鬼の血脈 夜明けの代償[八]



「お姫様をさらう盗人にしては、少し華に欠けるんじゃないかな」
「九重さん!?」
 千日が叫ぶと、九重は軽く会釈して見せた。しかしその視線はすぐに令と引き合う。その姿はまるで鏡合わせのように千日の瞳に映った。
「あいにく、鬼は年中人手不足なんでね。でもなかなか堂に入ったナイトぶりだろ?」
「残念ながら、姫はこちら側だ。騎士の数は間にあっている」
 言うなり、九重がビルの向かい側から走って来る。その手に握られているのは刀だ。九重が刀を手にしているところなど初めて見た。令も、鞘から刀を抜き払う。二、三度切りつけ合うと、九重も令も後方に大きく跳んだ。それから、令は何かに気づいたように頭をもたげた。舌打ちをするやいなや、どこか白々しい溜め息を吐く。
「あんたもかよ。まさか全員、お出ましとかいうオチじゃねーだろうな」
 そう令が悪態を吐いたかと思うと、千日の耳に妙に軽快な着地音が届いた。下駄の歯が地面に擦れる音。千日も何度も耳にしている音だ。
「ちびっこたちは研究所で仲良くおねんねしてるよ。催眠ガスばらまいたあの子もな」
 九重に並び立ったのは、案の定疲れた様子を隠そうともしない三船だった。
「催眠ガス?」
 胡乱げに眉根を寄せると、三船は首を巡らして千日をひたと捉えた。
「そ。そこの兄ちゃんと綿貫さんちのお嬢さんはグルだったってわけだ。今はまた研究棟にぶちこまれてるよ」
「……嘘。何で凌ちゃんがそんなこと――」
「それはともかく、だ。天女様」
 急速に様々な思いを巡らせ始めた千日を、三船が引き戻す。
「どちらにつく? そのまま、りっちゃんの片割れについていくつもりなら、俺たちも考えを改めなけりゃいけない」
 三船は、千日が自ら令の誘い文句に乗ったことなどお見通しらしい。
 その意味がわからぬほど千日も馬鹿ではない。三船は一族の生き残りを懸けて鬼を捨て、九重は唯香を想って鬼を捨てた。今や、二人は鬼でありながら、鬼狩りの主を持つ。鬼狩りは、ヒトは、千日を手に入れたい。
 深更の中でなお、三船の瞳は底なしの沼のように闇より深い色をしていた。
「……あたしは、会いに行くだけ。必ず戻る。約束する」
「千日ちゃんがそのつもりでも、連中は違う。凌ちゃんまで動いたことを考えると、千夜姫はもう長くないようだね。今度こそ、連中は君を手放さない。君は優しい子だ。千夜姫が遺言を残したとして、それを反故に出来るかな。連中は君に無理強いすることは出来ない。けれど、君だけが連中を、あるいは連中の心を掬い上げることが出来る。だけどそうなれば、無用な争いが生じる。君は鬼を力で従えることに躊躇いがあるようだけれど、君が連中を統制してヒトに下れば、命が無駄に散ることはない」
 九重の言葉は、まるで水のように千日の身体に馴染んで、一瞬でも気を抜けばそちら側に流されてしまいそうになる。千日も、その可能性を考えなかったわけではない。認めるのは癪だが、確かに千夜と出逢って以来、千日の心はずっとヒトと鬼の間で揺れ動いていた。九重や三船にそれがわからないはずがなかったのだ。
 しかしその危険を冒してでも、千夜に逢いたいと思った。千日の唯一の生存する血縁者であり、病床に伏せりながらも誰より鬼のことを憂う鬼姫。大輪の花さえ霞むような美貌をもちながらも、その顔が晴れやかに微笑んだことはきっとほとんどなかっただろう。血縁であるせいなのか、その儚い身の上がそうするのかはわからない。けれど千日は確かに、彼女に惹き寄せられている。まるで決して手に入れられない星を恋うように、千日は彼女を見上げている。斜陽の種族の女王は、憐れとさえ見えるのに、千日は彼女に大きな夢を見た。大切なものを守りたいという気持ちは、脆く儚いが、何よりも強い輝きを持って千日の前に立ち現れた。光の射さない凍てついた一間で横たわりながら、彼女は眩しく千日の瞳に焼きついた。
「ったく、相変わらず、そういう陰湿な論調がお得意だな、あんたは」
 唾を吐いて、千日の代わりに令が応じる。
「君は相変わらず、下品だ」
「あんた、女口説く時も、そんな畳みかけるように、グチグチネチネチ言ってんの?」
「あいにく、君に僕の女性に対する振る舞いを意見される謂れはない」
 兄弟喧嘩を始めた九重と令を視界から追いやって、千日は三船を見据えた。
「あたしは、やっぱり自分がヒトであることを捨てられないし、捨てようとは思わない。それからあたしは、おっさんや九重さんや、皆を仲間だと思ってる。これからもずっと。だから、あたしが鬼を従えてヒトに牙を剥くことは絶対にない。お願い。今だけは見逃して」
 三船は小さく笑った。どこか歪な、ひしゃげた笑みだった。
「千日ちゃん。俺たちは、――長く待ちすぎた」
 三船は言うなり、抜刀した。千日は目を瞠ると同時に、令に手をつながれる。
「ぎゃ!」
「ぎゃ、じゃねーよ! 鬼師格二人も相手にすんのは無理なの。逃げるしかないでしょ。それと千日、あの稀代の鬼姫の産んだじゃじゃ馬なら、こんな距離跳ぶくらいお手の物、だろ」
 お手の物、のところで令が左足を踏み切った。今や令の脚は、宙を翔けている。踏みとどまろうと後ろに体重をかけた千日も、令が前に飛び出してしまった反動で、宙に放り出された。誰かに抱きかかえられていたなら、まだ安心できた。しかし、自分を支えるのが自分といつ解けるかわかったものではない右手の先のつながりでは心もとない。しかも、動転していたので、地面を上手く踏み切ることが出来なかった。まるでつんのめったような態勢で、しかしどうにか千日は隣のビルに着地する。
 千日は半狂乱状態で、満足そうな顔をして見下ろしてくる令を睨み上げた。
「あ、あ、あんたねぇ! 死ぬかと――」
「お喋りしてる暇はねーの。ほら、一人で跳べるようになるまでおてて繋いどいてあげるから、ちゃっちゃと走りな」
 令が後ろを振り返ることもなく走り出した。つられて、千日も走り出す。七福神の仲間の登場により止んでいた銃撃も再開される。千日と密着しなくなったぶん、令はずっと照準を定められやすくなった。そのことを呼吸の合間に指摘すると、令はほんのり口角を上げた。
「あんたは一人で歩いて行けるようになんなきゃいけないわけよ。俺の教育はスパルタ式なの」
 風に掻き消されそうな声だった。千日は何となく、今もし追っ手もなく、手も繋いでいなかったら、令に頭を小突かれただろうな、と思った。
 令の足は疲れを知らず、一心不乱に駆け続けた。令の足は、九重や三船より速かった。剣の腕はいまいちらしいが、今はその足が何より千日の武器となった。千日も全力疾走をしているけれど、驚くほど疲れない。若しかすると、これまでの地道な特訓の成果が出たのかもしれない。それとも高天原の血脈が、やっと開花したのだろうか。どちらでも良い。ただ今は、追っ手に捕まることなく、千夜の元に辿りつくことが重要なのだ。
 宙を翔けることにも慣れて来て、やがて千日は令の手も必要ないほどに、上手く跳べるようになってきた。それでも、繋がれた手を、千日が離すことはなかった。
 そんな折だった。
 ――千日の前を行く令の身体が、不自然に跳ねた。何かが砕けるような音が響いて、赤い色が飛び散った。コンクリートの上を、何か硬いものの転がる音がする。
 令がたたらを踏んで前方に傾く。千日は硬直した身体に無理やりねじを巻いて、令の正面まで駆け寄った。
 ずしりと重たい身体が倒れ込んでくる。千日は自分もその重みでひっくり返りそうになるのを、歯を食いしばって押しとどめた。千日のパーカーの胸のあたりが、じわりと赤黒く染まる。
 荒い息が、千日の項にかかった。
「令!」
 令の身体をぐっと支えて、傷口を確認しようと千日が顔をずらす。
「良い。構うな」
「構うなってあんた、身体に穴開いてんのよ!」
 向こうに転がった弾薬を指差して、千日が叫ぶ。
「止まってる場合じゃないっての。ほら、うちのクソ兄貴どもが追いついてくんぞ」
 傷口を抑えつけて、令が笑う。千日は令の背後を一瞥すると、唇を噛んだ。
「んなしょっぱい顔してんじゃねーよ。俺は、こんくらいじゃ死なないの。それとも、あのクソ陰湿な狙撃手どもの攻撃に怖気づいちゃったりした? 抱っこしてやろうか」
「……要らないわよ」
 千日は呟くと、手を差し出した。令が微笑って、その手に血に塗れていない方の手を重ねた。
 令は、何事もなかったかのように走り出した。
 しかし先ほどとは変わって、千日の足は若干スピードを緩めて走っている。
 息遣いも荒い。いくら鬼とは言え、辛くないはずがない。痛くないはずがない。けれど、令の気遣いを無下にするわけにはいかない。捕まるわけには、いかないのだ。
 それから三十分ほど、走り続けた。千日は、走りながら泣いていた。令が泣いていないのに泣くわけにはいかないと思いながらも、どうしても涙はとどまることを知らなかった。しかし、その瞳は真っ直ぐに前を向いていた。千日は、令より夜目が利く。狙撃手を視界にとらえては、その位置を口頭で令に伝えた。
「なあ、千日」
 疾走を続けたまま、不意に令が呟いたのは、前方に特殊部隊の大群が見えたころだった。線路向こうに、数十人の銃を構えた人々と装甲車、そしてそれらと圧倒的不利の状況で戦う夜鬼十数頭が見える。しかし線路よりこちら側で令を狙うスナイパーは既にほとんどが攻撃を封じられていた。この辺りは夜鬼が制圧したらしい。勿論、夜鬼の被害も尋常ではなかったけれども。
「耳かっぽじって、よーく聞けよ。ここからずっと線路に沿って北に向かえば、小さい山がある。そこを越えて、ずっと西に行くと、鬼のテリトリーだ。あそこまで辿り着けば、俺の仲間があんたのことを命に代えても守ってくれる」
「な……に、何、言ってんの?」
「今、言った通りだっつの。ほんと、あんた馬鹿だな。俺はここに残ってあいつら蹴散らしてくるっつってんの」
「だから、何言ってんのって言ってるんでしょ! 何で残る必要があんのよ! あんた、あんまり腕っ節に自信ないみたいなこと、散々言ってたじゃない!」
「お荷物抱えて走るより、あんた一人で走る方がずっと速い」
 静かに落ちた言葉に、千日は息が止まりそうになった。
「千日の能力は目覚めたばかりみたいだけどな、高天原の血は伊達じゃない。もうあんたは一人で走れる」
 令の指が、千日の手からほどけ落ちる。だが、千日はその手を離さなかった。
「あたしにあんたを残して先行けって言うの!? ふざけんじゃないわよ! あんた怪我してるし、あんなおっかない武器持った人が居るし、おっさんも九重さんも追いかけて来てる。あんた、冗談じゃなく、し――」
「てめえこそ、ふざけてんじゃねぇぞ! てめえは、高天原の姫位継承者なんだよ!」
 あと五百メートルほどで踏み切りを跨ごうかというところで、令が立ち止まった。
 血塗れの手が、千日の胸倉を掴む。ツンと香ったのは、生と死の混沌じみた生々しい臭いだった。
 千日の半端に開いた唇が、ゆっくりと閉じられる。有無を言わさない圧倒的な迫力でもって、令の言葉は千日の胸を刺し貫いた。
「あんたが何を選ぼうと、あんたはこれからずっと、鬼の血を見ていかなけりゃいけない。あんたを守るために流される血であろうと、あんたが命じて戦いその結果流される血であろうと、それは一人の鬼の血に他ならない。良いか。千夜姫は、そんな鬼たちの血を沢山被って、生きてこられた。そして鬼の血がこれ以上流されることがないようにといつだって心を砕かれてきた。あんたはその血脈をひく者。鬼の血を被り、鬼の血に塗れ、生きていくさだめを背負った者だ。あんたは、半分ヒトの血を引いてるかもしれない。ヒトの世界で育ってきたかもしれない。けど、あんたは選んだ。千夜姫の元に行くなら、相応の覚悟で臨め。でないと俺は、迅ほどじゃねーけど、あんたを赦せない」
 真っ直ぐに下ろされた瞳が、くしゃりと歪む。
「なんて偉そうなこと言っても、ぶっちゃけ、俺はあんたをちょっとばかり利用した。クソ兄貴の言うとおりだよ。あんたのその馬鹿なところにつけ込んだ――後悔してるか?」
 千日はどこか不甲斐なく笑った令を強く見返した。
「してない。あたしは後悔なんて、しない。だって――」
 だって、の後に続けるつもりだった言葉は、声になる前に霧散した。令にちゃんと間違いなくこの思いが伝わるようにと張り上げた声も、感情の揺らぎを隠せず震えてしまった。
 令が、口の端を上げて、千日の頭を小突いた。
「俺には、あんたが選ぶものが何なのか、わかるような気がするよ」
 瞬きをした千日の濡れた睫毛に触れるか触れないかの口づけを落として、令は千日の手を今度こそ離した。追いすがるように伸ばした手を、千日はぐっと握り込む。
「行きな、次期鬼姫」
 令は、色々なものを我慢して力を入れているせいでひどく不細工な顔をした千日にそう囁くと、背中を向けた。あと十秒もすれば、九重と三船が追いつく。わかっているのに、千日はその血に濡れた背中を掴みそうになった。
「ああそうだ、千日」
 思い出したように、令が振り返る。
 その顔はひどく穏やかで、今から死戦に挑もうとする者の顔とは到底思えなかった。いつもより、少し幼い印象のする笑みを浮かべて、令が呟く。
「あんたの下で鬼師務めんの、俺、わりと楽しみにしてたんだぜ?」
「……馬鹿。そんなこと、過去形で言わないでよ」
 涙腺が決壊して、ますます千夜の美貌から遠のいた顔を隠すように、千日は令に背を向けた。令が走り出すより一歩早く、千日は駆けだした。
 後ろで九重と三船が二手に別れる気配がしたが、千日は振り向かなかった。
 月明かりに照らされて、千日は飛ぶように走る。カン、と下駄の歯の音が迫って来る。どうやら、千日を追って来たのは三船らしい。三船を撒くことは叶わなさそうだが、追いつかれる心配はなさそうだ。
「千日ちゃん」
 風に擦り切られて覚束なくなった三船の声が耳に届いた。
「所長から、千日ちゃんへの発砲許可が下りた」
 さすがにその言葉には、千日も動揺した。見れば、行く手に狙撃手の姿がちらほらと見える。
 しかし、それも考えられないことではない。
 千日はおそらく、腹に穴が一つや二つ開いたところで、数時間もすれば完治してしまう。ヒトが千日を喪うことは大きすぎる損失だ。鬼はヒトにとって、得がたい武器であり、脅威である。千日を死なない程度に痛めつけて生け捕りにすることなど、些細な選択に過ぎない。
 彗星が落ちるような音が、千日の鼓膜をたわませた。
 全身の毛を逆立てた猫のように、千日の全身が強張る。千日は肩を抉ろうとしてきた闇夜に紛れた弾丸の軌道から、ぎりぎりのところで逸れた。しかし焼けるような痛みが、二の腕を僅かに掠めた。
(……何が、死なない、よ)
 血の滲んだパーカーの肩の部分をぐっと握り込み、千日は唇を噛んだ。
 いくら鬼が頑丈だと言ったところで、こんなに痛いのだ。きっと令はもっとずっと痛かった。鬼たちは皆、こんなものとは比べ物にならないほどの痛みを抱えて、それでもひた走るのだ。令のように。
「千日ちゃん、俺は、これ以上誰かが無意味に傷つくのは、見たくない」
 だから、三船の血を吐くような祈りめいた叫びは、痛いほどに理解できた。
 千日が鬼たちの心を殺して、彼らの命だけを繋ぎとめれば、そこに血は流れない。たとえ、彼らの心が一生塞がることのない傷を負って、血を流し続けたとしても。
 ここで千日が足を止めれば、おそらく救える命はあるだろう。――それでも。
 地面を強く蹴るのと同時に、二発目が脇腹を抉るのを感じた。
 宙が回る。地上を離れた千日の足は、ビルの屋上のコンクリートの感触を確かめることなく、勢いづいて地面に落ちて行く。よくよく見てみれば、ビル街は深夜にもかかわらず、にわかに活気づいていた。おそらく騒ぎを聞きつけた野次馬だろう。このまま千日が姿を晒せば、大混乱は免れない。
 すぐさま着地して、三船や狙撃手の目をくぐり、高天原邸を目指さなければならない。
 幸い、大きな音を立てることなく、千日の身体は路地裏に着地した。
 人々の目が乱闘を繰り広げているであろう、令や特殊部隊の面々の方に向いていなければ、こうはいかなかっただろう。
 しかし――。着地時の衝撃が響いたのか、肩と脇腹がひどく痛んだ。今すぐどうにかなるほどの状態ではないが、この体で三船や狙撃手を相手取るのは難しいだろう。
 思えば、こうして独りになったのは、両親が他界して以来だった。
「次期鬼姫、か」
 低く呻いて、走り出そうとした千日の身体は廃屋の中に引っ張り込まれて転倒した。
「ッ――」
 痛みと動揺のせいで顰められた千日の顔が白っぽい光に照らされる。携帯の液晶画面の光だった。
「大丈夫? 千日」
 張りつめられたその声音に目を瞠り、千日は顔を仰向けた。
「――咲穂!」
 思わず張り上げた声に、咲穂は唇の前に人差し指を当てて静かにするように促した。それから緩く目尻が下げられる。一条高校襲撃事件前と何ら変わらない親友の顔が、そこにはあった。


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