鬼の血脈 夜明けの代償[六]



 三船たちに一時間ほど遅れつつも早朝に帰って来た神屋がもたらした凶報は、千日をはじめ、研究所の人々を騒然とさせた。ついに、人形鬼の存在が世間に露見したというのだ。昨夜の桐谷率いる鬼たちの行動とその詳細が、今朝のスポーツ新聞の差し替えで一面を飾ったらしい。
 その新聞は、あることないこと書き立てることで有名だったが、今回の件は八割がた真実を突いている。しかも、人々に疑心暗鬼を生じさせるように、隣人が実は鬼かもしれないと不安を駆り立てるような論調である。おまけに元防衛省勤務の人間がこの報道を裏付けるような証言をしたことで、信憑性が増してしまった。報道を真に受けた一部の人間の間では傷害事件も起こっているらしい。
 研究所の周りは、押し寄せる人々とマスコミの群れでごった返し、怒声と罵声と悲鳴で動物園もびっくりの珍獣大コーラスのような様相を呈している。千日たちを囲む研究員の数も倍に増えた。
 動揺する七福神の面々をよそに、神屋は涼しい顔だ。頭をがりがり掻いて、焦りを隠せずにいるのは雉門で、彼はあーだのうーだのと呻き声まで上げている始末である。
「そこで、防衛大臣からじきじきのご指名だ。今日の午後、防衛省にて記者会見がある。晴れて、日夜我が国を守る君たちのお披露目というわけだ」
 何でもないことを告げるような神屋に、千日はつめたい睥睨で応じた。
「あたしたちが出て行っても、不安を煽るだけなんじゃないですか」
 世の中には、時に吐くべき嘘もあると千日は思う。
 真実を知りながらそれを伏せておくことに良心の呵責がないわけではない。しかし、人形鬼の存在を政府が肯定すれば、鬼と何ら関係のない隣人同士で腹の探り合いが常に行われるようになるかもしれない。政府の公式発表でないにもかかわらず、既にこの騒ぎだ。
 それに、千日たちを世間に公表することは、鬼をヒトが使役するという意志を表明するという意味も持つ。
 ――するわ。貴女はきっと、あの子たちを見捨てられない。
 ふと、千夜の声が頭の奥で響いた。
 千日は俯き、固く目を瞑る。乱暴に額を掴んで、軽く喉を鳴らした。
(あたしは、ヒトとして、生きるんだから)
 たとえどれほど、ヒトが鬼のような所業をやってのけていたとしても、それは変わらない。同情と現実の決定は必ずしも一致しない。
 千日は、鬼を裏切る。否、その表現は間違っている。元々千日はヒト側だった。それだけのことだ。ただ、それだけのことに過ぎない。
「天女様? 僕もついてるし、悪いことにはならない。何も怖がらなくて良い」
 労わるような響きをもって、耳元で神屋の声がした。抱き寄せられたのだと気づいて、千日は無茶苦茶に身体を捻った。神屋が観念したように、身を翻す。
 ケラケラという笑い声が、身体に張り付くようだ。
「あんたって奴は――!」
 これほど鬼に近しい存在でありながら、神屋は何も感じないのだろうか。
 ヒトと何ら変わらずこうして存在する鬼たちを、兵器として見ることに抵抗はないのだろうか。
 衝動のままに上げそうになった咆哮を、千日は唇を噛んで押し込めた。
「あー。そういう訳で、お前さんたちを午後三時の会見に間に合うように連れて行かなければならん。昨夜の騒動で殆ど身体も休まっていないだろうが、仮眠と食事は十一時までに済ませておくように。衣服の準備などはこちらで手配する。それと、分かっているとは思うが、外はごらんの有様だ。行動はこのセンターと共有施設棟と居住区の範囲に留めるように」
 場を収めるように後を継いだ雉門の言葉に、千日はうんともすんとも言わなかった。
 千日は苛立ちを隠せずに、唇を引き結んだまま凌の手を引いて所長室を出て行った。
 あてどもなくずんずん廊下を進んでいるのに、凌は文句も言わず付いて来てくれた。おまけに、七福神の他の面々も後ろに付き従って来ているようだ。
 千日は更に速度を上げて進み、やがて防火扉の前で事切れたように足を止めた。
 窓の外では、雲が低く垂れこめた灰色の景色の中で冷たい雨が降っている。
 千日は、防火扉を乱暴に右手で殴りつけた。
 ガン、という音が雨音に混じる。
「てん……」
 慌てたように、凌の手が伸びてくる。
 しかし千日は身体を反転させて、凌に向き直った。
「あたしも皆も、見世物じゃない!」
 凌の瞳が小石を投げ込まれた水溜りのそれのように、波紋を描く。
 海堂は自分が傷つけられたような顔をして、それからついと千日から視線を逸らした。
 若槻も中原も、何も言わずに俯いた。九重と三船だけが、諦めたような顔をして静かに佇んでいた。
 千日は、泣き出しそうに顔をくしゃくしゃに歪めた。そのまま、凌の胸に取りつく。
「たとえ鬼だって、こうして生きてるのに!」
 凌の心音が、パーカー越しに伝わる。千日は堪え切れなくなったものを押し隠すように、凌の肩に顔を埋めた。
 悔しかった。
 憤りを覚えているのに、何も出来ない自分が情けなかった。文句ひとつ言わない仲間たちに腹が立った。いや、何より、何がしたいのか分からない自分が、許せなかった。
 雨脚が次第に弱まっていく。窓ガラスを殴打していたそれが、撫ぜるような霧雨に変わると、千日は凌の鎖骨のくぼみから額を離した。頬にはりついていた髪が、ぱらりと一筋落ちかかる。
「……ごめん」
 千日は呟いて、罰が悪そうに笑った。
 どうしようもないことを、いくら喚こうと事態は変わらずそこにあるだけだ。分かっていたのに、また爆発してしまった。
 千日よりもっとずっと、泣き喚きたい人は他に居るだろうに。
 そう思う一方で、皆に妙に物分かりの良い大人じみた顔をして分かったような顔をしてほしくないと思う自分も確かに存在するのだ。
「あれ? 天女様、こんなとこでどうしたの?」
 無邪気な声を振り返ると、猿女が何のてらいもないような微笑みを浮かべて立っていた。
 千日は軽く目を瞠ると、赤くなった目の端をぐいと乱暴に拭い、何でもないと言ってその場を後にした。

 唯香によって入念な化粧を施された千日は、おろしたての一条高校の制服に袖を通し、黒塗りの高級車に乗って防衛省の土を踏んだ。
 国中を揺るがしている報道に関する政府の公式発表とあり、まだ会見まで一時間弱の間があるにも関わらず、建物内部は勿論、外部までマスコミと野次馬でひしめき合っていた。あわや将棋倒しとなりかけたことも一度や二度ではないという。
 相変わらず、降り続く雨が止む様子はない。
 控え室の隅のテレビの箱の中では、特番の司会者が今か今かと会見のその時を待ち構えて何事かを喚いては、周囲のコメンテーターが議論を交わしている。いっそ異様にも映る熱狂ぶりは、画面を隔てて冷めた静寂とかち合って亡失していった。
「大丈夫か」
 熱い紅茶の注がれたティーカップを差し出して、海堂が尋ねた。千日はそのやけに上品なカップの柄を掴んで、まあぼちぼちよと呟いた。
 今から一時間ほど前に会見の場に到着した一行は、神屋に連れられ、防衛大臣らと面会した。そこで会見の段取りを確認し、三十分ほど話し込んだ後に解放され、この控え室に通されることとなった。
 防衛大臣――唐木田以下防衛省幹部は、千日たちを熱烈に歓迎した。およそ、今テレビに映っている人びとのそれと変わらない。
「今日のことがちゃんとこなせたらお寿司だって、寅さんが約束してくれたしね」
 千日の応えに海堂は納得していない様子で、そうかよとだけ呟いてそっぽを向いた。
 湿気を孕んだ雨の日特有の野暮ったい空気が、肺に溜まっていく。
 会見の予定時刻までの時間は、驚くほどゆっくりと過ぎて行った。胃がきりきりと痛んで、煩わしいことこの上ない。さっさと、この茶番を終わりにしたかった。
 記者会見は、滞りなく行われた。神屋や政府の目論見通り、次期鬼姫となる天涯孤独の女子高生という肩書きは話題性抜群だった。しかも人間である友人たちが鬼の襲撃に遭い、次期鬼姫はそのことにひどく心を痛め、若干十七歳の、しかも女の身でありながら、同胞でもある鬼たちに牙を向けることを決意しただのという、三文小説のようなあらましまで語られた。次期鬼姫はヒトの心に寄り添った、鬼に対する武器であるということが繰り返し強調された。そして我々ヒトは、ヒトとしての尊厳を遵守するため、暴虐の限りを尽くす鬼と徹底抗戦の構えを取る。しかし鬼の生態を踏まえた上で、この次期鬼姫の下に彼らが膝を屈するというのなら、厳重な監視の下、共生する道を選ぼうではないか。要約すれば、そのようなことが政府から国民に向けてのメッセージであった。
 この政府の方針がテレビ中継されるや否や、人類を脅かす生命体の駆逐を求めて抗議行動に出るものも少なからず存在したが、人間と何ら変わらない千日たちの容姿が功を奏したのか同情を寄せるものも少なくはなかった。悲劇に見舞われた女子高生という絵は、千日が思うよりずっと有効に働いた。
 近い将来、鬼たちを意のままに操れるようになる最終兵器の登場は、果たして国民感情をひとまずは鎮静化した。
 防衛省幹部との挨拶を済ませ、千日たちが屋外に出ると辺りはすっかり茜色に染まっていた。いつの間にか雨が止んで、夏の終わりのしつこい暑さがべったりと纏わりついてくる。
 研究所までの道中、通りかかった河川敷には驚くほどの人だかりが出来ていた。今日は、花火大会があるのだという。
 道の脇にびっしりと並んだ屋台を見ると、そんな場合でないのに自ずとわくわくしてくる。これ程規模の大きい祭りではなかったが、千日も中学までは地域の祭りに友達と浴衣を着て参加していた。たこ焼きにイカ焼きにかき氷にリンゴ飴にと、ぼったくりも甚だしい金額を払わせるえも言われぬ魅力が、こういった場には溢れている。この地域の花火大会は特に有名で、千日も一度は訪れたいと思っていた。それにしても、鬼の騒動があったというのに暢気なものだ。しかし、こういった事態にも揺るがぬ伝統と人の存在こそが、国を支えているのかもしれない。
 ほんの少しで良いから寄っては駄目か、という千日の懇願は神屋に一蹴された。千日たちは今や、この国で最も顔の知られた救世主となってしまったのだから、無理もない。
 しかし、河川敷から大分遠ざかった橋梁にて、千日は幸運に恵まれた。人通りがほとんどないその場所から、夜空に咲いた大輪の花が見えたのである。群生するビルに遮られてもいない。思わぬ穴場ポイントというやつだ。神屋と雉門は渋ったが、千日は七福神の仲間を連れて、車外に出た。
「うわ、すごい!」
 ちょうど黄金色に似た花火が上がって、千日は手すりから身を乗り出してはしゃぎ声を上げた。
「落ちるなよ」
 少し呆れたような海堂の声に、千日は振り向く。
「何よ。あんた、これ見ても何にも心動かされないっていうの」
 咎めるような口調に、海堂は微かに笑って、千日から微妙な距離を取って同じように手すりにもたれた。
「お、あれ、かっちょいい」
 目をきらきらさせて呟いたのは中原だった。つられて花火に戻すと、いかにも少年好みのどんぱちとうるさい花火が上がっている。
「お子様め。これだから、中坊は」
「んだと、こら。お前だって、オレと二つしか違わないだろ。てか、オレ、中学行ってねーし」
 風情の欠片もなく取っ組み合いを始めた馬鹿二人、もとい若槻と中原を尻目に、凌は涼しい顔をして差し入れに貰ったオレンジジュースの残りを飲んでいる。女子二人の間に挟まって尽きることなく話題を振っているのは三船で、そんな面々を携帯で写メっているのが九重だった。
「どうせなら、浴衣で来たかったな」
「また来れば良いだろ。来年だって、再来年だって」
 ほんの思いつきで呟いた千日に、思いがけず海堂が応えた。意外な言葉に目を瞬いていると、横から三船がいつものテンションで割り込んできた。
「え、千日ちゃんの浴衣! うわそれ、おっさん超見たい」
「おおおおおお俺も見たいですっ」
 何故か物凄くどもりながら、若槻が手を上げる。
「黙れ、天女に近づくな」
 案の定牙を剥いたのは凌であったが、そう妬かないでよと三船に近寄られると、露骨に嫌そうな顔をして丁度近くに居た九重の後ろに隠れた。
「えええ、どうしてりっちゃんは良くっておっさんは駄目なのよ?」
「人望の違いってやつですよ。最年長なんだから、もうちょっと大人ぶってくれないと困ります」
 大人らしく、ではなく大人ぶると言っているところに、九重の本心が見えたような気がする。誰にでも柔和な九重だが、セクハラの常習犯にはフェミニストの精神が邪魔をするらしく、辛辣な言葉を浴びせることも稀ではない。
 雨上がりの濃厚な匂いが、他愛もない笑い声と共に押し寄せる。花火が上がるたびにくっきりと映し出されるそれぞれの顔は、束の間の休息に浮かれて見えた。
 ふと、千日は足元にコンクリートを突きぬけて生えたコスモスの花を捉えた。別名を秋桜と言われる、ありふれた可憐な花である。そういえば、吹き抜ける風が多少肌寒いものに感じられる。
 いつの間にか季節は、秋を迎えようとしていた。
 最後に一花咲かせようと足掻く夏の姿は、千日の胸に浮かびあがる肖像にどこか似て、どうしてか要らぬ感傷を呼び起こした。
「おーい、そろそろ行くぞぉー!」
「はーい」
 車の中から呼びかけて来た雉門に、それぞれまばらな返事をする。
 千日は帰りたくないな、という思いに一瞬囚われかけた。
「おい、行くぞ」
 なかなか手すりから離れようとしない千日を見かねて、海堂が振り返る。
「あ、うん。今行く」
 海堂を追いかけて踏み出した足が縺れて、千日はバランスを崩して前につんのめった。
 あわや顔面激突となりかけた時、覚悟していたよりいくらか軽い衝撃が来た。鼻の頭をぶつけて思わず涙を滲ませながら顔を上げると、誰かに抱きとめられたのだと気づいた。
「ったく、お前はほんと、そそっかしいな」
 海堂の声が溜め息と共に落ちてくる。
 鼻っ柱に当たった胸板は、千日一人を受け止めるくらいではびくともしなかった。海堂の胸も腕も固くてごつごつとしてお世辞にも心地良いとは言えないのに、この上なく頼もしく、このまま身を預けていたら何も怖いものなんてないように感じられる。当たり前のことなのに、ああ男の人なんだな、なんてひどく間の抜けたことを思った。
「間抜け面」
 加減のないデコピンを喰らって、千日は我に返った。
 何だか物凄く恥ずかしいことを考えていた気がする。千日は胸の中に降って湧いた感情を無理やり押しだすと、涙目で海堂を睨みつけた。
「鼻思いっきりぶつけたのよ。もうちょっと上手く受け止めなさいよ」
「てめ、助けてやった恩人に向かって何つー言い草だよ」
「ほらほらそこ、いちゃつかないの」
「黙れ、三十路」
 缶ビール片手に赤ら顔で茶々を入れてきた三船に、千日と海堂は競うように全く同じ罵声を浴びせた。
 千日は、もう一度だけ河川敷のある方角を振り向く。最後の締めの花火が咲き乱れる夜空は、涙が出るほど美しかった。
 海堂が言うように、また来年、全員揃って来られたら良いと思う。誰一人、欠けることなく。
 そこまで思って、見え隠れしていた不安らしきものが尻尾を出したような気がした。巡る季節の先で、こうして変わらず千日たちは笑って顔を突き合わせていられるだろうか。何一つ、変わることなく。
 最後に上がった花火が、夜の闇の中に散っていく。白く煙った燃え滓が、冷たい漆黒に塗り込められていく。
 千日はゆっくりとその夏の光景に背を向けた。
 足を踏み出した瞬間、少しだけ泣きたくなった。


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