鬼の血脈 降誕と水死する恋[七]



 居住区三号館手前まで戻ってきた千日と九重を出迎えたのは、不穏な叫び声と物音の断片だった。
 目を上げると、二階の窓の一つが開いていて、そこから音が漏れているのだと知れた。幸い、夕飯時で共有施設棟に人口が集中しているためか付近に人気はなく、所員が異常に気づいた様子はない。
 今の時期は、冷気を遮断するために普段は窓が閉め切られている。唯一窓が開きかかっているあの部屋は確か、炯都組の部屋だ。
 せり上がってきた不安の正体も分からないままに、玄関へと駆け出す。一拍の間さえ置かずに、九重が千日の後を追って来る。
 ドアを蹴飛ばす勢いで、屋内に雪崩れ込む。一階に異変はないようだった。千日が三十分と少し前に三号館を後にした時には中原と若槻の姿があったものだが、彼らの姿もない。
 二階へと駆け上がると、中原の姿が見えた。炯都組の部屋の前で青ざめた顔をして立ち往生をしている。
 中原を押し退けるようにして、千日は部屋に踏み込む。そこに居たのは案の定、若槻と三船だった。
 金属製のナックルを嵌めた若槻の手が、爪が食い込むほどに強く、三船の腕に巻きついている。
 若槻は怒気を張り巡らしているのとは裏腹に、蒼白な顔をしていた。千日と九重が戻ってきたことにも気づかないのか、三船から目を逸らさない。対する三船は、千日に視線を走らせたが、口元に貼り付けた笑みを欠片も崩さなかった。
 焦燥感に駆られ、千日が口を開く。
「何がどうなってるのか、説明してもらいたいんだけど」
 千日の言葉で、ようやく若槻が三船を睨みつけていた瞳をこちらに向けた。だというのに、まるで三船ではなく、若槻が解放されたような気がする。
 三船はというと、窓際で片腕を若槻に拘束されながらも、残されたもう片方の手で帯のほつれをいじっている。
「あ、姐さん。あの、実は、さっき――」
 言いよどむ若槻の口元に、三船の手が伸びる。それは、若槻の唇に触れるか触れないかのところで止まって、人差し指だけになった。自然、若槻の言葉が途中で迷子になる。
鬼姫・・。我が至高の女王よ」
 突然、似合わないにも程がある台詞を恭しく吐き始めた三船に、千日がたじろぐ。
「……恨むのなら、我が血族ではなく、この俺一人にしていただきたい」
 言うなり、三船は抜刀した。若槻へと容赦のない一閃が走る。千日の目では、その一連の動きは視認できなかった。気がついた時には三船は拘束を逃れていて、若槻は間一髪のところで刀を避けていた。そればかりか、背後にいたはずの九重が、千日を守るように覆い被さっている。
 三船が、ヒュウ、と場違いな口笛を吹く。
「琢真、お前、腕上げたねえ」
 女の力は偉大だわ、とおちゃらけて肩を竦めてまでみせる。若槻が仕掛けた右ストレートは太刀に弾き飛ばされてしまい、彼を捕捉することは叶わない。
「それにりっちゃん。あの九重の狸爺の血ィ引いてるとは思えない忠犬っぷりじゃない」
 喉を鳴らして三船が嗤う。
「……気が変わったんですよ。それより、いくら三船の当主とはいえ、僕と琢真を相手にして、逃げ切れると思わない方が良い」
 九重は低く唸ったが、三船はますます笑みを深めて、静かに口を開く。
「――はらたけ」
 その四音は、危うい不均衡の上に成り立った、紛れもない当主命令だった。
 まだ若干の締まりのなさを残していた空気が引き絞られ、背後から身体全体を押し潰すような圧がかかる。
 それを振り向くよりも早く、九重が千日の腰を抱いて、ベッドの方に倒れ込む。ついさっき千日と九重が居た辺りで、中原の拳が空気を切り裂く、生々しい音が聞こえた。
「ちょ、何すんの、はらたけ!」
 真っ向から中原を睨みつけると、さすがに彼も目を泳がせて唇を噛み締めた。躊躇うような間が生まれる。けれどそれで十分だったらしい――三船には。
 三船が乱暴に半開きの窓を蹴って押し開け、そのまま地上へと舞い降りる。
 あっと声を挙げた若槻が、窓枠に片足をかけてから振り返る。
「姐さんを頼みます」
 九重が頷くやいなや、若槻は千日の視界から消え去った。おそらく神屋の元に向かった三船を止めに行ったのだろう。
(行かなきゃ)
 一心にそう思った。若槻の深い決意に裏打ちされた言葉が、脳裏に過ぎる。殺させてはならない。それだけは、避けなければならない。
 窓の外から、何かのぶつかり合う音が聞こえる。若槻は三船をすぐ近くに留めてくれているようだった。
 胸中に渦巻く強迫観念のままに、千日はベッドから降りようとして、気づいた。中原がガチガチに固まりながらもまだ、敵意をこちらに向けていた。
「……はらたけ」
 苛立ちながら千日が名を呼ぶと、中原はまるで石像のように硬直したのち、呪いが解けたみたいにへなへなと座り込んだ。
「わか、わからないんだ、オレ。おやっさんが言ってること、すごくわかるんだ。何もかもが上手くいくはずないって。選ばなきゃいけないって。でも、でもオレ、綾を傷つけたくない。千日の言ってることが上手くいったらどんなに良いだろうって思う」
 わからないんだ。
 もう一度そう言って、中原は顔をくしゃくしゃにして泣き伏した。ひとまず中原を九重に任せ、千日は窓辺に駆け寄る。
 ちょうど、三船が太刀を払い、若槻を壁に叩きつけているところだった。くぐもった若槻の呻き声が、やけに遠く聞こえる。咄嗟に太刀を受けた若槻の拳にはナックルが装着されていたが、ここからでも流血が見えるほどには怪我を負っていた。
「三船さん!」
 悲鳴のような声はきっと、知らず鬼を縛る言霊と化していたのだろう。三船は一瞬苦悶を表情に乗せたが、すぐに笑みに転じて千日を見上げた。
「千日ちゃん」
 鬼姫と呼ばれるよりもずっと、千日の脊髄を抉る呼び声。そうと知って、三船は千日の呼称を使い分けているに違いない。
「あんたはこの俺を殺せる。こんな、半端な戒めなんかじゃなく。簡単だ、念じれば良い。たった一言。――死ねってな」
 千日の全身が俄かに凍りつく。無意識に三船の行動を縛っていた鎖が霧散する。彼の示したものとは正反対に。
 そんな千日の様子をくっと喉の奥の方で笑って、三船は背を向けた。
「やっぱ、甘いよ」
 短く吐き捨てられた言葉。軽蔑には到底成りきれない、酷く中途半端な響き。表情は見えないのに、押し殺した情の片鱗をどうしたって感じ取らせてしまう声で、三船は言った。
 三船が、滑るように駆け出す。
 このまま彼を見送れば、十中八九神屋に千日の企みが露見する。それだけは避けなければいけない。鬼たちのことを考えるのならば、鬼姫として決断するならば、三船の言うとおりにしなければならない。それが正しい。
(――正しい?)
 正しいとは、何だろう。
 三船を殺すことだろうか。三船を犠牲にして、鬼を守ることだろうか。
 ひどく簡単なことだったはずなのに、息が詰まって思考が覚束ない。
 眩暈さえ覚えた身体を、窓枠に手をついて支える。見下ろすと、若槻が立ち上がって三船の後を追い始めるところだった。その姿に急かされるようにして、千日も窓枠に足を掛ける。
 一拍遅れて、ぶち破る勢いで扉が開いた。思わず振り返った千日の瞳がこぼれんばかりに見開かれる。
「かい、どう……」
 呆けたみたいに言葉が転がり落ちる。
 肩で息をしながら、海堂は不自然なくらいに散らかった室内と千日たちを睨み回す。呼吸を整える間さえ惜しいとでも言いたげに、海堂は口を開いた。
「どういうことだ、天財。こっちに戻ってくるなり、お前たちの言い争う声が聞こえた」
 口を噤んだ千日を背にして、九重が海堂の前に進み出る。その一瞬で、千日は九重が海堂に何をするか勘づいた。咄嗟に九重の服の裾を掴んで、千日は海堂の瞳を正面からひたと見つめた。
「九重さん、琢真のフォローをお願い。ただし、あたしの望みを汲んでほしい」
「……望み?」
 海堂から目を逸らさないまま、千日は言葉を続ける。
「欲しいの。琢真だけじゃなく、九重さんだけじゃなく、凌ちゃんもおっさんもはらたけも」
 ぴくりと、中原の肩が震えるのを視界の隅に捉える。
「もちろん、海堂もね」
 言って、千日は海堂の腕を掴んだ。強張った腕の感覚が、千日の指に直接伝わる。ますます手のひらに力を込めて、千日は海堂を見つめたまま、なおも動こうとしない九重に鬼姫としての命を下した。
「行って。海堂にはあたしが話をつける」
 それからやっと、千日は海堂のまったく凪ぐ気配を見せない夜嵐みたいな瞳から目を背けた。中原の濡れた睫毛に縁取られた瞳に笑いかける。
「はらたけも、もう一度あたしが話した理想について考えてほしい。考えて、それで決断をしてほしい。もちろんあたしは、一回フラれたくらいじゃ、はらたけのこと諦めないけどね」
 茶化したように軽い調子で言って、千日は海堂の手を引いた。
「天財」
「千日ちゃん」
 海堂からは非難めいた、九重からは千日を案じる声が漏れる。
「九重さん落としたあたしに、落とせないもんなんかない。そうでしょ?」
 にやっと笑って、千日は九重を見上げた。
 九重の食い入るような視線が絡みついたが、虫を払うみたいに手を振って、千日は扉に手を掛ける。それで、九重も渋々千日に背を向けた。
 すぐ後ろの海堂は、一人蚊帳の外であることの不平を並べている。
 それを耳半分に聞き流し、千日はひとまず自分の部屋に向かった。三十秒と掛からず、見慣れた室内に滑り込む。
「天財」
 我慢の限界とばかりに、ついに上擦った海堂の声が低い天井に反響した。千日の手を振りほどき、入ったばかりの部屋から出ようとする。
「待って、海堂。説明するから」
「そんな悠長なことしてる暇あるのか。さっきのやりとり聞いて、俺はおっさんあたりが裏切ってんじゃねぇかって思った」
 低く唸った海堂の横顔は、千日のことを欠片も疑っていない風に見えた。
「違う」
 言った瞬間、心臓が捩れるみたいに刹那痛んだ。
「違うよ、海堂。裏切ってるのは、あたし」
 時が止まったのかと錯覚する程度には、海堂の動作がゆっくりとしたものに変わった。嘘みたいに緩慢なスピードで、海堂が千日を向く。その瞳は、やっぱり嘘みたいに見開かれて、千日を凝視した。しばらくして、震えた口角が上がり、それと共に目が細まる。
「お前、冗談きついっての」
 空笑いして、海堂は千日を視界の外に締め出す。
「冗談じゃない」
 一歩踏み出して、千日は海堂の胸倉を掴んだ。フードネックのついたミリタリージャケットがよれて、大きな皺をつくる。
「あたしは鬼姫として、鬼がヒトの隷属種となって不当な扱いを受けることを受け入れる気はない。僅かな鬼だけ助かって、残りが人間の玩具になるなんて、絶対に認められない。あたしは、ヒト側に鬼の市民権を認めさせたい。その準備段階として、鬼という種族の主たるあたしが、七福神の皆と一緒にこの檻から抜け出す。――今夜」
 沈黙が降りたのは、多分瞬きを一度するかしないかくらいの時の間のことだったのだと思う。けれど、千日にはそれが永遠のように感じられた。
 そんな曇天の静寂を切り裂いたのは、火花を散らして激昂する海堂の眸だった。
 ジャケットを掴んでいたはずの千日の手が、海堂に捻り上げられる。抵抗しようともがき出した時には既に、もう片方の手も高いところで一まとめにされていた。痣でも出来そうな力に、容赦はない。
「――なんで」
 絞り出された海堂の言葉はしゃがれていて、けれどべったりと千日の耳に貼りついた。
「お前は、ヒトだろ。ヒトでありたかったんじゃねえのかよ。何で、化け物なんかに肩入れしてんだよ!」
 ますます強い力で、海堂が千日の皮膚に爪を立てる。千日の顔が痛みで歪む。
「化け物だって、ほんとに思ってる? あたしや琢真や皆が、ただ血に飢えた化け物だって、ほんとのほんとに思ってる?」
「だから! あいつらやお前はちげえだろ。あいつらのことはちゃんと俺たちが不当な扱いを受けないようにする。そういう約束だろ」
「……たとえば、おっさんと綾ちゃん、何が違うの。九重さんと令は、何が違ったの。琢真が良くて、桐谷が駄目な理由は何? 一方はヒトと同じ待遇で友達にもなれて、一方はモノ扱いされる、その線引きは何なの。ヒトに反抗したかしないか? そんなの反抗するに決まってる。自分や自分の大切な人が蹂躙されると分かってて反抗しないなんて、それこそ思考力のないモノのすることよ」
 吐き捨てた千日の両腕が、解放される。
 ようやく分かってくれたのかと、ほっとして顔を上げた千日は、与えられた衝撃の感覚をしばし感知しなかった。
 海堂が一切の加減なく千日の肩を突き飛ばしたとは、決して理解しない。
 壁にしたたかにぶつけた背中と後頭部が、遅れて痛み始める。
 けれども、人形のようにままならない身体は、そのまま反抗の機会を失くした。
 耳を掠めるほど近くで、荒々しい打撃音が弾ける。海堂の拳だった。男の腕と壁の間に閉じ込められてようやく、千日の目も覚めた。
 徐々に見開かれていく瞳に、海堂のくしゃくしゃになった顔が映り込む。
「――なんでだよ。お前は、こっち側だっつったじゃねえかよ。あの化け物どもの、味方になんのかよ」
 擦れた声が、千日を責め立てる。あまりに真っ直ぐに千日に向かってくるその刃は、けれど諸刃の剣だった。海堂までもが、まるで斬りつけられたみたいに痛みを耐えるような表情をしていた。
「違う。あたしは、ヒトに敵対するわけじゃない。一緒に生きたいだけ。……ねえ、分かるでしょう?」
 千日や若槻たちを仲間と認め、守ろうとしてきた海堂なら、この思いを分かってくれると思った。種族が違うくらいで命が脅かされるなんておかしいと、賛同してくれるに違いないと思っていた。
 けれど。
「分かるわけ、ねぇだろ」
 示された応えに、取りつく島はない。千日の心臓が、嫌な軋みを上げる。
「俺は、父親も母親も姉貴も、ほんのガキの頃のダチも、全員鬼に殺されてる」
 海堂の声音は、崩壊の音色によく似ていた。
 硬い、肉刺だらけの海堂の指が、千日の喉首をなぞる。
 それはひどく危険な匂いがする行為だったが、千日は指一本動かすことが出来なかった。
「そんな化け物どもと一緒に生きろって? 正気の沙汰じゃねえよ」
 海堂の口調から、恐怖とそれに勝る憎悪が滲む。
 しかし、伏せられた瞼が上がると、海堂の瞳が千日の知る少年の色を帯びた。
「でも、琢真やお前や、あいつらは違うって思えた」
 海堂が仲間を呼ばう眸はひどく切なげに苦しげに細められていて、胸を締めつけられるようだ。それに勇気づけられるようにして、千日は震える唇を開く。
「……他の鬼たちも、あたしや琢真たちと同じだよ」
 海堂の瞳が円く広がり、途端に親しみの情が幻のように掻き消える。
 憎悪の火が、千日を舐める。
「だったら、お前や琢真は血に飢えた化け物ってことになるな」
 淡泊な口調で言って、値踏みするように千日の必死の形相を見下ろす。
 たまらず、千日は海堂の胸倉を掴んで、力の限りに詰め寄った。
「海堂! だって、こんなの間違ってる! 今のままだったら、鬼とヒトは対等には暮らせない。あたしたち・・・・・は、モノじゃない! あんたは、あたしたちがヒトに頭を垂れて生きるのが正しいって、ほんとにそう思ってんの?!」
 海堂が、ぎりと歯を剥き出しにして瞳を閃かせる。海堂がそんな、全てを灰燼に帰す業火のごとき怒りの兆しを見せたのは、ほんの一瞬だった。
 仮面がひび割れたかのように、全く違う顔が現れる。
 感情というものがまるで消え失せた顔を呆然と見つめて、千日はどちらが海堂の被っていた仮面なのか分からなくなる。あるいは、分からなくなってしまいたかったのかもしれない。
「俺は、お前たち・・・・に生きる価値すらないと思ってる。道具としてでも永らえられるのを、むしろ感謝して欲しいくらいなんだけどな? 鬼姫さま」
 海堂の胸倉を握り締めていた手の力が、抜けてゆく。手だけでなく、全身から気力が吸い取られてゆくような、そんな錯覚に陥る。
 どんなに否定されようとも、今の今まで千日は海堂を絶対的な味方と信じて疑わなかった。春の彼岸の日、鬼とヒトを巡る争いのただ中に放り込まれたあの日から、千日にとって海堂は誰よりも近い理解者だった。
 言葉を尽くせば、千日の理想もまるごと受け入れて、その夢に向かって共にひた走ってゆけると、そう思っていた。
 けれどそれは違ったのだと、ようやく理解する。
 一条高校が襲われて、千日が己の正体を知った日、海堂は千日をヒトだと言った。あの時はそれが何にも代えがたい励ましの言葉に聞こえたけれど、今は違う。
 海堂は、ヒトとしての千日は受け入れても、鬼としての千日は受け入れない。ヒトに降る千日は仲間だと見なすが、ヒトと同等に立とうとする鬼姫は敵でしかない。
(でも……海堂は、時には所長に反抗してもあたしを、皆を守ろうとしてくれた)
 茫漠と弛緩していく身体に鞭を打って、千日は上向く。
「生きる価値すらないなんて、嘘でしょ。海堂は、あたしたちの尊厳を踏みにじるみたいなこと、しなかった。いつだって、ヒトにするのと同じように、あたしたちに寄り添ってくれてた」
 精一杯の、へたくそな笑顔を向ける。
 海堂は、それから目を逸らす。俯く。時の間を経て、――嗤う。
「自分の立場、分かんねえ? ドレイは鬼らしく、ヒトシュジンに媚びへつらって、懇願でもしてみせろよ」
 ――もう海堂に、千日の声は届かない。


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