鬼の血脈 夜明けの代償[一]



 仄明るい陽光に目を刺され、桐谷は目を覚ました。
 どうやら自分は布団の中で寝ていたらしいと気づいてすぐ、飛び上がるように身を起こした。遅れてやって来た激痛に顔を顰める。そういえば気を失う前、鬼狩りの棟梁である神屋幸光と刃を交えた記憶がある。
「ちょっと、あんた、頭おかしいんじゃね? 何わざわざ自分の身体いじめてんの? もしかして迅ってドM? それってわりと、つか、かなりきしょいよ?」
 訳のわからないことを朝一番に投げかけてきたのは眠そうに目を擦って傍らに座っている令だった。立てた膝に肘を置いて、頬杖をついている。以前鬼師を務めていた三船にも思ったが、こいつ本当に鬼姫を守る栄誉と伝統のある鬼師なのかと思う。もう少し、態度や言葉遣いがならないものだろうか。
「姫は無事だろうな」
「太郎も姫には手を出さなかったよ。まあ、まだ時期じゃないってところっしょ」
 安堵と共に神屋への、人間への憎悪が湧き上がった。ヒトの思惑の浅ましさに、吐き気さえも込み上がる。
 しかし不思議と怒りは感じない。それは、人間に対して憤る価値すら感じていないかもしれなかった。
「あの小娘は」
 桐谷はざらついた声で、やっとのことでそう口にした。
 日に日に弱っていく千夜に成り替わろうとしている、あの忌々しい厚顔無恥な娘。千夜と同じ高天原の血を引いていながら、その心は醜いヒトに依っている。さすがに、鬼狩りなどに現を抜かした歴代で最も愚かな禁忌の鬼姫・高天原千里の娘なだけある。
「あー千日? 太郎が連れてったよ。すげーショック受けてたけど。大丈夫かね、あれ」
 桐谷としては、千日がどうなろうと知ったことではなかった。むしろ、ショックでも何でも受けてさっさと死んでくれればせいせいする。
 だが、桐谷も千日のしぶとさは認めていた。ヒト社会の産物である高等学校とかいうところで対峙した時も夜鬼に殺されかけたくせに、何日か後には自ら桐谷の配下の鬼に捕まりに来た。上級鬼の中でも、高天原の血液保持者は特別再生能力が高い。半分は人の血を引いているというのに、あの分では桐谷より再生能力は上だろう。一方、純血の鬼である千夜はこの世に生まれ落ちてからずっと不治の病に苦しめられている。こんな馬鹿なことがあって良いはずがなかった。
 千夜は従妹と直接顔を会わせて以来、ますます早く死に向かおうとしている。千夜いわく、あの子ならお前たちを任せられると言うのだが、桐谷にはそれがさっぱりわからなかった。元より桐谷は、どんな毛並みの良い高天原の継承者が存在しようと千夜こそ鬼姫の座に相応しいと信じて疑わなかったが、中でも千日は最悪を突き抜けている。人間の操り人形と化した鬼姫など、居ない方がましだ。
 いっそ鬼は、千夜の死と共に永遠の夜を迎えてみてはどうだろう。その方がずっと美しくて良い。桐谷は、散り際の潔い桜の花が好きで嫌いだった。あの儚さは千夜にどこか通じるものがあった。
 桐谷は微笑を浮かべると、静かに立ち上がった。千の夜の名の下に眠りを迎えるのならば、これ以上自分に相応しい死に場所はない気がした。

 千日はここ数日にないほど苛々していた。
 現在千日が居るのは研究所のセンター内部にある所長室である。神屋から呼び出しを受けたのは、数日前にもう一生そこには足を踏み入れるまいと決意した矢先のことであった。
 雉門が同行するというから渋々受け入れたものの、内心腸が煮えくり返っていた。千日が意を決して所長室に足を踏み入れた時の神屋の第一声は、やあおはよう天女様、だった。朗らかな、いつもと変わらない調子だったことがますます千日の神経を逆撫でした。何がやあ、だ。冗談はその女かと見まがうほどの顔だけにしておいてもらいたい。こちらは死ぬかもしれないという恐怖と貞操の危機を味わったのである。ふざけんじゃないこのくそ野郎、という罵りは心の中で言ったつもりだったが、気づいたら声に出ていた。
 しかし神屋は顔色一つ変えず、さっさと本題に入った。謝罪をしてくるとは千日も思っていなかったが、取り繕うとか顔を引きつらせるとか、そういう反応くらいはあっても良いはずである。
「で、そろそろ君に課す役割について説明したいんだけど」
 鬼狩り一門の棟梁であるらしい神屋は、ついに核心に迫る話題を提示した。
 千日も胸中で垂れ流していた愚痴の洪水を堰き止めて、神屋の言葉に真剣に耳を傾けた。
「君には、鬼姫として即位してもらう」
「は?」
 千日は唖然と神屋を見た。
 まさか、千夜と同じことを言われるとは思わなかった。
「何言ってんですか。あたしが鬼側に寝返ったら困るんじゃないの?」
「寝返るんじゃない。協力してもらいたいって言ってるんだよ。寅、説明して」
 デスクに頬杖をついてペン回しまでしている神屋は、雉門に目もくれず、そう放言した。どうしたらこんな大人に育つのか親の顔が見てみたい、と千日は痛烈に思った。
「えーとだな。多少はもう聞いていると思うが、鬼は最高位血統の鬼を頂点に頂く徹底した階級社会を持っている。基本的に、鬼姫の命令には絶対に逆らえない」
 確か炯都の鬼の里でも似たような説明を受け、鬼姫である千夜自身からもつい最近聞いたばかりの話だった。
 しかしよくよく考えてみればその話にはおかしな点がある。
「七福神の鬼の皆は鬼姫に従ってなかったじゃない。それが、例外ってこと?」
 千日の問いかけに雉門は鷹揚に頷いた。
「鬼は、己が主と仰ぐ最高位の血の継承者を選ぶことができる。位は下がるが、姫位継承者とその配下の鬼なら、鬼姫の命にも背けるって寸法だ。そうして過去に継承者同士で潰し合ってきたこともままある。今現在の最高位血液保持者は二人。高天原の血脈を引く現鬼姫と、千日、お前さんだ」
「鬼姫も高天原の血液保持者は二人って言ってたけど、他に居ないの? 少なすぎじゃない?」
「先の戦いで、姫位継承者も高天原の血の継承者もほぼ全員討ち取ったからな」
 つまりは人間に――鬼狩りに滅ぼされたということだ。
「鬼姫には高天原の血統じゃなきゃなれないの?」
「いーや、そういうわけでもないんだな、これが。鬼姫というのは歴史上、その頂点に頂く名を何度か変えてきている。最高位血統保持者が古代から延々と高天原の血筋だったわけじゃない。ヒトに討伐されたり、鬼同士で身を滅ぼし合ったり、下剋上もないわけではなかった。現時点でもし高天原の血脈が絶えれば、次の姫位継承者は筆頭四家の姫のうちの誰かになるって塩梅だな」
 高天原の血脈にこだわる必要がないならば、千日は千夜に鬼姫になれなどと頼まれるよりもむしろ、屠られる立場にあるのではないだろうか。裏切り者の鬼姫の娘で、ハーフの姫位継承者より、筆頭四家の姫から選んだ方がずっと鬼にとっては望ましい気がする。千夜の言動がいまいち解せない。
 頭を使うという慣れない行為のせいで、千日の眉間にはくっきりとした皺がいくつも寄っていた。
「七福神の鬼たちが鬼姫に背いていられる理由はこれで納得してくれたかな」
 深い淵に沈んでいた千日の思考を、神屋の声が引き戻した。見れば、神屋は未だにペンを指で弄びながら実に機嫌よさそうに微笑んでいる。
 千日は唇を噛んだ。姫位継承者である千日がヒト側などに属していなかったら、七福神の面々があんな風に縁ある者同士で戦うこともなかったに違いない。三船などは望んでヒト側についたと言っていたが、それが原因で娘と敵対している。
「それであたしに協力してもらいたいっていうのは――」
 恐る恐る切り出すと、神屋はやっとペン回しをやめた。とっくりと千日を見据えたのちに、もったいぶって口を開く。
「君が連中に人間に膝をつくように言ってくれれば、万事解決だ。次期鬼姫様」
「は? でもそんなの鬼たちが聞くわけないでしょ」
「だから、寅が言ったように鬼姫の言葉には姫位継承者の加護なしには逆らえない。逆らえば、精神が錯乱してやがて死に至る。まあ彼らにも自由意志はあるから、反発はするだろうけど、それでも高天原千夜が死んで継承者が一人になれば、君の言葉には従わざるを得ない」
 平たく言えば、鬼の血を半分も引く千日に、ヒトの傀儡となれという話だった。否、もう千日はヒトに良いように利用されて久しい。特に驚くことでもなかった。
「それで、鬼はヒトの奴隷に成り下がるわけですか。軍事的転用も見据えて」
 せめてもの抵抗で皮肉を込めて言ってはみたものの、神屋の表情に何らかの変化が起こるはずもなかった。
「でも、そんな厄介なあたしを鬼たちが生かしているのは何でですか? ヒトに付いている継承者なんて鬼にとっちゃ死んでもらった方が良いんじゃないの?」
 神屋を相手にオブラートに包む必要性は感じなかったので、千日はそのままきわどいことを口にした。耳ざとく雉門がどこか不快そうに眉根を寄せる。
 鬼とヒトのハーフが歴史上存在したのかは知らないが、千夜の口振りから考えれば、ハーフの姫位継承者千日はヒトにとってこれ以上ない好都合な鬼姫候補だろう。だが、鬼にとっては最悪の継承者と見なされているのは間違いない。
「君はハーフとはいえ、現時点で最高位血統保持者であり、姫位継承者。つまり鬼を従えることのできる血統だけでなく、最も強靭な再生能力とずば抜けた身体能力の可能性を秘めていると考えられる。君に教練を受けさせなかったのもそのためだ。君はきちんと訓練すれば、七福神の他のメンバーと同等あるいはそれ以上の力を身につけることができる。けど、君には飼い殺しになってもらわなきゃいけないからね。必要以上の力は要らない」
 途中で睨み上げられた神屋が、千日の機嫌を取るように淡く笑んだ。
 思えば確かに千日はとにかく丈夫な子だった。運動神経がわりと良かったのも、風邪を引いたことがほとんどないのも、母の――高天原の血が関係しているのかもしれなかった。
「最高位血統の断絶は、過去にも何度もあったけど、それはつまり次位血統への鬼姫の位の譲渡を意味する。鬼姫の能力ひいては鬼という種全体の弱体化だ。そういうわけで、現時点での最高位血統である高天原の血が絶えては困るというのが理由の一つ」
 しかし、そんなもののために鬼という種全体をヒトの隷属種として明け渡すわけがないだろう。ヒトに鬼を踏みにじらせる可能性のある鬼姫候補など殺しておくに越したことはない。それで高天原の血脈を失うくらいは問題ないのではないだろうか。もっとも、鬼の価値観などはわかりようもなかったし、現に千夜が決して千日を手にかけようとはしなかったという事実がある。
「もう一つは、鬼とヒトを巡る情勢の変化が関係している。昔はヒトなんかより、鬼の方が圧倒的に強かった。けど現在鬼は、ヒトに生かされている状況だ。だから、僕たちが鬼の獲得を諦めて鬼の殲滅に方針を転換すれば、鬼という種は絶滅する。もうそこまで来ている。そんな今、君はヒトにとって、かつてないほど都合の良い姫位継承者だ。今までは鬼を掌握しようとするのならば、ヒトは力で以て、鬼姫をひれ伏させなければならなかった。鬼姫を屈服させるのは至難の業だよ。鬼姫がヒトに正面切って膝を屈したことは、かつて一度もない。だが、君にはその必要がない。そしてヒトは、君で鬼の獲得を実現できなければ、方針を転換せざるを得ないという結論を出した」
 千日は眼を見開いた。思わず食ってかかりそうになったところを、神屋が片腕を上げて制した。
「鬼の存在はヒト社会で周知のところとなった。君もテレビとかで見てればわかると思うけど、世論は鬼の掃討へ固まりつつある。君で鬼を掌握できなければ、僕たちもその流れに逆らうことはできない。鬼側もそれを承知で存在を公にしたと思って相違はないはずだよ。つまり、連中は、君を最期の砦としたいわけだ。このままヒトとの戦いで疲弊して腐るように種を絶やすか、ヒトに蹂躙されて鬼姫を奪われて奴隷になり下がるかだったら、いっそのこと高天原最期の姫を頂いた聖戦に挑もうとでも思っているんじゃないかな。表面上は」
 千日が怪訝そうに首を傾けると、神屋は喉を鳴らしてひどくつめたく続けた。
「連中が負けても、君が居れば、隷属種としてヒトに使役されて生き延びることは可能だ。四家の純潔のお姫様より、君の方がヒトに都合がいい。連中もそれがわかっているから、君を据えるほかない。絶滅か隷属種としての生かだったら、どんな形であれ、種の存続を選ぶ。ややこしい事情だったとは思うけど、要は君はヒトにとっても鬼にとってもとても都合のいい姫位継承者だ。おおかた高天原邸で、鬼姫になるよう、言われたんじゃないかな?」
 問われ、千日はわずかな逡巡ののち、ぎこちなく頷いた。
 千日はヒトとして十七の誕生日を迎えるまで鬼を知らずに育った。だというのに、こうして神屋に向き合っているだけで鬼を裏切っているような気分になるのは何故だろう。
 鬼の最期の砦になど、なれない。それがたとえ、実の従姉の最期の頼みだとしても、千日はヒトを――咲穂や級友たちの居る、今まで一期一会の出会いを繰り返してきた世界を離れることはできない。それは当り前のことなはずなのに、どうして先ほどからこうやって言い訳がましく胸の内で繰り返されているのだろう。
 千日のそんな胸中を見抜いたかのように、神屋が背中を背もたれに預けて腕組みをした。幼子に諭すように、神屋の薄い唇がゆっくりと動きだす。
「君だって友達をあんな風に殺されて、鬼に与したいと思うのかな。幸い天女様はヒト社会で育っている。その君が、あちらで鬼の救世主として旗揚げでもする? そうしたら僕は鬼の獲得は諦めなければいけないね」
 その先にあるのは鬼の殲滅だ。
 恐らく、今のままでは確実にヒトに軍配が上がる。それがわかっているから、三船などは早々にヒト側に寝返った。
「……」
「まあ、そういうわけだから、心構えはしといてねってわけだよ」
 千日の態度を暗黙の了解と受け取ったのか、神屋は早々に話を切り上げようとした。
「……結局あたしは最初からヒト社会に還れないんじゃないですか」
 鬼のことを考えていると頭がおかしくなりそうだった。でも神屋に何か悪態を吐かずにはいられなくて、千日の口は全然違うことを紡ぎだした。
 そもそも通っていた高校が半壊したし、このような身の上で学校に舞い戻るなどというふてぶてしいことをするつもりはなかった。けれど、還るべき場所の喪失は、千日に耐えがたい痛みをもたらした。もっとも、千日の還るべき場所は生まれた時からこのうすら寒い仄暗い檻の中と決まっていたのかもしれないけれど。
「君の地位は約束するよ。それにもしある程度普通の生活を望むのなら、君が次代の鬼姫を誕生させてくれれば済むことだ」
 いとも簡単なことのように告げられ、千日は眉を跳ね上げた。
 千里が一斗との間に千日を設けたのは彼女が十九の時だ。千日は十七。日本の法律では結婚も可能な歳だ。
 しかしそれにしたってもう少し言い方があると思う。
「僕としてはこれ以上鬼の血を薄めてほしくないから、相手は琢真や九重兄弟、桐谷迅なんかが良いと思ってるんだけど」
 そこまで聞いたか聞いてないところで、遂に千日の堪忍袋の緒が切れた。
「ふざけんな! そんなことまであんたにずかずか踏み込まれるいわれなんてどこにもないっつーの!! あんたなんか今にハゲて首切られてニートになってぼろ雑巾みたいになるんだから! せいぜい今のうちに好き放題してれば良いのよ! このくそ変態野郎!!」
 自分の耳にもキンキンと痛いほどの声量の捨て台詞を残して、千日は鼻息も荒くどすどすと怪獣の行進のような足音を響かせながら所長室を出て行った。
 その様子をしっかと目で追い千日の足音が遠ざかったのを確認してから、雉門は長い溜め息を吐いた。机の上の資料に目を通し始めていた神屋が軽く顔を上げる。
「なぁに、寅。君、この後説明会で答弁するんでしょ。今日も見事にネクタイ曲がってるよ」
「それはどうもすみませんね。にしても、お前さん、大人げないにも程っつーものがあってだな」
 つい昔の砕けた口調に戻ってしまう。案の定、神屋は不機嫌になった。大きな子どものくせして、子ども扱いされるのを何より嫌がる。しかしこんな駄目な大人に育ってしまった責任の一端は自分にもあると雉門は自覚しているので、こほんと咳払いをして大人しくネクタイと格闘を始めた。
 その様子をしばらく見つめていた神屋であったが、千日の出て行った(もう少しで扉が金具ごと外れるところだった)扉に目をやると、くすくす笑った。
「ハゲにクビにニートに挙句の果てには雑巾だって。本当に愉快な天女様だね」
 神屋が言うとどうも危ない台詞に聞こえるのだが、その意見には雉門も同意せざるをえなかった。監視役を務め始めてから七年の月日が経ったが、未だに千日は雉門を飽きさせない。元々鬼狩りの人間にしては情が深すぎていけないとよく言われていたので気をつけていたつもりだったのだが、気づけば千日は娘のような存在になっていた。雉門には子がないので、その思いは尚のこと深い。
 人間として、鬼狩り一族の雉門家当主としては、そのような親愛にも似た感情を抱いてはいけないとわかっている。だがどうも、千日も七福神の他のメンバーたちもそれぞれに個性的で、接していて思わず心を許してしまうこともしばしばだった。
 いかんな、と呟くと、雉門は眼鏡を外して目頭を揉んだ。ここ半月ほど、対策会議に講演会にと駆り出されている。しかも鬼が出没すれば今まで通り鬼を狩らねばならない。それだというのに神屋や猿女は仕事こそは一応きちんとしてはいるものの、面倒を増やしてきたりするから、始末に負えない。とばっちりを食うのはいつも雉門だった。
(でもまあ)
 退屈はしない。
 雉門は微かに口角を上げると、来た時よりは随分と軽い足取りで所長室を後にした。

 凌は窓の向こうに怒気も露わに共有施設棟を通りがかった人影を認めると、わずかに腰を浮かした。しかし思い直して、衝動をぐっと堪えて深く椅子に身体を預けた。それもこれも全ては食堂に着いてすぐ、金魚の糞よろしくいけしゃあしゃあと凌のすぐ傍のテーブルに寄ってきた七福神の仲間である三船のせいだった。
 神屋に内通者として疑いを掛けられて以来、凌の周囲にはこの男がうろつくようになっていた。千日と部屋を別々にされた上に、こんな鬼の屑みたいな男が四六時中傍に居るだなんて最悪の仕打ちだった。
「ね、凌ちゃん聞いてる?」
 しかも何故か大した用もないくせに話しかけてくる。
 見張りなら見張りらしく、せめて気づかれないようにすれば良いものを、どうしてこうまで存在を主張してくるのか、凌にはまるで理解ができなかった。
「うるさい。黙れ」
 本日の昼のデザート、焼きプリンを食し終わってからにべもなく言い捨てると、三船はあからさまに傷ついた顔をしてしくしくと読んでいた新聞紙に顔を埋めた。その歳でそんな阿呆なことをやっていて、本当に栄えある三船家の当主なのかと思う。勿論、もう彼は鬼を捨てているのだから、そんなことは関係ないと言ったらそうなのだけれど。
「そういや、所長から預かってるもんがあるんだわ」
 ぐしゃぐしゃになった新聞から顔を上げると、三船はそう言って懐から封筒を取り出した。凌の瞳が見開かれる。見覚えのある、薄青い色をした品の良い封筒だった。
 封は切られている。いつものことだ。別に見られて困ることは何もない。
「それって凌ちゃんのお母上からのものなんだって?」
 どうやら神屋は要らぬことまで三船に吹きこんだらしい。そうでなければ、三船が凌に手紙を手渡す前に中身を盗み見たのだろう。
 どちらにせよ、凌には関係ない。凌の中で三船や神屋の心証が変わるということはないのだから。
 三船の問いかけに無視を決め込んで、凌は封筒から便箋を取り出した。封筒と揃いの、レースの刺繍のような飾りがついたものだ。
 凌の母は、十六の時に堂園家から名門綿貫家に嫁いだ。いわゆる政略結婚で、ハイカラなものを苦手とする綿貫とは反りが合わなかったこともあるというが、仲睦まじい夫婦としてやってきた。それが今では離縁をし、妻と娘はヒトに寝返ったことになっている。佐倉という姓はまったくの偽名だ。堂園は桐谷家配下の厳格なまでに高天原に忠実な家柄であったこともあって、旧姓を名乗るわけにもいかなかった。
 凌の母はそれほど武芸に長けているわけではないので、国立防衛研究所が捕獲した鬼たちを閉じ込めてある研究棟で看守として過ごしている。しかしその存在は人質としての用向きの方に比重が偏っていた。
蝶子ちょうこさんだっけ? すんごい美人で、おっさんも若い頃は何度か会いに行って、綿貫のご当主に返り討ちにされたもんだわ」
 鼻の下を伸ばして、三船が夢見心地に溜め息を吐く。
 人妻を、しかも母親を男の下品な妄想に使われて良い気がするはずもなく、凌は鼻白んだ。
「凌ちゃんも蝶子さんに似てるね。いやーほんと、お父上に似なくて良かった良かった」
 凌から滲み出ている殺気に気づいているはずなのに、三船は何やら勝手なことを抜かし続ける。
 さすがにこのままでは三船を殴りつけるどころか刃物で刺してしまう気がしたので、凌は騒動を起こさないうちにと席を立った。
 三船の前を素通りしようとしたところで、いくらか強く手首を引かれた。眉を寄せて睨みつけると、三船は薄い笑みを貼りつけたまま、ぞっとするほど低い声で囁いた。
「これ以上はやめておいた方が良い。太郎ちゃんは、裏切り者に容赦ないよ」
 凌の顔が、いくらか強張る。
 しかし、何てことない風を装って、凌は三船に嗤いかけた。
「何のことだ? この間から所長が私を疑っているのは知っている。だが、証拠がない。貴様の行為は私に対する侮辱だ。何なら手紙を検めるか?」
 せせら笑って凌が封筒を差し出すと、三船が大げさな溜め息を吐いた。
「そら、綿貫さんちの暗号文なんて、おっさんにわかるはずないでしょ」
 お手上げだわ、と両手を白々しく上げて、三船は凌を解放した。
 凌は鼻を鳴らして、三船から遠ざかる。多分またすぐ顔を合わせることになるだろうが、一秒でも長く三船から離れていられるに越したことはなかった。


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