鬼の血脈 夜明けの代償[十一]



 初めて高天原本邸の土を踏んだ時、春爛漫と咲き誇る桜に目を奪われたのを覚えている。淡く色づいた花々は柔らかく、どこか生彩に欠けた屋敷を包み込んでいた。それは今、秋の衣替えを経ることなく、木枯らしに吹かれて石段に落ち葉を溜めている。おそらく何日も掃かれていないのだろう。千日が足を運ぶそこここに踏み荒らされた朽ち葉があった。
 屋敷の面を固めている夜鬼や夕鬼に身を竦ませながらも、千日は迷わず玄関へと続く道を歩いた。見慣れぬ人物の登場で途端に強められる警戒と、緊張の糸が解ける鎖の連なりはしばらく続いて、それが途切れたのは千夜の眠る寝室の手前でのことだった。
 長身の男が、のろのろと足を引きずっている。その男を取り巻くように、びりびりと火薬が爆ぜるがごとく空気が震えていた。
 あてもなく徘徊をしていた男が、ゆらりと千日を振り返る。
 千日は、覚えず息を呑んだ。男の落ち窪んだ眼窩は、まるで死人のようだった。
 千日を捉えた男の瞳が歪みをきたした。大きな手が千日の喉に伸びる。しかしその指先は寸でのところで令の配下の鬼に遮られた。千日を守る二人のうち一人の皮膚が突き破られて、腱が建たれる生々しい音がした。ぼたぼたと廊下に血溜りができる。
 千日の瞳が奇妙に大きく見開かれた。
「やめ――」
 千日が護衛役の前に飛び出そうとしたところで、男の身体が漆喰の壁に叩きつけられた。
「坊主。この方をどなたと心得る」
 どすの利いた声は、坊主呼ばわりされた張本人――桐谷だけでなく、千日をも震え上がらせた。上背で桐谷を軽く上回る巨漢の男と言えば、一人しか居ない。綿貫だった。
「お怪我はありませんか。二の姫」
「……ありがとうございます。あ、そこの怪我した人、あたしは大丈夫だから手当してもらってきて良いよ」
 綿貫から令の配下の鬼に視線を移して、千日はなかなか傍を離れようとしない彼を追い立てる。
「二の姫のことは、私が引き受けた。鬼姫の元まで、必ずお守りいたそう。良い。下がれ」
 困り顔の千日を見かねてか、綿貫が助け船を出してくれた。
 令の配下が渋々引き下がる。その様子を見送ってから、綿貫が険のある目つきを隠そうともせずに桐谷を振り返った。
「何か申し開きはあるのだろうな。鬼姫のご慈悲がなければ、貴様は既に骸と化していた身だ。そのご温情を無下にした罪は重い」
 おそらく、以前桐谷が千日を殺そうと研究所に現れたことを言っているのだろう。
 桐谷は、だらだらと血を流す唇を拳で拭うと、眼がこぼれ落ちそうなほどに開かれた目で、千日を凝視した。その瞳は、千日を逃さないとでも言うように、瞬き一つすることはない。
「その娘は、死ななければならない」
 まるで、街中にあるありふれた注意書きの一文を読むように何の躊躇いもなく、それが至極真っ当なことのように、桐谷が告げた。
 狂気などという生易しいものではなかった。彼は確信しているのだ。千日が死ねば、代わりに千夜が助かると。彼の中では、その訳のわからない論理が、誰でも知っている自然の法則などよりもずっと、精緻な絡繰として動いている。
 その得体の知れない確言は、がんじがらめに千日を縛りつける。足が竦んで、腹のあたりがきゅうっと絞られるかのように悲鳴を上げた。それは、どんな剣よりも鋭く重く深く、的確に千日を刺し貫いた。
 千日は、伸びた爪で自らの手のひらの皮を抉った。現実味のある痛みが、麻薬に冒されたようにくらくらと幻の夢に酔っていた千日の骨髄を覚醒させる。
(飲まれちゃ、ダメだ)
 ――あたしは、高天原の姫位継承者。
「あいにく、あんたにくれてやる安い命は持ち合わせてない」
 千日は吐き捨てると、苦しげに胸を抑えて崩れ落ちた桐谷の横を通り過ぎた。千夜に逆らっている副作用だろう。
 思えば、彼は随分と痩せた。蒼白なのに脂汗が伝った頬はこけ、眼窩の下を覆うくまは彼をうつろに見せていた。女顔負けだった美しく艶のある髪も、今はもうその影を潜めている。油分を失って色素も少し抜けた髪が、痛々しい。
 桐谷が、床にしがみついたまま、畜生のような唸り声を上げた。
「貴様が死ねば良い。出来損ないが生き永らえて、何故姫が死ぬ? 何故、姫が――千夜……」
 狂おしいほどの声が、聞いているこちらが胸を掻きむしりたくなるほどの悲痛な声が、一人の女の名を呼んだ。答えを求めることを忘れた悲しい問いだけが、千日にまとわりつく。千日は、桐谷を振り返ることはしなかったけれど、それを振り払いもしなかった。
 綿貫に守られて、千夜の眠る部屋までの道のりを進む。
 千夜の部屋の前には若い人形の鬼が二人控えていて、千日の到着から間を置かずに中へと通してもらえた。白雪の色をした布団の傍らには、綾が膝を揃えていた。それまで千夜の世話をしていたらしい。綾は千日を認めると、立ち上がって千夜とこちらに目礼して部屋を去っていった。同時に綿貫の気配も消える。
 障子越しの月明かりはつめたく青く、しかしそれ以上に凍った静寂しじまに降り注いでいる。それはまるで、深い色で塗りたくられた生乾きのキャンバスに水滴を垂らしたように微弱な蠢動を室内に与えていた。以前訪れた時よりもはっきりと、そのゆるやかに終わりへと向かうにおいが絡みついて、部屋と一体になっている。
「千夜従姉ねえ
 千日は、知らずそう口ずさみ、早足で音もなく千夜の枕元に膝をついた。
 千夜の黒髪が波打ち、白い顔が露わになる。対照的に熱のためか赤く染まった頬は苦しげで、瞳に盛り上がった透明なしずくは、今にもこぼれ落ちそうに揺れていた。一目見て、衰弱が著しいことが見て取れる。それでも、千夜の血色の悪い唇は優美な弧を描き、艶っぽい深みのある声を紡ぎ出した。
従姉あねと呼んでくれるの? ふふ」
「何、笑ってんのよ」
 つい先刻までの強硬な態度は脆くも崩れ去り、千日の声は惨めったらしく揺らいだ。
「貴女がそう呼んでくれる日が来るなんて、思いもしなかったわ」
 千夜はそう言うと激しく咳き込んだ。掛け布団がずれて、千夜の身体がさらされる。繊細な刺繍がほどこされた白い襦袢から覗いた手足は枯れ木のように細く、吹けば折れてしまいそうなほどだった。
 絶え間なく続く咳をどうにか和らげられないかと、千日は千夜の背中に手を伸ばした。だが、千夜は更に身を捩って、千日から遠ざかった。それから、身体を折って口元を押さえる。
 次に千日の視界に飛び込んできたのは、深雪の上に散った鮮血だった。
「な、千夜従姉!」
「良いのよ。それよりあまり近寄らないで。貴女は丈夫だから病などには罹らないと思うけれど、念のためね」
 口元に垂れた血を手の甲で拭いながら、千夜が言う。
「良くない! 喋んないで!」
「喋らないのでは、何のために皆に命を懸けてまで千日を迎えにいかせたのかわからないわ。最期なのだから、しっかり聞きなさい」
 ――最期。
 わかってはいたことだが、改めて聞かされてなお、やはり衝撃が走る。まるで反射のように、千日の顔が泣き出しそうに歪んだ。
「貴女の、心は決まった?」
 決心がついたらここに来なさい。
 千夜にそう命じられたのは、まだ緑の匂いの濃い初夏のことだ。
 あれから季節は巡って、木枯らしは彩りを奪い、身を切るような北風が吹こうとしている。
 千日の十七回目の誕生日。春の彼岸から始まった数奇な運命も、もう半年と少しが経った。初めは不幸な事故に巻き込まれただけと思っていたのに、今ではそれが定められた星の巡り合わせであることに一片の疑いも抱かない。
 その中で、いくつもの命が理不尽に散っていった。千日の知る者も、知らない者も、ヒトも鬼も、否応なく。
 令の高天原行きの申し出を受けた時、おそらく心の奥底ではもう答えが出ていた。けれどそれが何なのか、自分でもわかっていなかった。令に後悔しているかどうか問われた時、言葉に詰まったのはそのためだ。けれど今は、自分の心がどこにあるのか、はっきりとわかる。
「うん」
 千日は、千夜の手を固く握った。
 千夜は僅かの間、それを拒むように身じろぎしたが、千日の強い瞳に気づいてそっと握り返した。
「あたしは、どちらも失いたくない。全部、諦めたくない」
「鬼もヒトも、選ぶということ?」
「うん」
 ヒトでなく、鬼でなく、ヒトであり、鬼である自分だから。だからこそ、掴める未来があると信じたい。
 千夜は、微かに笑った。それは千日の選択を嘲笑う類のものではなく、そう答えを出すことを予期していたような、そんな笑みだった。
「千日が行くのは、最も困難な道よ。殺し合い、憎み合ってきた歴史は変わらない。共に生きる未来など、どちらも望んでいないもの」
 千日の甘さを指摘する声音は、険も動揺も恐れも悲しみも孕んでいない。ただ事実を突きつける抑揚のない声。だからこそ千日の胸に深く、沈み込んで焼き印を刻みつける。
「うん。それでも」
 ヒトである咲穂や寺田。海堂や雉門。鬼である七福神の仲間たち。それから鬼師。全部、千日の中では等しい重さを持った命に変わりはない。どちらかが死んで良いだなんて、思えない。
「ただもし、何もかもが駄目になって、どうしようもなくなった時、その時は鬼につく。それが、鬼姫になるあたしの覚悟」
 千日は一息に言うと、ひたと千夜を見つめた。
 これまでずっと、ただ鬼のことを思い病身に鞭を打ってきた従姉。その美しい美貌の下に、どれだけの悲しみと怒りを募らせてきたのか。十七年の時をヒトとして生きてきた千日にはわかりようもない。その重荷を受け止められるだけの度量が自分に備わっているのか、そう考えると底知れない不安が込み上げる。
 千日の千夜に対するしこりも消えたわけではない。物分かりよく、全てを受け入れて前を向けるほど健気な性根も持っていない。
 けれどもう決めた。選択は覆らない。ただ確かなことは、何があっても折れることのない、大切な人たちを守りたいという気持ち。そして千日には、それを成し遂げうる生まれ持った力がある。もう後は己の持てる限りの力を尽くすほかない。
 だからせめて、最期の時くらいは千夜に何の憂慮もなく安らかに眠りについてほしい。
 鬼姫らしくなんて、おこがましいにも程がある。けれど今は、かろうじてでも良い。千夜の目に、逞しく自分の姿が映っていてほしいと思う。
「……託したわ。たしかに」
 千夜がもう片方の手のひらを、千日の手に重ねる。
 千夜の瞳は、この世のものとは思えないほどに澄みきっていた。しばし千日の顔をとっくりと眺めてから、少し困ったように笑う。
「彼は、きっと千日を認めようとはしないでしょうね」
 千夜の言う彼が誰なのか、すぐに千日は心得た。
「今日も、殺されそうになったよ。ほんとあいつ、物騒ったらないんだけど」
「私も一度は桐谷を刑死に処そうかと思ったわ。けれど」
 殺せなかった、という千夜の声にはならない独白が、千日の耳に届いた。
 千夜の瞳が曇る。
 千日は少し場違いな笑いをこぼして、千夜を見下ろした。
「……安心した」
「え?」
「千夜従姉も、悩んだりするんだね。例えば、好きな人のこととかで」
 千夜が力なくまなじりを下げる。それは生気には乏しかったが、千日には十分やさしい慈愛に溢れたものに見えた。
「悩まない日なんてなかったわ。私のこの腐りかけの両腕が抱えるものはあまりに重くて、それでいて、愛しすぎた」
「……愛しい、ね」
 千日にはまだ、人形ならまだしも異形の鬼たちは恐怖の対象でしかない。そんな気持ちが変わる日が、いつか来るのだろうか。千夜のように、ヒトを憎いと思う日が。
「千日?」
 千夜の声に引き戻され、千日ははっとしてぶんぶん首を振った。
「それで? ちゃんと桐谷に言うこと言ったの?」
「いいえ」
「何でっ」
 桐谷が千日を殺してまで守りたいのは、鬼姫である以上に千夜という一人の女だろう。まさか、それがわからない千夜ではあるまい。
 思わず身を乗り出した千日にも、千夜が返すのは穏やかな波風一つ立たない微笑みだけだ。
「私が言えば、あの人はきっと生涯独り身を貫くわ。そういう人なの。本当に、愚直までにまっすぐなのよ」
「千夜従姉は、それで良いの?」
「……あの世でもし、桐谷がかわいらしい娘と並んで私の前に現れたら、その時は平手くらいはしてしまうだろうけれど。それを受ける度量くらいは、身につけてから来てほしいものね」
 千夜は悪戯っぽく笑って、それからもう一度千日を振り仰いだ。
「忘れないでいて。鬼姫は血に縛られ、その宿命に命を燃やす。戦いが終わらぬ限り、その鎖から逃れることは出来ないわ。けれど、きっとその傍らにはいつだって、千日を守り、導き、支える仲間が居る。それが鬼姫になるということよ」
 千夜の言葉の意味するところを、おそらく千日は毛ほどにしか理解していないに違いない。ほんの少しでも多くのことを千夜から繋いで己の指標と出来るように。千日は千夜の瞳を瞬き一つせずに見つめ続けた。
 千夜が、気が抜けたようにほっと息を吐く。ゆるゆると瞼が落ちていく。疲れて眠るだけかと千日は思ったが、間もなくそれは違うと気づく。色が失われるように、生気が抜け落ちていっている。
 千夜の瞳に映っていた千日が消え、やがて部屋の中には一人分の呼吸音しか響かなくなる。
 千日はおもむろに立ち上がると、障子戸にそっと手を掛けた。
 薄明がさざ波のように穏やかに押し寄せる。
 冬枯れの桜木の向こうには、白み始めた空が透けて見えた。次第に清かに明けて、室内が柔らかな光に満たされる。
 千日の頬を、誰に知られることもない、一筋の涙が流れ落ちる。
 ようやく千日は、長かった夜の終わりを知った。


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