鬼の血脈 降誕と水死する恋[二]



 回廊を左に折れると、枯れ木ばかりの灰色じみた殺風景な中庭が姿を現した。高天原の一代を築いた名花の死を悼むように、時期尚早な細雪が降り出している。今朝は、一層冷え込んだ。外気は冴え冴えと頬を撫ぜ、千日の身を竦ませる。吐く息は白く棚引き、その靄を透かして遠く向こうの山肌がくっきりと青く見えた。山頂には白雪がいただかれている。対して中庭の泉水の向こうにある築山には、淡雪さえも積もっていない。地面に触れると、音もなく溶けて消えてしまう。
 中天に差し掛かろうとする太陽は、薄雲の後ろに隠れては現れ、隠れてはまた現れを繰り返している。その弱弱しい光が高く昇るにつれ、千日の不安も刻々とくっきりとした形を取るようになってきた。
 鬼姫候補を奪われたヒトは、一刻も早く千日を取り戻そうとするだろう。今はまだ、高天原邸の外郭にあたる区域――千日も何度か通ったことのある旧市街の地帯は鬼たちの勢力下にあるという。だが、それもいつまでもつか。
 だから千日は、早々に覚悟を決めた。
 今日、ここで、千日は鬼たちの絶対者として君臨する。
 鬼姫として即位する覚悟が決まったことを告げると、千夜の鬼師であった綾は、千日を白無垢に着替えさせた。彼女は、千夜が死んでから千日の側近くに控えて離れようとしない。
 綾の言うところでは、鬼姫として即位するには、簡単な儀式が必要らしい。
 鬼師との契りを結ぶことで、千日は鬼姫として認められるという。鬼師は次位血統の鬼の強者がなることがほとんどなので、彼らに認められることはすなわち、全ての鬼の信を得ることを意味する。もっとも、認められるといっても名目上のことで、最高位血統である高天原の血を引く千日に逆らえる鬼は居ない。
 千夜の亡骸が横たわる部屋を後にし、千日は鬼たちが待っているという大広間へ向かっていた。千夜の葬儀は、今回の騒動がひと段落ついた頃になってしまうだろう。死者を弔うそれだけのゆとりすら、今の高天原には備わっていなかった。
 本来鬼姫が崩御した場合、次の満月が訪れるまで、鬼たちは喪に服す。そうして次の満月の夜、除服し新たな鬼姫を迎える。鬼姫が次の満月までに選定されなかった場合は、その即位の日は、また一月繰り越される。
 今日は、十三夜月。望月には、まだいくらか足りない上に今は日も高く昇っている。だが、次の満月を待っていたら、鬼は新たな鬼姫を迎える前に、おそらく滅びる。伝統を破り、千日が即位しようということに、反対する者は少なかった。一つの種族の歴史を支えていた多くの伝統が、今や瓦解しようとしていた。
 大広間のように高天原の居住空間とは用向きの異なる部屋は、渡り廊下を渡った先の別棟にあった。高天原邸の内郭には、千日もたびたび連れて来られた姫位血統が居住する高天原私邸と、儀式や鬼姫への謁見・合議を行う場が設けられていた。前者を内廷といい、後者を外廷と呼ぶ。内廷には許可を得ぬ限り、限られた鬼しか立ち入ることが出来ない。
 厳めしい様子の外廷をしばらく進み、千日はようやく大広間の襖の前に辿り着いた。室内からはざわめきが聞こえる。
 綾の話では、鬼師や高天原家に伺候する鬼だけでなく、外郭に居を構える桐谷とその配下の家の当主や各地方の家の使いも首を揃えているということだった。
 襖に手を掛けようとした綾の腕を、思わず掴む。振り返った綾に、千日はちょっと待ってと囁いた。
 千夜に告げた思いに変わりはない。けれど、緊張をするなというのはどだい無理な相談だった。
 以前、神屋から聞いた話を要約すれば、鬼たちは弱体化とヒトによる駆逐を逃れられない局面下、「最高位血統である高天原の混血児」を生かさざるをえない状況にあるという話だった。十中八九、次位血統の鬼たちは、「千日」を望んでいるわけではない。鬼たちは血に縛られた徹底的な階級社会を持ってはいる。けれどもそれは、感情をも屈従させるものではない。
 千日は大きく深呼吸すると、自ら襖の引き手に手を掛け、一気に引いた。
 ざわめきがぴたりと止む。
 六十畳はあるという広間の半分以上を埋め尽くしている鬼たちが、一斉に叩頭する。整然としたその動きに面食らいながら、千日は上段に設えられた首座に腰を下ろす。すぐ近くに綿貫の姿を認めて、やっとほんの少し緊張の糸がほどけた。
「顔を上げて」
 千日の言葉で、張り詰められていた鬼たちの空気もたわむ。
 次々に全身に視線を浴びて、千日はどんな顔をして良いかわからず、しかめっ面をしたり微笑んでみようと努力してみたりした。そのどれもが上手くいかず、喜怒哀楽の判別がつかない表情のまま、千日は軽く身じろぎする。
 下座で沈黙を保っていた綾が、千日の言葉を受けて声を振り立てた。
「これより、姫位継承の儀を執り行います。今回は、先代鬼姫の崩御と千日様の並々ならぬ状況を踏まえ、鬼師選定の儀は割愛し、先代鬼姫にお仕えしておりました鬼師がそのまま千日様の鬼師として就任させていただきます。ただし、先代鬼姫と千日様に反逆を企てた桐谷迅、それから戦死した九重令は除外します」
 鬼たちの目が、一斉に格式ばった衣装に身を包んだ痩身長躯の男に向く。年の頃は、綿貫と同じくらいだろうか。怜悧な眼差しと頭を垂れてなお、威風堂々とした、悪く言えば居丈高な態度に既視感を覚える。その自信ありげな様子と二メートルはあろうかという身の丈とは裏腹に、身体は違和感を覚えるほどに痩せぎすだった。おそらくは先の戦いで負傷し、隠居生活を送っているという桐谷家当主だろう。
 桐谷家当主は、鬼たちの無言の糾弾にも、意を介さない様子であった。
 本来ならば、最高位血統に盾つくものならば、たとえそれが未遂に終わっても刑死に処すのがふさわしいという。それこそ昔は、反逆を企てた鬼の血統保持者をその一族郎党に至るまで根絶やしにすることすらあったらしい。しかし現状では、桐谷の血統を断絶させるという選択肢は存在しない。絶滅の危機に瀕した鬼が、筆頭四家の血統を失うことはあまりにも痛い損失だった。
 ――侮られている。
 千日は顰めかけた顔を、平生の状態に無理やり保ち、前へと進み出て来た綾と綿貫に意識を集中した。
 鬼師は四名以上を基本とするが、今回は事情が事情なので、二名に留めた。千日自身、現在高天原邸において信用を置ける人物というのも、彼らしか居ない。
 千日と彼らの間には二つの杯と、三本の懐剣が置かれている。杯には、透明な色をした液体が注がれていた。
 初めに綿貫が懐剣を取り、自らの人差し指に押し当てた。そのまま躊躇いなく刀が引かれる。たちまち血が溢れ出し、彼の指を伝った。綿貫はその血の噴き出した指を、目の前の杯の上にかざした。ぽたりぽたりと鮮やかな深紅の色をした血液が、水面を叩く。
 しばらくそうしていたかと思うと、綿貫は指を引っ込め、両手で杯を抱えた。身体一つ分前進して、千日の座す首座の正面に杯を差し出す。
 千日はまじまじとその杯を見つめた。何心ないといった体で鎮座した杯は、綿貫の大きく無骨な手のひらに包まれていた杯と比べて、少しばかり大きなものに感じられる。
 杯の中では、赤い血が酒と混じり合って渦を描いていた。
 姫位継承の儀とは、血の杯を交わすことをもって、全うされるらしい。他人の血を飲むことに抵抗がないでもなかったが、千日は別段表情を変えず、杯を持ち上げた。口元にあて、一気に飲み干す。
 途端にくらくらと酩酊感に襲われた。強い酒を飲んでいることもあるだろう。でも、それ以上に、鬼の血を啜っているというその事実に、おそらく眩暈を覚えるほどの陶酔を感じている。
 千日が飲み干して空になった杯に、新たに酒が注がれる。今度は、千日が懐剣を手に取った。千日は驚異的な再生能力を有しているが、だからといって傷つくことに鈍感になるわけでもなかった。けれども不思議なことに、自傷することに対する恐れはなかった。
 千日の人差し指に赤い線が浮き上がる。杯に、濃い血が混じる。
 綿貫は千日が差し出した杯を恭しく受け取り、瞬く間に飲み干した。
 同様に、綾とも血の杯を交わす。
 綾が空になった杯を床に置いた瞬間、森厳な空気に満ちていた大広間が、どっと歓喜に沸いた。
「鬼姫御即位、おめでとうございます」
「謹んで、お慶びを申し上げます」
「姫の御登極におかれましては、我々浄福の極みと心得ました」
「高潔なるご決断、痛み入ります」
 口々に発せられる祝賀の言葉は、荒波となって千日に押し寄せた。
 ここに、史上初の鬼とヒトの混血児の鬼姫が誕生した。
 色めき立った大多数の鬼たちの中で、千日の二人の鬼師と、数名の鬼だけが冷静だった。その中の一人は、果たして桐谷家当主だ。
「姫様、どうですかな。御一献」
 千日が鬼たちへ今後の方針についての宣言をしようと思っていたことなどお構いなしに、酒宴が始まってしまった。その上、桐谷家当主は、千日に酒など勧めてくる。
「じゃあ、頂きます」
 髭面に軽薄な笑みをたたえた桐谷家当主は、息子である迅以上に油断ならぬ人物と見て良さそうだ。千日は、慎重に返事をした。ここで酒にも桐谷家当主にも飲まれるわけにはいかない。
 杯になみなみと清酒が注がれる。千日がそれに口をつけるやいなや、桐谷家当主は口火を切った。
「姫様。姫様のお眼鏡にかなう男鬼は見つかりましたかな」
 媚びへつらうような猫撫で声に、千日の目に剣呑な光が宿る。どうにもこの老獪な人物が切り出した題目はきな臭い。
「そう怖い顔をなさいますな。先の鬼姫は子が産めぬ身体ゆえ、御子を成すことはついに能わなんだ。しかれど、本来鬼姫とは、伴侶を得て子種を設けてこそ、一人前というもの。血を後世に残すことが最上の使命というものです」
 善良な相談役の顔をして、桐谷家当主はそう説いた。
 千日は、癇癪を起こしそうになるのを寸でのところで堪える。
 どうやらこいつらの考えることも、神屋のくそったれと同じらしい。
 神屋は、鬼を統べる優秀で従順な鬼姫が欲しい。
 鬼は、高天原の血を絶えさせたくない、というのが平時の鬼の言い分だろう。それは千日にも理解できる。千日も、鬼姫となったからには望まぬ縁組にも乗り出さねばならないだろう。千日はもはや、千日一人のものではない。
 だが、おそらく今現在この局面において鬼が求めているのは、高天原の血の継承よりもむしろ、鬼に従順な「鬼姫千日」だ。他の鬼姫では駄目なのだ。四家の純血の鬼姫ではなく、千日の産んだ鬼姫なら、あるいはヒトも都合の良い継承者たると認めるかもしれない。けれど、たとえ今すぐ千日が鬼の誰かと情を交わしたとして赤子を産み落とそうとも、その子が育つまで鬼はもたないだろう。だからこそ、鬼は千日を味方につけたい。その手段として、鬼は婿でも取らせて男に入れ込ませて、年若い世間知らずの鬼姫を意のままに操ろうとしている。
 結局は、彼らも神屋と含意していることは変わらない。
 以前神屋に鬼たちが抱える事情について尋ねた時の話の話が、役立った。その事実は鼻持ちならないものであったが、この際そんな些細なことはどうでも良い。
「桐谷冬克とうこく。あなたはこの戦局における鬼姫の使命を履き違えている」
 千日は冷ややかにそう言い放ち、話はそれで終わりかに見えた。
「恐れながら、御身には、格別の血を引く鬼師格から花婿を選んでいただくのが相応しい。何、姫様のお気に召す男鬼なら、一鬼や二鬼でなくとも構わぬのです。姫様には優秀な姫位継承者を多く設けてもらわねば」
 冬克は反省するどころか、更に話を飛躍させた。
 千日の怒気を受けて、いささか苦しそうに冬克が顔を歪める。
 鬼姫に逆らった鬼の前例には、彼の息子による千夜への反逆を目にしていた。それによる結果も既に知るところとなっていたのに、いざ自分の意志一つで他人をどうこう出来るのだという事実に、少なからず衝撃を受けた。
 慌てて千日は、深呼吸をして冬克への怒りを解いた。
「あたしは、そういう回りくどい言い方は嫌いなの。あたしの裁量に任せておきたくないから、適当に婿でも取らせて、あたしの手綱を引こうとしている。素直にそう言ったらどう?」
 出来る限り感情的にならないように、声を落として冬克を見下ろす。
 冬克はほんの一瞬、目を見開いたが、すぐに得体の知れない笑みを口元に刻んだ。
「冬克、姫は聡い。控えよ。もはや、貴様の出る幕などないと心得ろ」
 筆頭四家の当主を相手に、そう断じたのは同じ筆頭四家の当主である綿貫だった。
 綾によれば、筆頭四家の中でも最も位が高い血統の家柄が、綿貫家であるらしい。綿貫家に限らず、筆頭四家には直属の配下である家が二家あるという。そしてその三家を総称して、門閥と呼ぶ。一家門閥の当主の言葉は、鬼姫の次に鬼たちに重く作用するらしい。
 これまで千日と冬克のやり取りを見守っていた鬼たちが、たまらず吐息を漏らす。どうやら息を止めていたようだ。
「でも――そうだね。あたしも高天原血統の継承については、ちゃんと考えておく。あたしにもしものことがあった時に、ヒトの血をひく鬼姫候補は切り札になりえるかもしれない」
 千日は苦々しい思いを堪えて、そう付け加えた。
 ほんの少し前までは、恋愛や結婚をすっ飛ばして自分の子供の話をするだなんて思いもしなかった。するにしても、男の子だったらこんな名前、女の子だったらあんな名前、と思春期の少女らしい妄想で、同じような年ごろの女の子たちとキャーキャー言って盛り上がるくらいで、こんな機械的に時代錯誤も甚だしい後継ぎの話をする日が来るなんて、誰が想像できただろう。
「ご英断を賜り、恐悦至極に存じます」
 初めて、冬克の声が震える。それは悦びというよりは、鬼姫の怒りに触れる恐怖から逃れられたことに対する安堵のようでもあった。
 冬克とて、鬼姫を良いように操ろうとする理由は何も私欲のためではないだろう。彼は彼なりに高天原を鬼姫に頂く昨今の鬼の情勢を、憂えている。それゆえ、至高の存在たる鬼姫に逆らうのだ。
 無心になって、現状から目を背けて命令されるがままに動いていた方が、ずっと楽なのだ。それが、ヒトではなく鬼という血統による絶対的な階級社会を持つ種族ならば尚更であろう。
「ただし、あたしの意志は何があっても変わらない」
「意志……とは?」
 千日は大きく息を吸い込んで、立ち上がる。
 そして腹の内では何を考えているのか知れない鬼たち一人一人の顔を見回した。
「まず一つ。ヒトに対する殺戮行為を固く禁じる。私たちの力は、私たちの命が脅かされた時にのみ振るう。これは命令よ」
 誰より早く、冬克の伏せられていた目が大きく開いた。
 綿貫も片眉を上げ、綾の喉がひゅっとお世辞にも上手いとは言えない吸気音を発した。
 続いて、誰のものとも知れない非難と怒号がそこここから上がる。
 やはりヒトの子はヒトでしかないのだ。
 蛙の子は蛙とは、まこと道理よ。
 ヒトの傀儡の鬼姫を据えたのが間違いであったのだ。
 千日を呪う言葉はとどまることを知らず、大広間を怨嗟の渦へと叩き落とす。
「これはやはり、少々手荒な方法に頼ってでも、姫様を正道に導いてさしあげなければなりますまい」
 冬克が野卑な微笑を口元だけに浮かべる。
 冬克の言葉を受けて、桐谷配下の鬼と思しき人物がゆらりと立ち上がった。おそらく、千日に何らかの精神的外傷もしくは肉体的苦痛を与えて、意のままに操ろうとでもいうのだろう。それに際して必ず生まれる鬼姫に反逆した犠牲は、大義のための人柱というところだろうか。
 千日はじりじりとにじり寄って来る鬼ではなく、冬克に冷えた目を向け、何事もなかったかのように口を開いた。
「二つ。ヒト側に、全ての鬼の市民権を要求する。ヒトに追従せず、鬼が鬼としての誇りを失わない、まったく新しい鬼とヒトの関係を樹立する」
 途端に、鬼たちの間にどよめきが起こる。
 桐谷配下の鬼の足も、戸惑いを孕んで動きを止めた。
「姫よ。我々がそのようなものを望んでいるとお思いか。我らが望んでいるのは、あのケダモノどもに下す鉄槌。ヒトと共に生きる道など、ヒトの殲滅のために生きて来た我々鬼の足跡を踏み躙ると同義というもの」
「ですが、三家当主よ。もはやヒトを下すことなど夢物語に過ぎない。我々は、姫の下でヒトに隷属し、種の存続だけでも図ろうと窮策を講じようとさえしていた」
「それは、貴様ら四家門閥の腰抜けどもの痴れ言であろう。三家門閥は、断固としてヒトのような劣悪種に膝を屈したりせぬわ」
「これだから、三家の連中は頭が硬い。ヒトに刃向かい、生き残れるとお思いか。いっそ、裏切り者の三船率いる二家門閥の方がよほど時局を読んでいるというもの。現実を顧みてはいかがか」
 今にも殴り合いでも始まりそうなピリピリとした雰囲気に、千日は顔を顰めた。
 どうやら鬼たちの間でも意見が一致しているわけではないらしい。
 三船などのようにヒトに迎合しようという者、あくまでもヒトは滅ぼす対象として見ている者、おそらくはどちらに付くか迷っている者など、立場は様々だ。
「そもそも、仮に私たちが姫の案を容れたところで、ヒトはこちらの要求を呑まないでしょう。ヒトは私たちを使い勝手の良い道具としか見なしていない」
 幾分年若い声が、遠くの方から遠慮がちに上がる。
「だから、それをどうにかするって言ってんの。あんたたち、今まで一度でもヒトと話し合いでもしたの?」
 千日はすぐさま噛みついたが、今度は別の所から不信を隠そうともしない声音が飛んでくる。
「……どうやって? どうやってどうにかするのです? ヒト社会の世論は、鬼を歪んだ『共生』に縛りつけるか、掃討かの二択という現状で」
「だからそれは……!」
 冷静な切り返しに逆上して思わずこぼれ出た言葉は、情けなく尻すぼみしていく。
「それは?」
 先を促す冷めた声に、千日は俯き、白無垢の袖をぎゅっと握り締めた。
「……わからない」
 千日の小さな声を、いくつもの溜め息が追いかける。
 僅かに残っていた期待も、失望と諦めに塗り替えられていく。
「恐れながら、姫よ」
 誕生したばかりの鬼姫の宣言を聞いている間、だんまりを決め込んでいた綿貫が、真っ直ぐに千日を見つめた。言い逃れも嘘偽りも上辺だけの言葉も一切通じない。そう感じさせる瞳だった。
「私たちは、無策の鬼姫の無謀についていくわけには参りませぬ」
 ――無策、無謀。
 反論できないことが、情けなくもどかしい。
 綿貫の言葉は、何も彼一人の胸中を表しているのではない。彼が示したのは、鬼の総意だ。鬼たちに様々に働く思惑はあるものの、鬼姫千日に対する猜疑心はいかに意見を対立させる彼らでも満場一致の本音というわけらしい。綿貫は、己の発する言葉の重要性をわきまえた上で、無謀という言葉を千日に突きつけた。
 鬼たちの落胆と憤りはよくわかる。どれだけ自分が不甲斐なく頼りない鬼姫なのかも。
 これが千夜ならどう言うだろう。卑屈に塗り込められる考えを追い出すように、千日は頭を振った。
「行動で、示す。まずは研究所の鬼を連れ帰って来る。そうしたら、認めてほしい。あたしは本気よ。本気で、あんたたちと生きたいって思ってる。鬼姫として。天財千日として」
 千日の宣言が終わるのと、異常を知らせる夜鬼のけたたましい叫び声が外郭の方から聞こえて来たのは同時だった。
 本能からか、突然の事態にも鬼たちが千日を庇うように臨戦態勢に入る。
 続けて轟いた銃声に、闖入者の正体が知れる。
 千日は表情を引き締めて、音がした方へと足を踏み出した。
「待ってください! 何をお考えですか。姫様が奪われては、私たちはヒトの道具になるしか、道はありません。それともやはり、姫様がそうなることをお望みなのですか!?」
 縋るような悲痛な声は、綾のものだ。
 この鬼姫はやはり、鬼を見捨てるのか。
 そんな心の声が聞こえてくるかのようだった。
 鬼を統べる絶対者その人が、鬼を救いのない破滅の道へと導く。そんな事実を突きつけられた鬼たちの絶望は計り知れないほどに深い。
 千日は、綾の指通りの良いおかっぱ頭を掻き撫ぜ、笑顔を向けた。
「言ったでしょ。あっちからお出ましなんだから、都合が良い。研究所に残ってる鬼たちと話つけに行って来る。けど、あたしは何があってもヒトの傀儡にはならない。それだけは、忘れないでいて」
 一片の翳りもない千日の声音は、鬼たちに真実この鬼姫は鬼の味方であると信じてしまいたくなる類の異様な力があった。
 多くの鬼が言葉を失い、千日が面に出て行こうとするのを見送る中、綿貫と冬克は抵抗をやめなかった。
「お待ちくだされ。姫よ。貴女の言葉には、何の証もありませぬ」
 冬克の詰問するような声と綿貫の無言の同意に、千日は一度眉尻を下げ、それからまっすぐに二人と視線をかち合わせた。
「私の最上の使命は、あなたたちを――鬼を守ること。そう心得ています。私に信用が置けないのは、私の力不足です。でも、必ず私は私の使命を果たします。次に会う時、それでもあなた方が私を排除すべきと判断したのなら、あなた方の正道とやらに私を落とし込めば良い。けど、そうでないのなら、私を認めて、私に従え」
 千日は凄むように言うと、興味をなくしたかのように鬼たちから目線を逸らした。
 もはや誰も、千日を阻むものは居なかった。千日が一歩足を踏みしめるごとに、人一人進めるほどの道が出来る。その人垣の間を迷いなく直進していた千日であったが、争いの音が大きくなるにつれ、ついに焦れったくなって駆け出した。
 高天原の門をくぐり、白無垢が足に絡みつくのを窮屈そうに捌きながら、石段を駆け下りる。
 桐谷配下の鬼が暮らす旧市街には、鬼とヒトが溢れ返っていた。まだ戦闘が始まって数分と経っていないのに、路肩には両陣営の骸が横たわっている。
「お望み通り、来てやったわよ! 今すぐ、戦闘を停止して!」
 千日の怒声が、戦野に虚しく吸い込まれていく。
 ヒトは千日を求めて鬼の牙城・高天原に乗り込んで来たはずなのに、その当人を目の前にしても戦闘行動をやめない。彼らの眼中には倒すべき敵の姿しか入っていないようだった。それは鬼の方も同じようで、人形も夜鬼も夕鬼も、仕えるべき鬼姫の出現に気づきもしない。
 千日は黒山のような人だかりの向こうに、見知った顔を見つけて、声を嗄らすように叫んだ。
「寅さん!」
 言うなり千日は、弾丸が飛び交い、兇刃が振り上げられる戦場のただ中を走り出した。遠かった距離はぐんぐん縮まってゆき、やがて目当ての人物の元まで辿り着く。
 千日は、剣を振るう雉門の背中に思いきり取りついた。
「うわ!」
 驚いたような声が上がり、一瞬殺気を向けられる。けれどすぐにそれは、慣れ親しんだ、娘に向けるがごときまなざしへとすり替わった。
 それから彼の瞳が、少し驚いたように千日の格好を凝視した。それもそうだろう。結婚式でもないのに白無垢を纏い、しかも戦場を駆けたせいで、その純白には赤い色が混ざり、斑模様のようになっている。異様とも言うべき姿だった。
 少し痛ましげに、雉門が千日を見やる。雉門は理解しただろう。千日が何者となったのかを。
「無事だな。……ったく、心臓が止まるかと思ったぞ」
 獰猛に振るわれる夜鬼の爪を刀で弾きながら、雉門はいつもと変わらない調子の短い言葉を千日に寄越す。剣戟と悲鳴と怒号と雄叫びとに掻き消されて、それはかろうじて千日の耳に届いた。大目玉を食らうかと思っていた千日の眸はゆるく円い曲線を描くが、すぐに険しい顔に戻る。
 腹が膨れるほど大きく息を吸い込み、千日は雉門に向かってがなりたてた。
「ヒトに戦うのをやめるように言って! あたしも鬼に手を引くように言うから」
 千日の必死の訴えに、雉門は物分かりよく頷いた。
 良く通る声が、高天原からの即時撤退を言い渡す。
 千日も、ようやく鬼姫の呼びかけに聞く耳を持ったらしい鬼たちに向かって声を張り上げた。
「皆も、手を引いて!」
 本当は、なすべきことを果たしたら戻って来ると訴えたいところだが、千日の考えをヒトに気取られるわけにはいかない。言葉足らずな命令は、鬼姫の言霊をもって、鬼に聞き届けられた。無理矢理従わせるのは性に反するが、おそらく姫位継承の儀の場に居た上級鬼たちが、千日の言葉を代弁してくれるだろう。もっとも彼らを納得させたわけでもないから、これからの千日の手腕に全てがかかってくるわけだけれども。
 ふと、千日は己に向く強い視線に気づいた。
 戦闘行為を停止した鬼たちがじりじりと後退していく中で、冬日を浴びたその二つの影は、妙にくっきりと千日の視界に焼きついた。彼らの白銀に輝く美しい刀の刃は、同族の血を吸って光彩をなくしている。周りの戦闘員たちよりずっと卓越した身体能力を持ちながら、誰より深い手傷を負っていた。おそらく、鬼たちに執拗に狙われたのだ。鬼たちも言っていたではないか。ヒトに寝返った彼らを、「裏切り者」と。
 そのどこか虚ろな瞳を見つめ返し、千日はきつく唇を噛んだ。
 彼は、否、彼らは、これ以上誰かが傷つくのは見たくないと叫んだ。敵だか味方だか曖昧な境界線上で、数多の「兄弟」をなくした。ヒトに下ることを選んだ。選ばざるをえなかった。
 何を出来る。何が出来る。
 どうしたら彼らの瞳から、その深い悲しみと怒りと諦めとを、取り除ける。
 立ちすくむ彼らの姿が、千日の決意を鈍らせる。薄弱な夢よと嗤う数多の声が己の内奥で木霊する。
 千夜は鬼姫の傍らにはいつだって、鬼姫を支える仲間がいると言った。それが鬼姫になることだと言った。けれど現実はそうはいかない。否、千日はおそらく、本当の意味で鬼姫になれてはいないのだろう。
 欲しいと思った。喉から手が出るほど、胸を掻きむしりたくなるほど、無性に欲しいと思った。同じ夢を見る、仲間が。
 ヒトと鬼の合間に燻る千日は、同じはみ出し者の仲間を何より望んだ。鬼たちの信を得るため、もちろんその目的もある。けれど、ただただ泣きたいほどに願う。同じ志に生きる、仲間が欲しい。
 三船と九重の瞳が、ゆるりと瞬く。
 たまらず、千日は駆け出した。叶うなら、思いきり抱きしめて、もう大丈夫だよと言葉をかけたい。けれどそうするには、何もかもがあまりに遅すぎて早すぎて、そして彼女は役者不足だった。欠陥だらけの理想を抱えて千日が出来るのは、共に闘う覚悟を問うしかない。十分戦って喪って来た彼らに、尚も戦いの運命を強いるしかない。けれど、そうしなければ、全てが落ちて砕けて腐って消える。
「三船さん、九重さん」
 ごめんなさい、と赦しを乞いそうになるのを必死で飲み込む。彼らはきっと、赦すだろう。赦さざるを得ないだろう。鬼姫は、千日は、彼らの支配者だ。
「帰ったら、話があるの。鬼の皆を、集めておいてほしい。誰にも、会話が漏れないようなところ」
 千日の言葉に、三船が笑う。それはあるいは、嗤笑というべきものだったのかもしれない。
「鬼姫。何を企んでいるのか知らないが、俺は所長とは一番癒着してんの。知ってるでしょ?」
 暗に、何か後ろ暗いことがあるなら、密告も辞さないと示している。
「それ、わざわざあたしに言っちゃうところが、なりきれてないっていうのよ」
 千日は苦笑し、瞳をかち合わせた。真っ直ぐに、苦虫を噛み潰したような顔をしている三船の目を、それから九重の目を見つめる。
「わかってる、だけど」
 千日は言葉を切り、前方から己の名を呼ばう雉門に軽く手を上げて応えた。
「欲しいものがあるの」
 そう言うなり、雉門の元へ駆け出す。複雑そうに顔が歪められる気配を背中で感じたが、それには振り向かない。
 あなたたちを信じている、とは言わなかった。千日が抱くのは、そんな曖昧でふわふわとしたものに任せられる望みではない。千日は全力で、研究所に、神屋に真っ向から勝負をしかけなければならない。そして、彼らを待つのではなく、彼らを勝ち取りにいかねばならないのだ。この鬼姫になら、命を預けられると、そう思わせなければならない。そう思わせるに足る鬼姫に、ならなければならない。
 ただ、これで千日自身の彼らに対する信頼は、示せたように思える。正直、どう転ぶかわからない綱渡りをしている自覚はある。本当なら、鬼姫として彼らに協力を命じるのが得策だろう。けれど、勝ち取りたいのは彼らの肉体ではなく心だから、千日は言葉を尽くすことに決めた。
 これまでに彼らと過ごした月日はきっと、千日を裏切らない。
 千日は雪の止んだ鉛色の空を見上げた。降り注ぐ一条の光は儚いが、澱んだ空模様の下で、それはまるで吉兆か何かのように見える。
(大丈夫)
 千日は己を励ますようにそう呟き、雉門の大きな背中を追いかけた。


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