鬼の血脈 夜明けの代償[二]



 千日が高天原邸から無事帰還を果たしてから、約二月が経過した。季節は夏。水色のペンキをひっくり返したような空に、もくもくと白い入道雲が綿あめのように広がっている。地上に照りつける日差しは強く、アスファルトに跳ね返った陽光はきらきらと星屑のように地面の上を舞っていた。ミンミンゼミの鳴く声が、短い命の炎を燃やしているというには少し間の抜けた余韻を落として、ひっきりなしにそこここで聞こえている。唯香ご自慢の所内の庭園の植物も、噎せ返るような濃厚な緑の気配を滲ませていた。
 千日はその夏真っ盛りな匂いを深く吸い込むと、大きく伸びをした。たまに毛虫が頭上から落ちてくるのが難点だが、研究所に来て間もないころ若槻が言っていたように、庭園は千日の中でも所内で最も心安らぐ場所となっていた。
 ベンチに腰掛けた千日は、久々の休日気分を謳歌していた。
 ここ二カ月の間に、鬼はヒトへの攻勢を強めている。鬼が出没するたびに周辺地区は未だに恐慌状態に陥っていると聞く。無理もない。千日もあのままただの女子高生として一条高校に通っていたら、得体の知れない生き物のことなんて、恐れの対象としか見なせなかったと思う。それどころか、ますます盛んになる鬼の排除を求める活動に参加さえしたかもしれない。研究所だけには任せていられないと、鬼を討伐する有志団体まで全国で立ち上げられているというニュースも一カ月くらい前にテレビのトップニュースで流れた。鬼が、七福神の仲間たちのように、千日のように感情を持つことなど、誰一人気にかけない。そんなことに気づきもしない。
 千日は最近研究所に閉じ込められてばかりだったが、七福神の他のメンバーも交代で鬼の討伐に駆り出されていた。唯香や雉門の姿もとんと見かけていない。その過程でほんの数名の人形鬼が捕まって研究所に連行されてきたというが、千日の見知った人形鬼が捕まった様子は今のところない。
 一方、神屋が千日の即位に向けて動く様子もまだない。千日にとっては願ってもないことだが、すぐに千夜を潰しにかかるのではないかと危惧していたので、不可思議だった。しかしそれは、鬼と無用な争いを避けるためだと言う。千夜はもう長くない。わざわざ一戦交えて双方傷つくより、千夜が斃れた後に乗っ取りを行った方がずっと労力が少なくて済む。この前、九重がそう教えてくれた。確かに、千夜に手出しをしようものなら、桐谷あたりが黙っていないだろう。
 ちなみに、神屋の努力の甲斐があってか、ひと月ほど前から研究所は再び閉鎖された空間の様相を取り戻した。鬼に関する窓口は、市役所が引き受けることになったらしい。
 千日はベンチの端に置いてあったペットボトル入りのスポーツ飲料に手を伸ばした。千日はどうやら「ずば抜けた身体能力」とやらを有しているらしいので、がむしゃらに鍛えてみることにしたのだ。しかしいまいち身体能力が向上した様子はない。教練を受けでもすれば少しは効率よくレベルアップを図れるのだろうが、神屋はそれを頑なに認めようとはしなかった。自身は桐谷を打ち負かすほどの力を保持しているのに、とことんケチで融通が利かない男だ。
 濡れた髪を乱暴にスポーツタオルで拭く。さすがに七月末にもなると、運動の後の汗の量が半端ない。前髪から垂れた汗の滴が、瞼の上を軽快に跳ねた。
 こうしてあてどもなく身体を動かしていると、余計なことを考えないでいられる。神屋のこと、千夜のこと、七福神の皆のこと、鬼師のこと、自分と両親のこと。だらしなく四肢をベンチに投げ出して、千日は晴天を仰ぐ。繁った葉の間を縫った、真夏の刺すような日差しが目を焼いた。右手を上げて、目を庇う。随分と日に焼けた肌を見つめて、千日は苦笑した。日焼け止めも、滝のような汗の前では何の意味もない。
(逃げないって決めたはずなのに)
 なのに今、千日は確かに考えることを放棄している。この二カ月、まともに思考しようとすると、吐き気が身体を襲った。このまま行けば、千日は神屋の思惑通り、傀儡の鬼姫となるだろう。
 ――本当に、それで良いのだろうか。
 千日自身は、ヒトに大事にされるだろう。だが、鬼は。鬼師は。彼らの行く末は否応なしに険しいものとなる。
 かといって、鬼に寝返るつもりもないのは言うまでもない。この場所が千日の生きてきた世界だ。背けるわけがない。
「姐さん」
 蝉の声に紛れて、若槻の声がした。気分が悪くなりかけていたところだったので、助かった。いくらか気が楽になったような気さえして、顔を覆っていた手をどけると、若槻の影にすっぽり身体が沈んでいるからだと気づいた。
「あー。涼し」
 思わず、風呂上がりの一杯を飲んでいる三船や雉門のような声が出た。
「お前、足広げんのはやめろよな」
 ベンチの背もたれの後ろに佇む若槻と反対の方から聞こえてきた声は、中原のものだ。
 短パンから伸びた千日の足を直視できないとでも言うように、中原は明後日の方向を向いている。
「少年には刺激が強かった?」
 茶化すと、中原は頬を紅潮させて、姿勢を正した千日を睨みつけた。
 中原は相変わらず、からかいがいがあってかわいい。
「仮にも、鬼姫の姫位継承者が、そんな風に適当にしてんなよな」
 ぶすっとした顔で、中原が悪態を吐く。
 最近は七福神も千日に繕ったり偽ったりすることなく、千日に接するようになってきていた。
「あんたこそ、年上の女子をお前呼ばわりしてんじゃないわよ」
 タンクトップにハーフパンツ姿の中原の額を小突く。この春から夏にかけて、わずかな時の間に中原の背はぐんと伸びた。成長痛で喚いている姿もよく見かける。この分では、あと一年もしないうちに千日の背に追いつくかもしれない。
「姐さんの意見ももっともですけど、はらたけの言ってることも正当な意見っすよ」
「若槻は、女の子に夢見すぎなのよ」
 ばっさりと切り捨てると、若槻はぐっと言葉に詰まった。
「……姐さん、また着物着れば良いのに。あと制服も! 最近、姐さんズボンばっかじゃないっすか」
「あんた、おっさんの影響受けすぎよ。どうせ、また何かエロ本見せられたんでしょ」
「なっ。あ、あんま見てませんよ!」
「ふーん。あんま、ねぇ」
 ゆでダコのように染まった若槻の赤い顔をじぃっと見つめて、千日は咀嚼するように言ってやった。
「……ミニスカは男のロマンなんですよ! な、はらたけ!」
「……何でそこでオレに振るんだよ」
 仰け反って中原が身構える。
「何でって、あんた綾ちゃんのミニスカ見たくないの?」
 にやにやと若槻と共謀しながら言うと、中原は口をぱくぱくとさせて、年長組を睨みつけた。
「ななな何でそこで綾が出てくるんだよ!」
 実にわかりやすい反応が返ってきて、千日は若槻と顔を見合わせて笑った。
「そういや、あんたたち、教練終わったの?」
 さすがにこれ以上中原一人をいじるのはかわいそうだったので、千日は自分同様髪の毛が汗でしおれた二人にそう問いを投げた。
「はい、さっき。それで、姐さんがここに居るのが見えたんで。一緒にお昼どっすか。珍しく他の四人も時間空いてるみたいなんですよ」
 それは本当に珍しいことだ。七福神がここ二カ月の間に全員で顔を揃えたことは片手で数えられるほどしかない。
「そりゃもちろん、行く行く。今日の日替わりランチ何かなー。でも冷やし中華も捨てがたい!」
 ぐっと拳に力を入れて千日が言うと、今度は若槻と中原が顔を見合わせて笑った。
 軽くシャワーを浴びて着替えて食堂に行くと、なるほど七福神の面々が揃いに揃っていた。冷房がそこそこ効いた室内は外のうだるような暑さに比べれば、何と快適なことか。
「凌ちゃん!」
 一番窓際の席に凌の姿を認めた千日は、早歩きでその傍に寄った。
 最初に九重令に拉致されてからもう随分経つというのに、凌への疑いはまだ完全には拭われていない。どんなに冤罪だと主張したところで神屋が取り合うはずもなく、凌の部屋は居住区の七福神の個室のうち、千日の部屋から最も遠いところへ配置された。
 しかもなかなか凌に会うこともできない。凌自身が教練や任務で忙しいことももちろんあるが、二人きりで会ったりしたことはあれ以来一度もない。常に誰かが凌か千日の周りに張り付いている。うっとうしいことこの上ない。
「うわー凌ちゃん、ちょっとだけ髪伸びたね」
 凌は虚を衝かれたような顔をした。
 それから指先で毛先を摘んで、苦い表情を見せる。
「そうか。気づかなかった。今度切ってくる」
「えええ! 何で! かわいいよ! 凌ちゃん絶対長くても似合うって!」
「そうそう、凌ちゃん、髪伸ばしなよー。絶対おっさんの好みだから」
 女子高生めいたきゃっきゃとした口調で千日の隣に割り込んできたのは、言わずもがな三船だ。だが、言っていることはセクハラ親父そのもので、千日の目に蔑みの色が宿る。
「おっさん、相変わらず、キモさ絶好調ね」
「ほんと、懲りねーな」
 肩を竦めて海堂が応じる。それに苦笑で応えたのは九重と若槻だ。中原はさすがに口元をぴくぴくと動かしただけだった。
 一同はばらばらと立ち上がる。食券を買いに――といっても実際に金がかかるわけではないのだが――いかなければならない。
「おばちゃん、今日の日替わり、なぁに?」
「デミグラスソースオムライス! 美味いよ」
 威勢よく返ってきた声は、食堂を預かる四十代半ばの女のものだった。初めは千日や遅れて入ってきた他の七福神の面々に硬い態度で応じていた所内の人間も、だいぶ砕けた態度を見せてくれるようになってきた。戦闘員たちが親しげに話しかけてくれることも少なくない。もっとも、千日が数少ない若い女子だからというのも短い期間で打ち解けることになったきっかけになっている気がする。
「どーしよ。超、悩む」
 真剣な表情で顎に手をかけた千日の顔を、苦笑交じりに凌が覗き込んだ。
「私が日替わり頼むから、半分こにしようか。冷やし中華と」
 千日が大の冷やし中華好きということは既に凌の知るところとなっているらしい。
「え。凌ちゃんは良いの?」
「私はオムライスが好きだし、冷やし中華も食べたいと思っていたところだから」
 何だか凌は男装しているくせに、千日よりもずっと女の子らしいものを好んでいる気がする。
「良いね。女の子は半分ことか、かわいくて」
「九重さんもやれば良いじゃないですか」
 少し羨ましそうな九重に千日がそう返すと、彼は少しぎょっとしたような顔をした。
「なーに。寂しいりっちゃんのために俺が半分こしてあげようか」
 にやにやと三船が九重に顔を寄せる。
「結構です。それからいつも言っているように、僕のことは普通に律か九重かで呼んでくださいよ!」
 基本的にいつでもどこでも穏やかな九重がこのように声を荒げるのは、三船の前くらいだ。これも年の功と言えなくもないのかもしれない。
「カレー、激辛、大盛りで」
 このくそ暑い日に何を馬鹿なことを言っているのかと胡乱に思って海堂を見やると、彼は売店で買ってきたらしいキムチまで小脇に抱えている。食堂のおばちゃんに言えば、いやな顔一つせずキムチカレーにしてくれるのだが、千日にはその感性がわからない。
 ちなみに千日と若槻と九重は中辛派、凌と中原は甘辛派、三船は甘くなければ何でも良い派だ。
「信じらんない。激辛とかキムチとか」
「お前がわかってねぇんだよ。夏こそカレーだろ。辛ければ辛いほど良いんだよ」
 そう吐き捨てた海堂であったが、珍しく上機嫌に鼻歌まで歌いながら激辛キムチカレー大盛りが盛られたトレーを抱えてテーブルの方に歩いて行ってしまう。
「あいつの味覚はおかしい」
 凌が眉間に深い皺まで寄せて、切々と呟く。
 海堂や三船にしてみれば、凌の甘党っぷりが「おかしい」のだが、彼女には劣っても甘党派閥の千日はそこのところは黙っておいた。
 ふと、千日の耳が食堂の向こうにあるロビーの喧騒を捉える。何事かと眉を曇らせた千日は、向こうに唯香の姿を認めて軽く手を振った。唯香は千日の意図を察して、小走りにこちらに向かってくる。
 オムライスを抱えたまま、千日は唯香に首を傾げて見せた。
「何かあったんですか?」
「人形が出て付近の住民を襲っているらしいの。ここからは遠いけど、都内。噂の域を出てないけれど、鬼師の可能性もあるそうよ」
 途端に千日の顔が険しくなる。千日が口を開こうとした矢先、館内放送のアナウンスが入った。唯香が口にしたのとほとんど同内容のことが、繰り返される。人形鬼はほんの数分前に出没したらしく、丁度その現場を警戒していた所員が命からがら逃げ出してきたのだという。
 終始和やかなムードを漂わせていた七福神の間に危うい緊張の糸が張り巡らされる。人形ならば、七福神の一部が応援に乞われることは間違いない。
 千日はどうしようか迷い、結局手つかずのままになっているオムライスに食指を伸ばすことにした。


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