鬼の血脈 夜明けの代償[四]



 所員が騒ぎを聞きつけて集まって来るよりも前に、千日たちは各自の目的と義務を達成するため動きだしていた。唯香と海堂は雉門の元に向かうと言って、足早に去って行った。千日は九重と二人で若槻を医務室に担架で運ぼうとしたが、彼はそれを断って自らの足で歩きだした。怪我のせいか、顔色が良くない。そう指摘しても、若槻は頑なに他人の手を借りることを拒否した。協調性があり、常に人を笑顔にさせる彼にしては、ここまで我を貫き通すのはひどく珍しい。若槻は点々と地面に染みをつくりながらも淡々と歩き続ける。千日は若槻の少し後ろを付かず離れず追う形になった。九重を見上げるが、曖昧な笑みを返されるだけで若槻のこの変化の真相を教えてもらえる気配はない。
 普段おくびにも出さない荒野に吹きすさぶ風のような、獣めいた若槻の後ろ姿は、千日の胸をどこかぴりぴりと締めつける。
 暫くして医務室につくと、若槻は崩れ落ちるようにベッドに腰掛けた。消耗しすぎたのかと焦ったが、そうではない。若槻は汗で額に貼りついていた前髪を乱暴に掻き上げて、ぼそりとお願いします、と囁いた。
 九重が手際よく的確な処置を施していく。千日は少し離れたところで、九重の手つきをじっくりと眺めていた。やがて九重は軽く頷くと、若槻の身体から手を離した。問題はないということらしい。千日はほっと息を吐き、傍の丸椅子に身体を預けた。
「僕はちょっとあっちの方の様子を見てくる。何かあったら内線ですぐに知らせて。医務室の周りももう所員で固められてるから、万が一のことはないはずだけど」
 九重はそう告げるなり携帯を引っ掴み、医務室を出て行った。
 気まずい沈黙が医務室を満たす。
 千日が話を切り出そうとした矢先、若槻は立ち上がった。そのまま九重の後を追うように医務室の出入り口の方へ歩いて行ってしまう。
「ちょ、ちょっと若槻!」
「すみません。ちゃんと傍にいて、緊急時の対処はしますんで、一人にしてくれますか」
 千日が荒げた声に被さるように、若槻の投げやりな声が響く。千日はつかつかと若槻の元まで歩いて行って、大きな怪我こそは負っていない方の若槻の腕を強引に引っ張った。
「一人になりたいなら、あたしが出てく。良い? あんたは怪我してんの。あんたが医務室出て行ってどうするのよ。いくら鬼だって、そんな怪我してんのに好き勝手に歩きまわったらどうなるかわかんないじゃない」
 思わずきつい口調になってしまった。だが、正論にはちがいない。若槻は渋い表情になった。千日は、じっとりと若槻の煤けた瞳を見つめる。やがて根負けしたように、若槻は枷となっていた千日の手のひらを外して、踵を返した。
 千日はそれを見届けてから、医務室の扉に手を掛けた。しかし、思い直して若槻の元に舞い戻る。若槻は微かに瞳を怪訝そうな色に塗り替えたが、何も言わなかった。
 千日は、様子の違った若槻に対して特に何か特別な言葉を投げかけたりしなかった九重の態度を思い出した。それから、残りのメンバーが抱える事情と、それに対する周りの態度を思い返す。
 七福神のメンバーは、どうも基本的に、それぞれの事情には進んで首を突っ込んだりはしないようだ。鬼でありながらヒトについている彼らだ。事情を知っているにしろ、知らないにしろ詮索は無用との暗黙の了解か何かがあるのかもしれない。
千日にとて、一人になりたい時はある。けれど、全てのことに触らぬ神に祟りなし、とでもいうように放っておくのが有効な対処法だとは思えない。泣きついたり、愚痴を言ったりする方が良い時だってあるのだ。それに、若槻は一人で何でもかんでも抱えすぎている気がする。時には、千日のようなゴーイング・マイ・ウェイな不躾な関わり方がはまる時もあるかもしれない。
千日は、若槻の座ったベッドに背中合わせに腰掛けた。
 時計のチクタクという妙に軽快に時を刻む音だけが、まるで互いの心音のように室内に響いている。ほんのり背中に伝わる体温は、当たり前だけれどいつもと変わらない温度で、千日は小さく笑った。
「……俺、自分が情けなくて」
 ぽつりと呟いた若槻の声は小さかったが、波紋のようにひっそりと印象的に千日の鼓膜を震わせた。
「すみません。あんなこと言った手前、虫が良すぎるとは思うんですけど、ちょっと昔話をしても良いっすか」
「駄目だったら、ここに残んないわよ」
 躊躇いがちに押し出された問いに、軽く笑いを含んだ声を返す。若槻がほんの少しほっとしたように息を吐き出す気配がした。
「もう姐さんも多少は知ってると思いますけど、俺は桐谷の分家である若槻家の嫡男なんです。桐谷家は現在、当主に二人、子供が居ます。そのうちの一人が、今まで姐さんを襲ってきた桐谷迅。そしてもう一人が、撫子なでしこお嬢様です。撫子お嬢様は現在十五歳で、二年前、鬼狩りに捕らわれて、現在まで研究所の研究棟に幽閉されています」
 千日は全身の毛が逆立つのを感じた。
 たった十五の少女が、かれこれ二年もあのじめじめとした薄暗そうな監獄の中に閉じ込められている? まさかとは思ったが、疑う余地もない。鬼狩りの鬼に対する容赦のなさは身に染みて実感している。
「撫子お嬢様が人質に取られた時、鬼狩り側は彼女の命と引き換えに、七福神のメンバーとして桐谷家に嫡子である桐谷迅を要求しました。筆頭四家の一、桐谷家次期当主であり、その頃から鬼師の座に就いていた迅を、桐谷家当主――つまり迅とお嬢様の実の父親は、ヒトに渡すことを良しとしませんでした」
「桐谷を渡したくないのは分かるけど、あいつあんなに強いんだから、騙し討ちでそのお嬢様を助け出すとかできなかったの?」
「もちろん、何度か奪還を試みました。ですが、鬼狩りに阻まれて、全て失敗に終わったんです。お嬢様が閉じ込められているのは、研究棟の深部で、そこには所長が率いる鬼狩り一門の精鋭が四六時中控えています。さすがに鬼も何度も鬼狩りの懐に飛び込むのはリスクも高いし、何より今は上級鬼の血統が途絶え、鬼が疲弊を重ねることが危惧されています。それに、同位の姫は他家にまだ存在する。お嬢様のためだけに、それ以上の犠牲を払うことはできなかった」
 若槻はぐっと苦いものを堪えるような顔をした。
 二年前ということだから、単純計算で撫子は十三歳の時に研究所に連れてこられたということか。初めは助けに来てくれた鬼たちが、ついには撫子を見限ったことを、彼女はおそらく既に知っているだろう。それは、どれほどの痛みか。どれほどの喪失か。
「これが今でなければ、お嬢様は桐谷迅に代えても救いだされたと思います。お嬢様は高天原に次ぐ筆頭四家の血液保持者で女鬼ですから、男鬼より尊重されるんです。ですが、さっきも言ったように、こんな時勢でしたから」
 たった十三の少女が時代の波に翻弄される。千日が立っているのはそういう場所だった。鬼と、それに関わる者たちは、それぞれの事情を抱えてそれぞれの思いを胸に秘めて首都兜京の外れにあるこの研究所に集っている。たくさんの非道と理不尽を飲み下して、千日の周りで日々を送っている。
「俺は……幼いころからお嬢様を知っています。彼女のことは、本当の妹のように思っていました。だから、俺は主家と若槻家の当主である父の意向に背いて、ここにやってきました。それで頼んだんです。本家の嫡子ではないけれど、分家の嫡子であるこの俺がヒトにつくから、撫子お嬢様を殺さないでほしいって。それが受け入れられて、俺は七福神に入りました」
 若槻らしい。彼は、そういう男だ。明るくお調子者のようでいて、周りが見えすぎる。人の気持ちがわかりすぎる。千日も初めは空気の読めない奴だと思っていたが、その読みは的外れも良いところだった。空気が読めるからこそ、いつでも明るく笑顔を絶やさない。それは、鬼でありながらヒト社会の、それも鬼と敵対する第一線で命を張っている若槻が身に付けた処世術かもしれなかった。そんな若槻が撫子という少女を見殺しにできなかったのは、痛いほどに理解できる。そして、その内に潜む彼の葛藤も、透けて見えるような気がした。
「……でも俺は、鬼や――桐谷迅と戦えないんです。否、そうじゃなくて、俺は何とも戦いたくないんです。俺は、誰より弱い。小さなころから俺は桐谷迅と比べられてきて、一度だってあの人に勝てたことがなかった。お嬢様を研究棟から助け出そうと思っても、一度として実行できたことすらなくて。ヒトのやりように納得できなくて、鬼側に戻ろうかと思ったこともありました。けど、俺にはもう、鬼側に居場所なんてないって気づいて。だからどっちつかずで何もできないまま、何とも向き合おうともしないで、ただ時間だけが過ぎて行ったんです」
 若槻の声に嗚咽が混じる。しゃくり上げて震えた背中が、千日の背を掠めた。
 若槻から迸った思いが、千日の心にひびを入れる。一条高校襲撃事件という呼び名で呼ばれるようになった、初夏の和やかなヒトの日常に突然走った青天の霹靂。極力考えないようにしていたあの事件を境に、千日は還る場所を失った。若槻が鬼側に還れないように、千日もまた一条高校には還れない。どんな面を下げて咲穂に逢えば良いのか、どうすればまた彼らと言葉を交わすことができるのかわからない。
 自分は何者なのか。自分の居場所はどこにあるのか。何のために生きているのか。そして、どうして千日はこの世に生を受けることになったのか。
 考え出せば、押し寄せる濁流のように疑問は尽きない。けれど一つ、千日にはわかっていることがある。
「今回だって、押されっぱなしで、姐さんが危うく傷つけられるところだった。ヒト側が求めていたのも、本当は俺じゃなくてあの人です。俺は……出来損ないで、本当はここにも居て良い存在じゃない。あちらでもこちらでも俺じゃなくて――」
 若槻の言葉はそこで途切れた。
 千日の眼前に、驚いて目を瞠った若槻の顔が飛び込んでくる。勢いよく伸ばされた千日の手は、若槻の身体を反転させるとがっちりと彼の胸倉を掴んでいた。
 千日ははっきりと怒りの様相を露呈し、一切の躊躇を捨てて若槻を睨み上げた。
「あのね。本家とか分家とか強いとか弱いとか、あんたが本当はどっちに味方したいのかとかよくわかんないけどね。あんたがあんたの価値を決めつけてんじゃないわよ。今ここに、今あたしの隣に居て、うだうだ悩んでるのは、紛れもなく若槻琢真その人でしょ? どっちにつくとかそういうのは棚に上げとくとして、あたしの十七の誕生日の夜、あたしのこと助けてくれたのも、馬鹿やって皆を笑わしたり元気づけたりしてんのも、あんたなの。今さら、桐谷の方が良いだなんて言わないし、あんな人の話聞かない男、こっちから願い下げよ。てか、あたしはあんたが良いの。それは、海堂とか凌ちゃんとか、皆だって一緒よ。あたしをこっちに引きずり込んだ一因にはあんたも噛んでるんだから、途中で放っぽりだすだなんて、認めないんだからね。最後まで面倒みなさいよ。わかった?」
 そこまで言い終えると、千日は怒りと酸欠のせいで赤だか青だかよくわからない色になった顔を垂れた。
 千日に一つわかっていること。それは、こんな状況でもなければ、七福神の皆や研究所の人間たちと知り合えなかったことだ。ここに居る皆が、千日の支えになっている。誰か一人でも欠けていたら、自分はどうなっていたかわからない。何もかも失ったと絶望しそうになった中で、新たに手に入れた絆にどれほど救われていたことか。それを否定するのは、たとえ若槻でも許さない。
 呼吸を整えて再び顔を上げると、くしゃくしゃになった若槻の顔がこちらに倒れこんでくるところだった。咽ぶ若槻の髪を撫でてやると、彼はますます激しく泣いた。
「ほんとに、俺でいいんすか」
 呼吸の合間に、確信を得たがる子どものような問いが投げかけられる。
 千日は苦笑して、若槻の固く握られた拳の上に己の手のひらを重ねた。
「あんたが良いって言ってるのよ。……琢真」
 若槻が一瞬呆けたようにひどく間の抜けた表情を浮かべた。つい数秒前までは泣きじゃくっていたくせに、涙はすっかり引っこんでいて、赤くなった鼻が季節外れのトナカイのようだった。
「……はあ」
 若槻が間の抜けた顔のまま、間の抜けたため息をこぼしてベッドから崩れ落ちる。突然のことに焦る千日をよそに、若槻は床にしゃがんで口元を手で覆って千日を上目遣いに見上げた。
「……ほんと、姐さんは、ずるいっす」
 言うなり、若槻は自身の膝に顔を埋めた。
「ちょ、あんた怪我人なんだから怪我人らしくしなさいよ」
 慌ててベッドから立ち上がった千日は屈み込んで若槻を起こそうとして、きょとんと目を見開いた。地鳴りのような低音が耳に這い寄って来たのだ。瞬きする千日の視界に、若槻の赤くなった顔が飛び込んでくる。
「すんません。怪我より何より、腹減りました……」
 腹を押さえた若槻を見て、合点がいった。どうやらさっきの大きな音は若槻の腹の虫の仕業だったらしい。成長期な上、あれだけ動いて泣き喚いた後なのだから、無理もない。
 千日は窓の外の白んできた空に目を眇めると、にっとこの日一番の笑顔で若槻に向かって微笑んだ。
「それじゃ、あたしお手製のちょっと早い朝ごはん作ったげる。それも、とびっきりのやつ」
「マジっすか」
 若槻のきらきらした瞳が千日を仰ぐ。まるでご主人様のくれる餌を待つ子犬だ。若槻から伸びたふさふさした手触りの良い尻尾が目に見えるようだった。
「まじよ。せいぜい腰抜かさないようお腹に力入れて、大人しく待ってなさい」
「はい!」
 そう元気よく返事をした若槻の顔に、以前の陰りは見受けられなかった。まだ全てが解決したわけではない、けれど、少しでも気持ちが軽くなったのなら良かったと心から思う。
 千日はベッドを囲むカーテンを跳ね上げると、今度こそ医務室の扉を開けた。廊下に出てすぐ、目を見開く。
「かい……」
 口に出しかけた名は、その名を持つ男の手によって塞がれた。海堂の手だ。訝しげに彼を見上げると、静かにとでも言うように、もう片方の手の人差し指を自身の口元に当てている。
 海堂は桐谷と令が研究所の敷地を後にすると、雉門のところへ向かったはずだが、用事はもう終わったということだろう。それで若槻の様子が気になって戻ってきたということか。一時の海堂と七福神の間に入った亀裂を思うと、この傾向は素直に喜ばしかった。
 しかし、立ち聞きはいかがなものか。
 咎めるように軽く睨むと、海堂はふてくされたようにそっぽを向いた。
 多分、やって来たは良いが若槻が泣いているか何かの場面だったので、入るに入れなかったのだろう。
 千日は苦笑して、海堂に中に入るように促す。女にはわからないことも男同士ならば言えることもあるかもしれない。
 海堂は頷いたが、思い直したように笑って、千日の頭を撫でるというよりは小突いた。海堂なりの千日への労いのつもりなのだろう。海堂は、千日より若槻との付き合いは長い。その海堂が、若槻の抱える葛藤や不安に気づけないはずがなかった。海堂は元々面倒見が良いタイプでもあるから尚更だ。
 千日も軽く手を上げると、食堂の方に走りだす。研究所の朝は早いが、まだ朝食は出来ていないはずだ。おばちゃんに言えば、少しばかり食料も融通してもらえるだろう。何を作ろうかと迷ったが、以前若槻がどんな大怪我をしていても喰えると豪語していたかつ丼が良いと思いつく。
 研究所の朝は、弾む陽光のように東の窓から押し寄せて、血の臭い混じりの夜の残り香を絡め取ってゆく。


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