鬼の血脈 夜明けの代償[九]



 病気がちだった母が産気づいた時、屋敷の外には色褪せた落葉が時期尚早な粉雪と共に舞っていたという。
 その集落は、山の神と人が交わる丁度境の、山裾にあった。山を一つ越えると、紅葉の頃には湖面にその艶やかな彩りを映し出す深い青の色をしたカルデラ湖が広がり、耳を澄ませば谷間を伝う渓流のせせらぎが聞こえてくる。そんな自然豊かな大地の鳴動を肌で感じられる場所で、彼は一足遅れて息吹を吹き込まれた弟と共に命の祝福を受けた。彼は律と名づけられ、双子の弟は、令と名づけられた。九重家待望の、家督を継ぐことになるであろう男児の誕生であった。
 その頃、九重の父は鬼姫に就任して間もない高天原千里に掛かりきりで、ほとんど家を空けていたが、長男の誕生には喜び勇んで帰って来た。九重家は、慣習として当主を男しか認めていない。父の喜びようは想像に難くないというものだ。
 そして、父は物心もつく前から兄と弟への接し方に明確な線引きをした。母を独占し、多忙で滅多に姿を見せない父に直接剣の稽古をつけてもらえるのは兄の方で、母に似て身体が弱く病気がちな弟は、離れに隔離されるような形で、本家の血をひく者とは思えない扱いを受けて育った。一族で次期当主を巡る争いを起こさないための策であったが、幼い兄弟には酷というほかない処置だった。
 案の定、令は歳を三つ数える頃には九重を疎み始め、九重もまた令との接し方に気を揉んだ。
 兄と弟は、広い屋敷の中でほとんど顔を合わせることはなかった。
 九重家に、否、あらゆる鬼に衝撃が走ったのは、兄弟が七歳の誕生日を迎えて間もない頃だった。当時十九歳であった稀代の鬼姫・千里が、鬼狩り一門の狗馮が嫡男、一斗と駆け落ちをしたというのである。その頃、鬼と人は久々の大規模な抗争をしている最中であり、まさか大将たる鬼姫が自ら舞台を降りるなど、ましてやヒトと添い遂げようなどとはあってはならないことだった。
 高天原は、千里の妹を鬼姫の座に据えた。思えばその頃から、父の高天原への不信は始まっていたのかもしれない。
 世紀の大事件を経て、ますます父は家に帰って来なくなった。
 八つの頃になると、九重は母や本家や分家の者たちの目を盗んで、集落を抜け出すようになった。それを何度か繰り返したある日の暮れ方、九重は沢の下流にある小さな村で、一人の小さなヒトの女の子と出会った。ヒトの残忍さを繰り返し説かれて育った九重は、初めは少女を警戒した。しかし、そんな気もすぐに薄れた。少女は九重どころか蟻一匹殺せなさそうなほど、非力だった。
 九重は、都会から引っ越して来たとかで村に馴染めずめそめそ泣いてばかりいたその少女とままごとやあやとりをしたりして遊んだ。広くて狭い屋敷で勉強か稽古しかしてこなかった九重には、同年代の子供と遊ぶだなんてことは初めてのことで、楽しくて仕方なかった。少女は、名を唯香と名乗った。
 そうして唯香と交流を深めてゆくにつれ、九重の中に不審が堆積していくようになった。唯香が時たま、まるで九重が知らない出来事を、二人の思い出のように語るようになったのである。昨日の紅葉狩りは楽しかっただとか、この前は村のいじめっ子から守ってくれてありがとうだとか、そんな類の話だった。初めは訳が分からなかったが、屋敷で久方ぶりに弟の姿を見かけて合点がいった。小さな頃は、全くそうとは思わなかったが、兄と弟は容姿が似すぎていた。まるで合わせ鏡のようなその姿を目にした時、令が自分に成り済まして唯香と会っているのだと確信した。そしてその瞬間、抗いがたい怒りの奔流が押し寄せた。気がついた時には、我を忘れて令を殴りつけていた。その際、令は一切の抵抗もせずに虚ろな瞳を向けているだけだった。令は唇を切ったせいでだらだらと血を流していたが、約半年振りに帰郷した父が理由さえ尋ねずに兄弟喧嘩を仲裁した方法もまた、令を殴打することだった。
 その頃、九重は慢心していた。その幼い身体に一心に受ける寵に、酔いしれていた。そして同時に、同じ顔を持ち、行動が制限されているとはいえ屋敷をうろつき、唯一心を許せる唯香に近づいた令を烈しく憎んだ。
 本当はいつ、偽物たる令に本物たる自分の居場所を奪われるか不安で仕方なかったのだと今は思う。九重はその頃にはもう、自分の居場所を喪わないために、人に嫌われることを極端に恐れるようになっていた。誰からも好かれようと尻尾を振る様は、滑稽でさえあった。
 それからぱったり、令が唯香を訪れることはなくなった。
 しかし、半年ほど経った地域の祭りの夜に、九重は唯香に令のことを尋ねられた。その時の衝撃は今でも鮮やかに思い出せる。唯香は兄弟を見分けていた。屋敷の者でも、実の親でも、口を利かなければその違いを見分けることが出来ない瓜二つの双子を、だ。屋敷の者は普段、装いの格の違いで双子を見分けていたが、唯香がそんなことを知る由もない。後から聞いた話だが、令は、唯香の前ではまるで九重のように振る舞っていたということだ。初めて令を九重ではないと見抜いた時、令は唯香に兄には黙っていてくれるよう頼んだ。それを唯香は了承して黙っていたのに、令は姿を見せなくなってしまった。唯香はそう言って泣いた。
「りっちゃんはれーちゃんのこときらいなの?」
 そう問われた時、嫌いだと返しそうになるのを抑えて、苦い思いを飲み下して令を迎えに戻った。思えば、あの時がまともに令と会話した初めての日だったかもしれない。
 唯香を挟んでまで喧嘩をするわけにもいかなかったので、九重は令も交えて遊ぶようになった。そして唯香の尽力の甲斐もあって、令とも次第に打ち解けるようになっていった。しかし、いつだって自分は令の存在に怯えていたように思う。そして令からも、あの虚ろな光が消えることはなかった。そんな令を見るにつけ、九重の中で、これまでとは違う令への怒りが顔を出すようになった。不満も憎しみも嘆きも見せずに、ただ九重を見つめ返す全てを諦めたような瞳が気に喰わない。令が反旗を翻すのを誰より恐れながら、それをする気配さえ見せずに理不尽を受け入れるその心が、理解しがたくて苛立ちが募っていく。これなら昔のように、疎まれていた方が楽だったとさえ思った。九重のエゴの具現たる令には、多分、心の底から嫌って欲しかったのだと思う。人に好かれた分だけ、令には嫌って欲しかった。そうでなければ、不条理すぎる。それもまた、令への同情がないではなかったが、己の罪悪感を薄めるための自分勝手な願いにすぎなかった。
 兄弟と唯香の関係に変化が訪れたのは、八年前のことだ。鬼狩りにより、高天原が粛清を受けたその日、筆頭四家である九重家もまた鬼狩りの襲撃を受けた。その際、九重配下の下級鬼たちが暴走して近隣の村の人間を襲い、唯香は家族を喪った。ヒトを殺したのは、その時が初めてのことだった。瀕死の唯香を救ったのは令で、九重もまた彼に救われた、、、、。膠着状態が続いた兄弟の関係に、絡まった糸をほぐすようなゆるやかな変化を与えることになる夜だった。そしてその時兄弟の秘密は唯香に露見した。つまり、兄弟と唯香は種族が違うという事実だ。唯香は混乱の中で鬼狩り側に引き取られ、一年後に千里とその妹は死んだ。千里の妹の子である千夜が鬼姫を継ぎ、その世代交代の中で、九重も父から鬼師の座を継承することになっていた。
 そして大打撃を負ったはずの九重家が鬼狩りとの間に密約を結んだのもその時のことだった。内容は、当時はまだ夢物語だとてんで相手にされていなかった七福神計画の一枠に、九重の正統な血を引く鬼が収まること。これにより、九重本家の鬼は、鬼がヒトに屈した後もその生命の尊厳を奪われずにヒト社会に混じって生きてゆく権利を得た。ただし狡賢い狸である九重の父は、もしも鬼が勝機を見出せば、その密約をも反故にして鬼側につく所存であった。もっとも、その頃から、鬼とヒトの戦いの末に生き残る種族は明白だったけれども。
 要は、九重家には何の思想もないということだった。本家の家族が命を繋ぎとめる未来の獲得のために、生きようとした。だから、ヒトに加担する本家の者は、自ずと切り捨て可能な者が選出されることとなった。言うまでもない、初め、七福神に指名されたのは、兄ではなく弟だった。
 九重が定められた道から逸れたのは、己の意志によるものだった。
 九重は、令がその一翼を担うとされていた七福神計画に当初の予定を翻して加わることとなった。
 ただし、父や七福神や鬼狩りの者たちに話した理由が原因ではない。それがわかっているのは多分、己と令と唯香くらいのものだろう。父はさすがに長兄が恋情に身を任せて筆頭四家・九重家の箱庭を飛び出したとは思っていないだろうが、ほとんどの者は九重が語る動機に疑いの目を向けることはなかった。
 そう、まともに言葉を交わしたことなど数えるほどしかない令は、九重の語る動機に真っ向から反論してみせた。九重は、何故令があれほど兄の気まぐれに食ってかかって来たのか未だにわからないでいる。得体の知れないヒトの群れの中で生きて行くより、適当に鬼姫を守って単調な日々を送れば良い鬼師の生活の方が、余程生きやすいだろうに。九重家本家の血をひく令は、鬼狩りが千夜の首級を取ってもその身の安全は保障される。ヒトの勝利がほとんど決まった今、形式上、敵味方と別れるだけで、その行く末は変わらない。そう令を諭したのは、一度や二度ではない。九重が七福神の一員として活動を始めてからも、彼は何かと絡んできた。
 だというのに、令はいつの間にか負けるとわかっている千夜に偽りではなく真実の忠誠を捧げてしまった。九重が理由を尋ねても、もっともらしい返事は返って来なかった。
 命を懸ける仕事など適当な理由をつくって避ければ良いのに、令は千日に二度も接触を試みた。そして今度は、千日を逃がすために自ら死地に赴こうとしている。
「令!」
 嗄れかけた声が、線路の向こうに消えた背中を追いかける。九重の耳が、乱射された銃弾の重奏を捉えた。いくつかを被弾した令の身体がわずかに跳ねる。しかし令は、臆することなくヒトの群れに特攻していった。
「令、やめろ!」
 久しぶりに腹の底から叫んだ声は、虚しく夜空に吸い込まれていく。
 昔、九重に一度も追いつけなかった病弱で華奢だった令の足は、いつの頃からか兄に追いつき、今ではこちらの方が追いつけなくなってしまった。こんなことなら、ヒトに学んだ医学で令の身体を治してなんてやらなければ良かった。令の代わりに七福神入りを志願したりなんてしなければ良かった。
 九重は、弟が好きではない。
 けれど、死んでほしいと思うほど、嫌ってなどいないのだ。
「令、頼むから、……!!」
 令の身体は、さながら風のように夜の闇の中を舞い、装甲車の影に沈み込む。ヒトビトの肉と骨の砕ける音が、敏感になった鼓膜を蝕む。令は、あの隊を壊滅させる気だろう。あのまま特殊部隊を野放しにしておけば、高天原の里まで侵入される恐れがあった。恐らく、高天原の姫は、今日明日にでも天命が尽きる。何故か千夜の心酔者となった令が、そんな大事な時期にヒトの群れを高天原に連れ帰るような事態を静観するはずがない。
「令!」
 我を忘れて、九重は令ではなく特殊部隊の方に攻撃を仕掛けようと抜刀した。その、まるで剣を習い始めて間もない初心者のように妙に力んだ腕を、掴み上げる手があった。
「律」
 九重の瞳が大きく見開かれる。しかし結局、九重が踏み出した足を戻すことはなかった。代わりに、
「離してください!」
 荒い声が、荒んだ瞳が、肩で息をする雉門に向く。目に沁みたらしい汗をもう片方のシャツの袖でぞんざいに拭ってますます九重の腕を強く掴んだ雉門の様子からは、急いでここまで駆けつけて来たであろうことが容易に知れた。
「お前さんの役目は何だ。九重律」
「でも、令が――! 令が、」
 吐き出した声が震える。令が本来の九重家の意向に従って、最終的にヒトに与するように行動していたのなら、たとえ多少ヒトと刃を交えることがあっても赦されただろう。令は、鬼師格の上級鬼だ。神屋も出来るだけ多くの上級鬼を殺さずに千日の配下に入れようと思っている。けれど令がしているのは、完全な背信行為だ。ヒトの虐殺までした鬼を、神屋も、ここにいる大勢のヒトビトも赦さない。
 ひと際盛大な爆音が轟いた。装甲車に搭載された戦車砲が火を噴いたのだ。砲弾は、令の肩を砕いた。それでも、令の勢いは衰えず、辺りには歩兵の屍が積み上がっていく。
「令! やめろ!!」
 九重の懇願は、おそらく令に届いているだろう。しかし、令がそれに耳を貸す様子はなかった。それに、今更やめたところで、生き残ったヒトが何人か助かるだけだ。令の運命はもう変わらない。ヒトに牙を向いた鬼は、生きてはいけない。それが分かっているから、九重自身も今ここに七福神の一員として存在するのだ。
「律。俺はお前さんまで手に掛けたくない。それに、お前さんは家を背負っている。それも筆頭四家だ。お前さんの行動は、最も重く作用する。そうだろう」
「いえ……? は、あんな家――!」
 嗤った声は、どす黒く染まって、しかし九重自身を貫いた。雉門へと下ろした視線が揺らいで、ついには瞼が落ちていく。
「……すみませんでした。もう、大丈夫です」
 きつく閉じられた目を見開いた時にはもう、雉門の手は九重から離されていた。
 九重は、屍の向こうにかろうじて立っている令の姿を認めた。今度は言葉もなく、九重の足が疾走を始める。揺れる視界の中で、令の身体が突如として傾いだ。
 戦場にはもう、誰一人として立っている者は居なかった。静まり返ったビル街の中で、九重の足音だけが鮮やかだ。
 やがて九重は、破壊された装甲車に凭れた令の元に辿り着いた。
「とどめでも……刺しに来たのかよ」
 ひゅうと細い息を吐き出しながら、弟の声が妙に懐かしく九重の鼓膜を震わせた。
「……君は馬鹿だ」
「んなこと、わかってるっつーの。兄貴には、言われたくねーけどな」
 まるで嫌みのない笑い声が、九重を苛立たせる。何もかも受け入れたような瞳は、曇りなく、顔中を返り血に染めているというのにこの上なく澄んだ色をしていた。
「――んで。何で、父上の命に背いた?」
 ぐっと握り拳に力を込めて、九重はともすれば弟より不自由になった唇を動かした。
「なんつーの、姫様はさ、本当に俺たちのことを守ろうとしてくれているわけよ。あんな細くて折れちまいそうな身体でさ。そんな姿見てたら、どうにも情がわくのを抑えられなくなっちまったんだよな」
 馬鹿げてるだろ。そう言いながらも、令はどこか誇らしげに口の端を上げた。
 令は多分、時局に逆らってでも貫き通したい信念を見つけたのだろう。兄は未だ、そんな光明を見出せずに死んだように泥の中をもがき続けているというのに。
「俺にも教えてくれよ。何で、俺に鬼師の座を明け渡した?」
「……前にも、言った。それに今はそんなことは――」
「前に俺に言ったのは、お得意の嘘八百だろ。今だからだっての。俺には、これが最期だ。こんな時くらい、弟にデレてくれても良いんじゃねーの」
 茶化すように九重を仰いだ瞳は、まるで親しい兄弟に向けるそれじみて、一瞬初秋の夜の肌寒さが溶けて亡失した。
 しかし令の首から下が視界の隅でちらつくと、そんな久方ぶりの暖かみは引き波のように九重の中から消えていった。
 令はもう、助からない。
 令の元に辿り着いて一見して分かった。腹部の損傷が酷く、左の肩口から先が吹っ飛ばされて、本来ついているはずの腕がない。おそらく出血の量も相当なものだ。医師である九重でさえ目を覆いたくなる光景なのだから、令自身はもうほとんど夢でも見ている心地だろう。
 九重はおもむろに血の海の中に膝をつくと、令の残っている方の手の甲に、自らの手のひらを重ねた。もうほとんど感覚も残っていないだろうに、その瞬間令の手はぴくりと震えた。
「僕は君に、認められたかったんだと思う」
 ほとんど囁くように、九重は言いきった。
 それまで九重は、筆頭四家の長兄のために用意されたレールの上を、ただ余所見することすら許されずただ愚直に歩いてきた。勿論、父も母も、九重の能力を疑ったことはなかった。けれど、それでも九重が焦りを感じるほどには、双子の弟は脅威であった。それに、九重には八年前に令に救われた負い目がある。
 令が本来立つはずだった土壌で、令がするよりもっと上手く結果を残すことで、認められたかった。父に、母に、配下の鬼に、あるいは唯香に、何より、令に。
 様々な感情が目まぐるしく九重の中で蠢いているのを、令は兄が発したたった一言から正確に読み取ったようだった。
「何だそれ」
 とっておきの冗談を聞いたように、令はごく微弱にではあったが肩を揺らした。それから、九重の手のひらから這い出した指を弱弱しくも力強く兄のそれと絡み合わせた。
「ばーか。んなの、ずっと前から認めてるっての」
 一層浅くなった呼吸の継ぎ目に、平たい声が漏れ聞こえた。
 その瞬間、唇を噛み締めて堪えていたものが、思わずこぼれそうになった。
 今になってどうして、いつかはその存在を憎んだ相手をこれほど失いがたく思うのだろう。
「なあ、兄貴。そんな顔してると、俺のこと大好きみたいだぜ?」
「……当たり前だ。家族なんだから」
「またお得意の嘘かよ――でもまあ、あんたの嘘って、少なからず本当のところも込みだから」
 その言葉の裏に含意されたものを嗅ぎ取って、九重は抗議の声を上げようとした。
「でもあいにく、今のところはあいつの心は俺のもん」
 機先を制したひどく柔らかな声音はしかし、どこか挑戦的に九重の耳朶を掠めた。
 九重の瞳が、微かに瞠られる。弟が、幼馴染の女に関して何かを認めたのは、これが初めてのことだった。
「唯香が、好きなのか」
「あいつほど、馬鹿な奴はなかなかいねーもん」
「そう、言ってやれば良かったんだ。唯香がどんなに――」
「それ、そっくりそのまま返すよ。兄貴に」
 言い終わると、令は満足したように瞳を閉じた。
 呼吸するたび上下していた胸が、ほとんど動かなくなっている。九重と話している最中も、目の焦点が合っていなかった。
「令」
 自分でも驚くほど情けない声が、静寂に波紋を描いた。
 理性とは裏腹に、次に飛び出したのも、幼子でももう少しまともに思考するであろうと思えるような言葉だった。
「君を殺すヒトに、僕はへつらい続けるのか」
「んなもん、自分で決めやがれっての。せいぜい悩めよ」
 呆れたように、目を瞑ったまま令が呟く。次の瞬間、どこにそんな力が残っていたのかと思うほどの力で、手首を強く引かれた。
 令の顔に、九重の影が落ちる。しかし見開かれた瞳のそのぎらぎらした光は、その影など物ともしないように、凄みを帯びて九重を睨み上げた。
「俺は、俺の生きた道を、微塵も、後悔なんか、してねぇ」
 令が発した怒りのような叫びのような命がほとばしったような言葉を、九重はただ硬直して聴いていた。やがて、九重の手首を掴んでいた乱暴な力が落ちて消える。
「そこんところは、よく覚えとけ」
 再び妙に邪気のない笑顔を覗かせて、そして。命が、弾けた。
 九重は、もう永遠に動くことがなくなった弟の手を握りしめた。冷たい風が吹きつける中でなお、その手はぬくもりを残していた。
「……僕は、後悔ばかりしているよ。令」
 ぽつりとこぼした思いは、ついには誰の耳に入ることもなかった。


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