鬼の血脈 降誕と水死する恋[四]



 七福神にあてがわれた居住区三号館の扉を開くと、殺風景なエントランスが住民を迎え入れる。一階部分には簡素なソファとテーブルが備えてあって、さながら宿泊施設のロビーのようだ。
 普段は二階の私室か居住区外に居るために一階に人影があることは稀だが、珍しいことに今日はソファに若槻が腰掛けていた。三船と千日に気づくと、立ち上がって駆け寄って来る。
「あ、あ、あね、姐さんっ」
 若槻はしゃくり上げるように言って、呆気に取られて立ち尽くしている千日に手を伸ばしかけた。
「良かったです。無事で。姐さんに攻撃命令が出たって聞いて、俺……ほんと、居ても立ってもいられなくて」
 結局千日の肩に触れかけた手は、あえなく宙を彷徨い、下ろされる。
「うん、ごめん。それに、待っててくれたんだね。ありがと」
 ソファからずり落ちかけている毛布に目をやって、千日は微笑む。
 おそらく強制睡眠から覚めた若槻は、こうしてずっと千日の無事を願い帰りを待ちかねていたのだろう。
 何だか、目の辺りがじわじわする。
 理屈抜きで千日という個人を当たり前に気に掛けてくれる存在というのは、存外今の境遇に沁みるらしい。
「積もる話があるなら、おっさんは先行ってようか? ただし海堂ちゃんが来る前に切り上げちゃってちょうだいよ」
 何故かにやにやしながら、三船が言う。
「おっさんは余計なこと言わないでください!」
 鼻息も荒く若槻が怒鳴る。
 どうやら若槻は三船の言う積もる話よりも、千日の呼びかけに応えようとしてくれたらしく、ソファにあった毛布を引っ掴んでずんずん歩いて行ってしまう。
 何だありゃ、と怪訝に思っていると、ぶっくくくと下品な笑いをこぼしている三船と目が合う。悪態を吐きながらその背中を力いっぱい押し押し、千日は階段を上り切る。
 炯都組の部屋は、以前来た時より酷い有様になっていた。
 広げっぱなしの雑誌と缶ビールなんてものはまだましな方で、いつ食べたのかわからないカップラーメンの容器やら、カビ的なアレがくっついた皿なども放置してある。この分では、黒光りする頭文字Gが居ても千日は驚かない。驚かないが、叫ぶ自信はある。既にやって来ていた九重が、溜め息を吐きながらゴミをポリ袋にせっせと詰めている。中原もさすがにこの惨状はまずいと思ったのか、九重を手伝っていた。うっかりエロ本を発掘して赤くなったり青くなったりしている辺り、かわいげがある。
「あ……」
 千日の到着に気づいた中原が、声を漏らす。
 まじまじと千日を見つめ、何かが腑に落ちたとでも言うように、けれどどこか納得しがたそうに頷く。
「やっぱ……鬼姫になったっていうの、ほんとなんだな」
「……わかるの? 何かそういう、鬼ミラクル的なやつで?」
「何だそりゃ。オレたちは、相手の鬼が自分より上位か下位かは本能でわかるんだよ。今存在する鬼の中で、誰が最も高位の女鬼かもな」
「それってば、鬼ミラクルじゃん」
 千日がそう結論づけると、中原に渋い顔を返される。
「千日ちゃん、甘いのと苦いの、どっちがいい?」
 九重にココアとコーヒーを差し出され、迷わずココアを選んだ。腹ペコだったことを今更思い出して、テーブルに置いてあったおにぎりにも手を伸ばす。高速で二つ平らげてから、千日は大きく息を吸って吐いた。
 腹が減っては戦は出来ぬ。腹ごしらえはもう済んだ。あとはもう、出陣あるのみだ。
「あのね。今日皆に集まってもらったのは、話があるからなの」
 中原が不審そうに千日を見やる。三船はへらへらとした軽薄な笑みを崩さなかったが、その目が笑っていないことくらい、いい加減千日にもわかっている。九重は表情もなくただ静かに佇んで、事の次第を見守ることにしたようだ。若槻だけは、正座までして千日の声に一心に耳を傾けていた。
「あたしは、おっさんたちが賛同してる、ヒトのくだらない計画には乗らない。近く、ここを出る」
「……なら、どうして戻って来た? いくら鬼姫とはいえ、強化されたここの警備の目をくぐり抜けるのは至難の業よ。前科も出来た。鬼姫だからこそ、この監獄は千日ちゃんを逃さない。おっさんは、一時の鬼への情で動かれて、鬼を皆殺しにされる方がずっと恐ろしいね」
 それに俺は、千日ちゃんの看守でもある。
 揶揄するような口調で、三船が千日の言葉に何ら心を動かされていないことが知れる。
「欲しいものがあったから」
 そう、つい数時間前の言葉を繰り返すと、九重の眉が顰められた。
 彼がいらいらしているところなんて、滅多に見られるものではない。
「欲しいもの?」
「そう。あたしは、七福神に、鬼側に来てほしい」
 三船と九重の瞳がそれぞれほんの一瞬、激情に絡めとられた。瞬きをした次の瞬間、その熱は嘘のように霧散する。巧妙な細工が施された仮面を被ってでもいるかのようだ。彼らは、この期に及んで本心を千日にぶつけない。苛立ち、胸倉を掴まれでもした方がまだましだ。
 苦しい。近づかない距離が、もどかしい。足りない。何もかも、足りないのだと痛感する。
 歯を食いしばる。他の二人はと視線を動かすと、困ったように、躊躇いがちに仰向いた若槻の姿が目に入った。
「姐さん……でも、俺たち――いや、おっさんや九重さんたちがここに居るのは、そもそもヒトに対する勝機を見出せなかったからで、今更鬼が団結したところで結果は見えて――」
「あたしは戦うなんて、一言も言ってない。あたしの目的は、ヒトの殲滅じゃなくて、当たり前のようにヒトと鬼が一緒に暮らせる世界をつくること。迫害もなく、隷属種としての扱いも受けず、ヒトと何ら変わらない生活を送れる保障を、約束させる。つまり、鬼の市民権を、ヒト側に認めさせるのが、あたしの最終目標」
 若槻と中原の瞳が瞠られる。
 若槻が何事かを口にしようとしたが、それよりも早く、三船が言葉を継いだ。
「夢物語だ」
 ぶれの欠片もない断定口調。
 若槻が、こぼしかけた言葉を飲み込んで俯く。
 千日は顔を上げたまま、辛抱強く続けた。
「……綾ちゃんに聞いた。ヒトとの密約で助かるのは、七福の皆と、おっさんが率いる二家門閥――主家である三船家、左右両家の中原家・穂浪ほなみ家。そのうちの人形鬼のみ」
 千日は、三船から九重へと視線をずらす。
「四家門閥――九重家が秘密裏にヒトと手を組んでいるかもしれないっていう噂も聞いた。けど、多分、それが本当の話であれ、助かるのはごくわずかの鬼だけ。このまま行けば、全国に分布する鬼の九割は皆、隷属種としてヒトに下る」
 九重が千日の指摘を受けて、わずかに身じろぎをした。
「あたしは鬼姫として、天財千日として、これを認めるわけにはいかない。咲穂は――あたしの親友は、あたしを信じてくれた。ヒトの中にも、待っててくれる人たちが居るの。それに寅さんや海堂だって、あたしたちと種族なんて関係なく、話そうと、わかろうとしてくれてる。あたしはあたしの目指すものが、現実からかけ離れた夢物語だとは思わない」
 千日は言葉を切り、すうと息を吸い込んだ。
「でも正直、あたしのこの話は、高天原で鬼たちに相手にもされなかった。それで、あたしはあの頭の固い連中に、あんたたちを連れ帰ることを条件に、あたしの本気を認めてほしいって捨て台詞を残して来たの」
「そんな勝手な」
 思わず声を荒げた中原に、千日は透明な瞳を向けた。
「今話したのが、あたしの――あなたたちの鬼姫の意志。あたしはあんたたちに鬼への寝返りを要求する。皆の考えはどうあれ、あたしの言葉には皆、従わざるを得ない。ただ一つの選択を除いて」
 千日は立ち上がり、順に鬼たちの顔を見つめた。戸惑ったような顔、ついに反感が露見した顔、固唾を呑んで成り行きを見守る顔、一切の表情をなくした顔、その全てを瞼の裏に焼きつけるようにとっくりと眺める。
「期限は日付が変わるまで。長くは待てない。選んで。あたしに従うか、それともあたしと一緒に心中するか」
 千日は静かに叩きつけるような言葉を残して、踵を返した。
 扉に手を掛け、後ろ髪を引かれる思いを殺して、廊下へ出る。
 その場に崩れ落ちそうになる身体に鞭を打って、殺風景な廊下を通り過ぎ自室を目指す。パタンと扉が閉まる音を背で聞いて、ようやく全身の強張りが弛緩する。それから祈るように、眉間から鼻筋にかけてを合わせた両手の間に挟み込み、大きく息を吐いた。
 チッチッと変哲のない音を響かせる壁時計に目線だけを動かす。無感情に時を刻む時計が、明日までの刻限を示している。時刻は十七時三十五分。運命などに身を任せてやるつもりは、更々なかった。

 カーテンから覗く窓の外はすっかり黄昏を連れ去り、湿った黒に覆い尽くされている。蛍光灯の人工物めいた光は煌々と室内を照らし出しているが、それは一人でいることを一層際立たせているように感じられた。千日が高天原から帰還する以前から、この二人部屋を空けたままでいる同居人の海堂は、まだ戻る気配がない。
 若槻はベッドに仰向けに寝そべったまま、蛍光灯の光に手を伸ばした。光に縁取られた影絵めいた手のひらを眺め、浅く溜め息を吐く。
 ――あたしに従うか、それともあたしと一緒に心中するか。
 まったく無茶苦茶なことを言うひとだと思う。
 そんなことを言われては、若槻に出来る選択は一つしかない。
 けれど、すぐに彼女の元に答えを携えて赴かなかったのは、自分の気持ちに白黒つけたかったからだ。
 “流されて”“仕方なく”“自覚と責任なしに”選んだ答えに縛りつけられて生きるのは、もうまっぴらだった。
 恩ある主家の娘・撫子を助けたくて、青臭い感情を振りかざして、桐谷の家を出た。それは、ひいては高天原に背を向ける行為だというのに、目の前の誰かを助けること以外何も見えなくなっていた。撫子を殺させたくないという思いは本物だった。けれど、後悔しなかったと言えば嘘になる。そんな自分だから、がむしゃらな懸命さだけをウリに、神屋の赦しを得て撫子との面会を果たしてからこっち、彼女には嬉しい顔一つ向けてもらえていない。当たり前だ。撫子を救い出すという決意を固めてやって来た男ならまだしも、若槻は戦う覚悟すらしないままに、他人の生を歩いているような感覚で何にも責任を持たないで、ただ生きていたのだから。信念も何もない。
 でも、そんな自分にも確かにあった気持ちがある。
 若槻はまだどこか華奢な己の腕を眺めた。息を吸って腹に力を込めて、勢い良く起き上がる。
「……ちゃんと決めたよな。あの女に向き合うのに恥ずかしくない俺でいられるよな」
 確かめるように頷いて、若槻は袖が伸びきったカーディガンを羽織ると、背筋を伸ばして歩き始めた。

 この夜、千日の部屋に初めてのおとないがあったのは、十九時を少し回った頃だった。
 ノックの音に身体中に痺れが走る。
「はーい!」
 大きく返事をして、千日は珍しく長い間向かっていた机から身体を離した。
「俺です。若槻です。話があるんで、入れてもらえますか」
 心臓が早鐘のように鳴りだす。
 千日は慌てて部屋の入口まで向かうと、扉の取っ手に手を掛けて引いた。
 くたびれたグリーンのカーディガンがまず目に入る。そこから視線を上げていくと、微笑んだ若槻の瞳にかち合った。いつもと変わらない好意的な態度に、千日はほっと胸を撫で下ろす。正直、彼は千日の最後の生命線と言っても過言ではない。
 千日も表情を和らげて、一歩後ろに下がって若槻を招き入れる。
(あれ……?)
 いつもと変わらないと思っていた若槻の瞳に、いつもと違う何か強い光を感じて、千日がしばしまじまじと目の前の男の横顔を眺める。
「そんなに近くで見つめられると照れます」
 若槻は言葉通り頬を染めることはせずに苦笑して、千日の横を通り過ぎる。時折こうして見せる大人びた態度と、いつものからかいがいのある「後輩くん」のどちらが本当の若槻なのか、千日には量れない。軽口を返そうとして何も思い浮かばず、千日は押し黙って若槻の後に続いた。
「あ、そこ座って。何か淹れるよ。お茶が良い? 紅茶、コーヒー? ジュースもあるけど」
 テレビの前に陣取った一人掛けソファを示して、千日が言う。
「折角ですけど、お構いなく。多分、ゆっくりしてる暇はないので」
 カウンターテーブルに向かおうとした千日の背中に、いくらか硬い返事が投げられる。
 ゆっくりしている暇はない。
 問題のある選択肢を突きつけた手前、妙な勘繰りをして千日の全身が強張る。
「そんなに怯えないでください。俺は、絶対に姐さんを傷つけない。これだけは、誓って言えます」
 丸テーブルを挟んで向かいの揃いの一人掛けソファに、千日も収まる。
「……夏の終わりごろ、姐さんに情けない姿を見せちゃった時ありましたよね。桐谷迅がこちらに踏み込んで来て、俺はやられっぱなしで、その後の医務室でのことです」
「……琢真が、七福神にメンバー入りした経緯を話してくれたんだよね」
「はい。そこで、俺、姐さんに言いました。俺は何とも戦いたくないって。あの時、俺の言葉はただの現実からの逃避でした。でも、姐さんがさっき話してくれた理想を聞いて、俺は俺の気持ちをようやく『言い訳』から昇華することができたんです」
 そう言って、若槻はソファから立ち上がり、千日の元まで歩いてくる。
 千日の爪先に触れるか触れないかの位置で立ち止まり、その場に跪いて千日の右手を取る。ゆるりと上げられた眸は、濁りなく澄みきり、真摯に千日を憧憬を込めて仰いだ。
「俺は、ヒトも鬼も区別なく共に暮らせる世界をつくりたい。そのために力を使いたい。だから従います。鬼姫。あなたを守るために力を振るうのを、もう恐れない」
 若槻は最後に微かに微笑むと、千日の指先にそっと唇を寄せた。冷え切っていた指から手の甲へと、灯りがともるように熱が伝わる。
 どこまでもやさしい、けれど揺るぎない決意の証が、千日の肌に焼きつくようだった。
 千日は声にならない声を上げて、やっとのことで明後日の方向を向く。左手で顔を覆うと、ソファの肘掛けに縋りつくように身を寄せた。
「姐さん?」
 少々動転したような声。若槻はすぐさま立ち上がると、ソファの周りをあたふたと右往左往し始める。
「気分悪いとかですか? それとも俺が何か気に喰わないとか? 水飲みますか? もし邪魔なら俺出ていきます!」
 思いつく限りの言葉を端から並べ、落ち着きなく歩き回る若槻の手を、千日は引いてこちらに向き直らせる。
「ちがうの」
 まだ顔を伏せたまま、千日は言葉を絞り出す。
「あたし、思った以上に、嬉しいみたい。威勢の良いことばっか言ってたけど、本当は怖くて、不安で、仕方なかった」
 そう言って、酷く崩れているに違いない顔を若槻に向けた。気持ちが伝わるようにと願って思いきり笑う。
 若槻が、目を瞠るのがわかった。それはそうだ。今、ぼろぼろ溢れてくる涙をとどめる方法など皆無で、泣いているんだか笑っているんだか自分でもわからないことになっているのだから。
「嬉しい。嬉しいよ、琢真。ありがとう。あんたが、仲間で良かった」
 言って、千日は若槻の手の甲に、こつんと額をぶつける。
 一瞬の沈黙ののち、若槻が再び床に膝をつく気配を感じた。
「俺もです。俺も、姐さんが俺の鬼姫で、仲間で良かった。心から、そう思います」
 囁き声は大きなものではなかったけれど、千日の心に沁み渡る力強いものだった。
 かたりと窓を打つ音で我に返る。
 千日が身構えるよりずっと速く、若槻が険しい顔で立ち上がる。
 カーテンの向こうには何もなく、音を仕掛けたのが風の悪戯と知れても、若槻は警戒を解かなかった。
「他の皆から、返事はまだないですよね?」
「え、うん。琢真が最初」
「……何か勝算はあるんですか」
 真っ直ぐな瞳が千日を急かす。だが、千日は罰が悪そうに唇をへの字に結んで、しばし目を泳がせた。
「ないんですね」
 若槻がどこか呆れたように、けれどわかっていたことだとでも言うように苦笑する。
「でも! 賭けに出たわけじゃないの。ほら見て」
 千日は、若槻が部屋を訪れてくるまで向き合っていた机から、紙の束をひったくるようにして持ってくる。
 十数枚の紙にびっしりと綴られた文字は少々荒っぽく読みにくいが、気持ちだけはこもっている。
「これは……手紙、ですか?」
「うん。あたしにつくとどれだけお得か、どれだけ皆を必要としているか、どれだけ皆を好きか、一人一人の事情も汲んで書いてある。まだ途中だけど」
 若槻が突き出された手紙の一枚目にざっと目を通す。
「……姐さん。多分さっき俺が言ったこと、あんまりわかってくれてないと思うので、はっきり言います」
 千日に手紙を返して、若槻が拳にナックルをはめ直しながら言う。
「姐さんの部屋に来るまで、考え事をしてたんですけど、その間、おっさんも九重さんもこの階から動いてません。扉の開く音がしていない。はらたけは出て行きましたが、階下のソファで寝転がっています」
 若槻が語り出したことは、いまいち前後の文脈を失しているように感じられてもおかしくない。しかし千日は頷いて低く続けた。
「……所長に告げ口した人は居ないって言いたいのね?」
「鬼にとって、姐さんを手に掛けるのは姐さんの言葉通り、心中と同じようなものです。目的が果たせても、実行者は死にます。それに、おっさんや九重さんは、姐さんに死なれても困るはずです。姐さんの方針が気に喰わない場合、俺たちにとって手っ取り早いのは、鬼姫の支配を受けないヒトに知らせて、姐さんを無理やり従わせること」
「確かに、そうだね」
 けれど、高天原で見た三船の様子や今まで過ごして来た日々を思えば、彼らの誠意に期待しても良いと千日にはそう思えた。
「言い方は悪いですけど、俺は、皆の監視を続けます。それから」
 若槻は言葉を切って、紙の束を抱き締めた千日を見下ろした。
「もしも姐さんに害を為そうとしてくる仲間が居た、その時は。俺は、その人を殺してでも止めます。相手が誰であろうと」
 千日が目を見開く。若槻の瞳はぶれず、動揺する千日を鮮明に映し出す。
「殺すって……琢真、あんた、何言って――」
「姐さんを守るというのは、そういう意味です。それが、俺の覚悟です」
 逃れることを赦さない、抉るような眸。こんな表情をする若槻を、千日は知らない。
 衝撃と怒りと悲しみとが混在したような、訳のわからない激情に貫かれる。身体中が燃えるようだった。
「やだよ。それに琢真、あんた誰も傷つけたくないって――」
 たたらを踏んだ千日の手首を掴み、若槻が苦しそうな表情に転じる。
「俺だって――! 俺だって、皆のことは、ムカつくこともあるししょうもないと思うこともあるけど、仲間だと思ってます。叶うなら、ずっとこのメンツで馬鹿やってたい。でも、それでも、決めたんです。姐さん、俺はあなたとあなたの夢を守る」
 若槻の目から涙がこぼれることはなかった。けれど充血した瞳を見て、若槻がどれほどの覚悟を持って千日に向き合おうとしているのか、思い知らされた。
 現実は綺麗事ではできていない。千日は、まだまだ甘かった。
「すみません。姐さんにそんな顔させたい訳じゃなかった。駄目ですね。もっと上手くできたら良かったんですけど」
「……ううん。ごめん。駄目なのは、あたし」
 そう答えるのが精一杯だった。
 まだ千日には、反逆者として仲間が立ち現れた時の対処法が浮かばない。殺されるつもりもないけれど、殺すつもりもない。何の覚悟もない千日を、若槻は責めなかった。
 若槻は強張って握り締められた千日の手を開いて、ゆるく微笑む。
「姐さんは皆を説得してください。前を向いていてください。そんな姐さんだから、俺、選んだんです。きっと大丈夫だって、俺も信じています」
 危険を感じたら呼んでください。姐さんの声が届くところに居ます。
 若槻はそう言って部屋を出て行った。
 途端に力が抜ける。
(馬鹿、どっちが年長者だ)
 若槻はおそらく、千日の心ごと千日を守ろうとしてくれている。
 あの夏の日、体面を取り繕うこともできずに泣いていた少年の姿はもうない。
 彼の、彼らの鬼姫であるに足る自分でいたいと強く思う。
 だから今は、若槻の言うとおり、前を向いていよう。必ず彼ら全員を、同志として迎える。他の誰がそれを否定しても、千日だけはそれを信じていなければならない。それが千日の願う未来につながっている。


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