鬼の血脈 夜明けの代償[十]



 廃墟の中に身を潜めて、永遠にも思える時間を黙りこくって傷ついた身体の治癒にあてて過ごした。
 千日は初め、追っ手に見つかる恐怖と急いで千夜の元に向かわなければならないのにそうすることができない歯痒さを抱えて苛々と錆びた扉を睨みつけていたが、次第に傍で膝を抱えている咲穂の存在に頭を抱えるはめになった。何故こんなところに居るのかと尋ねようにも、千日が口を利こうとするたびに黙っているよう促されるので、なかなか本当のところがわからない。
 千日が鬼であることは、既に咲穂の知るところとなった。おそらくは、彼女に相当のトラウマを植え付けることをもって。
 卑屈になるつもりはなかったが、嫌悪されても仕方ないと半ば諦めていたのは本当だった。千日の存在が、あの平和そのものだった学校に災いをもたらした。無数の命を生贄に、鬼たちは千日のヒト社会での拠り所を奪おうとした。それを知らなかったで通すほど、無神経でなかったし、もう十分自身の存在の重さに気づいてしまった。
 咲穂は千日の傷や通りの様子を気にかけこそすれ、ヒトに引き渡すような素振りは見せていない。そんな風に咲穂を疑うのは気がひけたが、今や千日の身は千日一人のものではない。用心に用心を重ねずにはいられなかった。
 通りから響いてくる喧騒はだんだんとその息を潜めていき、追っ手が踏み込んでくる恐れはほとんどゼロに等しくなった。
「……どうして、こんなところに?」
 恐る恐る口を利いた千日に、咲穂は穏やかな深い笑みを浮かべた。
「私でも、千日の助けになれるかもしれないと思ったから」
 胸にそっと手をあてて、咲穂は一息にそう言った。
 途端に、千日の頬の筋肉がひきつる。
「助けってあんた……わかってるでしょ? 咲穂も、学校の皆も、あたしが居たせいで傷ついたんだよ? あたしが生きてること自体、咲穂には気持ち悪いだろうし。ニュースでもやってたでしょ。あたし、ヒトじゃないんだよ。化け物なの。見たでしょ。学校を襲った奴らと同類で……」
 ヒステリックに響いていた声が次第に萎んでいく。
 自らの言葉が、ナイフのように胸に突き刺さってずきずきと痛んで仕方がない。ヒトという枠に未だ固執しながら、千日はもう鬼である自分をはっきりと自覚している。そして、化け物でしかないと思っていたはずの鬼たちに浅からぬ情を抱いてしまっている。
「千日」
 咲穂の手が、千日の手を取った。血のこびりついた手が、咲穂の白い綺麗な手にくるまれる。
「千日は、何にも変わってないよ。中学のころからずっとね。誰かに寄りかかることが下手っぴで、時々すごく傷つきやすくて頑なで。千日が何者であっても、私にとって千日は千日だよ。今までだってこれからだって、千日は私の友達。私が一番大好きな、人一倍ど根性のある、頑張り屋の女の子」
 そこまで言うと、咲穂は気が抜けたように愁眉を開いた。
「良かった。ネットで研究所で騒ぎがあったっていう情報が回ってて、もしかしたらって思って来てみたら、千日が追われてるんだもん」
 咲穂は言うなり、座り込んだまま放心している千日の頭を控え目に小突いた。
「こら、私の話、ちゃんと聞いてた?」
「……聞いてたって、咲穂。だって――あたし、」
「だってじゃないの! ほらほら、ぐずぐずしてる暇はないんでしょう?」
 咲穂は勢いをつけて立ち上がると、ぐいと千日の手を引いた。反動で千日の曲げられていた膝も伸びる。
 咲穂は少し上の方に来た千日の目線に合わせるように顔を仰向けると、眩しそうに目を細めた。
「本当は、行かせたくないよ」
 咲穂は泣き笑いみたいなひしゃげた顔で、握り拳に力を込めた。
「こんな傷まで負って、一足跳びに大人になっちゃったみたいな顔して。私の手の届かないところに行っちゃったみたいで、寂しいし、怖い」
「さき――」
「でもね。千日が今、そんなに必死になって頑張ってることは、多分私には止められないし、私には千日を守るだけの力も何もない。悔しいけどね」
 咲穂は、どうやらこのまま千日を逃がすつもりらしい。研究所から抜け出すなど、ヒトに敵対する行為と取られてしかるべきなのに。
 そんな戸惑いが顔に現れていたのだろうか。咲穂は強く閃いた瞳を千日に向けた。
「千日は、私を傷つけないでしょう?」
 たまに取っ組み合いの喧嘩はするけどね。咲穂が、悪戯っぽく笑う。
 千日は瞠られた瞳がじわりと熱くなるのを感じた。この同い年の少女には、いつだって敵わない。簡単に千日の殻を破って、包み込んでしまう。
「馬鹿よ、あんた」
「お互いさまだもんね。そんな千日に私からとっておきのサプライズ」
 咲穂が自身の携帯電話を取り出して、耳元に当てる。しかしすぐに携帯は咲穂のトートバッグにしまわれた。おそらくワン切りだろう。
「千日、それ脱いで着替えて」
 代わりにトートバッグからいかにも咲穂好みのオフホワイトのブラウスと、かぎ編み風のポンチョ、それからもこっとしたバルーンシルエットのショートパンツが現れた。千日はしばしぱちくりとその咲穂の私物を眺めていたが、咲穂の妙な気迫に押されてのろのろとたくさんの血を吸った黒づくめの洋服を脱ぎ始めた。
 怪我の痛みもあって、もたもたしている千日にまるで母親のように咲穂がこぎれいな服を着せていく。とどめとばかりに、咲穂は千日にふわふわに巻かれたカツラを被せた。
 もしかしなくても、変装のつもりらしい。
 着替え終わったころ、通りの方からエンジン音が聞こえてきた。
 訳がわからない千日の背を、咲穂が押す。
 恐る恐る廃墟の扉を開けると、そこには一台のバイクがあった。その黒いボディに跨っているのは、ジェットタイプのヘルメットを被ってはいたものの、これまた懐かしい人物にどこか似ていた。
 放心している千日の手を取って、咲穂は彼の方に歩いて行く。
 目の前の人物の輪郭がはっきりしていくに従って、千日の戸惑いが泡のようにぶくぶく膨らんでついには弾けた。
 その千日の反応ももっともだろう。千日が最後に見た彼は、虚ろな空っぽの瞳で、世界を諦めていた。
「じゃーん。助っ人二号! こうちゃんでーす」
 場違いなほど明るい咲穂の声を振り向く。
「な、な、何で?」
 本人ではなく、咲穂に詰め寄った千日に、ヘルメットを脱いだ寺田浩輔こうすけが笑い混じりに応じる。
「俺も、藤原ふじはらと一緒だよ」
 中学時代から引きずってきた少年っぽさをしばらく会わないうちにすっかり脱ぎ捨てた男の声は、柔らかい。
「天財とダチだった奴はかなりの奴らが、天財のこと、信じてる」
 言うと、寺田は千日に赤い色をしたヘルメットを放って寄越した。
「まさかバイクに乗って堂々と行くとは、思わないだろ?」
「あ、千日。こうちゃん、ちゃんとバイクの免許持ってるから安心してね」
 寺田と咲穂が顔を見合わせて微笑み合う。その絡み合う視線が、どこまでもやさしい。
 千日は一目見て、彼らの関係に変化があったことを心得た。
「何よー。すっかりお熱くなっちゃって」
 千日が慣れないヘルメットを被ってから、唇を尖らせる。
「う……ごめん、千日にこうちゃんおすすめしたの、私なのに」
 本当に罪悪感を感じていそうな咲穂の額に、千日はデコピンした。
「何言ってんのよ。おめでと。あたしはあたしで――」
 千日は頭を振って言葉を切ると、バイクの後部座席に跨った。
「のろけはまた今度聞く。ありがとね、咲穂」
「うん……また今度、また今度ね、千日」
 千日の冷えた手を両手で包み込んで、咲穂が祈りめいた別れの言葉を口にする。
 後ろ髪を引かれるように、のろのろとバイクが唸り声を上げて走り出した。たたらを踏んで数歩駆け出した咲穂の姿をしっかりと目に焼き付け、千日は進行方向を向く。
 予想通り何度か検問や捜索隊と遭遇してひやりとすることはあったが、幸運なことに千日は捕まることなく高天原のテリトリー近くまでやって来た。
 バイクが加速をやめ、次第に流れていく景色のスピードがゆっくりになっていく。バイクが完全に停止すると、千日はバイクを降りた。ヘルメットを脱いで同じようにバイクから降りた寺田に渡す。
「ありがとう。助かった」
「いいや。礼なら今度、藤原に言ってくれよ。俺は……藤原が頑なに天財を信じようとしてなかったら、もしかしたら天財を研究所に突き出してたかもしれない」
 千日は驚かなかった。少し色褪せた笑みを浮かべて、頷く。
「それが普通。咲穂は良い奴すぎるから」
「でも、さっきも言ったように、俺だけじゃなくて天財のこと気にかけてる奴は、ほんとに結構居るんだぜ?」
「うん、ありがと」
 噛み締めるように千日が呟くと、寺田はバイクを押して身を翻した。
「あとさ」
 寺田が、千日とは正反対の方向を向いて、けれどもよく通る声を投げた。
「俺、天財のこと、好きだったよ」
 そこに恋情の熱はなく、ただ今は親愛のやさしさが千日に押し寄せた。
「うん、知ってる」
「だからさ、一応、かつて天財を好きだった男から忠告」
 振り向きざまに笑った顔は、やはり大人びている。伸びてきた腕が、千日の頭のカツラを取り去った。咲穂は良い男を捕まえたらしい。
「頑張りすぎんなよ」
「わかったわかった。寺田くんは、咲穂のこと、名前で呼んであげなよ。こうちゃん?」
 途端に寺田の顔が火を噴いたように、赤くなる。どうやら、ぞっこんのようだ。
「ちょ、おい」
「咲穂のこと、頼んだ」
 千日は淡く笑んだ。寺田の瞳が、ぶれる。
「待ってる。俺も、藤原も」
 千日は頷き、寺田に背を向けた。
 すぐそこに旧市街へと続く道が見える。古民家の張り出した柱の陰に人の気配を感じた。鋭敏になった感覚が震える。寺田を警戒している辺り、鬼だろう。
 千日は、躊躇わず一歩を踏み出した。瞬く間に音もせずに二つの人影が千日の足元に膝を突いて頭を垂れた。見覚えはなかったが、おそらく令の配下の鬼だろう。
「来たよ。連れて行って。あたしを、鬼姫の元へ」


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