鬼の血脈 夜明けの代償[七]



 変革が起きたのは、それから一週間も経たないうちのことだった。
 丑三つ時、千日に与えられた一室でそれは起こった。
「――てよ。なあ、起きてっつってんの!」
 凌と部屋を引き離されて以来、すっかり広く寂しくなってしまった部屋で、しかも真夜中に男の声がするなんて、非常事態にも程がある。飛び起きると、絶対にここに居てはならない男が千日の口を塞いでベッドに腰掛けていた。
「――!? ――ッ!!」
 言葉の自由が利かないため、ばたばたと暴れ出した千日を令が必死の形相をして抑え込む。
「だから嫌だったんだよ。あんたのお守役」
 令は、千日を拘束すると、疲れた顔でそう言った。両手は頭上高くで一まとめにされて壁に押し付けられ、ベッドに投げ出した足の上には男の体重が掛かっている。
 何がどうしてこうなっているのか分からないが、とりあえず紳士的な行為とは言い難い。千日はその一点から、令を強く睨めつけた。
 対する令は、千日を抑え込むのに成功して、涼しい顔をして見下ろしてくる。鬼社会においては一応、千日の方が立場が上であることなど、忘却の彼方にあるらしい。勿論、そんなことを盾に取るつもりは千日には毛頭なかったけれども。
「良い? 俺はあんたに千夜姫から言伝を預かってる。頼むから、それだけは騒がずに黙って聞いてくんない? ていうか、聞いてくんなきゃ、俺も帰れねーの。だからって次期鬼姫にあんま乱暴はしたくないんだよね。それとも別の意味で乱暴されたい?」
 艶を帯びた声が耳元で響いたかと思うと、令の吐息が首筋に滑り落ちる。
 身動きが取れず、声も出せず、怒りと羞恥で顔を真っ赤に染めた千日を見かねてか、令が顔を離した。しかしすぐに、ほつれて前に落ちかかった千日の髪を掬い上げて、おもむろにそれに唇を寄せる。口を塞いでいた邪魔な手が取り払われたことに気づかないほど、千日は動転していたので、相変わらず令の目論見通り室内に異変を知らせる叫び声が轟くことはなかった。
 令は満足そうに、千日と息が絡み合うほどの至近距離で囁く。
「あんたが大声を出そうものなら、俺は殺されちゃうわけ。ま、それは千日にはどうでもいいことかもしれないけど、俺にとっては大問題だし、千日の唯一の血縁の言葉も届けられなくなっちゃうのはちょっと悲しいでしょ。っつーわけで大人しくしててね。大人しくしてくれんなら、今すぐ解放する。どう?」
 最後にはそう胡散臭い笑みまで浮かべられ、千日はこくこくと頷くほかなかった。
 腕に絡みついていた手が退けられ、体中に掛かっていた重みがなくなる。千日は深呼吸を数度繰り返すと、胡坐をかいた膝の上に頬杖をついてその様子を面白そうに見つめていた令をどついた。
「あんた、何考えてんのよ!」
 勿論小声で、千日が令に詰め寄る。令は千日の繰り出した拳を手のひらで抑え込んで、一瞬考え込んだように瞳を巡らせた。
「何って……、色仕掛け?」
「いけしゃあしゃあと何抜かしてんのよ。この色魔!」
 怒り冷めやらぬ様子の千日の頭に手を置くと、令は
「お子様には刺激が強すぎた?」と言って笑った。
「誰が、お子様よ。それより、あんたこんな所まで乗り込んで来たんだから、さっさと要件話しなさいよ」
「お、やけに協力的」
 千日の握り拳からぱっと手を離して、令が向こうから一人掛けの椅子を持ってくる。その背もたれに腕と顎を乗せて、令は千日に向き直った。
 千日は改めてこのふざけた来訪者を眺めてみた。今や鬼に牙を向けた千日を手に掛けるつもりだったら、既にそれは決行されているはずである。もしくは誘拐しに来たかだが、その正否は分からない。ただし、まだここから動かないということは、千夜から言伝があるというのだけは本当らしい。
 見たところ、他に仲間も居ない様子である。単身、敵の本拠地に乗り込んできたということだろうか。桐谷の一件があってから、この次期鬼姫を守る要塞はますます堅固なものとなった。さすが鬼師なだけあって、令もただ者という訳ではないのだろう。
 千日は令と親しく話していることに若干の後ろめたさを感じずにはいられなかったが、大声を上げて令を危険に晒そうとは思えなかった。
「時間もないから、簡潔に済ます。千日、よく聞け。千夜姫が危篤状態に陥った」
 千日は弾かれたように令の瞳を見つめた。
 窓の外の灯りが照らし出した令の瞳は嘘のように凪いでいて、ただ静かに千日を見つめ返した。嘘や冗談の類ではないと、千日の全感覚が叫んでいる。そもそも、ヒトの巣窟まで来て、鬼がわざわざ虚言を口にするはずがない。そうわかってはいたけれど、千日の心は、令の言葉を頑なに拒んだ。
「――嘘」
「千日」
「嘘!」
 頭にクッションを被って、千日は聴覚から令の言葉を追いだした。
「ふざけないでよ。何で、鬼姫が、そんな簡単に! 鬼を守るのが鬼姫でしょ!? 鬼姫が死んじゃったら、鬼は良いようにされちゃうんだよ! あたしの、せいで――!」
 知らず、声が上擦る。令が慌てた様子で千日に覆い被さった。それから背中をトントン、と叩かれる。鬼の裏切り者のことなど放っておいてくれれば良いのに、令は激情が押し寄せてままならなくなっている千日をそのひょろ長い身体で包み込んでくれた。
 これが鬼に加担させるための芝居なら、大した演技力だと思う。否、芝居だったならばどれほど良かっただろう。ぎゅっと締めつけられた身体は、やがては己をも焼こうと猛威を振るい始めていた熱を次第に外に放出していった。
「千夜姫は、あんたに会うことを望まれている。おそらく、これが最期だ。この機を逃せば、あんたは千夜姫にはもう会うことはない」
 そう言われて心が動かないはずがなかった。
 千夜は、令の言うとおり、千日の知る限り最後の血縁者だ。そして、言いたいことも山ほどある。
「これが、鬼側の狂言じゃないっていう証拠は?」
「そんなもん、ねーけど。俺のこと、信じらんない?」
 顔を上げると、令がイイ笑顔で佇んでいた。
「……癪だけど、行かずにはいられないみたい」
「合格だ。後悔すんなよ」
 千日の頭を小突くと、令はベッドから降りて立ち上がった。
 千日も令に背を向けて、クローゼットを開いた。夜目に紛れて、かつ普段しないような格好の方が良いだろう。千日はてきぱきとTシャツ、黒のパーカー、黒の短パン、スニーカーを選び出す。それから令を振り返って、こっち向いたら殴るからね、と念を押した。
「大丈夫。お子様にサカんねーから」
 ひらひらと手を振って言われ、千日は怒るべきところなのか安心すべきところなのか、微妙に悩んだ。支度を整えて令に向き直ると、遠慮なく肩に担がれた。
「ちょ、高っ」
「両手使えないのはこっちとしても痛いから、それで我慢してね。オヒメサマ」
 窓枠に足を掛け、令は千日に回した腕にぐっと力を込める。千日の部屋は三階にある。飛び降りるつもりらしい。千日は歯を食いしばって腹に力を込めた。視界の端で、千日の部屋の窓からはみ出したカーテンが、旗のようにぱたぱた揺れている。がくん、と衝撃が来たかと思うと、令はすぐさま走り出した。
 赤外線センサーをひょいと越え、防犯カメラの死角に回り込む手腕は見事としか言いようがない。目を凝らせば、向こうに門番が倒れているのが見える。侵入時に眠らせておいたのだろう。
 しかし不運としか言いようがないことに、共有施設棟の辺りに差し掛かった時、人影に出くわした。令の全身が強張る感覚が、千日にも伝わってくる。人影は、千日もよく知る所員の一人だった。普段は気の良い親父然としているが、三船に勝るとも劣らないのんべえで、たまにこうして夜中にふらふら所内を徘徊するのが、欠点だった。酔夢だとでも思ってくれれば良かったのに、所員はたちまち目を見開いた。仕事に熱心すぎるのも考えものだ。
「ちっくしょ」
 令が所員の急所を打ち据えた。所員は気絶したが、その手からこぼれ落ちたジョッキが盛大な音を立てて砕け散った。
 異変を嗅ぎつけたのか、けたたましい非常警報が鳴り渡る。
 令はもう形振り構わず駆け出した。門をひとっ飛びすると、少し離れたところに停めてあった車の後部座席に千日を放り込む。
「ど、どどどどうすんの」
「どうするって、逃げるに決まってんだろ。しっかり掴まっとけよ」
 たちまちエンジンが掛かり、アクセルが踏まれる。千日は額を運転席にしたたかにぶつけたが、口を開いたら舌を噛みそうになったので固く唇を引き結んだまま背後を振り返った。
 目視可能なだけでも、二台の車が猛然と追いかけて来ているのが見える。
 令はというとハリウッド映画ばりの逃走劇を繰り広げているが、中々追手を振り切ることが出来ない。
 千日ははらはらと逐一車間距離を確認しては、青くなったり安堵したりを繰り返した。その横で、令は携帯で配下の鬼らしき人物に連絡を取っている。十五分もしないうちに夜鬼が数十頭も駆けつけて来て、追っ手の戦闘員と派手にやり合い始めた。
 しかし夜鬼の健闘むなしく、パトカーのサイレンの音まで聞こえてきた。研究所では千日が居なくなったことがもう公になっただろう。七福神の仲間たちも千日の捜索・奪還に駆り出されたに違いない。千日の存在を世間に公表した今、研究所は――否、政府は千日一人のために検問を張るどころか警察の特殊部隊すら動かすことを躊躇わないはずだった。
「千日。悪いんだけど、助手席、来れる?」
「うん」
 思いのほか、張りつめた声が出た。
 大通りのずっと先に、装甲車の列が出来ているのが見える。背後には追手の車。脇道も封鎖されている。このまま車でこの障壁を突破することは不可能だ。
「出来れば、俺にしがみついてくれるとありがたいんだけど。出来る?」
 こんな状況でも、どこかからかい混じりに令の声が響いた。
「あんた、ちょっとは真面目にやんなさいよ」
 千日は悪態を吐きつつも、一も二もなく令に手を回してその首に噛りついた。
 車が急ブレーキを掛けて止まる。制服姿の人という人が、車体に群がって来る。令はフロントガラスを蹴破ると、そのまま星屑の煌めく空に舞い上がった。ビルの屋上に着地すると、幅跳びの要領で、ビルからビルへと飛び移っていく。
 並大抵のヒトでは、鬼のこの身体能力には付いて来れない。だが、ヒトはいかんせん数で令を圧倒しすぎていた。各所に潜むスナイパーの要撃を巧みに避け、行く手を阻むヒトに夜鬼を差し向けていた令の動きが鈍る。
「ま、さすがに一人で足止めは無理か」
 呟いた令が見据えたビルの延長線上には、月光に照らされた人影があった。


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