鬼の血脈 夜明けの代償[三]



 その夜までに人形鬼の正体が桐谷であるということは判明した。
 おかげで、凌と三船と中原が午後からその討伐に駆り出されている。もう夜も更けたが、彼らが戻って来る様子は一向にない。追跡の途中で桐谷の姿を見失ったという話を所員がしているのを思い出して、千日は寝返りを打った。最近どうも、寝つきが悪い。その中でも、今日は特に悪い方だった。
 千日はすっかり冴えた眼で、暗がりを睨みつける。
 枕を抱えてごろごろベッドの上を転がってみてから、ついにはベッド下のスリッパに足を伸ばした。キャミソールに短パンという涼しい格好にもかかわらず、身体が火照っている。べたべたとした感触が気持ち悪く、夜風に当たろうと千日は手を窓に伸ばした。窓を開けてみたは良いものの、思いのほか生ぬるい風に落胆する。目を落とした千日は、闇に紛れて見えた人影に目を眇めた。
 ひょろりと長い手足と、月光を受けて艶めいた柔らかそうな髪の毛。この暗闇と距離でも間違いようがない。若槻だ。
 若槻は居住区から共有施設棟に伸びる道を、どこか緊張した忍び足で歩いて行く。何てことはない夜の散歩と片付けるには、自分たちの置かれた境遇がいかんせん納得してくれない。千日は汗ばんだ髪を一つに括ると、カーディガンをひっかけてスリッパを脱いだ。別に何も悪いことはしていないのだが、足音を殺して若槻の後を追う。
 居住区を出ると、若槻の姿は既になかった。迷った挙句、素直に共有施設棟への道を辿る。幸い、若槻の姿はすぐに見つかった。研究棟に向かう道の中ほどに、重い足取りで歩く若槻の姿があった。
 昼間ならば大声で若槻の名前でも呼んだだろうが、さすがに真夜中にそれをやるわけにもいかない。それに、今の若槻には昼間の快活さが抜け落ちていた。声を掛けて良いものか迷う。どうしようか悩んでいるうちに若槻の姿が遠くなって、千日は仕方なく尾行の真似ごとのように、息を詰めて彼の後を追った。
 三棟ある研究棟のうち、一番向こうにある棟に若槻の足は向かっていく。そういえば、以前にもあの棟の傍で若槻の姿を見たことがあった。以前は千日自身余裕のない状態だったためあまり気も配れなかったが、確かあの時も若槻はどこか沈んだ表情をしてはいなかったか。
 千日は自分の思慮の浅さを罵った。若槻は本当に良く、千日を気にかけてくれる。それは誕生日に無理やり拉致された時から何ら変わらない。一歳年下というのが嘘なのではないかというくらい、彼の気配りには千日も何度も救われた。
 こんな風に真夜中に人目を避けるように部屋を抜け出して、沈痛な表情で何かを見つめる彼の姿があることになど思いもよらなかった。
 千日が腹をくくって足を踏み出すのと、若槻がこちらを振り返るのはほぼ同時だった。さすがに千日も固まる。若槻は苦笑して、そこにあった緊張を解いた。千日のど素人の尾行など、若槻にはお見通しだったのだろう。千日もへにゃりと笑って、駆け足で若槻の傍に寄った。
 若槻が瞬きしてから、研究棟から少し離れたところにある倉庫の前のスロープを示した。促されるままに付いていく。若槻がスロープに腰を下ろしたので、千日もそれに倣った。むきだしの足を腕の中にすっぽりと埋める。
「ダメですよ。こんな夜に一人で出てきたりしちゃ」
「それは若槻にも言えるでしょ」
「俺は男ですから」
 寿命なのか、電灯の灯りがちらちらと揺れている。そのせいか、若槻の顔に落ちた影が大きくなったり小さくなったり陰影のほどを変えていて、何とはなしに千日の不安を煽った。
「音立てたつもりはなかったんですけど……起こしちゃいましたか?」
「ううん。寝れなくてね。ほら、この暑さでしょ。それで窓に近づいたら若槻の姿が見えたもんだから」
 本当は寝れない理由はそれだけではなかったのだが、千日はそれについては黙っていた。
 若槻が合点がいったようにああと声を漏らす。
 向こうの方から聞こえてくる鈴虫の声が涼やかに耳に流れ込んでくる。膝の裏が汗ばんできたので、千日は体育座りをやめて、足を伸ばした。それを待っていたかのように、ゆっくりとした風が吹く。相変わらず生ぬるい風だったが、それはいくらか千日の身体に涼を与えた。
「……以前、姐さん、俺にどうして七福神に入ったのかって聞きましたよね」
 突然切り出された話に驚きを隠せずに、けれど若槻が重要なことを話してくれようとしている気配だけは感じ取って、千日は神妙に頷いた。
「あの人が、俺がここに居る理由です」
 若槻の視線の先には、研究棟があった。
 千日は解せず、眉根を寄せる。しかし、これまでの若槻の言動と今日見た表情、そして研究棟の用途を考え合わせた結果、脳裏を過ぎるものがあった。
「まさか……」
 千日の声が引きつる。
「人質?」
 恐々発せられた二文字の言葉に、若槻は今にも崩れ落ちそうな笑みを浮かべた。その顔は、はっきりと肯定を示している。
 若槻は、研究所に人質を取られて、強制的に七福神の職務に従事させられているということだ。
 千日の奥底で収縮し練度を増した怒りが、やけに冷たく吹いた風を受けて爆発する。唇がわななき、声とも息ともつかない何かが千日から出て行く。血の気を増した顔は、燃えるように熱かった。
 やっていいことと悪いことがある。いくら人形鬼の協力を仰ぐとはいえ、そんな。
「その人って若槻の――」
 千日がそこまで言うか言わないかのところで、風が止んだ。気づけば、虫たちの声もぱったりと止んでいる。静寂というには重苦しすぎる沈黙に飲み込まれて、若槻が立ち上がった。その顔に、先ほどまでのどこか儚げな様子はどこにもない。引き結ばれた唇と険しく暗がりに向けられた瞳。こんな夜中だというのに武器を持ってきていたらしく、早々と打撃部位に刃物を装着したナックルを身に付けた若槻は、千日を庇うように左手を真横に水平に突き出した。
「な、何?」
 異様な気配だけは感じ取って、千日も立ち上がる。
 若槻の視線の先に居るのが凌たちが追っているはずの桐谷であると気づくのに、然程時間は掛からなかった。この間の傷はもう回復しているようだ。こちらに向かってくる足取りに危なっかしいところは全く見受けられない。
「なななな何。何なの? 所長の話じゃあたしは殺されないんじゃなかったの?」
 ただ桐谷が深夜の研究所の敷地内に侵入しただけでは、千日もそこまでは思わなかっただろう。しかし、桐谷の目を見れば、嫌でもわかる。あの瞳にあるのは、ただ妄執だけだ。昏く濁った瞳は、何かに取り憑かれたように千日を一心に見つめている。
「この人に何の用だ。鬼姫が態度を翻しでもしたのか?」
 若槻が低く落とした声を発して初めて、桐谷は彼の存在に気付いたようだった。以前は若槻のことばかり執拗に追っていたのが嘘のようだ。
「琢真か。何だ。いつの間にその出来損ないの小娘と懇ろになったんだ? ああ、出来損ない同士、気が合うのか」
 桐谷は、清々しいくらいにいつも通りの妙に勘に障る物言いをした。けれど、いつもはあった迷いが跡形もなく消えている。間違いない。桐谷は今、千日を躊躇いなく手に掛けることができる。
「だ、誰かー!!」
 千日はとりあえず一も二もなく助けを呼んだ。今日は神屋は出張だと聞いている。その情報を掴んだ時は小躍りするほど喜んだが、今では彼が居ないことが恨めしい。本当に、とことん使えない男だ。
 研究棟から異変を察した警備員が数名飛び出てきたが、桐谷の尋常ならざる一閃で血を吐いて地に伏した。海堂や鬼狩りレベルのヒトでない限り、一般戦闘員が鬼師である桐谷を相手にするのは不可能だ。
 外からの侵入者対策は施してある。中々非常事態を告げる放送が流れない辺り、防犯システムがイカれてしまったらしい。桐谷の仕業だろう。
 ここからでは悲鳴を上げても居住区には届かない。かなりの距離がある上、中央管制室の夜勤か、警備以外は夢の中だ。足手纏いの千日が助けを呼びに居住区に走ろうにも、桐谷に若槻ごと動きを抑え込まれてしまい叶わない。
「鬼姫に命じられて来たの? あたしに鬼姫になってほしいって言ったのは鬼姫よ。それに、ヒト側の動きだって知ってるんでしょ? ここであたしを殺しても、鬼に未来はない」
 若槻一人ならまだしも、千日が居ては彼も自由に動けない。千日は、桐谷の関心を引くために口を動かし続けることにした。
「そんなものはどうだって良い」
 桐谷は嗤笑した。
 千日は桐谷の真意がわからず眉根を寄せたが、若槻はどうやら腑に落ちたらしくあからさまに動揺した。
「それは……姫様を背くということですか」
 取り繕う余裕もなかったのだろう。若槻はかつて仕えていた相手に、そう問うた。切羽詰まった、驚愕と困惑の滲む声だった。
「桐谷の家も姫も鬼すらも背いた者の台詞とは思えないな」
 桐谷は冷めた顔でそう言い、勢い込んで大地を蹴った。月明かりを受けた刀身が妖しいほどに人目を惹きつける青味がかった色で輝く。
 斬りかかった桐谷の刀を、若槻も精一杯受け止めていた。だがいかんせん、桐谷は体格が良すぎる。若槻も背は高い方だが、桐谷は身体つきももう大人の男だった。若槻のそれは、まだ成長過程にある。
 千日は今度こそ応援を呼ぼうと駆け出したが、途端に短剣が鼻先を掠めて危うく呼吸を忘れた。
「娘。貴様についたところで、鬼に未来はない。さも己が鬼にとっての希望か何かのように語られると、虫唾が走る」
 そんなことは桐谷なんぞに言われなくても、自分が一番よくわかっている。傀儡の鬼姫になれば、鬼は千日を赦さない。七福神の面々も、内心ではどう思っているかわからない。千日には所詮、この身に宿る血にしか価値がないのだ。そんなことは百も承知だった。
 だが、これでわかった。
 桐谷は、千日を鬼姫として迎えるのが、相当に嫌らしい。そしてあの姫様至上主義の男が、恐らく初めて本気で千夜に逆らっている。
 神屋は確か、鬼姫に逆らった鬼は、精神が錯乱してやがて死に至ると言っていた。桐谷は今、それも顧みず、千夜が望んだ千日を殺しにきている。
 桐谷にとって、たとえ自分が生き残ろうと、千夜の居ない未来は死んだも同然なのだろう。だから、死すらも彼にとっては恐れの対象にならない。
 死を恐れぬものの戦う姿は、ひたすらに美しく気高かった。一切の迷いのない剣の舞が、徐々に若槻を圧倒していく。
 隙あらば、千日も攻撃された。
 貴様を赦さない。健康な肉体を持ちヒトに与しながら、千夜に成り代わろうとする、貴様を決して赦しはしない。桐谷の深く澱んだ瞳はそう語っていた。
「琢真。お前は何を守りたいんだ?」
 若槻の迎撃を難なく避けた桐谷が、ふと吐息のような問いを漏らした。その言葉が引き金にでもなったかのように、若槻の動きが格段に鈍る。かと思うと彼の喉が、引きつれたような音をせり出した。
 防御一辺倒になった若槻が耐えきれずふらつくと同時に、桐谷は刀を振り下ろした。血飛沫が飛び、千日の顔にまでかかった。斬り落とされてこそいなかったが、若槻が腕に負った傷は相当深そうだ。
「若槻!」
「琢真!」
 千日の声が、誰かの声に重なる。
 振り向いて、千日はわずかに安堵した。九重と海堂だった。
 すかさず海堂が、能面のような顔をした若槻と桐谷の間に割って入る。ふらふらで立っている状態の若槻を九重が手早く回収して、応急処置を始めた。
 海堂と桐谷の切り結ぶ鋭く生々しい音が響き続ける。
 こちらの方が数は上回っているものの、桐谷の顔に疲れの色は一切見えない。九重と若槻も海堂の援護に加わったが、さして桐谷にダメージは与えられていない。
 そうして永遠とも一瞬ともつかない時が流れてから、千日は向こうの木の影に人影を認めた。初めは援軍かと期待したが、その正体に気づいて千日はほとんど絶望的な気持ちになった。
 向こうから疾風のように駆けて来たのは、令だった。
 しかし身構えたこちらの動きに反して、令の第一声はこうだった。
「迅! てめえこのカス野郎! 何やってんだよ、どんだけ探したと思ってる。携帯の電源まで切りやがって!」
 怒声と共に、拳が桐谷の右頬を捉えた。クリーンヒットだ。あれは相当痛いはずだ。たとえ鬼でも。
「んなことして、誰が一番悲しむと思ってる!? てめえの目は節穴かよ。いつだってあんたはそうだよな。自分の小さい世界を満足させれば十分なんだ。てめえが本当に千夜姫のこと考えた時があったか? あ?」
 桐谷の指がわずかに震えて、振動が刀身に伝わる。それが怒りのためなのか動揺のためなのか、そのどちらも含んだものなのか、千日には判断がつかなかった。いずれにせよ桐谷はもうそんな様子を見せたことが嘘であったように、令の拘束から逃れようと手足をじたばたとさせている。だが、九重に似て一見柔和そうな外見に反して、令の腕はがっちりと桐谷の首に回されたままだ。
 令は突然のことに呆気に取られた海堂や若槻には目もくれず、九重にだけはちらりと目線を向けてから千日を瞳に捉えた。大げさに肩を上下させてため息を吐く。
「無事だな、千日」
「え、あ、うん」
 思いがけない人物に思いがけないことを問われ、千日は若干混乱しながらも頷いた。
「この馬鹿は俺が回収していくから、まあ、後のことはよろしくっつーことで」
(え……何これデジャ・ビュ?)
 神屋と雉門と海堂が繰り広げたそれが、桐谷と令に重なる。
 桐谷の首根っこを掴んで、令はいかにもそれが自然なことのような態度で研究所から逃れようとした。さすがに我に返った海堂が刀を桐谷と令に向ける。
 令は短いため息ののちに薄らと笑みを浮かべた。
「俺たちを逃がす方が得策だと思うけど。俺はともかく、迅にあんたらじゃ絶対に勝てない。俺はね、千日以外は殺しても痛くも痒くもないんだよ。今、千日をこっちに引き渡してくれるなら好都合だしね」
「……海堂」
 千日が念のため声を上げる。千日を守ることが第一の彼は、無謀なことはしないとわかってはいた。桐谷との力量差を前に、海堂は冷静さを欠いたりしない。わかってはいたけれど、桐谷のそれに似た禍々しい気配が海堂から滲んでいるのを感じ取って、千日は彼の名を呼んだ。
 海堂が心得た様子で、二、三歩下がる。
「ああそうだ、兄貴」
 令が物凄い勢いでそれこそ野獣のごとく抵抗する桐谷を無理やり引っ張りつつも、九重を振り返った。千日はぎょっとして、しばし固まる。九重や令が互いのことを兄弟と位置づける場面は何度か見てきたが、実際に本人を前にして口にするところは初めて見た。
「……何?」
 どこか硬い表情で九重が応じる。しかしその問いに令が応えることはなかった。
 兄弟の邂逅に割って入ったのは、遠くから響いてきた高く澄んだ声だった。
「れーちゃん!」
 息せき切って、こちらに駆け寄って来るのは、今度こそ味方だった。唯香だ。武装姿は様になっていたが、銃口は行き場を無くしたように地面を向いている。
 令の舌打ちが聞こえた。九重に向けていた顔を、苦い表情のまま進行方向に戻す。
「待って! れーちゃん、わかってるんでしょ!? このままあの鬼姫についているより、今こっちに来た方が――」
 髪を振り乱して形振り構わず叫ぶ唯香の姿を、千日は初めて見た。
 そのまま令の元まで走って向かっていきそうな唯香の腕を、九重が掴んで引き留める。
「唯香。相手は鬼だ」
「放して、りっちゃん! わたしはれーちゃんに話があるの!」
「令は、君を殺すことも厭わない。あれは鬼だ。今は千日ちゃんの安全を確保するのが第一だ。そうだろう、東雲中隊長」
 中隊長――九重はあえて階級名で唯香を呼んだ。それは、九重の思惑通り、唯香の理性を呼び覚ましたらしい。
 唯香は言葉に詰まって俯き、それから九重を見上げた。触れれば切れてしまうような、鋭く危うい瞳だった。
「りっちゃんは、れーちゃんのことなんて、どうだって良いのね」
「東雲さん!」
 海堂が荒い声を上げる。唯香はほんの一瞬唇を噛み締めたが、すぐにライフルを令に向けた。
 遠ざかりながらも、唯香と九重の言い争いを聞いていたらしい令が、嘲笑おうとして失敗したような、ひどく不格好な笑みを向ける。
「――っとに、馬鹿な女」
 唯香の目が、見開かれる。
 先ほどよりもずっと強く歯を食いしばって、唯香が照準を合わせる。威嚇射撃の一発が地面にめり込むころにはもう、桐谷と令の後ろ姿ははるか遠くの闇の中に溶けて消えていた。


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