
 二時間ほどして研究所の正門に辿り着いた。知らず顔が緊張し、足が止まった。海堂が振り返り、何かを言おうとしたが、研究所の敷地内に目を戻すと少しの躊躇いの後にゆるやかに微笑した。
 夕闇に包まれた見慣れた建物の影が揺れる。目を丸くした千日は、すぐにそれが建物の影から伸びた大小の人影のせいだと気づいた。
「姐さん!」
 若槻の声を皮切りに、七福神の皆が走ってくる。九重の医者らしいお小言と凌の心底ほっとしたような顔が覗いたのは同時で、続いて三船のセクハラ発言と中原のべ、別に心配なんてしてなかったんだからなという呟きが聞こえた。
 千日は苦笑でそれらに応えると、やがて声を上げて笑った。
 千夜と神屋の言葉は、依然千日の胸に暗い影を落としていた。だが、この仲間たちと共にある限り、そう簡単に膝を屈したりすることはない。落ち込んでも泣きわめいても、いつかは前を向かせて、立ち上がらせてくれる。
 今は衝撃の方が大きくて、自分にできることが何なのか見出せる心境にはなかった。でも、人間と鬼双方の希望と成りうるとまで言われたこの身を使うのならば、こうした大切な人を守るために使いたいと思った。
 深くなっていく闇に抱かれるようにして、仲間たちと歩き出す。ぬるく吹いた風は前髪をさらい、踊るように後方へと流れて行った。


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