鬼の血脈 夜明けの代償[五]



 一面に広がる兜京の夜景を見下ろし、三船は軽く口の端を上げた。日中の日差しに勝るとも劣らない夜のネオン街は、どこかよそよそしく華々しく、赤に青に黄色に白にと三船の目を楽しませてくれる。突っかけた灰色の格子模様の着物の懐から取り出した煙草を咥えると、三船はライターの火をそれに寄せた。
 高層ビルの屋上に立っているせいで、中々上手く火がつかない。いらいらと何度もカチカチやっていると、少し離れたところで同様に周囲の様子に目を凝らしていた中原に横目でちらちら見られていることに気づいた。
 やっとほんのりとあたたかみと馴染みのある赤色が灯る。一服して息を吐くと、細く白い煙が生温かな風に乗って棚引いていった。
 煙草は、若い時に妻にやめるように言われてやめた。綾が妻の腹に居るとわかってすぐの頃のことだったと思う。とにかく豪快な女で、五つも歳の離れた年上の女だった。妻が死んでも禁煙は続けていたが、最近になってまた喫煙者に逆戻りしてしまった。妻も綾も居ない今、特に禁煙に情熱を傾ける甲斐もない。
「貴様、何をくつろいでいる」
 棘だらけの声を振り返ると、華奢な少女の姿がそこにあった。誰もかれも彼女を少年に見紛うというが、三船にはその感覚がわからなかった。これで男装しているつもりだというのだから、鼻で笑うしかない。
「なあに、凌ちゃん。一緒にくつろぐ?」
 首を傾げてみせると、凌の顔に浮いた青筋がますます際立った。視界を少しでも広くとるためか、今はいつものフードは背中に落ちかかっている。
「やる気あるのか。桐谷迅を見失ってからもう、十五分も経過しているんだぞ。鬼の足なら十五分もあれば、行方をくらますには十分すぎるほどの時間だ」
 凌は珍しく、千日以外のことで動揺している。これは三船の読み通り、今回の桐谷の行動が、鬼側でも予期されていなかったことと見て問題はなさそうだ。人質を取られて泣く泣く七福神に加入した若槻と同様に、三船は元々凌のこともいつ手のひらを返すかわからない人物として疑っている。令を手引きしたのが凌であるにしろないにしろ、その疑いは変わりようがない。七福神は、鬼を追われた、あるいは見限った、はたまた周到に己を偽って何食わぬ顔で忍び込んできた、還る場所を持たないはみ出し者の集団だ。
 そう言い聞かせていないと、時々忘れそうになる。三船よりひとまわりもふたまわりも若い彼らが、限りある命を燃やすようにむきだしのまま生きているのを見ていると、危うくそちらの方に引っ張り込まれそうになる。まだ果てない揺りかごに揺られた甘やかな夢を見ていたい心地になる。
「だから、一応探してんじゃないの。それに、奴さんは、何か狙いがあってわざわざあんな目立つ行動を取ったわけっしょ。何か手がかりが見つかれば、所員さんらからメールなり電話なり来るって」
 フェンスから身を乗り出すと、遥か下方の車道を車がまばらに走っているのが見えた。あのうちのいくつかは、研究所の車だろう。サイレンの音が時折通過していくのは、救急車とパトカーだ。
 今回の桐谷の行動は至って不可解であった。特に鬼と関係のない学校や会社などを手当たり次第に襲ったのである。もっともその全てに桐谷が絡んでいるかの確認はまだ取れていない。三船自身が桐谷の姿を確認したのは大手のIT企業の本社と遠見市立東中学校の校庭だけだ。テレビなどは、鬼とは関係のない無差別テロとのニュースを瞬く間に流した。
「それにしても、だ。はらたけ、おねむなら帰るか? ん?」
 寝ぼけ眼を擦りながら周囲に目を凝らす中原は、いつもならば爆睡している時間帯だ。
「おねむじゃない! おやっさんこそ、タバコやめろよ。そんなん吸ってるとガンになっちゃうんだぞ」
 擦りすぎて赤くなった目で中原が訴える。三船は尚もしめったそれに口をつけようとして、けれどほんの気持ち程度に口角を上げるとフェンスに火を押し付けた。ジュッという音がして、ほのかな明かりが消える。
 中原が三船の喫煙を快く思っていないのは、何も自分が煙草が嫌いだからとか、この中年男が癌でぽっくり逝くかもしれないからとかいうわけではない。いつだってこの十四の少年の行きつく先にあるのはただ一つだ。中原は未だに、三船に娘を諦めてほしくないと思っている。
 その甘さと愚かしさは三船の好むところではあったが、そんな思いを抱いて生まれてくるには、鬼は既に時を失していた。
 ふと、着物の合わせに突っ込んでいた指が、振動を捉える。携帯の液晶に表示された名前は三船も挨拶程度はする所員のものだった。
「あい、三船」
 そう応答をしてから電話を切るまでの間、食い入るような二対の瞳に凝視されていた。特に面白い連絡でもないのに、その必死の形相がおかしくて、つい顔がにやけてしまう。
「え、何、何か女の子からの連絡だったのか?」
 中原の落胆した声に、三船は唇を尖らせる。
「ちがうっての。籐甘区とうかんくの病院に鬼の襲撃があったんだって。桐谷の坊ちゃんの姿は確認されてないけど、応援要請が来てる」
「籐甘区?」
 不審を露わにした凌の声に射抜かれ、三船は軽く頷いてみせる。
 桐谷を見失ったここ遠見市から離れてはいるが、鬼の足で行けない距離ではない。病院の襲撃は、今回が初めてのことである。
「ま、他に手がかりもないし、行ってみるしかないってなことで」
 曖昧な欠伸を一つすると、三船はひょいと器用にフェンスに上った。反動をつけてフェンスを蹴る。下駄の鼻緒がきりきりと足の甲を締めつけた。三船は難なく高低差のある五メートル超の距離を跳躍すると、鉄柵の向こうの屋上の地面に危なげなく着地した。
 振り返ると、凌も中原も後れを取らずに付いてくる。
 しばらく鉄道の沿線沿いを進むと、籐甘区が見えてくる。区役所のある中央からやや西に外れた駅から徒歩十五分のところにある白い建物が目的の場所だが、ここからでは被害の程はわからない。籐甘総合病院はそこそこ規模の大きい総合病院で、入院患者も多く抱えているという話だ。
 病院の敷地内に入ると、獣じみた独特の鼻をつく臭いにまず気づいた。病院の背景にそぐわないその臭いを纏ってこちらに向かってくるのはヒトだ。正面口から飛び出してきたヒトの群れが、口々に何事かを叫びながら、血走った目を爛々と輝かせてすれ違ってゆく。
 一階と二階の窓はあらかた割れていて、そこここから悲鳴が聞こえた。逃げ遅れて院内に取り残された患者の数は相当数居るようだ。何かの割れる音に、砕ける音。恐慌状態に陥った患者と医者と看護師が入り乱れて右に左に逃げてゆく姿が見える。
 それらを見ても、何の感慨も湧かない。ヒト側に与すると決めたのは全て、一族がこのまま時代の波にさらわれて朽ち果ててゆくのを良しとしたくないがゆえだった。ヒトに何かしらの情を持っているとすれば、それは嫌悪や憎悪といった類の方に比重が傾く。だが、そんな感情を飲み下す術は、とうに知っている。
「ひどい、な」
 中原が唇を震わせて聳え立つ白塗りの建物を仰いだ。中原も多感な年ごろだ。今までは、狭い里の箱庭の中で、ヒトの非道に憤っていれば良かった。けれど一たび箱庭を飛び出せば、世の中はそんな一辺倒にできていないことに気づく。
 この病院に居るのは、鬼狩りでも鬼を直接的に苦しめてきた人間でもない。
「一階に少なくとも三頭、所員が既に討伐に向かっている。二階に四頭、こちらも銃声が聞こえるから所員が居る。三階に二頭、四階五階は目視不可能」
 凌が淡々とそう告げる。少女の面からは、何かしらの感情は伝わってこない。彼女が何を思い、ヒト助けに向かおうとしているのか。中原のように心を掻き乱されているのか、それともそんな時期は既に過去のものとなったのか。どうしてか、暴いてやりたいという乱暴な感情が三船の心に燻った灰を落とした。
「じゃ、おっさんは三階行くから、若いのはその上頼むわ。最近どうも、節々が痛むんでね」
 腰を押さえてそう言うと、凌は胡乱げに三船を一瞥した。何か言いたげに顰められた顔は、束の間三船を向いたが、何も言わずに逸らされる。足早に屋内に消えていく凌の後ろ姿を目で追って、三船は軽く喉を鳴らした。もしも凌が内通者だとすれば、彼女も損な役回りを押しつけられたものだ。ポーカーフェイスで全てを覆い隠すには、まだ彼女は幼すぎる。押し殺した情の片鱗がともすればこぼれ落ちて、高く澄んだ音を奏ででもしそうだ。
 三船は二階の踊り場で出くわした夕鬼を一頭切り捨てると、三階へと続く階段を駆け上がった。一階や二階に比べると鬼の気配もヒトの気配も少ない。
 廊下を右に折れて、一番初めに目に入った部屋に飛び込む。室内にはたくさんのベッドが整然と並んでいた。三船はその当たり前なのに異様な光景に眉を顰めた。
(ああ、そうか)
 女子供でも収まることが不可能なほどに小さなベッドは、生まれてきたばかりの赤ん坊のためのものだと気づいた。ここは、新生児室だ。ということは、この辺りの部屋は産婦人科の管轄なのだろう。
 三船は空っぽのベッドを順繰りに覗き込んでいたが、奥の方で蠢く影を捉え、眉を跳ね上げた。わざと足音を立てて、その人影に近づく。
「……来ないで」
 妙によく響くアルトの声が室内を震わす。ここからでは後ろ姿しか見えないが、寝間着姿の若い女だということが察せられた。
 女は部屋の隅で背中を丸めてこちらに背を向けている。
「おねーさん、大丈夫? 助けに来たから、もう大丈夫よ」
 そう人好きのしそうな声で呼びかけてもなお、女はこちらを向かない。不審に思ってもう一歩足を踏み出すと、女は更に纏う気を硬質なものにした。
 仕方なく女の肩に手を掛けると、勢い良く振り払われる。目を白黒させた三船は、女の腕に抱かれた小さなものに気づいた。細い息をして胸を上下させているそれは、この世に生まれ落ちてまだ十日も経っていないであろう命の結晶だった。
 三船の目から遮断するように、女はまた背中を丸めて赤子を両腕の中に閉じ込めた。
「お母さん、大丈夫だから、こっち向いてくれない?」
 辛抱強く言葉を重ねるが、女の頑なな殻が砕ける気配はない。
「このフロアにもまだ鬼が居るんだわ。こんなことは言いたかないんだけど、このままここに居たらその子もろとも引き裂かれちまうよ?」
 そこまで言って、ようやく女は三船を向いた。
 強い恐れでさざ波だった瞳の深奥に、決して揺らがない意志の海が見える。
「あんた、本当に、味方なの……?」
 女のその物言いに、引っかかりを覚えた。まるで女の言い分では三船が鬼の仲間であるかを疑っているかのようだ。そこまで思って、三船は目を見開く。
 この女は、夜鬼や夕鬼を従えた人形鬼の姿を見たに違いない。だから、人形鬼の存在を知らなければ一見してヒトとわかる三船にも警戒心を抱いている。
「もしかして、ながーい黒髪のイケメンの兄ちゃんを見たりした?」
「……私が見たのは、若くて短髪の大男で、刀を両手に持ってた。ずっと仏頂面をしていて気味が悪かったから、よく覚えてる。あいつが患者やお医者さまに鬼をけしかけてきて、私も命からがらここまで逃げてきた」
 桐谷の配下の鬼の筆頭に、そんな男が居たように思う。
 一条高校襲撃事件などでは、人形鬼の目撃者も少なく、異形の化け物の存在の露見が衝撃的すぎて、人形鬼にまで世間の目は向かなかった。
 しかし今回は、今回はこの病院一点集中の襲撃ではなく、各地で襲撃事件が起きている。それぞれの場所で何が出現したのかまでは判明していないが、それらの場所でも異形と人形が共に行動していた可能性は低くない。初めに目撃された場所で、やけに堂々と桐谷が姿を晒していたせいで、メディアはヒトによる無差別テロだと判断したようだが、今にその報道も覆る。
 ヒトに良く似た鬼と、異形の化け物のつながりをメディアが暴くのは時間の問題だろう。混乱は必至だ。
 七福神のヒト社会へのお披露目の日も近いかもしれない。国は、鬼を使役できると吹聴し、千日をキャンペーンガールか何かのように仕立て上げて、鬼を完全に統制できることを説くだろう。それによるヒトの利益は大きい。鬼の獲得は、この小さな島国の財産となる。
 三船はほんの一瞬天を仰いだ。だがすぐに、皮肉げな微笑を顔に乗せる。
 桐谷の配下の鬼たちが居るのに、桐谷自身の姿が一向に確認されないということは、もしかするとここは囮で、桐谷自身は別の場所に向かっている可能性もある。ここは所員に任せて、桐谷の捜索に戻った方が良いかもしれない。
 凌と中原に連絡を取ろうと携帯を取り出したところで、三船は刀を鞘から抜き払った。重い衝撃が腕から全身に伝わる。眼下の女が短い悲鳴を上げて、己の下駄の歯が床と擦れて苦しげな音を立てたのとは裏腹に、三船は口の端を上げた。
「これはこれは、綿貫のご当主」
 三船の勿体ぶった挨拶に、綿貫は何の言葉も返さない。再び急所を突かれそうになったが、三船は半身を捻ってその追撃を避けた。
「答えろ。姫の従妹君はどこだ」
「そんなの、俺がわざわざ教えなくたってわかってんでしょうが。はーん、なるほどね、あんたさんが動き回ってるってことは、やっぱ桐谷の坊ちゃんは勝手に暴走したわけか。つーことは、ここは囮確定ってわけね」
 綿貫の眉が跳ね上がる。相変わらず三船より一回り以上も歳を重ねているはずのこの男は嘘が吐けないらしい。いっそ愉快な心地になって、三船は綿貫との距離を一気に詰めた。
「その様子じゃ、娘さんの顔はまだ拝んでないみたいですが?」
 綿貫が一層どす黒い空気を纏う。三船よりずっとがっしりとした体格のくせに、綿貫は然程動きも悪くない。これで十以上も年上だというのだから、その身体能力には舌を巻く。
「あんな子を送り込むとは、天下の綿貫家も余程切羽詰まっているってわけですか」
 綿貫の刀さばきに僅かな粗さが生まれる。それは、三船のなけなしの自尊心を蝕むように満たした。折よく、新生児室の扉が開いて、転ぶように見知った人物が入って来る。
 三船は、いっそ笑い出したい気分で、彼女を見た。
 大きく上下する肩は、だぼだぼのパーカーの緩い線で分かりにくくなっているが、ひどく華奢なくせに独特の丸みを帯びている。短く切り揃えられた黒髪は、よくよく見れば少し色素が薄く、普段は一部の隙もない彼女の凛とした立ち姿に淡い柔らかさを添えていた。
 だが、今目の前に居る彼女は隙だらけだ。凌は、三船と一児の母はまるでこの空間に存在しなかったように、父の姿ただそれだけを凝視している。
「父上」
 たったそれだけの言葉に込められた重みが、それに見合う大きな波紋を描いて、三船の鼓膜にまで達した。
「桐谷迅は、あの男は、天女に何を――」
 凌の言葉からは、彼女がどちらの側の者であるかという決定的な証は得られない。綿貫の方も、凌の視線に己のそれを絡ませることはない。ここで粘って、堂々巡りの問答を続けても埒が明かないだろう。凌はともかく、綿貫が尻尾まで掴ませることは万が一にもないに決まっている。
「凌ちゃん、奴の狙いが千日ちゃんから俺たちを引き離すことだとわかった以上、長居は無用だ。おっさんとしては、父娘の再会を邪魔立てしたくないところだけど」
 そこまで言って初めて、凌は見開いた目を三船に向けた。綿貫のすぐ傍にあった彼女の姿が、身軽な跳躍と共に三船の背後に戻って来る。
「余計な気遣いは要らない。貴様こそ、良いのか。一階上に、三船綾が居る」
 三船は軽く息を呑む。引きつりそうになった喉の疼きを、爪を立てた手のひらでどうにか抑え込んだ。じわりと滲んだ赤が、鉄錆の臭いを発する。
「中原は劣勢だった。何しろ、彼女を傷つけられないからな、あの馬鹿は」
 嘲りに混じって何か別のものが震えた声音は、まるで凌のものではないようだった。
 三船は舌打ちすると、ヒトの女を抱き上げて、窓ガラスを蹴破った。怯える女をなだめすかす余裕すら失って、三階から地上に着地する。女とその子を医療班の人間に送り届けると、三船は再び院内に舞い戻った。
 別に研究所の人間の監視があるわけでもない。ヒトの女の一人や二人、放っておいても良かったが、母親という存在にどうも自分は弱いなと頭の片隅で思った。何の抵抗の手段も持たない弱いだけの女のくせに、どうして母という存在はあれほど強い瞳を見せるのか。
 四階の右手奥に中原と綾は居た。綿貫の姿はまだない。おそらく、他の鬼の回収に回っているのだろう。じきに彼も綾を迎えに来るはずだ。
 一足先に駆けつけた凌の言葉も斬りつけ合う二人には届いていないようだった。斬りつけ合うといっても、中原は防御一辺倒で、綾の短刀を籠手でひたすら受け止めているだけに過ぎなかった。
「はらたけ、千日ちゃんが危ない。ここは引き上げるから、戻れ」
 さすがに主の言葉は届いたのか、中原が綾の猛攻から逃れようと身体を捻る。しかし、綾の反応の方が一枚上手だった。鼻先すれすれで短刀をかわした中原のバランスが崩れる。畳みかけるようにして綾が短刀を構える。
 三船は訳のわからない今にも爆発しそうな苛立ちを抱えて、中原を突き飛ばした。代わりに、三船の左腕に短剣が突き刺さる。
 目を見開いて後退った綾の腹目がけて、力任せに鞘入りの太刀を振るった。綾の身体が吹き飛んで、廊下の壁に叩きつけられる。衝撃でひびの入った壁が、ぱらぱらと音を立てて崩れ落ちてゆく。
 茫然と目を見開いていた中原が、追い縋ろうとたたらを踏んだのを、三船は冷えた目で一瞥した。
「命を奪う覚悟もなしに、戦場に立つな」
 中原が、以前一条高校で見せたよりずっと深く絶望しきったような表情で、三船を仰いだ。
 三船はそれには何も応えず、左腕に刺さった短剣を乱暴に引き抜いた。乾いた音を立てて、短剣が廊下の上を転がる。
「……パ、パ」
 苦痛に顔を歪めた綾が、静かな悲しみだけ残った顔で、焦点の定まらぬ瞳を三船に向けた。三船を刺したことと、三船に斬りつけられたことが信じられないとでも言いたげな瞳だった。
「お前もだ、綾」
 鞘に手をかけて、三船が一歩踏み込む。
 中原が引きつれた声なき叫び声を上げて、三船の背中を掴んだ。
 ほんの僅かに遅れて、三船の目の前に体格の良い男が現れる。綿貫は数秒物言わぬ透明な瞳を三船に向けたが、やがて背を向けて壊れものを扱うように綾を抱き上げた。
 綿貫の姿が夜の闇の中に溶けた後も、三船はしばらく表情の抜け落ちた人形じみた顔で、綾の居た崩れた壁を見つめていた。
 すぐ後ろから、押し殺したような中原の嗚咽が聞こえる。三船は自らの手元に視線を戻すと、結局鞘から抜き払われることのなかった太刀を眺めた。
「覚悟がなくても、立たなければならない戦場だってある」
 不意に、小さな足音と共に、凌の声が響いた。
 ただ静かに佇んでいた三船の前に、凌の姿が現れる。
 凌の身体は、白み始めた空から覗いた有明の月で、淡い色に縁取られていた。
「私たちが立っているのは、そういう、どうしようもない場所だ」


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