鬼の血脈 降誕と水死する恋[一]
「だからね、××ちゃんのお誕生会に、皆さん来てくださるんですって」
妙に早く夕飯の支度を始めた母の至極嬉しそうな声で、リビングのソファに寝転がって携帯ゲーム機の画面に熱中していた少年は我に返った。
頬を紅潮させた少年はソファから滑り降りて、母に詰め寄る。
「はあ!? 誕生会って何だよ! 子供じゃないんだから、そんなのやめろよ! 皆の笑い者になるじゃんか!」
「××ちゃんだって十分子供よ。それにこの間は、井上さんとこの茉莉奈ちゃんのお家でもお誕生会したじゃない」
「井上は女だろ! 男が誕生会なんて、女々しいことやれるかよ。それからそのちゃん付けやめろっていつも言ってるだろ!」
母のわからずやぶりは今に始まったことではないが、今回ばかりは許容できるものではなかった。
サッカーのクラブで一緒の高梨や後藤などは、一緒になって少年の十歳の誕生会をからかうに決まっている。
とは言っても、もう決まってしまったことを覆すことは出来ないだろう。
せめてもの抗議のために、少年はいつもの必殺技に打って出ることにした。母をシカトし、つい昨年やっと手に入れた自分の部屋に駆け込む戦法だ。
唾を吐き捨てたい衝動だけはどうにか堪えながら、少年は母の身体に思いきり自分の肩をぶつける。母が上げたきゃっという小さな悲鳴は、フローリングの床を踏みしめる少年の怪獣のような足音で掻き消された。
リビングから廊下に勢い込んで出た少年であったが、鼻っ柱を何か硬いものにぶつけて立ち止まるはめになった。
「あら、あなた」
出てきたばかりの部屋の中から、母ののんきな声が聞こえてくる。
鼻を思いきりぶつけた痛みで涙ぐみながらも少年が顔を上げると、果たしてそこには父の顔があった。それも、もしかしなくてもこれは、怒った顔だ。
「××。母さんに謝りなさい」
ひどく落ち着いた低い声。少年は身が竦むのを感じながらも、精一杯そっぽを向いた。
「やだよ。何で父さんに命令されなきゃいけないんだよ。俺、別に誕生日なんか祝ってほしいなんて言ってねーもん」
その瞬間、頭の上に拳骨が落ちる。視界を稲妻が走り、チカチカと星が点滅し始める。
「聞き分けのないことを言うんじゃない」
父の言葉尻にも隠しきれない険が滲んでいる。
少年はますます瞳に涙を溜めて、それでも決して涙をこぼすことだけはせずに、父の切れ長の細い瞳を思いきり睨み上げた。
「何だよ。たまに帰って来たかと思ったら、怒ってばっかで。俺の言い分なんて、聞きもしないくせに!」
背広姿の父の脇腹を押しのけるように拳を横に払って駆け出すと、少年は玄関を上がってすぐのところにある階段に飛びついた。
後ろで上がった両親の制止の声に、振り向くことはない。
曲がりくねった階段を一番上まで上がると、少年は思いとどまって、手すりから身を乗り出して階下の様子をうかがった。両親が追って来る気配はない。何だかぼそぼそとした声が聞こえるから、きっと不出来な息子について溜め息でも吐いているのだろう。そう思うと、一度は我慢した涙が、またこぼれそうになった。
「なーに、やってるの。あんた」
背後で響いた声に少年は飛び上がる。警戒を解いたばかりのところに不意打ちで声を掛けるだなんて、心臓に悪い。
振り向くと、制服のワイシャツに下はジャージ姿というちぐはぐな格好をした女の姿が目に飛び込んできた。
「姉ちゃんには関係ないだろ」
つい先日茶色に染めたばかりの姉の髪は、未だ少年の目に歪に映る。
校則でも禁止されていないからと言って、ずっと髪を染めるのを反対していた父をようやく押し切ったのだ。元々睫毛が長いから必要性を感じないマスカラも、ほんのり色づいたチークも落とされていない。高校に入って一年が経とうとしているが、姉もこの一年で相当装いが変わった。とはいっても、この間のテストは総合で学年七位。県でも有数の進学校でこの順位はなかなか取れるものではない。十位以内に入ったら髪を染めるのを認めてほしいという姉の野望は、見事達成された。
「××の馬鹿でかい声、二階まで筒抜けよ。またお母さんに当たり散らして。ほんとガキ」
姉の指摘に頬がカッと熱くなる。
「だから、姉ちゃんには関係ねーっつってんだろ。俺に構うなよ」
芸もなく同じことを繰り返す弟の姿に、姉は小さく肩を竦めた。
「お父さんが今日、どうして早く仕事を切り上げて来たか、考えてもみなさいよ」
そう早口に言うと、姉は少年に反撃の糸口さえ与えず、さっさと階段を降りて行ってしまう。
一人取り残された少年は、しばらく口をぱくぱくさせていたが、姉の言葉に押し負けたことを認めたくなくて、さっさと自分の部屋にこもった。
ベッドにぼすん、とうつ伏せに寝転がる。シーツを握り締めて、少年は小さく溜め息を吐いた。
(俺は、悪くない)
だいたい、十歳にもなって誕生日に友だちを呼んでパーティだなんて男のやることじゃない。
それに、父は出張ばかりのくせに、たまに帰って来たかと思うと、弟を叱ってばかりだ。小学生時代も学年トップで独走していた姉ほどではないが、少年とて成績は良い方だ。それなのに、さも姉が良く出来た娘で、息子がダメダメのように思われているのは面白くない。別に、そういった類のことを両親から直接
聞いたわけではないけれど、彼らの普段の接し方を見ていればそんなことは自ずとわかる。姉も、そんな弟を馬鹿にしてばかりだ。
きっと母は、怒って暴力的になるような息子を生まなければ良かったと思っているに違いない。それなのに、世間体を気にして、くだらない誕生会なんぞを開こうとしている。
際限のない繰り言を巡らせているうちに、少年は午後の陽気に誘われてまどろみの中に落ちていった。
耳元でがみがみと怒鳴る声によって、穏やかな眠りが遠ざかっていく。目を覚ますと、枕元に姉が仁王立ちになって立っていた。
サイドボードに置いてある時計を見ると、十六時半を少し過ぎたところだった。窓の外から差し込む斜陽は赤く燃えている。
「ほら、早く起きて。あと三十分すればあんたの友だちが来ちゃうわよ」
姉はそう捲し立てたかと思うと、後ろを向いて大きな声で母を呼んだ。すると間もなく、両手に何やら抱えた母が息子の部屋に飛び込んでくる。
よく見れば母も、そして姉も、品の良いワンピースに身を包み、長い髪を綺麗に結い上げていた。
何だか嫌な予感がする。
「はい、××ちゃん、これに着替えて」
母が差し出したものを見て、ぎょっとする。嫌な予感的中だ。
黒に近い深い緑色の細いストライプのシャツと、それより少し柔らかい色みの揃いのベストとハーフパンツ。しかも新品だ。
フォーマルすぎる感はないが、普段はサッカーの練習着や動きやすい運動着ばかり着ている身としては、仰け反らずにいられない。
「こ、こんなの着るわけないだろ」
いささか青い顔をして拒否する息子に、母は仕方ないわねえと言って、服を脱がせようとしてくる。
「わ、わかったよ。着れば良いんだろ。着れば!」
半ばやけくそになりながら、少年は母の腕からその一張羅をもぎ取った。
母と姉を背にし、ベッドの隅っこまで行って、窮屈そうに少年が着替え始める。ボタンを止め終えて振り返ると、何かが眩しいみたいにそっと目を細めた母の顔が目に入った。
何だか釈然としない気持ちのままベッドを下りると、襟元に母の細く白い指が伸びてきた。どうやら襟が変に曲がっていたようで、それを正される。
母はそのまま後ろに回り込むと、少年の両肩を押さえて姿見の前に立たせた。
少年の瞳に、いつもよりどこか大人びた己の姿が映し出される。
「格好良いわよ、××。お父さんにも負けないかも」
花が咲いたみたいに笑う鏡の中の母から目を逸らし、少年は意味もなく人差し指でこめかみの辺りを掻いた。
「ほらお母さん、まだ料理とかの仕上げ、済んでないんでしょ。あとは私がやっとくから、下行ってて良いよ」
「あらそーお? それじゃ、お姉ちゃんにお願いしちゃおうかしら」
そう言って母は姉の手に何やら握らせ、少年の部屋を後にする。ぱたぱたと忙しなく階段を下る音が遠ざかってから、姉は弟を手近にあった勉強机の椅子に座らせた。椅子は姿見の方を向いており、自然と鏡の中の自分と睨めっこをする格好となる。
櫛とワックスを手にした姉が、寝癖でぼさぼさの少年の髪と格闘をし始めた。
「良いよ。俺、やるし」
「あんたのセンスに任せるくらいなら、猫にでも任せた方がまだマシね」
おずおずと申し出てみるも、すかさず姉の有無を言わせぬ声に跳ね退けられる。猫以下とはひどい言い様である。
しかしそんな横暴な姉の手つきは、言葉とは似ても似つかぬほど丁寧だ。他人にくしけずられることなど、何年振りだろう。仕舞いには姉は、気持ち良さそうに鼻歌まで歌い始めた。
やがてあっちこっちを向いていた髪が整えられ、洒落た装いの少年が完成する。
姉はその出来にいたくご満悦らしく、さすが私、などと自画自賛をしている。
もう一度時刻に目を移すと、十七時に差し掛かろうというところだった。確か十七時から誕生会が始まるようなことを母も姉も話していた。
そんなことを思っていたら、案の定客の訪問を知らせるチャイムの音が軽やかに鳴り響いた。
姉は慌てた様子で、少年を階下に急かす。
少年は苦り切った表情を浮かべながらも、階段を下りて行った。
母がいつもより少し高めのトーンで、少年の友人とその母たちを出迎えているのが聞こえる。玄関にそっと顔を覗かせると、まず初めに高梨と後藤と目が合った。高梨と後藤も、わりとフォーマルな格好をしていることに安堵の息を吐く。彼らもどこか気恥ずかしげに、けれどお互いの格好を揶揄するように、口元にだけ笑みを乗せている。
「よう」
少し小さな声で呼びかけると、彼らも同じような何だか曖昧な返事をしてきた。
「お、お誕生日、おめでとう!」
男連中に似ても似つかない明るい声を上げたのは、茉莉奈だった。普段の引っ込み思案な性格は影を潜め、仲良しの明音と一緒に、こちらまで駆け寄ってくる。彼女たちも、可愛らしい黄色とピンクのドレスに身を包んでいた。
「××って、そういう格好していると何だか違うよね」
物怖じしない明音が、しげしげと少年の格好を眺めてそう評した。それから、少年の目の前に来るなり黙り込んでしまった隣の茉莉奈を肘で小突く。
「そ、そ、そうだよね。××くん、すっごく、かっかっ……いよ」
しどろもどろになってしまった茉莉奈の声は、少年の耳には届かなかった。
「え、何?」
顔を覗き込むと、茉莉奈は耳まで真っ赤にして、俯いてしまう。
少年には訳がわからなかったが、高梨と後藤ににやにやしながら肩を叩かれ、とりあえず家に上がってもらうことにした。
誕生会は、滞りなく進行した。出し物やらビンゴ大会やら、少年が思っていたよりも豪華な催しとなり、最後に友人たちと姉と母からプレゼントを渡される。
高梨と後藤がこっそりと渡して来たのは、少年も知っている少し過激な女性キャラの描写がある少年漫画の単行本であった。投げ返そうとしたが、無理矢理受け取らされるはめになった。茉莉奈と明音からは、手作りの菓子が手渡される。姉からは、リストバンドが贈られた。
母が渡して来たものは存外重くて、丁寧に梱包されていたので、中身は後で開けることにした。
思いのほか楽しいばかりだった誕生会もお開きとなり、友人とその母たちが帰り支度を始める。
少年と母、それから姉が玄関まで見送りに出る。
後藤の母親が最初にドアを開けて、その後を高梨と明音の母が続いた。
少年も笑顔で、靴を履いて出て行こうとする友人たちと別れの言葉を交わす。
しかし突如家の外から聞こえてきた金切り声に、少年は訝るように顔を上げた。
その目に飛び込んできたのは、まるで雨のように降る、血飛沫。先ほどまで談笑を楽しんでいた後藤の母の恐怖に引き攣った、目の玉がこぼれ落ちそうなまでに見開かれた双眸。そして。
見たこともない、黒い獣。
獣は金色の目を爛々と光らせながら、恐慌状態に陥った高梨と明音の母に跳びかかる。瞬きをする間に、二人の女の腕はどこかに吹っ飛び、鋭い爪と牙で引き裂かれて声もなく絶命する。
誰もが、何一つ動けずにいた。
目の前で繰り広げられることが、現実のものであると、受け入れることが出来なかった。
三人の命を奪ったケダモノは、次に近くにいた茉莉奈の母に狙いを定めた。茉莉奈の母は咄嗟に近くにいた娘を守ろうと、背中を異形のものに向ける。背中を引き裂かれた茉莉奈の母の唇が、何かを告げようとする。しかしそれは叶わず、彼女の身体は玄関先で崩れ落ちた。
「葵!」
雷鳴のように、低い男の声が少年の母の名を呼んだ。
夫の声に弾かれたように、母が玄関の扉を閉めて、鍵を掛けた。
玄関の扉の向こうから、扉を破壊しようと殴打する音が響いてくる。
「早く、皆、逃げるのよ!」
唇を震わせながら、母が叫ぶ。
泣き叫ぶ明音と放心状態の茉莉奈の手を取って、少年も玄関から離れようと走り始めた。
リビングまで戻ると、父が姉と母を抱き寄せながら、必死に携帯で電話を掛けている。父は早口に警察か何かに状況を伝えているが、おそらく警察にしろ何にしろ駆けつけて来るまでには時間が掛かるだろう。
あの化け物は、何だ。
尋常ではない黒の巨体と、金色の瞳、それから人間の骨をも断つ、鋭い刃と鉤爪。どれだけ考えても、あの化け物の正体がわからない。熊などよりずっと大きく、しかも動きが速すぎて目では追えなかった。
少年が思案から顔を上げると、リビングの窓の外に、今己が思い描いていたものとまったく同じ化け物が見えた。化け物も、家の中に居る少年に気づいた。少年の喉が、悲鳴ともつかない声にならぬ声をせり出す。
「かあ、さん」
少年が母を呼ぶ声にいち早く気づいたのは姉で、彼女も差し迫った危険に気づいて声を上げた。その場に居た誰もが、すぐ近くに迫った危険から逃れようと、廊下に飛び出す。
一番早くリビングを飛び出した高梨と後藤が、和室に続く襖を開いた。
「おい、そっち行くな!」
思わず上げた声も、高梨と後藤には届いていないようだ。
玄関では相変わらず扉を殴打する音が響いている。おかしい。もしや、化け物は一体ではない?
茉莉奈と明音を先に階段に登らせていると、間もなくパリンと強化ガラスの割れる音が響いた。続いて、隣にある和室からも窓ガラスの割れる音がした。いよいよ少年の顔が蒼白になる。和室には、高梨と後藤が居るはずだ。断末魔にも似た、最も親しい友人たちの悲鳴が上がる。
思わず和室に向かいそうになる身体を、父の加減を知らない硬い手のひらによって、阻まれる。一瞬抗議の声を上げそうになったが、父の差し迫った顔に気づいて、少年はただ死に物狂いで階段を駆け上がった。
二階に着いてすぐ、両親がすぐ傍にあった家具でバリケードを作った。それから、家の最奥にある少年の部屋へと急ぐ。
既に後ろではバリケードを突き崩そうとする音が響いている。
部屋に駆け込んですぐ、父が部屋に鍵を掛け、それから動かせそうな家具を入り口に固めて置いた。
「こうなったら、外へ逃げるしかないわ。良いわね」
今にも倒れそうなほど白い顔をした母が、しかし決然とした表情できっぱりと言う。
「ベランダに出て、それから屋根の上に上がるの。とにかく、助けが来るまで、生き延びるのよ」
現実を直視できず、がらんどうの瞳をした明音の肩を、母が揺さぶる。
ここで、全てを投げ出して諦めてしまうことはたやすい。しかしそれでは、どうしたって生き残ることは出来ない。
化け物はもう、すぐそこまで迫っているのだ。
「母さんと女の子たちを先に行かせる。良いな?」
震える唇を強く噛み締める息子に、父はそう声を掛けた。
「うん。俺、男だから。絶対、母さんと姉ちゃんと、二人を守るよ」
「偉いな。さすが、父さんの息子だ」
頭をくしゃりと撫でられ、抱き締められる。そうしている間にも、少年の部屋の扉を化け物が破壊し始めた。
茉莉奈と明音を励ましながら、母が屋根の上によじ登り、それが完了したことを知らせる声が届く。
だが、その声は途中で、絶叫へと性質を変えた。
耳を疑った少年の目が、長い爪に貫かれた母がその黒い巨体と共に地面へと落下していく姿を捉えた。
母の唇が、何事かを告げようとする。茉莉奈の母の時はわからなかったその言葉が、今度こそは少年にも理解できた。
――生きて。
母は、残った三人の家族に、そう乞うた。
「ウワアアア! ウワアアァァアアア!」
茫然と、その惨劇を眺めているだけだった少年が、突如狂ったような声を上げ、窓辺に向かって走り始めた。錯乱した少年を呼びとめる父の声も振り切って、ただひた走る。少年を獲物に定めたらしい化け物が目の前に姿を現したが、もはやそんなことはどうでも良かった。
鉤爪が高く振り上げられる。眼前を、黒い死神の巨体が覆い尽くす。すぐに身体を貫くだろうと思った痛みは、訪れなかった。代わりに、少年の顔から腹にかけてを、彼のものではない生温かい液体が濡らした。
化け物の兇刃が手に掛けたのは、少年ではなく姉だった。
少年が突き刺される寸前に、姉はその華奢な身体を滑り込ませてきたらしかった。
「ど、うして」
自棄になった弟の身代わりになるだなんて、いつも弟を馬鹿にしている姉のすることではない。
絶望に見開いた目に、姉の綺麗な微笑みが広がる。
「馬鹿ね、あんた。そんなの、決まっているじゃない」
その続きを聞くことは叶わず、姉は事切れた。
姉に縋ろうとたたらを踏むが、少年の腕は強く後ろに引かれて彼女の元を離れた。
「××! こっちだ」
父が、姉には目もくれず、息子をクローゼットの中に押し込めた。
「嫌だよ! 何で――。姉ちゃんが! 母さんも!」
「父さんの言うことを聞け!」
父の声は、これまで聞いたどんなものよりも恐ろしく少年の胸を締めつけた。
しかし父の顔はすぐに笑みを浮かべ、少年に向かって手に持った得物を見せつけた。少年の部屋にあった竹刀だ。昔、父に剣道を習うように言われて与えられたが、そんなださい習い事は嫌だと言って結局サッカーを選んで、押入れの奥にしまいこんでしまった代物。
「父さん、これでいて、若い頃はこいつで全国優勝したことがある。なあに、大丈夫だ。すぐに助けが来る。お前はその中で息を潜めていろ」
言うなり、父はクローゼットの扉を閉めて、その扉の金具に閂をした。
少年は力いっぱいその戸を叩くが、彼の願いも虚しく、扉は固く閉ざされたままだ。
「やだよ! 父さん! 一緒に居て! ここに居てよ!!」
外から、何かが斬りつけ合うような音が聞こえてくる。物音はあちらこちらからして、父が戦っている化け物が一体や二体ではないということくらい、少年にもすぐにわかった。
無力だった。あまりにも、少年は無力だった。
男でありながら、母に守られ、姉に守られ、父を残してただ一人で隠れ潜んでいる。
時折痛みを耐えるような父の短い悲鳴が聞こえるが、剣戟の音は止まない。断末魔の叫びを上げているのはどうやら、化け物の方らしかった。
しかしそれも、長くは続かない。
クローゼットに押し込められてからどれだけの時間が経ったのかはわからない。並の人間が化け物の攻撃をかわし続け、それでいて確実にその命を奪うとなると、相当な集中力が必要なはずだ。怪我を負った身で、いつまでもつか。
次から次へと襲い来る敵に、父の体力ももたなくなってくる。扉越しでも鮮明に伝わる荒い息が、父の消耗を如実に表していた。
何故、逃げないのか。
出来損ないの息子など、捨てて逃げれば良い。あの化け物を相手に、これほどの善戦をしてみせた父ならば、一人で逃げおおせることも出来たに違いない。
――父さん。
口に出してそう呼ぶのは、ここに残ってまで戦い続ける父の思いを踏み躙ってしまうような気がして、出来なかった。
今や、少年がこのクローゼットに隠れていることを知っている化け物はいるまい。きっと父は、そいつらを何よりもまず殲滅しようとするだろうから。
やがて、外の喧騒が止む。
しかしすぐに、人間とは違う生き物が部屋の中を徘徊し始める音が聞こえ始めた。
ぼろぼろと涙をこぼしながらも、少年は物音一つ立てなかった。
母が生きてと乞うたから。姉が命に代えてこの身を救ってくれたから。そして父が、絶命するまで息子を守り通してくれたから。
だから、この命をあんな化け物なんかにくれてやるわけにはいかない。
生きて、ここから出るのだ。
きっと、助けが来る。きっと、来るから――。
化け物の足音が、少年の潜むクローゼットの辺りで止まる。
少年の喉が引きつれる。
最後の望みが、絶たれそうになる。
しかしその瞬間、化け物の粘つくような苦痛にもだえる叫びが、耳に貼りついた。続いて、何かの倒れる音がする。
「駄目だね。こっちも死んでる。そっちはどう?」
「こっちもですよ。にしても、夜鬼の屍がこれだけ積み上がってるって、このおっさん、素人のくせに相当の腕前だな」
「もうちょい早く来れてれば、スカウトできたかもしれないね」
見知らぬ若い男の声と、中年の男の声。
クローゼットの外で交わされる会話は、明らかにヒトのものだ。
訳のわからない獰猛な雄叫びを上げて襲ってくる化け物ではない。
少年の乾いた舌が、何か言葉を発しようと、恐々動き出す。上手くそれが言葉にならずに痺れを切らした少年は、震える指をほんの僅かに動かした。
「気をつけろ」
すぐに、微かな音を聞き咎めた若い男の緊迫した声が響く。
閂が外され、クローゼットの扉が勢い良く開けられた。
少年の視界に、二人の男が飛び込んでくる。
「驚いたな。生き残りがいたのか」
今度は眼鏡と髭面が印象的な中年男の声が響く。
血塗れの少年の姿におののくこともなく、その男は穏やかな笑みを浮かべた。
「怖かったろう。良く、頑張ったな」
男の無骨な手に抱き寄せられそうになって、少年はその手から逃れるようにクローゼットから飛び出した。
靴下が、ぴしゃりと嫌な音を立てる。
そのまま目線を下にずらすと、傷だらけの男がクローゼットに凭れるようにして倒れていた。その手には、竹刀が握られたままだ。きっと、最後の最後まで、戦い抜いたのだろう。
「……父さん」
少年は、ただ静かに父を抱き締めた。
その身体はまだ、ぬくもりを湛えている。
「君、災難だったね。悪いが、君の身柄はこちらで預からせてもらう」
若い男の声は、ちっとも悪びれずに、これまでの人生で最大の悲劇に見舞われた少年の耳に届いた。
「こら幸光! この子の気持ちも考えろ。そういうことはもう少し色々と落ち着いた後にだな」
「タメ口やめろって言うの、今日三回目だよ。寅」
若い男は不遜な態度で年嵩の中年男に忠告をし、それから少年の頤を掴み上げる。若い男の顔は女じみていたが、中年男よりずっと冷淡な印象を少年に与えた。
「良い顔してるね。君、鬼が憎いかい」
「……お、に?」
「君の家族や友達を殺した化け物。そこに転がってる奴ら」
顎をしゃくって、若い男が黒いケダモノどもを示す。それを視界に入れた途端に、少年の瞳を、昏い炎がよぎった。
「ああ、良いねえ。それ、最高。君とは仲良く出来そうだ。寅、他の部屋の確認も頼むよ。僕はちょっとこの子と話があるから」
若い男が上機嫌に言い、少年の手を引いた。何か言いたげな中年男を部屋の外へと促して、若い男は部屋の惨状など気にも留めずに少年のベッドに腰を下ろした。
「僕は、この憎き殺戮者どもを狩る鬼狩りの頭領をやっている、神屋幸光って言う。丁度今、御三家に欠員が出て困っているところだったし、君みたいなのは、良い素材になる。どうだい。本当はただの戦闘員として所の方に回すつもりだったんだけど、僕直々に育ててあげても良い。もし耐え抜くことが出来たなら、君はきっと、人形とも渡り合える鬼狩りになる。君、僕の門弟に加わる気はある?」
少年は、神屋の言っていることなど半分も理解していなかった。
ただ胸を貫く思いは、友人を殺し、母を殺し、姉を殺し、父を殺した鬼が憎いということ。願うのは、ただ一つの望みは、あの醜いケダモノたちを、殺し尽くしてやりたいということ。少年は、復讐の炎に身を焼かれたにすぎない。けれど、それで良かった。それ以外には、何も要らない。
少年は頷きかけ、けれど少し不安げに神屋を見上げた。
鬼は憎い。けれど神屋の手を取ることが、果たして少年を唯一救いうる道なのか――。
そこに、ばたばたと音を立てながら、中年男が戻ってくる。その手に握られたものを見て、少年の瞳が瞬いた。
「それ……」
少年が呟くと、中年男が近づいて来て、無残に破れた包みごと、その箱を渡してくれた。少年の両手に、両親が息子の誕生を祝った最後の贈り物が抱えられる。
箱を開くと、その中には一足の靴が小奇麗に収まっていた。ただの靴ではない。いつかの試合帰りに、珍しく仕事が重ならずに息子の活躍を見に来た父と、帰りに寄ったスポーツショップで見つけたスパイク。値段が張るので、どうしても欲しいとは言えずに、けれども食い入るように見つめていた、綺麗なブルーの色をした有名なスポーツブランドの代物だった。
父がそれに気づいていたことなんて、知らなかった。
そればかりでない。こんなに愛されていたことに、気づこうとしなかった。何でもかんでも人のせいにして、身勝手に振る舞った。母のことを罵り、ひどく当たることなんて、日常茶飯事だった。どんな思いで両親がこのスパイクを買ってくれたかなんて、知ろうともしなかった。
どんなに謝りたくても、どんなに感謝の言葉を述べたくても、それを言うべき相手はもう居ない。
「う、うえっ。うえ、え」
ぼろぼろと、大きな粒の涙が頬を滑り落ちる。
ひとしきり泣きながらスパイクを抱き締めた後、少年はそのスパイクをそっと箱に収めた。
それからその箱を脇に押しやると、立ち上がって父の骸の元まで歩いてゆく。その手に握られた、血と脂に塗れた竹刀をじっと見つめた。
「おい、お前さん、これ、良いのか?」
中年男の戸惑ったような声が追いかけて来る。彼が指し示しているのは、少年がベッドの脇に押しやったスパイクだった。
少年は最後の躊躇いを掻き消すように、父の手に握り締められた竹刀を抜き取った。
「良いんだ。俺には、これで良い」
澱みなく答えた少年は、竹刀の柄を硬く握り、神屋を振り返った。
今度は真っ直ぐに、神屋を見上げる。その瞳がぶれることはない。
「やっぱり、君、気に入ったよ。そういや、名前、聞いてなかったね。君、名前は?」
ひどく面白そうに投げかけられた問いに、少年は信心深い教徒のような敬虔な瞳でこう答える。
「りく――海堂、陸」
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