鬼の血脈 降誕と水死する恋[五]



 手紙の束をポケットに無理やり押し込めて部屋を出た千日は、向かおうとしていた一室の扉が開くのを目に留めた。
 中から出てきた人物はまさに千日が目下落としにかかろうとしていたその人で、相手もこちらに気づいて目を瞬かせた。
「あ、あの、九重さん」
 そう言って言いよどむ千日に、九重は苦笑する。
「別に、所長に千日ちゃんの企みを話に行くわけじゃないよ」
 九重は音を立てないよう、後ろ手で扉をそっと閉める。そんな気遣いの人の佇まいを見つめて、千日は無意識におろしたてのブラウスの胸元をぎゅっと掴んだ。
 あの佇まいの裏に、彼も千日には及びもつかない事情を抱えている。そしてそれはおそらく、以前千日に彼自身が話してくれたことが全てではない。そんな気がした。
「って言っても信じられない、か」
 ほとんど独り言のように九重は言って、九十度身体の向きを回転させる。千日と正面から向き合う格好だ。九重は「おいで」と手招きすると、千日に背を向けてひどくゆっくりと歩き始めた。
 千日は小走りに彼を追って、九重の横顔を見上げる。
「正直ね」
 そう切り出した九重は、千日を見てはいなかった。無機質な白壁を映しだした茶褐色の瞳は、壁をも突き抜けどこか遠いところを見つめている。
「君の思想に揺らいでいないと言ったら嘘になる。僕たちは、鬼姫の示した未来に、蒙昧に頭を垂れている方がずっと楽だし、僕自身の本音を言えば、争いは嫌いだって思ってる」
 千日は立ち止まって、九重のグレーのダッフルコートの袖を引く。つられて、革靴の底が擦れる音がして、九重の足も止まる。
「……それだけじゃないでしょ。九重さん、あたしのことが気に喰わないって目ぇしてる」
 九重は怪訝そうな曖昧な表情をしていたが、次第に薄くかかっていた靄が晴れるように瞳が冴える。
 九重は千日をじっと見下ろし、それから何か考え込むみたいに携帯の液晶画面を眺めていたかと思うと再び歩き始めた。
「多分、僕にとってもここが潮時だ。……どうせなら、君のその余興に付き合ってからでも良いかもしれない」
 九重の長い足が、階段を滑るように下りてゆく。
「僕はこれから共有施設棟に行って唯香に会う。一緒に来てくれるかな。千日ちゃんには、聞いてもらいたいことがあるんだ」
「そんなの、決まってます。だって、あたし、九重さんのこと落としにきたんですから。覚悟してくださいね」
 にっこり笑って宣言すると、千日は一段飛ばしに階段を駆け下る。
 一階のソファには中原が仏頂面で横たわっていて、その隣には若槻が腰掛けていた。若槻は既に九重と千日が部屋を抜け出し、かつ会話を交わしていたことを知っていたようだ。案の定、心配顔で近づいてくる。
「九重さん。琢真は連れていっちゃ駄目?」
「……僕は構わないけど、多分それじゃ唯香が話してくれないから」
 そう言った九重を、若槻は険を滲ませた鋭い瞳で見つめる。何だか、たったそれだけのことが、何故かひどく苦しい。鉛が詰まったような胸を過剰なほどの力で抑えつけて、千日はもう一方の手で若槻の背中を軽く叩いた。
「そんな顔しなくても大丈夫。話があるんだって。もしこっちの情報漏らされそうになったら、あたしも鬼姫パワー出すの渋らないし、さすがに人通りの多い共有棟で事を起こすほど、九重さんは馬鹿じゃない」
 若槻の頑なな態度は、千日のそんな説得では崩せない。過剰なほどの警戒は、本来は千日がすべき警戒なのだろうと思う。しかし九重が珍しく何かを話してくれるという機会をみすみす手放す気など、さらさらない。
「待ってて。さくっと九重さん攻略して、帰って来るから」
 悪戯めいた笑みに、傍らで九重がくすりと笑う。
「言うね。なかなか僕は手強いよ?」
 九重は快闊に応えると、若槻の肩に手を置いてなだめるように囁いた。
「大丈夫だよ、琢真。ここに千日ちゃんを送り届けるまでは、決して千日ちゃんに敵対するような行動を取らない。そうだな。君とこれまで築いてきた友情に誓って」
 妙に含みのある物言いだ。
 それを若槻も感じ取ったのか、形の良い眉が顰められる。
「……俺は。信頼しています。はらたけも、おっさんも、九重さんも」
 絞り出すような声が、千日の胸をもぎゅっと締めつける。
「たとえ、意見の対立があろうと、その時でさえ誠意を見せてくれる。そう思っています」
 若槻はそう続け、微かに震える手で千日を押し出す。
 九重と並ぶ形で若槻を振り返る。真っ直ぐに千日を見つめてくる瞳に、ピースサインをしてみせた。それから千日は、ソファに寝転がっていた中原が身を乗り出すようにこちらを見つめているのに気づいた。千日に気取られたことを知って、中原は慌てた様子で背もたれの向こうに沈んでしまう。
「はらたけも、後で話そーね!」
 大きくも小さくもない声で呼びかける。一拍置いて、そろそろとソファの背もたれから中原の腕が躊躇いがちに顔を出した。
 二人に見送られるようにして、居住区から外に出る。
 纏わりついてきた外気は、身を裂くようだ。外灯に照らされて、吐く息が白く煙る。
 千日は身体を縮こめるようにして、凍てついた冬の夜の中を歩く。元々は居住区を出るつもりはなかったから、コートなど着て来なかった。
 ガチガチ言いそうになる歯を食いしばって耐えていると、不意に背中から肩にかけて、温かな重みにくるまれた。
 驚いて見てみると、先ほどまで九重を覆っていたはずの暖かみのある灰色をしたダッフルコートが、千日の肩に掛けられている。
「すぐそこだから、良いのに」
「……良くないんだよ、僕が。男として。否、鬼として、かな」
 やっぱり、本能なのかな、これは。
 そう続けた九重の表情は、奇妙に歪んでいて、どことなく千日に焦燥感を募らせる。
 七福神の中で一番真意が見えないのは、彼だ。
 恋情に身を任せて、鬼を捨てた男。彼自身が語った身の上はしかし、今の千日にはちぐはぐに見える。この違和感を明確に言い表すことは出来ないのだけれど、無理やり言葉に起こしてみれば、そう、彼はもっとずっと、冷えている。
 歩き出した九重の姿が視界を横切り、思考から引きずり戻される。
 厚意をありがたく受け取ってコートの前をかき合わせ、千日も小走りに九重の後を追った。
 しばらく歩いて、共有施設棟内に入る。
 気だるさを覚えるような、むわっとした暖気が脳を麻痺させるようだ。
 九重は迷わず廊下を突き進み、やがて医務室に辿り着いた。たてつけの悪い引き戸がガラガラと音を立てて開く。九重の後ろからひょっこりと顔を覗かせると、丸椅子に座った先客が目に入った。
「ごめん。待たせた?」
 キャスター付きの椅子を回転させて、『彼女』は九重の言葉に振り返る。その姿を見て、千日は口を半開きにしたまま立ち尽くした。
 千日が先ほどまで着ていたのと同じ迷彩服に身を包み、左腕は肩から三角巾で吊るされている。頬にはガーゼが当てられ、襟から覗いた細い首にも包帯が巻かれているのが見えた。おそらくこの分では、服の下に隠れた部位にも、怪我があるに違いない。
「待ってないわ。それに、りっちゃんが来なくても、ずっと待っているつもりだった」
 何も知らない者が聞けば、健気でいじらしい女の台詞に聞こえただろう。
 しかし、千日は見た。唯香の顔に浮かんだ暗い微笑が、仄暗い狂気を湛えて医務室を浸蝕していく。
 そのまま水の底にでも沈んでいくかに見えた医務室の光景が、ぶれて正常なものへと帰した。九重の背後にいた千日に気づいて、唯香が目を瞠ったのだ。
「どうして……」
 千日はその問いに上手く答えることが出来ず、会釈する。
「千日ちゃんが捨て身で打ち明け話をしてくれたから、僕もそれに応えなきゃ、フェアじゃないと思ってね」
 そう言った九重を、唯香が鋭い目で睨んだ。
 千日は信じられない思いで、普段はにこにこと笑って人の話に耳を傾ける研究所のマドンナの、豹変した、あるいは本来の姿をまじまじと見つめる。
「……わたしがどういう用件であなたを呼び出したかわかってる? 高天原から帰って、さっきやっと、遺体安置所に行ったの。彼、冷たくなっていたわ。たった一人で」
 唯香の言葉に、冷水をかけられたように頭が冷える。
 唯香の瞳が揺らいで、たたらを踏んだ足が縋るように九重に向く。けれど、足を負傷しているのか、彼女の身体は間もなく耐えきれず崩れ落ちて、床に不揃いな音を響かせた。
 立ち上がろうとする足が縺れて、唯香の身体は何度か床に叩きつけられる。見ていられないとでも言うかのように、九重は唯香の元に駆け寄ると、彼女の身体を壊れものを扱うようにそっと支えた。
 その九重の腕に、唯香は思いきり爪を突き立てて顔を歪ませる。
「れーちゃんが死んだのは、高天原のためよ。そこに居る、血にしか価値のない、考えなしの女の子のために、れーちゃんは死んだの。わたしが唯一守ろうとしたあの人は、他の女を守って死んだ」
 渇いた笑い声を響かせながら、唯香が緩慢な動きで頭をもたげる。
 千日を仰いだ瞳はガラス玉のように感情を映さず、けれど凄烈な恐怖を与えてきた。
「……唯香。令は、それを自分で選んだ。千日ちゃんに非はない」
「……非はない? どこが? その子が勝手に高天原に行かなかったら、所員や特殊部隊にあれだけ犠牲が出ることはなかったし、れーちゃんは死ななかったわ。少なくとも、あの局面では」
 良いご身分よね。
 九重のダッフルコートにくるまった千日を一瞥して、唯香が吐き捨てる。
 おそらくそれは、誰しもが思っていたことだろう。
 千日は肉体的にも精神的にも、常に誰かの庇護を受けている。
 千日の一存で物事は動き、混沌とする。時には、命さえも濁流に飲み込まれるようにして潰えてしまう。
 唯香の言うとおり、もっと慎重に動いていれば、あれほどの被害を出さずに済んだかもしれない。千日の判断ミスで、令は死んだのかもしれない。鬼姫が千日でなければ、千夜だったなら――令は、多くのヒトは、鬼は、死ななかった――?
 すぐに弱気になる心に叱咤する。
 折れてはいけない。もう、覚悟は決めたのだ。鬼姫が、揺らいだりしてはいけない。心から鬼とヒトの未来を望むのならば、強くあらねばならない。
「……唯香先輩。令は、先輩の言うとおり、あたしを庇って死にました。あたしがもっと上手くやれば、先輩の言うとおり、令は死ななかったかもしれない」
 言って、千日は深く腰を折る。
「本当に、ごめんなさい」
 唯香は応えない。それどころか、千日の方を見ようともしない。
 代わりに、
「わたし、りっちゃんなら、一緒に泣いてでもくれるかと思ってた。他の誰がれーちゃんを惜しまなくても、わたしとりっちゃんだけは、泣いて泣いて、それでもれーちゃんを送ってあげられると思ってた! なのに、りっちゃんはれーちゃんが眠っているところに来もしない。あげくの果てには、その子を連れてくる。謝罪だなんて、安い言葉を言わせるために、その子を連れてきたの?」
 九重の胸を拳で叩きつけて、睨みつける。
 差し出した手を取って立ち上がろうとしない唯香から身体を離して、九重は立ち上がった。
「まさか。……千日ちゃん、顔を上げてくれないかな。本当は唯香に話があって来たんだけど、君にも聞いてほしいって今はそう思う」
 千日は神妙に頷き、倒れ込むように長椅子に腰掛けた。
 その様子を見て取って、九重はどうしてだかひどく安堵した様子で頷いてから、唯香に向き直る。
「まず、唯香。君には謝らなければいけないことがある」
 ぺたんと床に座り込んだままの唯香が力なく九重を見上げる。厚みのある艶っぽい唇の端が上がり、瞳が色をなくす。先ほどまで唯香を取り巻いていた怒りの熱が冷め、諦めにも似た悟りが、九重に手を伸ばす。
「……わたしを愛してると偽って、七福神入りを果たしたこと?」
 唯香の言葉にただ一人、千日だけが目を瞠る。
「君は鋭いな」
 苦笑した九重を認めて、初めて唯香がいくらか傷ついたような表情を浮かべた。
「……所長と九重家の間には、密約があった。それくらい、想像がつくわ。けれど、あくまでもコウモリを続けたい九重家は、鬼側には家とは関係のない個人による翻意として、りっちゃんの裏切りを説明したかった。あなたたちと関わりがあったヒトわたしは適任よね」
「そこまでわかっていて、どうして僕を拒絶しなかった?」
 躊躇いなく吐き出された疑問に、唯香が眦を決して無理やり立ち上がる。引き攣れ、今にも崩れ落ちそうになる足で床を踏みしめ、ほとんど体当たりするような形で九重の胸倉を掴む。
「どうして? そんなこともわからないの!? わたしがどうして過去も未来も何もかも捨てて、鬼狩りになることを選んだか、わからないって言うの!?」
 叫び声が牙を剥く。
 九重の身体が後ろに押しやられ、背後にあった長机にぶつかる。かろうじて唯香の身体を抱きとめて、九重が長机に重心を預ける。
「……わたしは! 初めはただ、りっちゃんとれーちゃんとの接点が欲しくて、ただそれだけの理由で甘言に惑わされるがままに鬼狩りになった! でも時が経つうちに、鬼が置かれている情勢について理解できるようになって、だから、りっちゃんやれーちゃんを守れるように、必死で戦ったわ。何度も所長や鬼狩りや政府の連中に二人だけは救ってくれるよう頼んだ! 他の誰が犠牲になっても、二人だけは助けてくださいって何度も――!」
 九重の首筋に頭を埋めるようにして、唯香が畳みかける。
 戸惑ったように九重が唯香の背中に腕を回す。ぎこちない動き。こんなにも近くにいながら、あるいは令以上に彼らは遠かったのかもしれない。触れることすら躊躇うほどに。
「わたしに出来ることは何だってやったわ。普段は自分が非力な女であることを呪ったけれど、こういう時は便利よね。いくらでも女であることが、武器になるんだもの」
 九重の瞳が見開かれる。千日も、覚えず息を呑んだ。
 小さな頭に伸びかけた九重の腕を、しかし唯香は強く振り払った。
「でもそれももう、終わりよ。わたしが全部懸けて守りたかったものは、めちゃめちゃになって終わった。結局わたしがやってきたことは無意味だった! れーちゃんは死んで、もう一生戻らない! こんなことなら、出逢わなければ良かった。れーちゃんにもりっちゃんにも会わなかったら、あんな恐ろしいバケモノと戦うことも、身体中傷だらけになることも、こんなにどうしようもなく悲しい想いをすることもなかった!」
 乱れて顔にかかった稲穂色の髪が、とめどなく溢れてくる涙に濡れて艶めく。
 その飛沫を振り撒いて、唯香が千日を向いた。怒りとも憎しみとも悲しみともつかない表情が、一心に千日を責め立てる。
「……良いわよね! 千日ちゃんは! 皆に守られて、傷一つない綺麗な身体で、誰からも必要とされて! わたしの大切なものを全部全部奪い取って!! あんたみたいな能天気で幸せな女が、わたし、一番大っ嫌い!!」
 哮るように叫びを迸らせた唯香が、テーブルクロスを掴んで力任せに引っ張る。
 枯れかけの青いアネモネが数本挿された花器が、音を立てて床に落ちる。ガラス片が鎌首をもたげて、花冠が茎からもげる。イブニングドレスのように裾を広げた花びらは、ワルツを踊るようにくるくると床を滑り、やがて唯香の爪先に触れて動きを止める。忌々しげに踏み捨てられたその花が、誰が心をこめて育てたものか、千日はよく知っている。
 唯香は言語の域を逸脱した金切り声を上げながら、手当たり次第にそこここの器物を千日に向かって投げつける。照準すら定まらない闇雲な攻撃は、攻撃というのもおこがましいほどに拙い。
 もっと昏い憎悪を、千日は知っている。取り返しがつかないような、異様な黒い炎で爛れた狂気に比べれば、唯香のものはまるで小さな子供が起こした癇癪のようにすら感じられた。それでも、胸が痛まないと言ったら嘘になるけれども。
 投げつけられた書籍を片手で受け止めて、九重が唯香と千日の間に身体を滑り込ませる。
「どいて!」
 更に強い怒気を孕み、張り詰められ押し出された声は強張っている。
 衝動的に掴まれたペン立てが中身を撒き散らしながら九重に飛んでいく。
 今度はもう、九重はその攻撃から身を庇うことも避けることもしなかった。頬を掠めたハサミの刃が、細く紅い筋を浮かび上がらせる。
「唯香。千日ちゃんは十分苦しんだ。それがわからない君じゃないだろう」
 自分が傷つけられたような顔をして九重の鮮血を見つめていた唯香の顔が、くしゃりと歪む。
「……どうして?」
 唯香はそう呟くと、茫然とその場に崩れ落ちた。もう怒りに身を任せて立っていられる気力も果てたようで、信じられないものを見るような空っぽの瞳で九重を見つめる。
「……わたし、十四年も、十四年もずっとりっちゃんとれーちゃん二人のために、生きてきたの。わたしが何かをねだったことがあった? 報いてほしいだなんて、言ったことがあった?」
 唯香の生はこれまでまさしく、九重の双子のためにあったのだろう。彼女は紛うことなく、無償の愛に徹しようとしたのだろう。そうでなければ、ここまで己の命を他人のために捧げることはできない。九重と唯香の関係は、鬼姫とその存在に無条件に膝を屈する鬼たちのものとはまるで違う。
「なのにどうして、りっちゃんはわたしばかり遠ざけるの? その子を庇うの? その子はりっちゃんのために何かしてくれた? 傷だらけになって、他の男に抱かれて、それでもあなたたちを守るような気持ちがその子にあった?」
 千日には、唯香がわからなかった。
 これほど強く九重兄弟を想いながら、出逢わなければ良かったと相反する思いを抱く彼女の心をひどく遠く感じる。それはあるいは千日が、焼けつくような恋を知らなかったからかもしれない。
 存在わたしを知って、存在を認めて、存在を愛してと身体中で叫んでいる唯香の声を、千日は聞き届けることができなかった。
 九重は唯香の元まで歩いて行くと、彼女の目の前でしゃがんだ。根気よく彼女に目線を合わせて、それからその頭をきつく抱き寄せる。
「ありがとう。君はもう、僕たちのために生きなくて良い」
 先ほどまでの混沌とした渦が一切消え去った静かな夜の気配の中に、九重の声がひっそりと溶けてゆく。
 それからしばらくして、弱弱しい嗚咽が千日の耳に聞こえ始めた。
「……わたしはもう、要らない? 役立たずだった?」
「これ以上、九重の家に、僕に利用される必要はない。僕もちょっと、父上に反抗したくなったみたいだ。君は君のために、生きてほしい」
 言い含めるように言って、九重は唯香から身体一つ分だけ離れる。縋るように伸びてきた彼女の手をそっと取って、その手を返す。それから青く血管が浮き出た白い手のひらに口づけ、頬を寄せた。
「いつも僕らの勝手に巻き込んでごめん。君のやさしさに甘えてごめん。僕は多分、令よりずっと君に対して不誠実で、それから情けなかった。こんなこと言うのは癪だけど、あいつの方がずっと立派だったよ。だからこのへんで、腹をくくらないといけない。やっとそう思えた。多分きっと、君が居たから、そう思えた」
 微笑んだ九重に対して、唯香はどこか怯えたような表情で彼を見上げた。


BACK | TOP | NEXT