鬼の血脈 降誕と水死する恋[六]



「……鬼狩りに……ヒトに、反抗する気?」
 千日ははっとして、九重を見つめた。
 唯香の問いに、九重は答えない。
「君は戦いから降りて。普通のヒトと同じとは言わないまでも、君の人質としての役割はなくなる。所長は、僕が君を利用していたのに気づいているから、君を鬼狩りとして傍に置くことはなくなるはずだ」
 そう言って、九重は唯香の隊服の袖を捲り上げ、彼女の腕に懐から取り出した注射器を刺した。程なく、唯香が意識を手放し、九重の胸に倒れ込む。
 ぎょっとして、千日は九重の方に駆け寄った。
「な、何したんですか?」
「ただの睡眠薬。でも少なくとも、朝までは目を覚まさない。君が事を起こすだろう深夜までに、唯香の口から何かが漏れる心配はないよ」
 注射した痕を軽く消毒して、手早く絆創膏を貼りつけると、九重は唯香を横抱きにして立ち上がった。確かな足取りで千日の前をすり抜け、カーテンの向こうのベッドに唯香を下ろす。
 少しの沈黙の後、九重がカーテンを開けて出てくる。
「見苦しいところを見せちゃったね」
 九重は割れたガラスや本やペンが散乱する入り口付近から、奥の長椅子の方へ千日を招き寄せる。
 千日が何となくちんまりと長椅子の端に腰掛けると、九重は苦笑しつつ傍にあった丸椅子を持ってきてそこに座った。
「それに、君のことも傷つけてしまった」
「九重さんが庇ってくれたから、怪我なんてしてないですよ?」
「そうじゃなくて。精神的にってこと。しかも僕は、こうなることをわかっていた」
 九重は言うと、丸椅子を滑らせて千日の肩に付着していたプラスチックの破片を払った。
「千日ちゃんは時々、自分の心にびっくりするくらい鈍感だ。普通の女の子――否、男だったとしても、もっと我が身を憐れむ」
「……あたし、ほんと自分がかわいそーって思ってますってば。所長なんかハゲろって常に思ってるし、桐谷とか溝にはまって犬のフン踏んづけて踏んだり蹴ったりになれば良いって思ってるし、唯香先輩も事情はわかるし言ってることすごい刺さりまくったけど、でもちょっと大人げないんじゃないのって思うし。それに」
 離れていこうとしていた九重の手首を握り締める。愚痴を垂れ流していた不満顔が引き締まり、瞳が強い光を帯びる。
「あたし、自分の欲求はわかりすぎるほどわかってます」
 この期に及んで身を引こうとする九重をがっちり拘束したまま、千日は小首を傾げてみせる。
「九重さんが唯香先輩を解放したのは、あたしに寝返っても彼女に危害が及ばないようにするため。そう思って良いですか?」
 切り込むが、九重はまだ目線を千日に合わせてくれさえしない。それはどこか、千日と向かい合うのを恐れているようにも思えた。
「……千日ちゃん、僕が君のことを気に喰わないって目をしてると言ったね」
 質問の答えをはぐらかされ、ふてくされながらも千日は頷く。
「その通りだよ。僕は君が、羨ましい」
 そう前置きをして、九重が語り出したのは彼自身の身の上話であった。彼がどんな幼少期を過ごしたか。令や唯香とどんな関係であったのか。どうやって七福神の一員となったのか。
 以前聞いたものよりずっと温度のない、けれど妙にしっくりくる話を語る彼の声音は淡々としていて、まるで他人の経歴を語っているように千日の耳に響いた。
「僕たち兄弟は、九重家の、否、父の人形だった」
 千日は、綾から聞いた半ば忘れかけの鬼家の階級表を頭の中に必死で再現する。
 九重家は四家門閥の主家であり、高天原での姫位継承の儀では腰抜けどもなどと称されていた中立派の家柄である。三船率いる二家門閥がヒトに下る代わりに種の存続を約束させた急進派、綿貫率いる一家門閥と桐谷冬克率いる三家門閥があくまでもヒトに対し徹底抗戦の構えを取る保守派であるのに対し、立場を明確に表すことを避けている節があるということだった。表向きは高天原への忠義を誓っており、九重のヒトへの寝返りはあくまでも私情によるものと聞いている。
 しかしそれは違うのだと九重は白状した。
 真相は、九重家当主が自ら命じてヒトと秘密裏に結んだ協定があったということらしい。そして、九重家当主――九重いわく狸爺――は、二家門閥のように完全にヒトに寝返ったわけでもなく、最終的に勝機を見出した種族に味方をするという。唯香が言った“コウモリ”のカラクリがわかった。九重は、二枚舌外交のヒト側に対する駒だったというわけだ。
「僕たちに意志というものは存在しなかった。あの頃、僕は傲慢で、愚かな選民思想に毒されて与えられた人生を与えられるがままに享受して生きてきた」
「九重さんが傲慢? 嘘でしょ」
 先刻語られた彼の回想の中でも感じた思いが、口を突いて出る。一笑にふした千日に対して、九重はただ静かに笑った。
 刹那、千日は九重に取り憑かれたように見入った。儚く、それでいて目を離せない不可思議な磁力のようなものが、九重を取り巻いているような気がした。
「僕が初めて父に曲がりなりにも真正面から逆らったのは、七福神に志願した時だ」
「令の代わりに志願したっていう?」
 千日の相槌に、九重が頷く。
「きっかけは多分、八年前。鬼狩りによる高天原粛清の際、同時期に各地の鬼も襲撃を受けた。あの頃、高天原にはまだ、高天原千里の妹である鬼姫――千夜姫の実の母親と、千夜姫と君の祖母を初めとした最高位血統保持者が存在した。平たく言えば、千日ちゃんの血縁者だ」
「……あたしの、血縁者」
 千日の父母が亡くなったのは、七年前のことだ。その一年前、高天原の血統保持者たちはまだ生きていたという。その存在さえ、千日はたった今知った。
「でももう、高天原にはあたししか残っていない」
 九重が、爪が食い込むほど握り締められた千日の拳をそっと手のひらで包み込む。
「八年前の粛清時、高天原を冠する者は、千日ちゃんと、千夜姫、それから千里姫、そしてその妹君の当時の鬼姫――千弥ちひろ姫を除いて殺された。所長が神屋家当主となり、鬼狩りの棟梁となって初めての鬼とヒトの抗争だった。その争いは激化の一途を辿り、君の御両親が亡くなるまでの約一年間続いた」
(……お母さんとお父さんは、多分、やっぱり事故で死んだんじゃない)
 確信を得て、理性では納得している自分が居る一方で、ぽっかりと胸に穴が開いたような感覚に囚われる。人づてに聞く父母の肖像が、あまりに自分の知るものとかけ離れているせいだ。
 無表情に凍りついていく瞳が九重を映し取って、かろうじて千日は意識を繋いだ。
「八年前、僕たちの故郷も鬼狩りに襲われた。僕は危うく死にかけて、でも令に救われた。それで気づいたよ。僕は、どうしようもない己の振る舞いを実は嫌悪していて、だからこそ令に嫌われたかった。そうすることで、赦されようとでも思っていたんだ。九重の嫡男にしかなれないくせに、僕は九重の嫡男であることに限界を感じていた。変わり始めた令とは裏腹に、僕はいつまでも同じ場所に燻っていた」
 九重の複雑な胸の内は千日には理解しがたかったが、何となくだがその感情の尾を掴みかけることが出来たような気がした。
 九重はおそらく、与えられた生き方しか出来ない己に密かに苛立ちを募らせていたのだろう。その生き方は、知らず知らずのうちに九重自身を蝕み、己自身では抱えきれなくなって、他者を以てその生き方に縋りつくしかなかった。
 罪悪の意識から逃れるために、九重は令に恨まれなければならなかったのだ。
 その恨んでしかるべき令に命を救われ、幼い日の九重はどうにか保っていた均衡を崩した。
 九重家嫡男という記号でしかないと思っていた自身が、その九重家嫡男ですらいられなくなった。彼は、彼自身であるという自我を永久に喪失した。
「きっと僕は僕自身を見つけるために、そしてそれを誰からも認められるために、嫡男の証である鬼師から背を向けたんだ。そして七福神に加入した」
 九重の瞳が、挑むように千日を見つめた。千日は、視線を逸らさずその強い眸を甘受する。
「……ようやく九重の血脈の檻を逃れたかと思ったんだ。けど僕は結局、父の手のひらの上を転がされていただけで、何者にもなれなかった。三船さんのように、一門のために全てをなげうつような真似をしようだなんて思わない。琢真のように青すぎて眩しい正義感も持ち合わせていない。はらたけのように大事に想う特別な相手も居ないし、凌ちゃんのように思想も信仰めいた忠誠もない。千日ちゃんのように、身体中から溢れ出しそうな望みや願いなんて、欠片も持っていない」
 しかし、千日にはその声は何かを切望する祈りのように聞こえた。
 褪めた色をしていた瞳が、鮮やかに千日の視界を焦がす。
「初めは、君が九重の血の檻のように見えた。鬼姫は抗いようのない絶対者で、それはどこか父に似ていた」
 血の檻。千日は、その言葉を否定するどころか、血の檻でもって仲間と同族を従えさせようとしている己を自覚している。
 先刻、唯香は千日を血にしか価値のない女の子と断じた。神屋は時折両親の亡霊に眩まされながらも、千日を傀儡としか思っていない。
 血脈は千日の身体から乖離し、独りでに脈動する。全ての鬼の命脈を縛りつけ、千日の意志なんてまるで無視して、時代の動乱の中を突き進もうとする。
「けど、それだけじゃないと気づいた」
 言って、九重は千日の頬を両手で包みこんだ。
 すっかり冷え切ったその手はやはり、優しい温度をしていると思った。
「ついこの間までただのヒトの女子高生だったはずの君は、君を貪ろうとする誰の悪意にも屈さず、全てを閉ざして投げ出すこともしなかった。がむしゃらに君自身の祈りと願いを抱いて諦めを知らないその心根は、僕からはあまりに遠くて、どうしようもなく……妬ましかった」
 九重の瞳が、ふとここではないどこかへと向く。
「令の死に際に居合わせたんだ。羨ましかったよ、あいつが。躊躇いなんてものとは無縁みたいな、そんな顔をしててさ。憎らしかったっていうのが正直なところかもしれない。……千日ちゃんと同じだ」
 ゆるりと宙を舞った瞳が、千日へと回帰する。
 九重の指先が千日の首筋を滑り降り、泣き伏すように頭を前に垂れる。
「後悔しない生き方って何だろうってずっと考えていた。僕は何をしたいんだろう。僕はどこに向かいたくて、何を望んでいるんだろうって」
 知らず、千日は九重の手に己の手のひらを重ねる。
「……あたし、九重さんの答えなんて、とっくに出てるってそう思う」
 ないものねだりの眸が映し出しているのは、空虚ながらんどうなんかじゃない。
 祈りが、願いが、それに裏打ちされた決意が奥底で今にも胎動し出すのが、千日の鼓膜を震わせるようだ。
 ひびわれた殻を突き崩すように、千日は九重に重ねた手の力を強める。
 伏した顔が、微笑う気配が、千日を掠めた。
「自分が何者であるかを定義づけようとするなんて、馬鹿げてた。僕は、僕でしかないのに」
 九重の顔が上向いて、千日を真正面から見つめた。
 そこにもう、迷いの翳はない。
「僕は多分、君たちが嫌いである以上に好きで、唯香が生きているヒトの世界を滅ぼしたくもなくて、令の守りたかった世界も守りたくて、それってつまり、千日ちゃんにつくのが僕の答えなんじゃないかって思った」
 千日が、九重に負けないくらい晴れやかに笑う。
 今にも抱きつかんばかりの勢いで、椅子から飛び上がってたたらを踏む。
「ありがとう。九重さんと仲間になりたいって、心からそう思ってた」


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