鬼の血脈 降誕と水死する恋[三]



 高天原の外郭を脱してすぐ、千日は高機動車に乗せられた。脱ぎ捨てた白無垢の代わりに、飾り気の欠片もない迷彩服に着替えさせられる。後部座席には千日と雉門の他に屈強な男たちが配され、彼らは敵を警戒すると共に護送対象者の動きの細部に至るまでを監視していた。前方の車両には三船が、後方の車両には九重が乗車し、鬼の襲撃に備えているという。心身ともに疲れ切っていた千日は逃げ出すどころではなく、そもそも逃げ出すつもりもなかったが、研究所に着くまでの一時間と少しの間、体力と気力の回復のために睡眠を取って彼らの視線をやり過ごした。
 研究所に辿り着いた千日が一番に向かわされたのは、やはり所長室であった。雉門のノックの音に顔を上げた神屋はいくらか顔色が悪く、細い顔立ちにくまを浮き上がらせていたが、千日の姿を認めると一瞬の間ののち、微笑を乗せた。
「おかえり。心配したよ」
 心にも思っていないであろう台詞を吐き、神屋が珍しく執務机を離れて歩いてくる。
「ご機嫌はいかがかな、女王様」
 そう言って神屋は千日の仏頂面を覗き込み、恭しく手を取ってみせる。
 千日はその冷えた手を一瞥し、それからじっと神屋の瞳を見据えた。
「最悪よ。……怒らないの?」
 神屋の様子からは、千日の逃亡が原因で奔走したことが窺い知れる。彼は以前、ヒト同士のことには介入するなと言ったが、今回の一件は日々鬼ばかりでなくヒトを相手にしなければならない“神屋所長”をひどく摩耗させたはずだった。
 また殺されかかるかもしれないな、などと考えていた千日は、神屋の態度に拍子抜けする。
「君を殺さずに済んで、ほっとしている」
 そう言った声音が妙に親しげで、千日はぎょっとする。
 いつか高天原の外郭付近に立地する空き地で、神屋が見せた狂気が自然と思い起こされた。この鬼狩りの棟梁は、千日に過去の亡霊を見るのだ。千日の父親である、一斗の亡霊を。
 千日が反応するより速く、雉門が影のように動く。するりと間に割って入り、千日の手を神屋の手から取り戻した。
 呆気に取られる千日をよそに、雉門は何事もなかったように所定の位置に戻る。それで神屋の夢も醒めたらしい。
「君は鬼姫として我々の手に戻って来た。だから、僕個人としてはうるさく言うつもりはない。けれど、九重令の甘言に乗って君が短慮な行動に出たせいで、ヒトにも上位血統の鬼にも犠牲が出た。まあ、健康で扱いやすい律が残っているのなら、問題なく繁殖は可能だ。九重の血脈の存続にも支障はないから、構わないけど」
 繁殖、血脈の存続。
 神屋には、もう何かを期待をしていたわけでもない。千日のことも、鬼を兵器にするための器としか見なしていない。
 わかっていたから、怒りはなかった。怒りはなかったけれど、途方もない虚脱感に見舞われ、千日は言葉もなく立ち尽くした。
「政府は必死に揉み消そうとしているけれど、この一件で君が裏切ったのではないかという『デマ』が流れた。国民感情を悪戯に煽るのは、感心しないよ。ただでさえ鬼の殲滅を訴える活動家と称した低能どもが、政府の『共生』の方針を糾弾しているただ中だ。鬼の殲滅に転べば、鬼はこの世から永遠に息絶える」
「随分と、鬼を気に掛けてくれるんだね。鬼狩りの棟梁様は」
 皮肉を込めて、千日は大量の書類の山が築かれた執務机の方に戻っていく神屋の背にそう呼びかける。肩をそびやかした神屋の姿はどこか芝居めいていて、何となく癇に障った。
「だって僕は、鬼を愛しているからね」
 所定の席につき、組んだ手に顎を乗せて、神屋はそう確言した。
 大きく目を見開き、それから千日はきつく神屋を睨みつけた。そんな千日の態度を気にも留めず、神屋は涼しい顔で続ける。
「個体一つ一つは圧倒的なまでの強さと生命力を持ちながら、こうして天女の羽衣さえ奪ってしまえば、種族そのものが揺らぐ。その凶暴なまでの魂、肉体の気高さと、血に支配された薄弱な運命の対比は、いっそ美しくさえある」
 婀娜っぽく口角を上げて、神屋は凄烈に嗤う。
「憐憫を誘う種族だよ。君は、中でも飛びぬけて滑稽だ」
 千日は、燻っていた炎が再び燃え盛るのを感じた。
 なるほど圧倒的な力の元に立脚した神屋は、無粋な既成観念に凝り固まった人々を憎み、鬼の純粋なる強靭さを君寵に足るものと心得てはいるらしい。
 けれども、そんなものは愛とは言わない。少なくとも千日はそう思う。幼児が与えられた玩具を無邪気に破壊し尽くすのによく似ている。大人のように悪意も自覚もなく、彼は野に咲く花を手折るのだろう。それを彼は、美しいと呼ばい、愛と名づけた。
 千日は硬く拳を握り締めたが、結局は何も言わなかった。今言葉を発すれば、千日の主張したがりの口は、翻意さえ告げてしまいそうな気がした。
「ただ、次はないからね。君は大人しく、繋がれていなければ困る」
 言うと、神屋は片手を無造作に振って、千日を所長室から締め出した。
 神屋は、千日の失踪もとい反逆を厳しく咎めはしなかった。いつものように千日が感情にまかせて行動したとでも思っているのかもしれない。あるいは、千日の背反に気づいたかもしれない。だが、そんなことが起こるはずもないと高をくくっているのかもしれない。
 千日はヒトとして育った。その事実は変えようがなく、全てを捨てて鬼に走るなど不可能だ。天女に羽衣とは言い得て妙である。千日は咲穂や寺田、雉門や海堂を捨てて鬼となることは出来ない。彼らが千日の羽衣だ。神屋はそれをよくわかっていて、しかし千日が第三の選択をしたことを知らない。
 ふと視線を感じて顔を上げると、廊下の先に海堂の姿があった。
 おそらく彼も、千日の護衛兼見張り役の一人なのだろう。
 丸一日分すら離れていなかったのに、何だか随分長い間会っていなかったような気がする。千日が一歩足を踏み出すより早く、海堂が転げるようにして駆け寄って来る。
「天財!」
 蒼白な顔に、千日の良心が傷んだ。千日の失踪は、正しい意味で海堂にも伝えられたはずである。
「ごめん、ただいま」
 自然、口をついた言葉はやましい嘘を孕んでいる。ここを出て行こうというものを、まるで帰る家のようにただいまとは、甚だおかしい。
「怪我は?」
 千日の無愛想な迷彩柄の制服を上から下まで眺めて、海堂が焦れたように言った。
「かすり傷よ。それに、もう治った」
 特に気負うことなく言ったつもりだったが、海堂は千日の言葉に苦しげな表情を見せた。
 それを押し込めて、海堂が無表情に西日の射しこむ窓の外を見やる。すっかり晴れ渡った夕映えの空は、橙というよりはむしろ流れ出る血潮に似た色をしていた。
 海堂に落ちた斜陽は、その端正な顔立ちに濃い陰影をつくりだしている。
「お前が消えた後、俺たちは揃ってお前の部屋に向かった。でもそこで、凌が催眠ガスをばらまいた。俺と琢真とはらたけはころっとやられた。ざまあねえよ。神屋さんが注意人物として扱っていたのに、俺は完全に油断していたみたいだな」
 乾いた笑いを見せる横顔が、物悲しい。
 千日が令と初めて出逢い、高天原に連れ去られた後も、感情を一切失った顔をして海堂は常に仲間の裏切りを想定していると明言した。思えばあの時も、凌は令と内通していたのだろう。
 けれど仲間として過ごしていくうちに、海堂は彼らを、そして千日を信頼するようになっていった。
 もう一度信じようとした後での凌の裏切りだ。あの時よりずっと荒んだ空気が絡み合い、千日の呼吸を乱す。凌は忠実に鬼としての使命を果たしたにすぎないが、海堂にとっては違うのだ。
「目を覚まして、悔やんだよ。またお前を守れなかったのかと思った。けど、朦朧とする意識の中報告を聞いて、耳を疑った。お前はおっさんと九重さんの制止も振り切って、高天原に向かったそうだな」
 語る声は淡々としていて、凪いでさえいる。
 しかし瞳はぎらぎらと凄絶な光を放っていた。その烈しい光が、つと途絶える。海堂が睫毛を伏せたためだった。
「俺には、お前がわからない」
 絞り出された声は、一転して震えていた。
「どうして鬼姫に――高天原千夜に会いに行ったりした? あそこには、お前のことをつけ狙っている桐谷迅もいた。お前の学校の友達を手に掛けた奴らの巣窟だ。行ったところで、一日と経たないうちに戻って来る。俺には、お前が何を考えているのか、さっぱりわからない」
 千日は自身の掲げた方針を海堂にも話すかは、正直なところ迷っていた。
 七福神で唯一鬼の血を持たない、純粋なヒト。しかし彼は、仲間だった。話せばわかりあえると、そう思った。今は凌の裏切りに心を閉ざしていても、いつかはまた心を開いてくれる。だって、海堂はずっと千日を守り、七福神の仲間を守ってきた。鬼は嫌いなようだったが、でもいつかはそんな思いを克服してくれる日も来るはずだ。
「……海堂、あの、あのね」
 思い切って、たたらを踏む。
 海堂の眼差しにきつく捕らえられる。
 ついに口を開こうとしたその時、淡い黒の羽織から伸びた日に焼けたまだ真新しい傷が刻まれた太い腕が、千日の目の前を横切った。驚いた千日が目を上げると、三船がもう片方の手に山ほどの書類を抱えて立っていた。
「はいよ、海堂ちゃん」
 千日が瞬きをしている間に、三船は勝手に海堂に書類の束を押しつける。鼻白んだ海堂は千日の顔を一瞥したが、結局大人しく三船の献上物を受け取った。
「これは?」
「所長から、鬼狩りの家の方のことで、だってさ。遅くまでごくろーさん。千日ちゃんは、おっさんが送ってくわ」
 海堂は渋い顔をしたが、手渡された文書をほんの数秒眺めていたかと思うと、仕方なしといった具合で了承した。
 千日は足早に海堂が廊下を去っていくのを眺め、それから三船に目をやった。
「何で、邪魔したのよ」
 こっちはそれこそ愛の告白と同じかそれ以上に緊張しながら、海堂に話を持ちかけていたのである。それを無粋に妨害されたとあって、千日の機嫌はたいへんに損ねられた。
「あんな目ェして言うことなんて、余程のことだと思ってね」
 あんな目とはどんな目だろうか。
 考える間もなく、三船は歩きだした。慌てて千日は三船の次第に小さく、低いものになっていく声を追いかけた。
「おっさんへの内緒話と、あのヒトの坊やに言おうとしてたことは同じ。違う?」
 千日は軽く目を瞠る。三船の言うとおりだった。
 どこかぼかした表現とわざと立場の違いを浮き彫りにさせる物言いをしながら、世間話でもするような気軽な様子で三船はふらふら歩いて行く。それで、千日の頭も冷めた。ここはヒトの巣窟。誰が聞き耳を立てているかわからない廊下で、気軽に口に出して良い話ではなかった。海堂の様子に気を取られるあまり、感情に身を任せてしまった。
 千日のへの字に結ばれた唇を笑って、三船は廊下を右に折れた。
「それに、あまり周りを信用しすぎるのは良くない」
「……でも海堂は、あたしたちのことそんなに嫌いじゃないと思うよ」
 自信なげに多分、と付け加えて、エレベーターがやってくるのを待つ。
「そういう個人の感情は、大きなうねりの中ではあまりに脆い。俺は、気の良いヒトの連中も、鬼の連中も沢山知ってる」
 それでも争いの連鎖は止まらない。つまりはそういうことだった。
 他でもない三船の言葉だから、抗いがたい説得力を感じさせる。
 だが千日は、海堂ならばわかってくれるのではないかと思う。現に、事情に深く通じていないとはいえ、ヒトである咲穂や寺田は千日を断罪しなかった。
「おっさんは、何であたしを……庇ったり? したの。たか――あっちじゃ、あんなこと言ってたのに」
 エレベーターに乗り込むと、瞬く間に階下に辿り着く。その間、三船は口を開かず、ぼんやりと階数表示を眺めていた。
 千日は何となく答えを早く言って欲しいというもどかしさに駆られながら、辛抱強く三船の言葉を待った。
 エレベーターを降りると、途端に人通りが激しくなる。
「ま、こんなおっさんにも鬼姫を気遣う気持ちくらいはあったっつーことじゃない? 千日ちゃんがトラブル起こしたら被害受けるの、俺らだしね」
 センターを後にし、十数メートルほど歩いたところで、三船がぽつりと漏らした。
 それが本音だろう。三船は利害を超えて動こうとはしない。けれど、その中に彼自身の思いが生きていないわけでもない。
 共有施設棟から伸びた長い影は千日と三船をすっぽりと包みこみ、冷気が容赦なく肌を刺す。宵のほとりはひそやかにすぐそこまで迫っていて、寄せては返す波のように、朝と夜の間を行き来している。
「千日ちゃん」
 影が途切れる。立ち現れた西の空では、夕闇の青が血潮を押し流そうとしていた。
「四人集まった。俺の部屋なら、何も仕掛けられてない」
 そっけなく言った三船は、千日の一歩先を歩いていて、表情が見えない。
 千日の眸が瞠られ、そのまま言葉もなく立ち止まる。
 それからにへらと笑み崩れ、千日は居住区への道程を三船の背中を追って歩いて行った。


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